つぼみな日々

いろんな花の蕾をもっていたい。たくさんの花を咲かせたい。
言葉を紡ぎたい私のブログです。

5:13

2012-07-20 22:50:44 | 日記
今はどんな音楽が聴きたい?
と自分に問う。
すると私はさほど多くはないiTunesの中から聴きたいものをピックアップできるようになった。
流してみてちょっと違う、とすればちょっとチューニングする。

誰かにとってはなんてことはないことかもしれないけど、私はこれができるようになったことが嬉しい。
今本当はどうしたい?ということが、よくわからなかった、今まで。

今何が食べたい?
という問いは、苦手だし消去法くらいしかできない。
それを鋭敏にしようとは今のところ思わない。

サンボマスターとMANDO DIAOと。
Blurは新しく聞いてみたもののそんなではなさそうだ。
結局圧倒的に一番聴いているのは、ブルーハーツで次がハイロウズだけれど。
DVDの「イメージ」と「月の爆撃機」を、何回繰り返せば私は気が済むだろう。

またブルーハーツのアルバムを3枚借りた。
フジロックに持っていきたいのだけど、iPod shuffleは当たり前にもう既に容量を超えているし、iPod nanoはmac仕様のため私のPCで入れ替えができない。
そもそもiPod nanoは自分のものではないが、これは手放せないのでこれはいただくことにする。
どうせなら携帯をiPhoneに変えようか。

ヒロトはもう慈善事業をやってくれているのではないかと思うほど、本当にありがたいことをたくさんしてくれる。
嘘じゃない、屈託のない笑顔や意志の強い眼差し。
8月になったらまた追加でDVDを買おう。

身体が先に動いてしまうこと以外で、変化をさせることは面倒で、慣れていることの中で時間をやり過ごすのは簡単だ。
でも、膨れ上がらないまでの面倒を少しずつ壊しておくことで、もうどうにも完全に目の前が塞がってしまったなんていう障壁は訪れないのではないだろうか。
欲しいものに向き合って、少しの負荷をかけ続けながら、その欲しいものに近づいていけたらいい。
迷惑とかプライドとかなんとか、色々は消えないけど、でも欲しいものから背いて得たものなんて虚だ。
プライドが欲しいものを邪魔するとしたら、そういうもののことを、くだらない、と言うのだと思う。

怒れない私の代わりに、怒ってくれる人がいる。
ロックな人がよく使う言葉「くそったれ」
「くそったれ」は「くそったれ」の対象本人目の前に言うことはあまりない。
対象がいない場で、その対象に向けてというよりは宙に向けて吐く言葉だ。
きれいな言葉とは思わないけれど、勝手に言っている分には健全な言葉なんだと思う。

笑顔が増えることは、それは自分がそうであること、大事な人がそうであることが一番望ましい。
私の書道の号が「愉咲」であることは今さら我ながらいい号であると思う。
「咲」と「笑」は同義なのだ。

卵が余ってしまっていたので仕方なくゆで卵を作る。
殻を剥くと思いのほか半熟で、柔らかすぎたその危うい卵が垂れないように立ったままコンロの前で食べた。

チルアウトの意味を知って、何もクラブの熱狂の後でなくても、チルアウトの状況はある。
気遣いだったのか、フジロックのためだったのかわからない。

花にまみれ、音にまみれる。
暑い熱い、飛びたい私のサマーバケーション。



お手上げ

2012-07-19 22:03:39 | 日記
気が付くと1時間くらい自転車でうろついていることがある。
自転車で1時間分の上り坂を避けた道なんて、さほど範囲を広く取れず、同じようなルートを4,5周まわる。
湿った夏の空気を体に纏わりつかせて家に着く。
その状態で音楽を止められなくて、家に帰ってもそのままイヤホンをつないだまま、音の水の中から上がれずにしばらく過ごす。

やっと上がったかと思ったら次はブルーハーツのDVD。
私がどうかしていることくらい、私が一番良くわかっている。

お風呂から上がってYouTube.
そのままつけっぱなしで寝たら携帯電話で設定している目覚ましが鳴らなくて、目覚めたら9時半だった。
10時の出社を諦めようかと思ったけれど、間に合った。

私は結構熱のある方の人間だったんだと、色んなものにぶつかって知る。
感情が支配をしたあと、ひどく身体は疲弊する。
同時に感情も疲弊する。
それなのにまだ感情は許してくれなくて、更なる疲弊を重ねようとする。

私は私のことを一生かけてどうにかしていかないといけない。
ほんとの瞬間はいつも、死ぬほど怖いものだけど、逃げ出したくなったことも、何度でもあるけれど、いつまでも逃げていたって何も変わらない。
人への優しさも人に甘んじることも、全部、自分にしか落ちない。
私は私を幸せにしてあげるべきだ。

