昨夜の雨は完全にやみ、風も収まっていた。だが、庭には至るところに折れた枝や出しっぱなしにしておいた道具やおもちゃ類が散乱していた。それらをクリステンセン夫妻と子供たちが片づけていた。私もクリスと一緒に応援に行った。昨夜、もし洗濯のために衣類を外に出しておいたら、どこかに飛んで行ってしまったに違いない。
朝食後、蛾の死骸がきれいに片づけられているのを確認してクリステンセン家の中に入った。エイミーがパソコンを使ってログリストを完成させていた。プリントアウトされていたのを見ると、昨日までに検品したフリッチのリストだった。それには、当初の契約通りの寸法に書き直された数字がタイプされていた。私のログリストと照合して、間違いがなければカウンターサイン(マダガスカル編15をご参照願いたい)をして欲しいと依頼された。
余談ではあるが、当時、日本ではパソコンが非常に高く、安いものでも60万円、高性能のものだと100万円近くした。従って、私が使っていたのはNECの「文豪ミニ」と云うワープロ専用機であった。而し、非常に優れもので表計算ソフトが入っており、現在のエクセルと似たように使えた。お蔭でウィンドウズ95に乗り換えた際に全く不安がなかった。一週間も過ぎたころには以前からパソコンを使っていたかと思える程に使いこなしていた。
カウンターサインを終え、荷物をまとめればいつでも日本に向けて帰れる。クリスもどことなく浮き浮きしていた。「脂っこい食事とも、もう少しでお別れだ」と云った。「カンガルーの肉を食うのか?あんな可愛い動物を食っちまって、日本にクジラを食うなとはよく云えるよな」とつい云ってしまった。彼は「オーストラリア人は誰も鯨を食うなとは云っていません。云っているのはアメリカ人だけです」と抗議されたが、それから何年も経つと、オーストラリア人が日本の学術捕鯨に強硬な反対をしだした。その度にクリスの云っていたことを想い出す。
鯨とカンガルーの話が蒸し返されたとき、ローリーが渋い顔をしてやって来た。昨夜の激しいスコールで飛行場が水浸しになっているそうだ。それを聞いても、一日や二日のゆとりはあるので、それほど困りはしなかった。ポートモレスビーに戻ってから、レックス・グラッテージに会うべくラバウルに行く予定になっていた。日本を出る前に、既に航空券は手配してあった。
だが、滑走路が乾く前に、別のもっと激しいサイクロンが襲ってきた。予定は完全に崩れた。雨が降り続き、外にも出られない。家の中で取り留めのない話をしているしかやることはなかった。道がぬかるみ、窪地は沼のようになり、島民の訪問がない日が続いた。外部との唯一の連絡手段であるローリーの無線機は通じなくなってしまった。故障の原因が分らないので修理のしようがなかった。手先の器用なクリスが、無線機を分解してみたが、雑音が聞こえるようになっただけで、それ以上の進展はなかった。
このままではチャーター機がいつ来るかの連絡も取れないし、日本の留守家族に帰国が遅れることの連絡も取れない。レックス・グラッテージとローリーとの定時の連絡が取れないので、彼は、私のラバウルへの到着が遅れることをある程度予測出来ただろう。ただ、何らかの方法でウッドラーク島がとてつもないサイクロンが襲われたことはアルタオやポートモレスビーには伝わっているだろう。
昨日、ローリーは雨が止んだら銅山の管理事務所にも無線機があるので、それを借りに行こうと提案した。此処から東北の方角に向かって20キロほどの所に管理事務所はあるそうだ。この島で銅が採掘されているとを初めて知った。現在私とクリスの住んでいる家は銅山会社が以前に所有していたものだったらしい。
銅山会社に向って出発したが、雑草に埋まっている道にはやたらと木が倒れており、車で進むどころではなかった。一旦引き返し、道具と助っ人を積んで出直した。以下の写真はその奮闘の記録である。
道を通れるようにするだけでは済まなかった。倒れた木をチェーンソーで切り、人力で片付け、或いは燃やした。このような状態ではかなり時間がかかりそうだった。それで皆で必死に頑張ったが、二日を要した。
森を抜けると平坦な道が続いたが、雨水がたまっているところが至る所にあった。四輪駆動車であったので、多少の水たまりはどうということはなかった。心配な個所は折った枝で深さを計ってから通過した。最大の難関は、下ってから登りになる個所に行きあたった時だった。その中間部にはかなりの雨水がたまっていた。一番若いクリスが水の中に入って枝を刺した。ローリーの車は通常より高い位置にマフラーが取り付けてあったが、それを超える深さがあった。
