赤道直下の南太平洋にあるニューギニア島の東半分と多くの島々から構成されていることは前回に述べた通りである。そのパプアニューギニアについて多少の補足説明をしておきたい。時差は日本より1時間早いだけなので、殆ど影響はない。
此の島に最初にやって来たのはポルトガル人のメネセスであった。そして、勝手にパプアと命名してしまった。1526年の事であった。それ以前に人が住んでいなかったわけではない。ニューギニア島には最古のシェルマネー(貝の貨幣、貝貨とも云う)が使われていたほどの文明を持った先住民がいた。その後の植民地主義の時代に、オランダ、ドイツ、イギリスが良いように分割して統治してしまった。
余談だが、アフリカ大陸の西海岸にあるシエラレオーネに隣接してギニアがあるのはご存じと思う。そこの民族とこの島の民族が非常に似ているところから、新しいギニアであると「ニュー・ギニア」の名前を西洋人が付けた。そして、「パプア」とは縮れた髪の毛を云うそうである。
通常の場合は取引先が空港に迎えに来てくれる。だが今回はそのようなわけにはいかなかった。ポートモレスビーから350キロほど離れたニューギニア島の東のはずれにアルタオと云う所がある。私の目指すウッドラーク島は、そのアルタオから更に洋上約300キロの所にある。電気、ガスは勿論のこと水道も電話までもない。通信手段は無線だけである。アルタオだが、地図には、Alotau、アロタウと表記されており、それが正しいのであろうが、土地の人たちが「アルタオ」と呼んでいるので、私もそのように呼びたい。
私の取引先のローランド・クリステンセンはオーストラリア人だがウッドラーク島に長く住み、現地のご婦人と結婚して2児の父親になっている。ポートモレスビーのホテルで会うまで、彼と直接のコンタクトは一切取れなかった。
1990年になるとインドネシアの黒檀が異常に高騰し、とても商売にならなくなっていた。パプアニューギニアにも黒檀があるらしいと云う噂を新木場で聞いた。今までは黒檀に手を出さないでいたが、そんな噂を聞くと「何とか探し出したい」との貿易屋の血が騒いだ。外国の色々な方面に手紙を出した。いい情報をくれたのが、以前に香港にいたジャック・ラウ氏だった。彼は香港の中国返還の噂を聞くと、貿易会社をたたみ、直ぐにカナダに脱出した。その彼が、黒檀のことはよく知っている、ラバウルで貿易商をやっているオーストラリア人のレックス・グラッテージ氏に連絡を取ってみるようにと住所とファックス番号を教えてくれた。早速ラバウル(パプアニューギニア最大のニューブリテン島のはずれにあり、首都のポートモレスビーから直線で約800キロの所にある)のレックス・グラッテージ氏に連絡を取った。彼は毎朝定時にウッドラーク島のローランド・クリステンセンと無線で連絡を取り合っているのですぐに用件を伝えるとのファックスが届いた。新木場における単なる噂が現実のものになった。それからの仕事は早かった。