後悔だけはしたくないと、青くたって恥ずかしくたっていいやと、全てをぶつける。
結果が違っていたとしても、私は私を幸せにはできなかったと思う。
だからこれ以外に結果なんてありえないけれど、よくある話の渦中にいる私はベクトルの絶対値が大きくなった感情の最大値をまた体感している。
手につかないとか、力が入らないとか、あるんだなあと思う。
狼狽える、とかあるんだなあと思う。

私の周りの人たちは優しい。
優しいって本当に強い。
然るべき同情をしてくれる、然るべきアドバイスをくれる、叱咤してくれる、激励してくれる。
私が誇れるものがあるとしたら、自分の友達だ、と私は言える。

これからも一人を鍛錬するけれど、周りにいてくれる人たちに私はいつもいつも感謝を忘れてはならない。
出会えることも、交われることも、紡げることも、全然当たり前なんかじゃない。

人によって悲しいことも生まれるけれど、人によって嬉しいことも生まれる。
その両方を一人の人が生み出すこともあるけど、嬉しいことを生んでくれたことに対してはやっぱり感謝しかない。

私たちは人の中でしか生きられない。
人を愛することなんて今の私が語れるものではないけれど、人を愛することは総じてしまえば幸せなことなのだと思う。
よかった、私は。



ハート型の手羽元

2012-07-16 22:41:41 | 日記
小さな黄色の百合と、薄紫の蓮の花、一本の太い茎に螺旋状に段々に蕾を抱えた花は名前を忘れてしまった。
最近は大きな南国的な植物に惹かれる。

狭い部屋で、この大きな花瓶があるとないのではだいぶ部屋の広さが違う。
それでも部屋に帰ってきて色のある花たちを見ると私はにんまりしてしまう。

THE BLUE HEARTS on TV.
今までDVDは借りるばかりで、私は初めて、買った。

自分のものなんだ、この映像。
何度も何度も見られるんだ。
自分の好きなだけ、好きなところリピートして、返却期限に追われなくてもいいんだ。
まるで少年が初めてのCDを手にしたときのような、単純純粋無垢なわくわく感。

先日友人と一緒に見たもののようにナレーションはない。
私がYouTubeの彼らに釘付けだった映像が盛りだくさんに入っていた。
剥き出し感と無邪気感に、クッションを抱えて固まる。

やはりテレビよりもライブの方がいいけれど、
やっぱり何であっても良いものは良くて、好きなものは好きだ、という域に達してしまっているので、良い、以外にはない。
まだ他にも彼らのDVDはあるわけだから、私はまだ見ぬ楽しみをいっぱい抱えているわけだ。

友人に、あれを伝えよう、ここを見てもらいたい、といろんなことを思いながらとりあえず3回観る。
一人で観る楽しみも大いにあるけれど、共感は爆発へと昇華させることができる。

一人を楽しむことができない人間は、誰かといても幸せになれない。
体現できている気がして嬉しい。

レンタルのDVDもあって、ガス・ヴァン・サント監督の二枚。
最近の作品、『永遠の僕たち』と、過去の名作『グッド・ウィル・ハンティング』
前者はまあ、という感じだった。
後者を観るのは3回目で、「好きな映画は何?」という、案外悩ましい質問で私はこの映画を挙げることがある。
因みに私にとっては「好きな食べ物は何?」の方が悩ましい質問ではあるが。

私は恋愛映画では特に泣けないし、人が死ぬ以外の物語で酷く泣いたのはこの映画が初めてだったかもしれない。
もう物語などわかっていながらいつも同じところで。

『カーネーション』を借りるまでに時間がかかりそうなので、時間のあった過去2年間で観た映画で良かったものをもう一度レンタルしている。
基本的にレビューを観ないと詳細までわからない私は2回目の方が楽しめることが多い。

『グッド・ウィル・ハンティング』は今までその発想はなかったけれど買ってしまおうか。


今の部屋に住み始めて約3年。
初めてゴキブリに遭遇した。
咄嗟に要らない雑誌で殺そうとしたのだが逃げられてしまった。

さほど怖くはないものの、狭い部屋で再度遭遇するのは嫌である。
その足でドラッグストアへ行き、ホウ酸ダンゴと霧で部屋ごと殺虫できる缶タイプのものを買った。
ホウ酸ダンゴは玉ねぎなどを含んでいて、少しポテトチップスのコンソメ味みたいな匂いがした。
ホウ酸ダンゴを置いて、霧を噴射して家を出て時間潰しに買い物に行く。

