朝、いつものようにウリハッキョの前を通り孫の家に向かいました。
朝日を浴びて、今朝もウリハッキョは凛とした面持ちで私を見つめてくれました。
昨日あるブログを通じてびっくりするようなニュースが飛び込んできました。引用します。
「市が朝鮮学校に立ち退きを要求して提訴」
大阪市は、2012年12月26日、学校法人大阪朝鮮学園を相手に、訴状を提出した。
大阪市が要求しているのは、
1、中大阪朝鮮初級学校敷地上の工作物一切を収去し本件土地(中大阪朝鮮初級学校用地)を明け渡せ
2、平成24年4月1日から明け渡し済みまでの間、1ヶ月あたり金124万4000円を支払え
というものである。
(この裁判の第一回口頭弁論期日は、2013年2月13日である。)
中大阪朝鮮初級学校の敷地は大阪市の所有する土地であることは間違いない。どうしてそこに朝鮮学校ができたのか?歴史的な経緯を知る必要がある。
1945年、日本が戦争に負けるまで、日本軍国主義は朝鮮半島を植民地にし、朝鮮の人々から金貨財宝を略奪した。農地や家屋も略奪した。日本の炭坑や工場、軍事施設の建設などの過酷な労働のために労働者を日本へ強制連行したり、日本軍のために従軍慰安婦を募集するなど、きわめて反人道的な残虐行為を行ってきた。
それだけではない。日本は朝鮮の人々から民族としての尊厳まで奪おうとたくらんだ。日本政府は朝鮮の人たちに朝鮮語を使うことを禁止し、名前も創始改名といって、日本式の名前を強要した。
1945年、日本軍国主義が敗北すると、在日朝鮮人のオモニやアボジたちは私財をなげうって「国語教習所」を設立し、そこで自分の子供たちに朝鮮語教育、民族の誇りを取り戻す教育を行おうとした。
しかし、アメリカの占領軍は、朝鮮戦争を準備するため在日朝鮮人運動を抑えようとし、1949年10月19日、「朝鮮学校閉鎖令」を出した。日本中の朝鮮学校を閉鎖し、学校や会館などの財産も没収した。
しかし在日のオモニやアボジたちは、黙って引き下がらなかった。日本の官憲どもと命がけの闘いをくりひろげ、また民族教育の灯りを取り戻していった。
中大阪朝鮮学校は、「朝鮮学校閉鎖令」で前身の「東成朝鮮学園」は廃校になったものの、「大阪市立西今里中学校」として、実質的な民族学校を存続させたものである。しかし、朝鮮への帰還者が増えたことなど、情勢の変化から、1960年、大阪市教育委員会に自主学校として切り替え、移行することを申請し、一年間の準備期間を経て認められ、校地も今の「中大阪朝鮮学校」が継承したものである。
これは、大阪市が歴史的に在日朝鮮人の民族教育に理解を示してきた結果であり、日本で一番たくさんの在日朝鮮人が居住し、その税金もいただいている行政区としては、当然のというか、最低限の処置だったといえる。
それを今回、橋下市長は、いきなり「校地を返せ!それができなければ、一月124万4千円の家賃を払え!」と裁判に訴えてきたのである。
天下の大阪市の市長が、わずか全校生徒50人の民族学校を相手取り、「学校から出て行け」「百二十四万円の家賃をよこせ」と裁判を起こしたのだ。自分で自分を「民族排外主義者」、「ファシスト」と宣伝しているようなものである。一体、行政の長として、民族教育をどうしようとしているのか、徹底的に追求せねばならない。
これは、南北朝鮮はじめ近隣諸国の怒りを買い、全世界から軽蔑されることになるだろう。橋下だけがアジアから孤立するのなら「勝手にしろ」ですむが、何しろ「大阪市長」の看板をぶらさげているのだから、大阪そのものが経済的にも文化的にも孤立してしまうことが心配される。
裁判になった以上、多民族多文化共生をめざす日本人として、とことん闘うしかないだろう。(I・R)」
理不尽にも2年間以上も当然支払うべき助成金をカットしているばかりか徹底的にウリハッキョを潰そうとしている輩に対して怒りがこみ上げてきました。
11時半、自転車に乗って府庁前に向かいました。
今日も大勢の日本の方々と同胞が集まり心の底から訴えました。
私もビラをまきながらマイクアピールもしました。ウリハッキョの大切さを訴えた高校生の詩と、ウリハッキョに通う子供たちへの熱い想いをうたった金敬淑さんの「道端に咲く薺(なずな―ぺんぺん草)に君たちを想う」を朗読していたら胸が詰まり涙が出そうになりました。
平田さんのお友達が大勢応援に駆けつけてきてくれました。彼女たちとお話をしながら、心ある日本の方々の真心に心からの感謝を述べました。
モンダンヨンピルの金明俊監督も早くから来てくれてみんなを励ましてくれました。本当に謙虚でいつも暖かい方です。
「火曜日行動」終了後学校に行きました。宿題をしたり本を読んだりトランプをしたりして過ごしている児童たちを見ていたら、思わず胸が詰まりましたがぐっとこらえました。
5時過ぎいつものように食器を洗うため学童室を出て洗い場に向かう途中とてもきれいな夕日を見ました。写真ではそう見えないけど。