皆で協議した。マフラーに水が入らなければ全く問題はないが、マフラーの位置を超える深さがあるなら、マフラーに水が侵入し、エンジンを止めてしまう。而し、一瞬の事なら、エンジンを一杯に吹かして通過すれば、何とかなるのではないか。それに前方は登り坂なので、マフラーに入った水は流れてしまう。問題は一番水深のある区間がどのぐらいあるかと云うことだった。クリスが再び水の中に入った。二メートル、あっても三メートルだとのことだった。もし失敗したら山中を歩くことになる。此処から管理事務所までの登りを約10キロ、帰りは此処まで送ってきて貰うとしても、此処からまた10キロ、合計で20キロを歩くことになる。平地でも最低で4時間はかかるだろう。此の山の中を歩くなら、どのぐらいかかるか見当もつかなかった。一旦引き返し、水が引くころに出直すのが一番安全な方法である。だが、サイクロンが再びやってこない保証はない。
三人が出した結論は「失敗を恐れたら何も出来ない」だった。車には全員が乗った。少しでも重くした方がタイヤがしっかり地面を掴む。それと「死なばもろとも」である意思表示でもあった。車をかなりバックさせた。お互いに頷き合うとエンジンを最大限に吹かして水の中に飛び込んだ。水しぶきで前が見えなくなったと思ったら、車が坂を登っていた。見事に成功だった。三人で歓声を挙げた。大人げないとお思いだろうが、大声で叫ばずにはいられない心境だった。
銅山の管理事務所の責任者は、感じのいい青年だった。それに奥さんが羨ましくなるほどの美人だった。ローリーが事情を説明すると、気持ちよく無線機を使わせてくれた。ローリーが無線機に向い、早速連絡を開始した。「アロタオ、アロタオ、こちらPW2231RC、どなたか応答願います。アロタオ、アロタオ、こちらPW2231RC、どなたか応答願います。アロタオ、アロタオ、 、 、」としばらく続けた。やっと応答があった。アロタウの地上局から航行中のオーストラリア船籍の貨物船に連絡し、そこからオーストラリアの地上局に繋ぎ、更に私の自宅の電話に繋いでもらった。家内が出ると、私は行方不明になっていると告げられた。家内は電話機なので、普通の話し方をしているが、こちらは無線機なので、相手が話している間は当方からは話せない。双方向の無線機ではなかった。私は「心配ない、五日か六日後に帰る」と必要最小限の事を伝えた。私の話が終ると、ローリーが無線機を受け取り、クリスの自宅を呼び出した。そして、最後にチャーター便の確認をした。
後日談だが、エアー・ニューギニアの東京支店から電話があり、私が乗る筈であったポートモレスビーとラバウル間、それにポートモレスビーと香港経由成田間に私が搭乗していないと伝えられたそうだ。行った先がウッドラーク島だったのでエアー・ニューギニアの職員は非常に心配してくれていたらしい。ポートモレスビーの職員も含めて誰もこの島には行ったことがないし、事情も把握出来ていない。
全ての連絡が終り、全員に安堵の雰囲気が漂った。管理事務所の美人の奥さんがお昼を振舞ってくれた。大きなお皿に蒸し焼きにした山鳥を山盛りにして出してくれた。野生の鳥と聞いただけで、どんな種類の鳥であるか不明だったが、とにかく旨かった。
一段落すると、今まで抑えていた好奇心が抑えきれなくなった。「奥さん、凄く綺麗だな。高かっただろう。幾らだった?」と聞いた。「そんなに高くありませんよ。豚5頭でした」とあっさり云った。出張が決まってから、旅行案内書で「パプアニューギニアは豚が非常に高い」という記事を読んでいた。「お前さん、金持ちだな。豚を5頭だなんて」と云うと、彼は、「そんなことはありませんよ。裏山に行けば幾らでもいますよ。一人が追い出し、出てきたら首っ玉に飛びついて捕まえるんです。嫁さんを欲しければ、捕まえるのを手伝いますよ」とご親切に云ってくれた。クリスは身を乗り出して聞いていた。ローリーにもエイミーの値段を聞きたかったが、それは我慢した。クリスも非常な興味があると云っていたが、彼もついに聞けなかったようだ。
パプアニューギニア編はあと一回で終了する予定です。「TDY,Temporary Duty編」は2013年の9月から始め、今日に至っております。長い間のご購読を感謝申上げます。多くの方々からもっと続けろとのお声を頂いておりますが、ネタ切れでこれ以上続けられません。他のアジア諸国、オセニア、南北アメリカ、そしてヨーロッパの国々は大勢の皆様がご旅行なさっています。秘境を主題とした「TDY,Temporary Duty編」とはかけ離れております。