何時間かして部屋に戻ると、部屋の真ん中でゴキブリが裏返って死んでいた。
私はあくまで気休め程度にやったつもりだったから、驚いた。
こんなに生命力の強いゴキブリが死んでしまう薬剤なんて人体に影響はないのだろうか。
殺虫、殺菌、漂白などは、やってしまうものだけど、果たしてするのとしないのとどちらが身体に悪いだろうと思うことがある。


川内倫子展。
行こう行こうの思ってついに最終日になってしまった。
一つの四角の中に収める構図作りが上手で、割とシンボリックな作品が多い。
目に映るものが彼女にはこう見えていて、それをこう撮りたい、という意志が感じられる。
こうしたらこれは面白い写真になる、そんな遊び心も感じられる。

虫の死骸、棺桶の中の遺体の写真も小さいけれどあって、世間的になんとなくタブーだから小さいのだろうか。

恵比寿まで出向いたついでにまた色と柄に誘われてエキゾチックなスカーフを買ってしまった。
フジロックにと思ったが来ていこうとしている服の色と交えたらまさに色気違いになってしまう。

人間脱皮中の私は、ある考えごとに対して刻々と考えが変化している。
あとはそれが放出されるときのタイミングだ。
決まっているのはひとつだけ。



パワーオブスペース

2012-07-14 22:57:45 | 日記
お気遣いでハーゲンダッツをいただく。
どこでも買えて手軽にあげられる好きなものを伝えてあるのは、こちらも嬉しいしあげる側も容易いからいいのではないかと思う。
そういえばある人が自分のメールアドレスを「バームクーヘンNO.1****」というアドレスにしていて、その理由を尋ねると、「好きだから。あとこの意味について聞かれることが多いからバームクーヘンのいただきものが今までに5回くらいあった。そろそろ「松坂牛NO.1」とかに変えようかと思う」と言っていた。
関心する話ではないが面白い。

「ハーゲンダッツ クリーミーミント」
私はミント味というのはどうしても歯磨き粉を食べているような気分になってしまうので、あまり好きではないのだけど。

ハーゲンダッツの魅力はその濃さであるので、基本的に清涼感は必要ないと思っている。
ソルベは今あるのか知らないが、明らかな失敗作であったように思う。
これはどうだろうと思って食べてみると、名の通り確かにクリーミーだ。
少しだけ苦みとミント特有の清涼感が口に残る。
アイスのせいだけではなく、お腹の中までスース―するような感じがして涼しい。

うだるような暑さのときにはおそらくガリガリ君のようなシャーベット系アイスの方がいいだろうし、寒い日の炬燵の中で、お腹まで涼しくなるアイスクリームは考え物だ。
食べるシチュエーションが難しい味なのではないだろうか。

いや、いただきものなので美味しくいただく。

延期になっていたエレファントカシマシのライブ。
ヒロトとマーシーを見ておきたかったのと一緒で、宮本さんも現存するバンドとしての生を一度は見ておきたかったし聞いておきたかった。
ヒロトとは違って、どちらかというと内なるものが溢れてしまうタイプで、それを長い間持ち続けている人なのではないかと思う。
ヒロトは人間らしいなあと思うとすると、宮本さんは男らしいなあと思う。

エレファントカシマシが何人のバンドかさえもやっぱり知らなかったのだけど、ギターかベースのイシくんという人の演奏姿は、表現の思うまま、という様がとてもかっこよかった。
突っ切れた行動と努力が成すかっこよさ。
それは本当に本当に羨ましいことだ。
ちなみに私はギターとベースの区別がつかない。

濃い靄の中で歌う宮本さんは、いつものように髪をもみくちゃにしながらほぼMCも笑顔さえも見せずに、熱くロックを叫び続けた。
きれいなフォルムの白いシャツを着た宮本さんはバンドメンバーを煽りながら、一生懸命だった。

出来得る限りの一生懸命、なんてそうそうできるものではない。
音も歌詞も置いておいて、汗をかいて熱狂するって気持ちいいんだぜ、とヒロトもそう言っているような、そんな様相。

知っている曲が3分の2くらい。
アンコールの「ガストロンジャー」で私はぷつんといった。
意識はあるのだけど、もはやコントロールできていない。
何が何だかわからなくなるくらいの音に身体が埋め尽くされて、激しさが異空間へ誘う。
ああ、気持ちがいい。

仕組まれていたのかなんなのか、アンコールが4回もあったのは本当に幸いだった。
たぶん仕組まれたことではなくて宮本さんが「決まらねえ」と呟いていたので、そういうことだったのだと思う。

