第5章 翔太の奪還。
父親は少女を見た。そしてわめいた。
「でるんだ。こんなわけのわからない病院なんかでて、別のところに行こう」
町井登志夫『蛇』異形コレクション
1
ひどく遠いところだ。
電話の呼び出し音が跳ねている。
月光を浴びた流れに魚が跳ねている。
音はそんなふうにきこえた。
音に、魚に、光が乱反射している。
音のするほうに、誠は腕を延ばす。
受話器を掴もうとする。
銀鱗をきらめかせた魚のようにぬらぬらする。
すべってしう。
取り落とした受話器が流されていく。
受話器は幼い翔太に変貌する。
激流にのまれ……。
流される……。
翔太に大声で呼び掛ける声で……。
こんどこそはっきりと目覚めた。
やはり電話は鳴っていた。
幼い翔太が……。
都会の舗道に……。
虚ろに空いた穴に……。
吸い込まれる。
あれはマンホールだったのだろうか。
と。
夢の残滓を反芻しながら。
受話器を取り上げる。
ひどく遠いところから。
美智子の声がひびいてくる。
声はとぎれ…。
もつれ……。
空隙があり……。
内容が聞き取れない。
「落ち着くんだ」
と誠は大声を出してしまう。
翔太が風邪をこじらせてしまった。
微熱がさがらない。
井波病院にきたところ。
今直ぐにも入院しないととりかえしのつかないことになる……。
ご主人には事後承諾ということで。
入院手続きしてくださいといわれた……。
いいでしょう……そうするしか……しかたなかったのよ。
それに子供さんはノイロゼーだから風邪も治らないのだ。
といわれた……という妻の言葉を理解するまでには。
すっかり目覚めていた。
今直ぐ入院しなければ手遅れになる。
ご主人に連絡している余裕なんかありませんよ。
という女医の言葉はなにを意味しているのだろうか。
おおむねそんなことを告げられたらしい。
こんどは、誠が動転してしまった。
翔太はすでに扁桃腺をはらしていた。
二週間も学校をやすんでいる。
一昨日も……妻が、心配して。
かかりつけの近所の医院でレントゲンをとってもらっている。
肺炎はおこしていないと連絡をしてきたばかりだった。
入院してしまったものは……しかたがないが。
なんとも釈然としない。
医師と妻で会話がかわされた診察室に同席したわけではない。
妻の電話での言葉から、この神沼にいて推察することしかできなかった。
ノイロゼーだから熱がさがらないなどということがあるわけがない。
手遅れになる。
などという言葉は誠実な医師が安易に使うはずがない。
心をおちつかせようと、部屋の中を歩き回った。
手遅れの説明を医師に問い質さない妻のふがいなさにもひどくいらだった。
『手遅れ』などという具体性を欠いた診断がますます硬質化する。
翔太がそのことばの糸で繭の中に閉じ込められる。
「お父さん、苦しいよ。なんだかよくわからないんだ。お母さんは帰ってしまった。」
そんな翔太の悲鳴がきこえる。
翔太が繭の中で窒息してしまうのではないか。
いくら抜け出ようとしてもますます繭の外壁は厚くなるばかりだ。
なにか得体のしれないものに翔太が呪われている。
とらわれている。
とりこまれ解体されてしまうのではないか。
溶かされてしまうのではないか。
消化されてしまうのではないかと不安になる。
まただ。
安住の地と信じて東京に逃がしたのにヤツラがいる。
まただ。
〈闇〉の触手が翔太にのびてきたのだ。
シュールな幻覚に悩まされた。
妻や子供達の不在の部屋がにわかにだだっ広くなる。
寂寞とした感がある。
いつもなら、起き出してくるミューもムックもどこかにに潜んでいる。
家具や調度品、流しの影にまだ夜がわだかまっている。
部屋に流れ出してくる、冷気を帯びた〈闇〉に。
とらえられてしまうのではないかという恐れが重くのしかかってくる。
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父親は少女を見た。そしてわめいた。