ローランド・クリステンセンが所用でポートモレスビーに行くので、それに合わせて日程を組んでは如何かとレックス・グラッテージから連絡が入った。そして、ポートモレスビーのトラベロッジ・ホテルで落ち合うことになったのである。そうすれば、ウッドラーク島に行く飛行機のチャーター料がいらなくなると気を遣ってくれた。帰りのチャーター料だけを負担すればいいことになる。小型飛行機のチャーター料は決して安くはないが、荒れやすい海を高速艇をチャ-ターして行くよりは安全で早い。私は香港からの便の都合で一日早くパプアニューギニアに着いた。
部屋の掃除に来たハウスメードのオバさんが「これからどちらかに行くのですか?」と聞いてきた。「ウッドラーク島に行くんだ」と答えると、「マラリアの予防薬は当然お持ちですよね」と念を押された。「予防薬はないけど、虫よけのスプレーを持ってきた」と云うと、彼女は腰を抜かさんばかりに驚いた。「そんなもんじゃ、ウッドラーク島の蚊に対抗出来ません。ホテルの前を下って行くと、ドラッグストアーがあります。そこで予防薬をお買いなさい。今すぐに!」と叱られた。
当時、パスポートの申請窓口は交通会館の中にあった。そこの何とか云う内科医院でマラリアの予防薬を売っていた。一錠が800円だか900円だった。だが、忙しくて買いに行く暇がなかった。タイやビルマでも平気だったので、蚊除けのスプレーを買っていけば大丈夫だろうと安易に考えていた。
云われたところにドラッグストアーがあった。「マラリアの薬を下さい」と云うと、「プロテクト(予防)ですか、トリートメント(治療)ですか」と聞かれた。「これからマラリに罹るんだ」と云うと女主人は笑顔で予防薬を出してくれた。50錠入って1.5キナだった。日本円に換算すると225円にしかならない(当時のレートで1キナは約150円)。一錠あたり5円にも満たなかったのである。交通会館の何とか内科が如何に暴利をむさぼっていたかと呆れた。
私が料金を払い終ると、彼女は「ちょっと待って」と云って奥に引っ込み、紙コップに入れた水を持ってきた。「すぐに飲みなさい。一錠でいいです」と云ってその場で予防薬を飲まされた。「この薬は一週間に一回、忘れずに必ず飲みなさい。日本に帰ってからも、一週間か二週間は飲み続けなさい。強い薬ですから、その間はアルコールは極力控えなさい」と細い注意をしてくれた。私は殆ど酒類を飲まないから問題ない。以前に「マラリアの予防薬を飲むと、酒を飲めなくなるから、予防薬は飲まない」と云っていた男がいた。彼はインドネシアのスラウェシ島から縞黒檀を輸入している。此の島のどこかは云わなかったが、マラリアの汚染地帯であることに違いない。それなのに、マラリアに罹ったとは聞いていない。軽いマラリアに罹り、それを何度も繰り返すことによって抗体が強くなってきたのか、悪運が強いとしか云いようがない。
マラリアの予防薬を飲んだ安堵感から、街を探索してみたくなった。地図を持ってはいなかったが、取敢えず海であろうと見当をつけた方に行ってみた。