スタンディングかなり近い位置。
音を浴びるのが近いのは重要だった。
息遣いや目遣いがどんな風になっているのかはぷつんといくのに重要だ。

次はヒロトを近くで見たい。
これをやらずして…と、また過剰なのだがそれでいい。

会場を出て、会場の中のように靄がかかってこの上ない湿度だったけど、余韻としてのそれは随分長い間ぼわんと恍惚を長引かせた。
帰らなくていいのであれば空気の中に溶け出ていける気さえした。

今でよかった、こんな体験。

実家に寄って、久しぶりに二階に上がってみる。
自分の居場所しか掃除をしないという我が家は、もはや誰も足を踏み入れることがなくなった二階はまさに廃屋と化していて、誰の部屋も埃まみれだった。
自分の部屋で引き出しを開けると、中学校の頃の競書会でクラスの金賞を取ったときの硬筆作品が出てきた。
この頃私は、所謂楷書にはまっていて異様にきれいにノートを取っていた、というか授業と関係なく字の練習をしていた。

父の書斎に入るとそこは本に埋め尽くされた廃屋だった。
酷く暑くて、埃の匂いに紛れて父の匂いがした気がした。
ぶわっと目の前が滲む。

泣いたことがばれないように階下に降りて、スイカを食べる。
「真ん中の一番いいところがあんたのだでね」
「塩はいらんよ」

携帯で撮った妹の子供をおじいちゃんとおばあちゃんに見せる。
「8月にはこっち来るでひ孫が見れるね」
「まあわしゃ、孫がいいだ」

今日も足早に実家を出る。
大きな百合が庭に咲いていたので写真を撮って。

椎名林檎の丸の内サディスティックを聴きながらかつての通学路を行く。
寄り道する名古屋は、東京と京都の線上、求心の場所。




なつめちゃん

2012-07-12 13:36:03 | 日記
マーシーのソロはどれも大きなものに対する怒りのようなものに満ち溢れていた。
でもギターを演奏しながら歌うマーシーはとてもお茶目で楽しそうだ。

政治だとか社会だとか大人だとか、学校だとか会社だとか、私はそういうものに強い憤りを感じたことがない。
順応することで面倒を避けてきたつもりだし、そもそも憤りを持つほど私は私の中に基準がなくて、大人が言うことは何の疑いもなく正しいのだろうと思っていた。
いや、正しいかどうかも基準がなかったわけだからわからなかった。
ただある程度世間的に統合されていることだけが私のプロテクターであったのだと思う。

とても未成熟で不安定な青春期に、そういった強い憤りを持っていることは大変だろうなあと想像する。
そのやり場をアートの方向に解放させることが出来る人というのは、とても尊敬するしたぶんラッキーだとも思う。

人の中の何かを解放させる手段として、芸術やアートはあるのだろうか。
口語的に言い尽くしがたいこと、あるいは言葉にならない何か、を表現するために他の何かを形作る。
そこには「自由」が在って、現実と非現実を混在させることも、時間軸をずらすことも、内なる恥ずかしさや激しさや汚さを爆発させることもできる。
それを本人の思うように形作れるかは、その方法の技量にもよるが。

一旦一つの作品となってしまえば、それらはアートとして一人立ちする。
つまりアートに思いを乗せることは、普段の世間的な自分や本質的な自分と乖離しているように見せかけることが可能だと思う。
単純に思うことの爆発、というのもアートとしてあるとは思うが、そういうものばかりではないのではないだろうか。
普段他人の目線を大いに気にしているからこそ、思いをアートに隠して代弁させているようなものも多いような気がする。
それは特に、一般的にきれいでないような思いを持っているとき。
この場合、どこが本質なのかを煙に巻いて、とりあえず思いを解放させることに目的がある。

ただ、アートは言葉のように記号的ではないので一義的な見方はあり得ず、解釈は受け手側に委ねられる。
もっとも言葉は同言語を使う者においては共有されていて記号的であるとはいえ、これはこれで解釈は非常に困難なものだけれど。


人のためなどない、とわかっていながらも、時々言い訳のようにそれを忘れてしまう。
愚痴をこぼしていると、それをまっすぐ教えてくれる人がいる。
一番痛いところを突かれて、ウッとなりながらもまさにその通りでしかないことも自分で認識する。

今、私は私の過渡期にいて、そろそろ落ち着きたいを取り戻したいと思う一方、まだ時間がかかりそうであることも自分でわかる。
過渡期の自分はそれなりに大変ではあるものの、過渡期でないと持てないエネルギーや興奮があったりするからプラスを最大に楽しむということを心がけていたい。
あとは、手を広げておくこと、基本的に前を向くこと、明るい方を見ること、深呼吸すること。

卑屈になることは簡単で、しかしそれでは何も好転はしない。
依存することは簡単で、しかしそれは他人に責任転嫁することに等しい。
悲劇のヒロインになることは簡単で、しかし私は喜劇のヒロインになりたい。