ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

趣味

2010-03-09 23:08:40 | 随筆

 趣味は何かと聞かれると、何時も返事に窮する。

 麻雀もゴルフもやらず、野球もサッカーも知らず、仲間を作ることもなく、仲間に入れられることもなく、会社の定年までよくやれたとフト思ったりする。変人学者の中島義道氏の著作を読んでいたら、「自分はセ・パの区別も知らず、野球が何人でプレイするのかも知らない」と書いてあった。ここだけ見ると、私も立派な変人の仲間に入る、とおかしくなった。

 彼と違い、一般の会社で定年まで勤められたのだから、自分が奇人・変人であるなどと、考えたことがない。しかし、改めて思い返してみると、一度だけある。同僚からだったか、お客からだったか、「何の趣味もなくて、よく生きていられるなあ」と、そんなことを言われ、苦笑いしたことがあった。

 趣味という言葉を辞書でひくと、仕事としてでなく、個人が、楽しみとしてやることがらだ、と書いてある。周りの人間を見ていると、金もかけ時間も費やし、しかも楽しむというのが、趣味だと考えているようだから、答えられなくなるのだ。

 旅行も楽しいし、散歩も面白い。読書だって時間を忘れることがあるし、ぼんやりと物思いにふけることも、馬鹿にできない面白さがある。庭いじりだって、没頭すると時を忘れる。

 時にはへたな詩にも、短歌や俳句にも手を伸ばすし、その気になれば、拙いスケッチも試みる。金に縁がないため、懐に響くようなことは何もせず、しかもそのどれにも、毎日とか毎月とか言う継続性がないのだから、果たして趣味と呼べるのかと、疑問が生じる。

 まして他人に聞かれた時の答えにして良いものか、恥じらいを知る人間なら、こんなものが趣味ですと、口にするのもはばかられるでないか。とりたてて趣味と宣言しなくても、人は不思議と何かして生きるものだし、何にでも、喜びや楽しみを発見する生き物なのだと、そう思っている。

 軽い気持ちで、趣味は何かと聞かれているのに、懸命にややこしい説明をするというのもおかしいので、結局、「趣味は特にありません」と答えることになってしまう。

 日本人の社会でならこれで済むが、欧米となると様子が異なってくる。(こうしてまた、記述が横道にそれて行くのだが)、私は会社で、5~6年間英会話のレッスンを受けたことがある。特に必要がなくても、本人が希望さえすれば、早朝とか退社後に、会社の費用でレッスンを受けさせてくれた。今なら考えられないことだが、バブル期の良き時代だった。

 この間8人くらいの、ネイティブの先生に会話の指導を受けたが、授業には、必ず自己紹介というものがあり、「私の趣味」について発表する時間がある。外国人の教師たちは、みな、趣味は特にありませんという私の答えに、満足してくれなかった。曖昧さや多様性や、何でもありの状態では納得せず、キチンとした説明がないと安心しないのだ。

 これはきっと一神教の欧米人と、八百万の神の国に済む人間との違いでないかと、その時からひそかに思っている。

 「和をもって尊しとなす」と聖徳太子が言って以来、日本人の根底には、この思いが脈々として流れているのだと、これもひそかに、しかも不思議にも感じていることだ。他人と争わず、騒ぎを大きくせず、異を唱えず、目立たずと、幼い頃から教えられ、疑問も感じなかったが、最近は良いも悪いも、日本の特質でないかと思えてきた。

 他民族がせめぎ合う国々では、常に大声で自己主張をし、アイデンティティーを明確にしていないと、命も落としかねない、緊張感があるから、私のような曖昧さでは、誰からも相手にされないし、生きてもいけない気がする。

 これまで、さんざん日本の悪口を言ってきたが、現在では、自分は、日本でしか生きられない人間でないかと、思うようになり、時々外国旅行はするものの、その土地で暮らそうなどとは考えなくなった。

 この日本で生き、この国で死ぬのだと、愛国心とまでは行かないのだろうが、そんな気持ちになっている。さて、これが「趣味」と題する文章の結論で良いのかと、疑問だらけだが、ままよ。それでこそ、「気まぐれ手帳」ではないか。
 
 いい名前のブログにしたと、ほくそ笑みつつ、終わろう。

コメント
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