海岸近くに改装中の建物があった。屋根の看板を見ると海運会社であった。

「港」の看板を掲げた建物も工事中だった。

その建物の右側には桟橋があり、一応船が入れるようにはなっていた。だが、漁港に毛の生えたような港では大型貨物船は無理のようだ。

ユナイテット教会の看板を見つけた。パプアニューギニアはキリスト教がかなり普及していると聞いている。「ユナイテット」と云うからには、いくつかの宗派が一つになった教会なのだろうか。

鉄道の駅のような建物があった。看板には「モレスビー警察署」となっていたが、まさかパプアニューギニアの首都の警察本部ではないだろう。此の警察署は非常に親しみのもてる建物だった。

砂浜のある海にやっと出会えた。1月は南半球の真夏である。だが、日本の砂浜のような海水浴客は一人もいなかった。暑くて海水浴どころではないのであろう。涼しげなスタンドがあったので一休みすることにした。
パプアニューギニアの銀行や空港ではご婦人方が要職についているケースが多い。男どもはご婦人の上司に命令されて働いている。これは会社の事であって、家庭内ではどのよな力関係になっているかは知らない。だが、テキパキと仕事をこなしているのはご婦人たちである。話し方も歯切れがいい。男どもはグータラなのか大人しい性格なだけなのかはわからない。だが、近代的なビルの間から、突如として槍を持った戦士と出くわす。頭に羽根をつけた戦士のオジさんを見ると、とても大人しい性格には思えない。此の戦士には何度も驚かされたが、不思議そうな目で見られたことはあっても、槍を突き付けられたことはなかった。非常に近代的なビルが建ち並ぶ首都のポートモレスビーの街なかにこのようなオジさんが裸足で歩いているのを見ると、何とも奇妙な感じがする。
メインストリートを一歩入った所に日本語で大きく「鉄板焼き 大黒」と書かれたレストランがあった。入ると元気のいい「イラッシャイマセ!」の声で迎えられた。日本の鉄板焼きの店で、全員が絣の着物を着ており、カウンター席の椅子にも絣のカバーがかけられていた。肉の焼ける旨そうな匂いが店内にしていたが、非常に清潔な感じがした。カウンター席に座ると一人のお嬢さんがメニューを持ってやってきて、「いらっしゃいませ。こちらがお勧めです」と日本語で説明してくれた。勧められたセット料理を注文した。目の前で、鮮やかな手つきで肉を焼き、適当な大きさに切っている板前に「此の店には長いの?」と日本語で聞いてみた。彼はきょとんとした顔をしていた。「日本人じゃないの?」と英語で聞くと、「フィリッピンから来ました」と云った。日本の板前が着るような着物にねじり鉢巻きをした姿は日本人にしか見えなかった。
話はそれるが、アメリカの空軍に「アマノ」と云うフィリッピン人がいた。自分は日本人との混血だと云うっていたが、どう見てもフィリッピン人だった。彼は同僚からマノンと呼ばれていた。一番下っ端の軍曹(スタッフ・サージャン)が私にぼやいたことがあった。「マノンの奴、偉そうに俺に命令しているが、フィッシュ(魚)と云えなくて、ピッシュとしか云えねぇんですよ」。確かにフィリッピン人の英語の発音には癖がある。而し、目の前にいる板前の英語は素直だった。此のマノンだが、暇さえあると女の兵隊や女子従業員の所にへばりついていた。文句を云うと、「俺はちゃんと給料分の仕事をしてる。俺にもっと仕事をさせたかったら、もっと給料を払え」と云うのが彼の云い草だった。憎たらしいことを云うが、どうも憎めない奴だった。
客が少なくなると、日本のお嬢さんが私の所にメモを持ってきた。「私の実家の住所と電話番号です。両親に私は元気にやっているので心配いらないと、伝えて頂けないでしょうか」と頼まれた。住所を見ると、練馬区の北の方だった。日本に帰り、直ぐに電話をした。つい長話になってしまった。此のお嬢さんは小さいころから独立心が強かったそうだ。どのような経緯でポートモレスビーの「大黒」で、たった一人の日本人として働くようになったか知らぬが、頼もしいお嬢さんであったと今でも記憶に残っている。「大黒」の写真とお嬢さんの写真を撮っておけば、ご両親も喜んだに違い。残念だった。
此の島に最初にやって来たのはポルトガル人のメネセスであった。そして、勝手にパプアと命名してしまった。1526年の事であった。それ以前に人が住んでいなかったわけではない。ニューギニア島には最古のシェルマネー(貝の貨幣、貝貨とも云う)が使われていたほどの文明を持った先住民がいた。その後の植民地主義の時代に、オランダ、ドイツ、イギリスが良いように分割して統治してしまった。
余談だが、アフリカ大陸の西海岸にあるシエラレオーネに隣接してギニアがあるのはご存じと思う。そこの民族とこの島の民族が非常に似ているところから、新しいギニアであると「ニュー・ギニア」の名前を西洋人が付けた。そして、「パプア」とは縮れた髪の毛を云うそうである。
