明けましておめでとうございます。本年もご購読頂けるよう、お願い申し上げます。
パプアニューギニアは食料品の持込みが禁止されている。又、麻薬を持ち込んだ旅行客には、その数量に関係なく死刑が待っている。入国審査の書類に、一字でも間違いがあれば入国を拒否される。融通の利かない国である。オーストラリアと英国の頑固さがそのまま反映されているかのようである。
このパプアニューギニアは南半球の西太平洋のニューギニア島の東半分と多くの島から成り立っている。オーストラリアの委任統治領から1975年に独立し、英連邦に加盟している立憲君主国である。首都のポートモレスビーは本島と呼ばれているニューギニア島にあるが、他に四つほどの比較的大きな島と無数の小島からこの国は構成されている。全体を合わせると日本よりはずっと大きいが、私が訪れた1991年当時は400万人しか住んでいなかった。それが、2013年には730万人にまで膨れ上がっている。かなりの人口が増えてはいるが、日本とは比較にならないほどの人口密度である。そうであるのに、七百とも八百とも云われる言語がある。パプア人とメラネシア人が人口の九十パーセントを占めていると云うから、言語は二つでいいと私は勝手に考えたが、実際の人の営みはそんな単純なものではないと、パプアニューギニアと親しく付き合うにつれてその間違いに気がついた。言語は多くても、人々は不自由とは思わず、それを当たり前の事として暮らしている。
空港ビルから一歩出た私に赤道直下の暑い太陽が出迎えてくれた。空港ビルの前には一方通行の道路があり、その向うには駐車場がある。陽を遮るものは何一つない。辺りには日本からの観光客はいなかった。駐車場の右手には木が鬱蒼と繁り、日陰を作っていた。そこには物売りや老人が海を通ってくる涼しい風を楽しんでいた。タクシーも何台か停まっており、エンジンを止めて窓を全開にしていた。そのうちの一台がゆっくりと近づいて来た。
「旦那!どちらまで?何処までも行きますよ!」と運転手が陽気に声をかけてきた。彼の話す英語は聞きづらかったが、多分そのように云ったのだと判断した。彼等の話す言葉に慣れる迄が大変だった。分りづらいオーストラリアの英語がパプアニューギニア流の発音と言葉づかいで出来上がった「ピジョン・イングリッシュ」である。「トラベロッジ・ホテル」と行き先を告げると「イエス・サー、ミスター」と礼儀正しい返事が戻ってきた。
車のエアコンを最大限にしてあるようだったが、室内はそれほど涼しくはない。それでも外に比べたら別天地だった。助手席のダッシュボードに「KEN SMOK」と書かれたアクリルの板が張り付けられていた。それを“Can’t Smoke”(禁煙)の積りなのであると理解するまでに、かなりの時間を要した。出張が決ったときに、公用語は英語だとパプアニューギニアの大使館で聞いてきたのだが、いざ、ポートモレスビーに着いてみて「話がだいぶ違うではないか」と不安を感じたのを私は今でも覚えている。
途中に “Supa Maket”の看板のある、スーパーマーケットの前を通った。その道はやがて大きく右に曲り、ゆっくりした上り坂になった。上り詰めたところに、辺りを睥睨するかのようにトラベロッジ・ホテルがあった。

高度をどんどん下げて着陸態勢に入った。ポートモレスビー空港は目前だった。飛行機の窓越しに、安物のバカチョンカメラで撮ったので、ピントは悪いが、美しい半島であることはご理解頂けると思う。

左から来た道を、此の急カーブに沿ってゆるやかな坂を登って行くとホテルはすぐである。

ホテルの入口にブーゲンビレアがきれいに咲いていた。

トラベロッジ・ホテルは辺りを圧倒するようにそそり立っていた。


部屋はそれほど広くはなかったが、非常に快適に過ごせた。

ベランダのすぐ下にプールがあった。



部屋の窓やベランダから広い範囲の風景が望めた。

パプアニューギニアはオーストラリアと同様に、車は左側通行である。だが、車は道路の右側に不規則に駐車していた。写真でもお分かりのように、車が道路の前方を向いていたり、こっち側を向いたりしていた。


