〈 第1章 祖父・岸信介 〉・・ ( 「60年安保騒動」 )
松田氏の説明をそのまま紹介します。
・岸は、警官500人を国会に呼び込むという異常事態を招いた時の心境を、こう述べている。
・19、20日の両日にわたる非常手段は、法的には有効であるが政治的には最悪であった。世間には少数の不法、不正行為よりも、権力を握る側の弾圧として映った。
・安保改定の実現という至上命令を前にして、手続きが異常であることは誰の指摘を待つまでもなく、全員承知の上で踏み切らざるを得なかったのである。
・いわば選択の余地は他になかったのである。「やり方に賛成できない」というのであれば、ほかにどんな手段を示すことができたのであろうか。」
「アイク訪日の合意」と「衆議院解散時期の不決断」という二つの失策がなければ、選択の余地はまだあったと言えますが、こうした批判は歴史の I F ( いふ ) と同じで後からする批評に過ぎません。反岸の松田氏も、そこは分かっているようでした。
・強弁と言うしかないが、もはや突き進むしか、岸に選択肢は残されていなかったのである。
・岸自らが「権力を振るう側の弾圧」と吐露したように、5月20日の岸の非民主的な強行採決は、国民に新条約への反感を呼び、「民主主義の破壊者・岸」とこれまで経験したことのない、未曾有の反対運動を引き起こした。
5月21日の朝日新聞が、「岸退陣と総選挙を要求す」と題した社説を一面トップで報道します。松田氏が社説を紹介しています。
・「多数の暴力」という、議会主義としては矛盾した言葉が流行しているのも、このためである。
・議会主義に多数は当然のことである。ただその多数は、互いに論議が尽くされた後に出てくる、賛成か反対かの多数でなくてはならぬ。ぎりぎりまで議論はしてみるということが前提になるならば、多数の暴力という言葉などがあり得るはずがない。
社説は誰が読んでも正論です。記憶にはありませんが高校生だった私も、朝日新聞の社説を読み、強行採決の異常さを怒ったのだろうと思います。
・岸が眠れない夜を過ごしたというほど迷った衆議院の解散・総選挙も、強行採決というパンドラの箱を開けた今となっては為しうるはずもなかった。
・5月18日安保阻止国民会議の新条約反対運動は、17万人のデモ隊が国会請願、国会包囲で統一行動。
・この行動に、全国では54万人が参加した。様々な市民団体、婦人団体、学術団体が、矢継ぎ早に岸内閣退陣を求めた。
・さらに6月4日、安保改定阻止の統一行動に、全国から50~60万人が参加。
・国労と動労は、戦後最大の交通ストを展開。国電は始発から午前7時まで止まり、旅客貨物列車の運休は、全国で759本。遅延は167本にのぼった。
・私鉄大手と東京大阪の都市交通も、始発から1~2時間程度の運休。
・全逓や全電通、全専売のほか、炭労、全鉱、全旅労連、紙パ労連、全造船など民間単産が時限スト、全国商工団体連合会に属する約2万の商店も閉店ストを行った。
・安保闘争は5月19日を機にまさに燎原の火のごとく燃え、一気に臨界点に達しつつあった。
・その緊張関係の中で、6月19日のアイク訪日も危ぶまれた。
この時岸氏が何を考えていたのか・・松田氏が『岸信介証言録』の言葉を紹介します。
・私がその頃一番頭にあったのは、アイク訪日をどういうふうに実現していくか、ということでした。「アイク訪日は断れ」という忠告も、ずいぶんありました。
・一番の問題は、天皇陛下がアイクをお迎えになるということです。今のように、陛下が都心の迎賓館に賓客を迎えるというのとは違って、羽田へおいでになるということですから、警護について非常に懸念する声が強かったんです。
自民党の強行採決で、岸氏が衆議院を解散しない限り、新安保条約は6月19日に自然承認されることが確実になっていました。したがって残る問題は、アイク訪日をどう乗り切るかでした。
・デモの波は当然の如く、南平台の岸邸にも大挙して押し寄せた。この頃岸の孫で安倍晋太郎の長男、寛信は7才、次男の晋三は3才で、安保の前年の昭和34 ( 1959 ) 年には晋三の弟・三男信夫が誕生していた。
洋子氏の著作『父信介の素顔』から、松田氏が彼女の言葉を紹介しています。
・いつどんな不慮の事故が発生するかも知れず、私は父の安否を気遣い、いく日も眠れぬ夜を過ごしました。私が子供たちを連れて訪れますと、デモ隊が取り巻いている中で、父は孫たちと鬼ごっこに興じるのです。
・本人は特に憔悴したふうもなく、つねに余裕をもって事態に臨んでいたようです。疲れて寝入った次男を膝に抱き、晩春の日差しの下縁側に座って、デモ隊の行列をあかず眺めておりました父の後ろ姿が、今も目に浮かぶようです。
・父は、自ら下した判断によほど確信を持っていたのだと思います。
こうした洋子氏に対し、松田氏が冷ややかな感想を述べています。
・当時の洋子は、岸の身辺を案じて日を送っていた。それは手記からうかがえる。しかし洋子自身が、父はなぜその道を選択したのかと、娘として自問自答した形跡はない。
父を偉大な政治家として尊敬している洋子氏が、岸氏の身辺を心配しても自問自答することはなかっただろうと、私は考えます。松田氏は『自由民主党党史』の中から、娘婿の安倍晋太郎氏が岸氏を婉曲に批判している言葉を紹介します。
・問題は、なぜ「会期の大幅延長」と「安保条約質疑の打ち切り」を同時に採択したかという点である。大統領の来日日程に間に合うよう、新条約を成立させたいという気持ちも確かにあったが、それよりもこの騒動の中で、なんとか国会審議を進め、新条約を承認させるという決意の方が先だった、と思う。
氏の説明によりますと、この意見は、なぜ「会期延長の採択」だけで踏みとどまらなかったか、という意味になるのだそうです。安倍晋太郎氏が義父信介氏と違った政治信条を持っていることについては、話を複雑にしないため、これまで松田氏の解説を省略しています。
いずれ紹介する時が来ると思いますので、今はこのまま「60年安保騒動」に絞り話を進めたいと思います。面倒になった方は、次回以降スルーしてください。