パプアニューギニア編11が終りましたら、「折々の写真&雑感」のタイトルでしばらく続けます。URLは同じです。是非引き続きのご購読を賜るようお願い申し上げます。前回に、タイトルを「折にふれて、写真と雑感」と記しましたが、お詫びして訂正致します。
朝食後、蛾の死骸がきれいに片づけられているのを確認してクリステンセン家の中に入った。エイミーがパソコンを使ってログリストを完成させていた。プリントアウトされていたのを見ると、昨日までに検品したフリッチのリストだった。それには、当初の契約通りの寸法に書き直された数字がタイプされていた。私のログリストと照合して、間違いがなければカウンターサイン(マダガスカル編15をご参照願いたい)をして欲しいと依頼された。
余談ではあるが、当時、日本ではパソコンが非常に高く、安いものでも60万円、高性能のものだと100万円近くした。従って、私が使っていたのはNECの「文豪ミニ」と云うワープロ専用機であった。而し、非常に優れもので表計算ソフトが入っており、現在のエクセルと似たように使えた。お蔭でウィンドウズ95に乗り換えた際に全く不安がなかった。一週間も過ぎたころには以前からパソコンを使っていたかと思える程に使いこなしていた。
カウンターサインを終え、荷物をまとめればいつでも日本に向けて帰れる。クリスもどことなく浮き浮きしていた。「脂っこい食事とも、もう少しでお別れだ」と云った。「カンガルーの肉を食うのか?あんな可愛い動物を食っちまって、日本にクジラを食うなとはよく云えるよな」とつい云ってしまった。彼は「オーストラリア人は誰も鯨を食うなとは云っていません。云っているのはアメリカ人だけです」と抗議されたが、それから何年も経つと、オーストラリア人が日本の学術捕鯨に強硬な反対をしだした。その度にクリスの云っていたことを想い出す。
鯨とカンガルーの話が蒸し返されたとき、ローリーが渋い顔をしてやって来た。昨夜の激しいスコールで飛行場が水浸しになっているそうだ。それを聞いても、一日や二日のゆとりはあるので、それほど困りはしなかった。ポートモレスビーに戻ってから、レックス・グラッテージに会うべくラバウルに行く予定になっていた。日本を出る前に、既に航空券は手配してあった。
だが、滑走路が乾く前に、別のもっと激しいサイクロンが襲ってきた。予定は完全に崩れた。雨が降り続き、外にも出られない。家の中で取り留めのない話をしているしかやることはなかった。道がぬかるみ、窪地は沼のようになり、島民の訪問がない日が続いた。外部との唯一の連絡手段であるローリーの無線機は通じなくなってしまった。故障の原因が分らないので修理のしようがなかった。手先の器用なクリスが、無線機を分解してみたが、雑音が聞こえるようになっただけで、それ以上の進展はなかった。
このままではチャーター機がいつ来るかの連絡も取れないし、日本の留守家族に帰国が遅れることの連絡も取れない。レックス・グラッテージとローリーとの定時の連絡が取れないので、彼は、私のラバウルへの到着が遅れることをある程度予測出来ただろう。ただ、何らかの方法でウッドラーク島がとてつもないサイクロンが襲われたことはアルタオやポートモレスビーには伝わっているだろう。
昨日、ローリーは雨が止んだら銅山の管理事務所にも無線機があるので、それを借りに行こうと提案した。此処から東北の方角に向かって20キロほどの所に管理事務所はあるそうだ。この島で銅が採掘されているとを初めて知った。現在私とクリスの住んでいる家は銅山会社が以前に所有していたものだったらしい。
銅山会社に向って出発したが、雑草に埋まっている道にはやたらと木が倒れており、車で進むどころではなかった。一旦引き返し、道具と助っ人を積んで出直した。以下の写真はその奮闘の記録である。
道を通れるようにするだけでは済まなかった。倒れた木をチェーンソーで切り、人力で片付け、或いは燃やした。このような状態ではかなり時間がかかりそうだった。それで皆で必死に頑張ったが、二日を要した。
森を抜けると平坦な道が続いたが、雨水がたまっているところが至る所にあった。四輪駆動車であったので、多少の水たまりはどうということはなかった。心配な個所は折った枝で深さを計ってから通過した。最大の難関は、下ってから登りになる個所に行きあたった時だった。その中間部にはかなりの雨水がたまっていた。一番若いクリスが水の中に入って枝を刺した。ローリーの車は通常より高い位置にマフラーが取り付けてあったが、それを超える深さがあった。