通常の場合は取引先が空港に迎えに来てくれる。だが今回はそのようなわけにはいかなかった。ポートモレスビーから350キロほど離れたニューギニア島の東のはずれにアルタオと云う所がある。私の目指すウッドラーク島は、そのアルタオから更に洋上約300キロの所にある。電気、ガスは勿論のこと水道も電話までもない。通信手段は無線だけである。アルタオだが、地図には、Alotau、アロタウと表記されており、それが正しいのであろうが、土地の人たちが「アルタオ」と呼んでいるので、私もそのように呼びたい。
私の取引先のローランド・クリステンセンはオーストラリア人だがウッドラーク島に長く住み、現地のご婦人と結婚して2児の父親になっている。ポートモレスビーのホテルで会うまで、彼と直接のコンタクトは一切取れなかった。
1990年になるとインドネシアの黒檀が異常に高騰し、とても商売にならなくなっていた。パプアニューギニアにも黒檀があるらしいと云う噂を新木場で聞いた。今までは黒檀に手を出さないでいたが、そんな噂を聞くと「何とか探し出したい」との貿易屋の血が騒いだ。外国の色々な方面に手紙を出した。いい情報をくれたのが、以前に香港にいたジャック・ラウ氏だった。彼は香港の中国返還の噂を聞くと、貿易会社をたたみ、直ぐにカナダに脱出した。その彼が、黒檀のことはよく知っている、ラバウルで貿易商をやっているオーストラリア人のレックス・グラッテージ氏に連絡を取ってみるようにと住所とファックス番号を教えてくれた。早速ラバウル(パプアニューギニア最大のニューブリテン島のはずれにあり、首都のポートモレスビーから直線で約800キロの所にある)のレックス・グラッテージ氏に連絡を取った。彼は毎朝定時にウッドラーク島のローランド・クリステンセンと無線で連絡を取り合っているのですぐに用件を伝えるとのファックスが届いた。新木場における単なる噂が現実のものになった。それからの仕事は早かった。
ローランド・クリステンセンが所用でポートモレスビーに行くので、それに合わせて日程を組んでは如何かとレックス・グラッテージから連絡が入った。そして、ポートモレスビーのトラベロッジ・ホテルで落ち合うことになったのである。そうすれば、ウッドラーク島に行く飛行機のチャーター料がいらなくなると気を遣ってくれた。帰りのチャーター料だけを負担すればいいことになる。小型飛行機のチャーター料は決して安くはないが、荒れやすい海を高速艇をチャ-ターして行くよりは安全で早い。私は香港からの便の都合で一日早くパプアニューギニアに着いた。
部屋の掃除に来たハウスメードのオバさんが「これからどちらかに行くのですか?」と聞いてきた。「ウッドラーク島に行くんだ」と答えると、「マラリアの予防薬は当然お持ちですよね」と念を押された。「予防薬はないけど、虫よけのスプレーを持ってきた」と云うと、彼女は腰を抜かさんばかりに驚いた。「そんなもんじゃ、ウッドラーク島の蚊に対抗出来ません。ホテルの前を下って行くと、ドラッグストアーがあります。そこで予防薬をお買いなさい。今すぐに!」と叱られた。
当時、パスポートの申請窓口は交通会館の中にあった。そこの何とか云う内科医院でマラリアの予防薬を売っていた。一錠が800円だか900円だった。だが、忙しくて買いに行く暇がなかった。タイやビルマでも平気だったので、蚊除けのスプレーを買っていけば大丈夫だろうと安易に考えていた。
云われたところにドラッグストアーがあった。「マラリアの薬を下さい」と云うと、「プロテクト(予防)ですか、トリートメント(治療)ですか」と聞かれた。「これからマラリに罹るんだ」と云うと女主人は笑顔で予防薬を出してくれた。50錠入って1.5キナだった。日本円に換算すると225円にしかならない(当時のレートで1キナは約150円)。一錠あたり5円にも満たなかったのである。交通会館の何とか内科が如何に暴利をむさぼっていたかと呆れた。
私が料金を払い終ると、彼女は「ちょっと待って」と云って奥に引っ込み、紙コップに入れた水を持ってきた。「すぐに飲みなさい。一錠でいいです」と云ってその場で予防薬を飲まされた。「この薬は一週間に一回、忘れずに必ず飲みなさい。日本に帰ってからも、一週間か二週間は飲み続けなさい。強い薬ですから、その間はアルコールは極力控えなさい」と細い注意をしてくれた。私は殆ど酒類を飲まないから問題ない。以前に「マラリアの予防薬を飲むと、酒を飲めなくなるから、予防薬は飲まない」と云っていた男がいた。彼はインドネシアのスラウェシ島から縞黒檀を輸入している。此の島のどこかは云わなかったが、マラリアの汚染地帯であることに違いない。それなのに、マラリアに罹ったとは聞いていない。軽いマラリアに罹り、それを何度も繰り返すことによって抗体が強くなってきたのか、悪運が強いとしか云いようがない。
マラリアの予防薬を飲んだ安堵感から、街を探索してみたくなった。地図を持ってはいなかったが、取敢えず海であろうと見当をつけた方に行ってみた。

