イラストレーターのSHIEちゃんに誘ってもらってジブリの最新作『風立ちぬ』を観にいきました。
なんだか『零戦』を設計した人の半生を描いた映画らしいということ以外ほとんど前情報を得ないで観た映画でしたが、とってもとっても良い映画でした。
とにかく映像が美しい。大正時代から昭和の日本がこれほど美しく描かれた映画があるかなと思うほど。震災シーン、戦争シーン、家族の死、悲しいシーンはたくさん出てくるのにそれらはあくまでさらりと描かれ、主人公の二郎は人生を淡々と生きているように見えました。
「生きねば!」
ジブリがこの映画に添えるコピーを何故このキャッチコピーにしたのか。
東日本大震災とまだ収束する気配すらない原発事故で多くの人が命を失って行く中にあって、この映画に添えるメッセージを「生きろ」でもなく「生きよう」でもなく「生きねば」とした意味は大きいと感じます。
以下HPより宮崎駿監督の「覚え書き」を転載します。
【転載開始】
大正から昭和前期にかけて、みどりの多い日本の風土を最大限美しく描きたい。空はまだ濁らず白雲生じ、水は澄み、田園にはゴミひとつ落ちていなかった。一方、町はまずしかった。建築物についてセピアにくすませたくない、モダニズムの東アジア的色彩の氾濫をあえてする。道はでこぼこ、看板は無秩序に立ちならび、木の電柱が乱立している。
少年期から青年期、そして中年期へと一種評伝としてのフィルムを作らなければならないが、設計者の日常は地味そのものであろう。観客の混乱を最小限にとどめつつ、大胆な時間のカットはやむを得ない。三つのタイプの映像がおりなす映画になると思う。
日常生活は、地味な描写の積みかさねになる。
夢の中は、もっとも自由な空間であり、官能的である。時刻も天候もゆらぎ、大地は波立ち、飛行する物体はゆったりと浮遊する。カプローニと二郎の狂的な偏執をあらわすだろう。
技術的な解説や会議のカリカチュア化。航空技術のうんちくを描きたくはないが、やむを得ない時はおもいっきり漫画にする。この種の映画に会議のシーンが多いのは日本映画の宿痾である。個人の運命が会議によって決められるのだ。この作品に会議のシーンはない。やむを得ない時はおもいきってマンガにして、セリフなども省略する。描かねばならないのは個人である。
リアルに、
幻想的に
時にマンガに
全体には美しい映画をつくろうと思う。
【転載終了】
実際にはこの映画は零戦設計者堀越二郎と同時代に生きた作家堀辰雄 の二人の人物を統合させた青年「二郎」を主人公にしたフィクションだそうです。だからこそこの映画のテーマでもある「風立ちぬ、いざ生きめやも」というメッセージが淡々と観る人の心に訴えてくるんだと思います。
後は細かい事ですけど、映画の中で子供時代の二郎の家族の言葉遣いがとっても美しいこと、二郎と菜穂子がとても礼儀正しいこと、二郎を取り巻く人々が心優しいこと、それらがこの映画にさらに清々しさを与えていてとても気持ちのいい映画でした。
家族間で敬語を使うってなんだかいいなって思えました。
あとSHIEちゃんと盛り上がったのは「水の描き方」。
ジブリ映画ではいつも水の描き方が気になる私ですが、この映画で水は(汗や涙)は、かなりあっさりと描かれていましたね。
いままでの水の描き方で思い出すのは、「千と千尋」の現実世界と神さまの世界を分つ水、彼岸を思わせる銭婆(ぜにーば)の家へ行く途中の湖(海)の水、「アリエッティ」の質量と粘度を感じる水、「ポニョ」の意思や生き物を思わせる水。全てを飲み込んでしまうが命を奪うわけではない水・・。
今回「風立ちぬ」の汗や涙はぽろぽろと、まるで質量を感じさせない泡のように描かれていました。
水は命を与え命を育み、そして命を奪う・・。
311の大津波の後、私たち日本人は水にある種の恐怖を覚えました。
そういう私たちに配慮してのこの描き方なのかなと勝手に解釈してみたり。
深読みし過ぎですかね(笑)。
映画の後はSHIEちゃんイチ押しのお店「あんべえ」に行きました。
たくさん呑んでたくさん食べてたくさんおしゃべりしました。
もうね・・・嬉しくて美味しくて、、言葉にできない。
また行こうと思います。