皆で協議した。マフラーに水が入らなければ全く問題はないが、マフラーの位置を超える深さがあるなら、マフラーに水が侵入し、エンジンを止めてしまう。而し、一瞬の事なら、エンジンを一杯に吹かして通過すれば、何とかなるのではないか。それに前方は登り坂なので、マフラーに入った水は流れてしまう。問題は一番水深のある区間がどのぐらいあるかと云うことだった。クリスが再び水の中に入った。二メートル、あっても三メートルだとのことだった。もし失敗したら山中を歩くことになる。此処から管理事務所までの登りを約10キロ、帰りは此処まで送ってきて貰うとしても、此処からまた10キロ、合計で20キロを歩くことになる。平地でも最低で4時間はかかるだろう。此の山の中を歩くなら、どのぐらいかかるか見当もつかなかった。一旦引き返し、水が引くころに出直すのが一番安全な方法である。だが、サイクロンが再びやってこない保証はない。
三人が出した結論は「失敗を恐れたら何も出来ない」だった。車には全員が乗った。少しでも重くした方がタイヤがしっかり地面を掴む。それと「死なばもろとも」である意思表示でもあった。車をかなりバックさせた。お互いに頷き合うとエンジンを最大限に吹かして水の中に飛び込んだ。水しぶきで前が見えなくなったと思ったら、車が坂を登っていた。見事に成功だった。三人で歓声を挙げた。大人げないとお思いだろうが、大声で叫ばずにはいられない心境だった。
銅山の管理事務所の責任者は、感じのいい青年だった。それに奥さんが羨ましくなるほどの美人だった。ローリーが事情を説明すると、気持ちよく無線機を使わせてくれた。ローリーが無線機に向い、早速連絡を開始した。「アロタオ、アロタオ、こちらPW2231RC、どなたか応答願います。アロタオ、アロタオ、こちらPW2231RC、どなたか応答願います。アロタオ、アロタオ、 、 、」としばらく続けた。やっと応答があった。アロタウの地上局から航行中のオーストラリア船籍の貨物船に連絡し、そこからオーストラリアの地上局に繋ぎ、更に私の自宅の電話に繋いでもらった。家内が出ると、私は行方不明になっていると告げられた。家内は電話機なので、普通の話し方をしているが、こちらは無線機なので、相手が話している間は当方からは話せない。双方向の無線機ではなかった。私は「心配ない、五日か六日後に帰る」と必要最小限の事を伝えた。私の話が終ると、ローリーが無線機を受け取り、クリスの自宅を呼び出した。そして、最後にチャーター便の確認をした。
後日談だが、エアー・ニューギニアの東京支店から電話があり、私が乗る筈であったポートモレスビーとラバウル間、それにポートモレスビーと香港経由成田間に私が搭乗していないと伝えられたそうだ。行った先がウッドラーク島だったのでエアー・ニューギニアの職員は非常に心配してくれていたらしい。ポートモレスビーの職員も含めて誰もこの島には行ったことがないし、事情も把握出来ていない。
全ての連絡が終り、全員に安堵の雰囲気が漂った。管理事務所の美人の奥さんがお昼を振舞ってくれた。大きなお皿に蒸し焼きにした山鳥を山盛りにして出してくれた。野生の鳥と聞いただけで、どんな種類の鳥であるか不明だったが、とにかく旨かった。
一段落すると、今まで抑えていた好奇心が抑えきれなくなった。「奥さん、凄く綺麗だな。高かっただろう。幾らだった?」と聞いた。「そんなに高くありませんよ。豚5頭でした」とあっさり云った。出張が決まってから、旅行案内書で「パプアニューギニアは豚が非常に高い」という記事を読んでいた。「お前さん、金持ちだな。豚を5頭だなんて」と云うと、彼は、「そんなことはありませんよ。裏山に行けば幾らでもいますよ。一人が追い出し、出てきたら首っ玉に飛びついて捕まえるんです。嫁さんを欲しければ、捕まえるのを手伝いますよ」とご親切に云ってくれた。クリスは身を乗り出して聞いていた。ローリーにもエイミーの値段を聞きたかったが、それは我慢した。クリスも非常な興味があると云っていたが、彼もついに聞けなかったようだ。
パプアニューギニア編はあと一回で終了する予定です。「TDY,Temporary Duty編」は2013年の9月から始め、今日に至っております。長い間のご購読を感謝申上げます。多くの方々からもっと続けろとのお声を頂いておりますが、ネタ切れでこれ以上続けられません。他のアジア諸国、オセニア、南北アメリカ、そしてヨーロッパの国々は大勢の皆様がご旅行なさっています。秘境を主題とした「TDY,Temporary Duty編」とはかけ離れております。
パプアニューギニア編11が終りましたら、「折々の写真&雑感」のタイトルでしばらく続けます。URLは同じです。是非引き続きのご購読を賜るようお願い申し上げます。前回に、タイトルを「折にふれて、写真と雑感」と記しましたが、お詫びして訂正致します。
その次の「折々の写真&雑感」も是非宜しくご購読下さい。