1月15日 火曜日 薄曇り
●ときおり陽がさすと障子に庭の草木が幻のように浮かびあがる。
風か吹いているのだろう草の葉がゆれている。
大通りから離れているから車の騒音とは無縁だ。
部屋のなかは静まりかえっている。
●障子は――年末にかたくなに古い習慣を守っている妻が張り替えた。
妻の障子張りはもはや名人の域に達している。
ピーント張られていて小皺ひとつない。
皺ひとついまだにみられないものがもうひとつあるが……。
そのことは、また別の機会に書いてみたい。
●障子紙は手漉きの土佐和紙を使う。
いまはもうほとんど売られていない繋ぎ目のある和紙だ。
機械でつくられたものは、光を撥ねかえしてしまう。
日本古来の製法でつくられた和紙は、光がやんわりと紙をとおして部屋にさしてくる。
その光の風味がなんともいえずこのましいものだ。
●白い障子に映った草葉と樹の小枝はさながら水墨画を観ているような快楽をあたえてくれる。
●水墨画といえば、昨年他界した村上犀(倉持光雄)君のことをおもいだした。
人はこの世を去っても、おもいだしてくれる人がいれば、生き続けている。
彼との70年に亘る交流をおもうと涙がにじむ。
こんなときだ。おれも老いたものだなと嘆息するのは。
●そろそろまた書道をはじめたい。
書道は倉持の水墨画を理解するためには、
わたしも筆や墨のニオイのする空間に身を置きたいと、
ずっと続けて来た。
●小説家としてカムバックしたら始めようとおもい、
ここのところ書道に励むことは冬眠状態だった。
でも紙代のことをかんがえると憂鬱になる。
ビンボウ老書生にはむりだろうな。
いま半紙はひとしめいくらくらいしているのだろう。
●ぼんやりと障子の黒い影をみつめていると涙がにじんだためか、
黒い色が、ひと塊りになって動きだした。
いまは亡きブラッキーに見えてきた。
わたしはうとうとして、ブラッキーの夢のなかにとけこんでいた。
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風か吹いているのだろう草の葉がゆれている。
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妻の障子張りはもはや名人の域に達している。
ピーント張られていて小皺ひとつない。
皺ひとついまだにみられないものがもうひとつあるが……。
そのことは、また別の機会に書いてみたい。
●障子紙は手漉きの土佐和紙を使う。
いまはもうほとんど売られていない繋ぎ目のある和紙だ。
機械でつくられたものは、光を撥ねかえしてしまう。
日本古来の製法でつくられた和紙は、光がやんわりと紙をとおして部屋にさしてくる。
その光の風味がなんともいえずこのましいものだ。
●白い障子に映った草葉と樹の小枝はさながら水墨画を観ているような快楽をあたえてくれる。
●水墨画といえば、昨年他界した村上犀(倉持光雄)君のことをおもいだした。
人はこの世を去っても、おもいだしてくれる人がいれば、生き続けている。
彼との70年に亘る交流をおもうと涙がにじむ。
こんなときだ。おれも老いたものだなと嘆息するのは。
●そろそろまた書道をはじめたい。
書道は倉持の水墨画を理解するためには、
わたしも筆や墨のニオイのする空間に身を置きたいと、
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●小説家としてカムバックしたら始めようとおもい、
ここのところ書道に励むことは冬眠状態だった。
でも紙代のことをかんがえると憂鬱になる。
ビンボウ老書生にはむりだろうな。
いま半紙はひとしめいくらくらいしているのだろう。
●ぼんやりと障子の黒い影をみつめていると涙がにじんだためか、
黒い色が、ひと塊りになって動きだした。
いまは亡きブラッキーに見えてきた。
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