明日は晴れるのかなぁ。
朝日を浴びて、今朝もウリハッキョは凛とした面持ちで私を見つめてくれました。
昨日あるブログを通じてびっくりするようなニュースが飛び込んできました。引用します。
「市が朝鮮学校に立ち退きを要求して提訴」
大阪市は、2012年12月26日、学校法人大阪朝鮮学園を相手に、訴状を提出した。
大阪市が要求しているのは、
1、中大阪朝鮮初級学校敷地上の工作物一切を収去し本件土地(中大阪朝鮮初級学校用地)を明け渡せ
2、平成24年4月1日から明け渡し済みまでの間、1ヶ月あたり金124万4000円を支払え
というものである。
(この裁判の第一回口頭弁論期日は、2013年2月13日である。)
中大阪朝鮮初級学校の敷地は大阪市の所有する土地であることは間違いない。どうしてそこに朝鮮学校ができたのか?歴史的な経緯を知る必要がある。
1945年、日本が戦争に負けるまで、日本軍国主義は朝鮮半島を植民地にし、朝鮮の人々から金貨財宝を略奪した。農地や家屋も略奪した。日本の炭坑や工場、軍事施設の建設などの過酷な労働のために労働者を日本へ強制連行したり、日本軍のために従軍慰安婦を募集するなど、きわめて反人道的な残虐行為を行ってきた。
それだけではない。日本は朝鮮の人々から民族としての尊厳まで奪おうとたくらんだ。日本政府は朝鮮の人たちに朝鮮語を使うことを禁止し、名前も創始改名といって、日本式の名前を強要した。
1945年、日本軍国主義が敗北すると、在日朝鮮人のオモニやアボジたちは私財をなげうって「国語教習所」を設立し、そこで自分の子供たちに朝鮮語教育、民族の誇りを取り戻す教育を行おうとした。
しかし、アメリカの占領軍は、朝鮮戦争を準備するため在日朝鮮人運動を抑えようとし、1949年10月19日、「朝鮮学校閉鎖令」を出した。日本中の朝鮮学校を閉鎖し、学校や会館などの財産も没収した。
しかし在日のオモニやアボジたちは、黙って引き下がらなかった。日本の官憲どもと命がけの闘いをくりひろげ、また民族教育の灯りを取り戻していった。
中大阪朝鮮学校は、「朝鮮学校閉鎖令」で前身の「東成朝鮮学園」は廃校になったものの、「大阪市立西今里中学校」として、実質的な民族学校を存続させたものである。しかし、朝鮮への帰還者が増えたことなど、情勢の変化から、1960年、大阪市教育委員会に自主学校として切り替え、移行することを申請し、一年間の準備期間を経て認められ、校地も今の「中大阪朝鮮学校」が継承したものである。
これは、大阪市が歴史的に在日朝鮮人の民族教育に理解を示してきた結果であり、日本で一番たくさんの在日朝鮮人が居住し、その税金もいただいている行政区としては、当然のというか、最低限の処置だったといえる。
それを今回、橋下市長は、いきなり「校地を返せ!それができなければ、一月124万4千円の家賃を払え!」と裁判に訴えてきたのである。
天下の大阪市の市長が、わずか全校生徒50人の民族学校を相手取り、「学校から出て行け」「百二十四万円の家賃をよこせ」と裁判を起こしたのだ。自分で自分を「民族排外主義者」、「ファシスト」と宣伝しているようなものである。一体、行政の長として、民族教育をどうしようとしているのか、徹底的に追求せねばならない。
これは、南北朝鮮はじめ近隣諸国の怒りを買い、全世界から軽蔑されることになるだろう。橋下だけがアジアから孤立するのなら「勝手にしろ」ですむが、何しろ「大阪市長」の看板をぶらさげているのだから、大阪そのものが経済的にも文化的にも孤立してしまうことが心配される。
裁判になった以上、多民族多文化共生をめざす日本人として、とことん闘うしかないだろう。(I・R)」
理不尽にも2年間以上も当然支払うべき助成金をカットしているばかりか徹底的にウリハッキョを潰そうとしている輩に対して怒りがこみ上げてきました。
11時半、自転車に乗って府庁前に向かいました。
今日も大勢の日本の方々と同胞が集まり心の底から訴えました。
私もビラをまきながらマイクアピールもしました。ウリハッキョの大切さを訴えた高校生の詩と、ウリハッキョに通う子供たちへの熱い想いをうたった金敬淑さんの「道端に咲く薺(なずな―ぺんぺん草)に君たちを想う」を朗読していたら胸が詰まり涙が出そうになりました。
平田さんのお友達が大勢応援に駆けつけてきてくれました。彼女たちとお話をしながら、心ある日本の方々の真心に心からの感謝を述べました。
モンダンヨンピルの金明俊監督も早くから来てくれてみんなを励ましてくれました。本当に謙虚でいつも暖かい方です。
「火曜日行動」終了後学校に行きました。宿題をしたり本を読んだりトランプをしたりして過ごしている児童たちを見ていたら、思わず胸が詰まりましたがぐっとこらえました。
5時過ぎいつものように食器を洗うため学童室を出て洗い場に向かう途中とてもきれいな夕日を見ました。写真ではそう見えないけど。
明日は晴れるのかなぁ。