海岸近くに改装中の建物があった。屋根の看板を見ると海運会社であった。

「港」の看板を掲げた建物も工事中だった。

その建物の右側には桟橋があり、一応船が入れるようにはなっていた。だが、漁港に毛の生えたような港では大型貨物船は無理のようだ。

ユナイテット教会の看板を見つけた。パプアニューギニアはキリスト教がかなり普及していると聞いている。「ユナイテット」と云うからには、いくつかの宗派が一つになった教会なのだろうか。

鉄道の駅のような建物があった。看板には「モレスビー警察署」となっていたが、まさかパプアニューギニアの首都の警察本部ではないだろう。此の警察署は非常に親しみのもてる建物だった。

砂浜のある海にやっと出会えた。1月は南半球の真夏である。だが、日本の砂浜のような海水浴客は一人もいなかった。暑くて海水浴どころではないのであろう。涼しげなスタンドがあったので一休みすることにした。
パプアニューギニアの銀行や空港ではご婦人方が要職についているケースが多い。男どもはご婦人の上司に命令されて働いている。これは会社の事であって、家庭内ではどのよな力関係になっているかは知らない。だが、テキパキと仕事をこなしているのはご婦人たちである。話し方も歯切れがいい。男どもはグータラなのか大人しい性格なだけなのかはわからない。だが、近代的なビルの間から、突如として槍を持った戦士と出くわす。頭に羽根をつけた戦士のオジさんを見ると、とても大人しい性格には思えない。此の戦士には何度も驚かされたが、不思議そうな目で見られたことはあっても、槍を突き付けられたことはなかった。非常に近代的なビルが建ち並ぶ首都のポートモレスビーの街なかにこのようなオジさんが裸足で歩いているのを見ると、何とも奇妙な感じがする。
メインストリートを一歩入った所に日本語で大きく「鉄板焼き 大黒」と書かれたレストランがあった。入ると元気のいい「イラッシャイマセ!」の声で迎えられた。日本の鉄板焼きの店で、全員が絣の着物を着ており、カウンター席の椅子にも絣のカバーがかけられていた。肉の焼ける旨そうな匂いが店内にしていたが、非常に清潔な感じがした。カウンター席に座ると一人のお嬢さんがメニューを持ってやってきて、「いらっしゃいませ。こちらがお勧めです」と日本語で説明してくれた。勧められたセット料理を注文した。目の前で、鮮やかな手つきで肉を焼き、適当な大きさに切っている板前に「此の店には長いの?」と日本語で聞いてみた。彼はきょとんとした顔をしていた。「日本人じゃないの?」と英語で聞くと、「フィリッピンから来ました」と云った。日本の板前が着るような着物にねじり鉢巻きをした姿は日本人にしか見えなかった。
話はそれるが、アメリカの空軍に「アマノ」と云うフィリッピン人がいた。自分は日本人との混血だと云うっていたが、どう見てもフィリッピン人だった。彼は同僚からマノンと呼ばれていた。一番下っ端の軍曹(スタッフ・サージャン)が私にぼやいたことがあった。「マノンの奴、偉そうに俺に命令しているが、フィッシュ(魚)と云えなくて、ピッシュとしか云えねぇんですよ」。確かにフィリッピン人の英語の発音には癖がある。而し、目の前にいる板前の英語は素直だった。此のマノンだが、暇さえあると女の兵隊や女子従業員の所にへばりついていた。文句を云うと、「俺はちゃんと給料分の仕事をしてる。俺にもっと仕事をさせたかったら、もっと給料を払え」と云うのが彼の云い草だった。憎たらしいことを云うが、どうも憎めない奴だった。
客が少なくなると、日本のお嬢さんが私の所にメモを持ってきた。「私の実家の住所と電話番号です。両親に私は元気にやっているので心配いらないと、伝えて頂けないでしょうか」と頼まれた。住所を見ると、練馬区の北の方だった。日本に帰り、直ぐに電話をした。つい長話になってしまった。此のお嬢さんは小さいころから独立心が強かったそうだ。どのような経緯でポートモレスビーの「大黒」で、たった一人の日本人として働くようになったか知らぬが、頼もしいお嬢さんであったと今でも記憶に残っている。「大黒」の写真とお嬢さんの写真を撮っておけば、ご両親も喜んだに違い。残念だった。