政府機関の建物であると思ったが、近寄ってみると、そうではなさそうであった。だが期待していたショッピングモールでもなかった。
パプアニューギニアは食料品の持込みが禁止されている。又、麻薬を持ち込んだ旅行客には、その数量に関係なく死刑が待っている。入国審査の書類に、一字でも間違いがあれば入国を拒否される。融通の利かない国である。オーストラリアと英国の頑固さがそのまま反映されているかのようである。
このパプアニューギニアは南半球の西太平洋のニューギニア島の東半分と多くの島から成り立っている。オーストラリアの委任統治領から1975年に独立し、英連邦に加盟している立憲君主国である。首都のポートモレスビーは本島と呼ばれているニューギニア島にあるが、他に四つほどの比較的大きな島と無数の小島からこの国は構成されている。全体を合わせると日本よりはずっと大きいが、私が訪れた1991年当時は400万人しか住んでいなかった。それが、2013年には730万人にまで膨れ上がっている。かなりの人口が増えてはいるが、日本とは比較にならないほどの人口密度である。そうであるのに、七百とも八百とも云われる言語がある。パプア人とメラネシア人が人口の九十パーセントを占めていると云うから、言語は二つでいいと私は勝手に考えたが、実際の人の営みはそんな単純なものではないと、パプアニューギニアと親しく付き合うにつれてその間違いに気がついた。言語は多くても、人々は不自由とは思わず、それを当たり前の事として暮らしている。
空港ビルから一歩出た私に赤道直下の暑い太陽が出迎えてくれた。空港ビルの前には一方通行の道路があり、その向うには駐車場がある。陽を遮るものは何一つない。辺りには日本からの観光客はいなかった。駐車場の右手には木が鬱蒼と繁り、日陰を作っていた。そこには物売りや老人が海を通ってくる涼しい風を楽しんでいた。タクシーも何台か停まっており、エンジンを止めて窓を全開にしていた。そのうちの一台がゆっくりと近づいて来た。
「旦那!どちらまで?何処までも行きますよ!」と運転手が陽気に声をかけてきた。彼の話す英語は聞きづらかったが、多分そのように云ったのだと判断した。彼等の話す言葉に慣れる迄が大変だった。分りづらいオーストラリアの英語がパプアニューギニア流の発音と言葉づかいで出来上がった「ピジョン・イングリッシュ」である。「トラベロッジ・ホテル」と行き先を告げると「イエス・サー、ミスター」と礼儀正しい返事が戻ってきた。
車のエアコンを最大限にしてあるようだったが、室内はそれほど涼しくはない。それでも外に比べたら別天地だった。助手席のダッシュボードに「KEN SMOK」と書かれたアクリルの板が張り付けられていた。それを“Can’t Smoke”(禁煙)の積りなのであると理解するまでに、かなりの時間を要した。出張が決ったときに、公用語は英語だとパプアニューギニアの大使館で聞いてきたのだが、いざ、ポートモレスビーに着いてみて「話がだいぶ違うではないか」と不安を感じたのを私は今でも覚えている。
途中に “Supa Maket”の看板のある、スーパーマーケットの前を通った。その道はやがて大きく右に曲り、ゆっくりした上り坂になった。上り詰めたところに、辺りを睥睨するかのようにトラベロッジ・ホテルがあった。

高度をどんどん下げて着陸態勢に入った。ポートモレスビー空港は目前だった。飛行機の窓越しに、安物のバカチョンカメラで撮ったので、ピントは悪いが、美しい半島であることはご理解頂けると思う。

左から来た道を、此の急カーブに沿ってゆるやかな坂を登って行くとホテルはすぐである。

ホテルの入口にブーゲンビレアがきれいに咲いていた。

トラベロッジ・ホテルは辺りを圧倒するようにそそり立っていた。


部屋はそれほど広くはなかったが、非常に快適に過ごせた。

ベランダのすぐ下にプールがあった。



部屋の窓やベランダから広い範囲の風景が望めた。

パプアニューギニアはオーストラリアと同様に、車は左側通行である。だが、車は道路の右側に不規則に駐車していた。写真でもお分かりのように、車が道路の前方を向いていたり、こっち側を向いたりしていた。


政府機関の建物であると思ったが、近寄ってみると、そうではなさそうであった。だが期待していたショッピングモールでもなかった。