「でるんだ。こんなわけのわからない病院なんかでて、別のところに行こう」
町井登志夫『蛇』異形コレクション
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ひどく遠いところだ。
電話の呼び出し音が跳ねている。
月光を浴びた流れに魚が跳ねている。
音はそんなふうにきこえた。
音に、魚に、光が乱反射している。
音のするほうに、誠は腕を延ばす。
受話器を掴もうとする。
銀鱗をきらめかせた魚のようにぬらぬらする。
すべってしう。
取り落とした受話器が流されていく。
受話器は幼い翔太に変貌する。
激流にのまれ……。
流される……。
翔太に大声で呼び掛ける声で……。
こんどこそはっきりと目覚めた。
やはり電話は鳴っていた。
幼い翔太が……。
都会の舗道に……。
虚ろに空いた穴に……。
吸い込まれる。
あれはマンホールだったのだろうか。
と。
夢の残滓を反芻しながら。
受話器を取り上げる。
ひどく遠いところから。
美智子の声がひびいてくる。
声はとぎれ…。
もつれ……。
空隙があり……。
内容が聞き取れない。
「落ち着くんだ」
と誠は大声を出してしまう。
翔太が風邪をこじらせてしまった。
微熱がさがらない。
井波病院にきたところ。
今直ぐにも入院しないととりかえしのつかないことになる……。
ご主人には事後承諾ということで。
入院手続きしてくださいといわれた……。
いいでしょう……そうするしか……しかたなかったのよ。
それに子供さんはノイロゼーだから風邪も治らないのだ。
といわれた……という妻の言葉を理解するまでには。
すっかり目覚めていた。
今直ぐ入院しなければ手遅れになる。
ご主人に連絡している余裕なんかありませんよ。
という女医の言葉はなにを意味しているのだろうか。
おおむねそんなことを告げられたらしい。
こんどは、誠が動転してしまった。
翔太はすでに扁桃腺をはらしていた。
二週間も学校をやすんでいる。
一昨日も……妻が、心配して。
かかりつけの近所の医院でレントゲンをとってもらっている。
肺炎はおこしていないと連絡をしてきたばかりだった。
入院してしまったものは……しかたがないが。
なんとも釈然としない。
医師と妻で会話がかわされた診察室に同席したわけではない。
妻の電話での言葉から、この神沼にいて推察することしかできなかった。
ノイロゼーだから熱がさがらないなどということがあるわけがない。
手遅れになる。
などという言葉は誠実な医師が安易に使うはずがない。
心をおちつかせようと、部屋の中を歩き回った。
手遅れの説明を医師に問い質さない妻のふがいなさにもひどくいらだった。
『手遅れ』などという具体性を欠いた診断がますます硬質化する。
翔太がそのことばの糸で繭の中に閉じ込められる。
「お父さん、苦しいよ。なんだかよくわからないんだ。お母さんは帰ってしまった。」
そんな翔太の悲鳴がきこえる。
翔太が繭の中で窒息してしまうのではないか。
いくら抜け出ようとしてもますます繭の外壁は厚くなるばかりだ。
なにか得体のしれないものに翔太が呪われている。
とらわれている。
とりこまれ解体されてしまうのではないか。
溶かされてしまうのではないか。
消化されてしまうのではないかと不安になる。
まただ。
安住の地と信じて東京に逃がしたのにヤツラがいる。
まただ。
〈闇〉の触手が翔太にのびてきたのだ。
シュールな幻覚に悩まされた。
妻や子供達の不在の部屋がにわかにだだっ広くなる。
寂寞とした感がある。
いつもなら、起き出してくるミューもムックもどこかにに潜んでいる。
家具や調度品、流しの影にまだ夜がわだかまっている。
部屋に流れ出してくる、冷気を帯びた〈闇〉に。
とらえられてしまうのではないかという恐れが重くのしかかってくる。
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