田舎住まい

吸血鬼テーマーの怪奇伝記小説を書いています。

老人にブログの薦め

2008-01-12 06:50:47 | Weblog
1月12日 土曜日 
●きのう「文章の勉強をするということは、じぶんの周囲をあらためて見直すことになる」とブログに書いた。人は文章で、言葉でものを考えるのだと思う。最近では映像でかなりのところまでこみいった思索や感情を表現できる。でも結局は言葉に翻訳して理解している。わたしは、言葉の伝達性を信じているからこそ、小説なぞに人生をかけてここまで生きてきたのだ。じぶんの感情を相手に伝えることはたいへんむずかしい。

●カミサンとは恋人であったころから長いつきあいだ。それでも、毎日がモッタイナイほど楽しくなったのは去年からである。いままでだって喧嘩一つしたことがない。ひともうらやむほど仲がいい。毎日24時間ほとんどいっしょに寝食をともにしている。「結婚とは長い会話である」といったフランスの作家がいた。まさにそのとおりだと思う。長い会話のはてに脳に共通の記憶が蓄積される。二人で同時に同じことを言おうとする。同じ行動をおこす。

●まあそれはいいのだが、カミサンが妊娠したときは、わたしも仮想妊娠をした。ツワリがあった。ほんとですよ。お腹までおきくなった。食い過ぎだよ、と周囲の人には笑われた。でもカミサンの分娩がすんだらわたしのお腹もちいさくなった。


●比翼連理とはよくいったものだ。これらのことは、言葉の効用がもたらしたものだ。言葉のもたらした作用だ。思考パターンまでもが同じになってくる。

●小さな田舎町だとこれと似た現象があるような気がする。町のひとの言葉が同じ。したがって、同じようなことを考える。

●「どうして止まってくれないのだろう」F屋に大きなリックを背負って買い物に行く。その正面入り口にいくには横断歩道を渡らなければならない。東京であったら同じような条件でもすぐに両サイドの車がとまってくれる。年寄りにやさしい。歩行者にやさしい。
「そうなのよね。あたしも長いことそう思っていたのよ」きれいな東京弁で話しかけられた。わたしたち夫婦の会話が聞けたのだろう。老婆だった。わたしたちよりも年上だ。聞いてみると疎開でこの町に来て、この町の人と結婚して、ずっと住んでいるのだという。東京の言葉で、考えかたでこの町を見続けてきた人がここにもいた。カミサンも疎開児童だったので話が合い、しばし立ち話をしていた。
そのあいだも、歩行者が横断歩道をわたろうとしているのに止まる車はない。みな同じように考えているのだろう。止まるのは面倒だ。メンドクセエヤ。

●わたしは高校まではこの町でそれからは東京で学生生活をおくり、ずっといつも書くが二都物語だ。鄙と都会の間を行ったり来たりしている。貴重な体験をかさねている。その一端がこのブログとなって結実しいる。

●また昨日のブログの繰り返しになる。この町の老人は元気がない。気になる。栃木県は過日の統計によると、女性のほうが早死にするらしいですね。どうしてでしょうか。わたしにはわかりません。確実にわかっていることは、老人力を発揮する場所がなく無為に毎日を過ごしている人がおおいということだ。みんな年金をもらってのんびりとくらしていると健康にはよくないと思う。いかがなものなのでしょうか。

●もういちど言う。ものを書く勉強には時間だけが、努力することだけが必要なのだ。老人むきの趣味だ。パソコンでもはじめ、ブログに挑戦してはいかがなものでしょうか。きつと7掛けくらい若返りますよ。

●あなたの家のご老人にブログを薦めてください。


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