ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

ふるさとについて

2010-02-04 23:23:22 | 随筆

 ふるさとという言葉には、切ない響きがある。

 兎追いしかの山、小鮒釣りしかの川と、「ふるさと」の唱歌は、日本人なら誰でも知っている文句なしの愛唱歌だ。メロディーを聞くだけで、涙がこぼれそうになってくる。

 ふるさとは、遠くにありて思うもの、そして悲しく歌うものと、これもまた、有名な犀星の詩で、日本人の心を捉えて離さない歌だ。故郷の村を追われるようにして東京へ出てきた啄木でさえ、故郷を懐かしんだ。

 ふるさとの訛りなつかし、停車場のなかに そを聞きに行く

 ふるさとは漢字にすると、古里、故郷、古郷と書いたりするが、いずれにしろ、誰にとっても、無くてはならない大切なものだ。

 しかし私には、そのふるさとが無い。

 生まれ故郷である満州が、日本の領土でなくなったからだ。戦争に負け、父がシベリアに抑留され、母は私を連れ、親類縁者たちと引き揚げてきた。足手まといになる子供が、親たちに殺されたり、現地人に売られたり、手渡されたりと、思い出すのもつらい出来事が多かったためか、父や母から当時の話をあまり聞いたことが無い。

 ひと頃テレビで盛んに報道された、「中国残留孤児の肉親探し」というのは、現地に残された当時の子供たちだ。母や親戚の者たちが、懸命に連れ帰ってくれたから、今の私があるが、中国に残されていたら私も彼らと同じ境遇だった。

 母によると、私たちが乗ってきた船は、引き揚げの第一船で、ハギ( 萩? )の船と呼ばれ、かって駆逐艦だったとのことだっ。引き揚げ船のほとんどが、舞鶴港に入ったが、ハギの船は、準備の整わなかった第一船らしく博多に入港したらしい。

    港出るときゃ 可愛い子が 波止場の隅で泣いていた

    船は帆任せ  帆は風任せ 復員輸送のハギの船

 母からだろうと思うが、こんな「ハギの船の歌」が記憶の隅に残っている.

 何年かして、父がシベリアから帰るまでも、父が家族の中心になってからも、私たち家族は、食べるための仕事を求め各地を転々とした。どこに居ても、私はそこに住む人々にとって他所者でしかなく、周りに馴染めなかった。

 父や母にふるさとがあるのに、その子にはないという奇妙な悲しみは、おそらく両親には分からなかったと思う。高校生になったとき、ふるさとという言葉を辞書で引き、三つの意味があることを初めて知った。

    1. 自分が生まれ育ったところ
    2. 自分がかって住んでいた土地
    3. かって都のあったところ  

 「生まれ育ったところ」が、ふるさとだと思っていたから、自分は根無しの浮き草と悲しんでいたが、「かって住んでいた土地」がふるさとと言うのなら、何てことはない。

 私には五つもふるさとがある、ということになる。それぞれの土地に、懐かしい友がいて、師がおられ、自然があり思い出があった。すると一気に、豊かな気持になれた。もともと欲張りだったので、他人より多いのなら何であれ得意になれた。

 だがそれも一時期のこと。ふるさとは一つあれば十分で、数は無意味だと、やがて理解した。分散されたふるさとを持つ私には、盆や正月、あるいは祭りの時期に、なんとしても、そこに帰ると言う愛郷心というか、郷土愛というのか、そんな強い愛着がどの土地にもない。

 まんべんなく好きで、まんべんなく懐かしい土地が、沢山あるだけで、ふるさとを持つ人間に特有の、熱い思い入れがない。これが自分の置かれた状況で、もしかすると歴史的な境遇でないのかと、今は誇らしい、諦観の気持ちだ。

 田中首相のお陰で中国との国交が回復し、行こうと思えば満州に行けるが、何の思い出もない土地を、訪ねたいという気にはなれない。

 さてこうして、自分だけのことを書いてきたが、子供たちについて考えると、彼らもまたふるさとのない子らだったのでないか、という気がする。会社で働いていた頃、ちょうど日本は、高度成長期だった。

 山口県、神奈川県、千葉県、兵庫県と五回ほど転居し、子供たちも転校を繰り返させ、生まれた場所と育った土地が別々になっている。

 僕は転校のない仕事に就きたいと、中学生だったと思うが、次男の書いた作文を読み、私は胸が痛んだ。可哀相なことをしたと思うが、そういう時代に生きていたのだと、納得するしか無い。

  1月の27日から「ふるさと」について書き始めて、やっと終わる。  

コメント
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