つぼみな日々

いろんな花の蕾をもっていたい。たくさんの花を咲かせたい。
言葉を紡ぎたい私のブログです。

俺はマイクを選ぶ

2013-09-19 22:14:34 | 日記
からり爽空。
全然切なくない淋しげで涼しい夜風。

好きなことに近づける。
好きなことに近づき続けることができる。
己が枯渇しない限り。

「押してみてバネがあって、その奥には分厚くて高い壁がある」と言われたことがある。
そんなようなことを今度は私が他人に向けて言っている。

私は前よりずっと自己中心的になってと思うけれど、前よりずっと周りに対する想像力も養われたようにも思う。

どうしようもないたくさんのことを飲みこんで、それでも、私は私を裏切れなくなった。
どうしようもないたくさんのことは、無論迎合できないし、今はまだ上手くやり流すことすらできない。

ただ私は自分にとって、100人の当たり障りのない人が毎日の時間つぶしをしてくれるくらいなら、1人の面白味のある人とスポット的に爆発や共有ができる時間を過ごしたい。
スポット的な時間以外はひとりで孤独を感じることが引き換えでも。


「グレイズアナトミー」については、もう何年も前から私は大絶賛しているのだけど、やっぱり面白い。
舞台はアメリカ屈指の外科医の話だから、比較的奇抜で突飛なネタは豊富だけれどもさすがにシーズン8ともなるとネタ切れ感も出てくる。
体の中に爆弾があったり、銃の乱射事件が起きたり、登場人物それぞれが病気や事故で死にかけたり、道路が陥没したり、でも、そんなフットワークの軽さがアメリカTVドラマの良いところでもある。

「グレイズアナトミー」は命の現場での人間模様や、キャリアに貪欲な外科医たち猛進する姿、そんな医者たちの自尊心の過剰や欠如、院内乱交を経ての男女関係のあり方、子どもに対する考えや行動など、人間臭さを非常に巧く描いているドラマだ。

うっとなって、はっとなるようなこともたくさん出てくる。
私はこのドラマから核心や格言を非常に多く得ている。

シーズンをまとめて観るたび、DVDボックスを買おうかと考える。
手に入れてしまったらたぶんシーズン1から観直すことにはなる。

それに、調べてみると、DVDボックスでなくバラの中古品ならば1シーズン2500円くらいで買えてしまう。
物を増やすことは嫌なのだけれど、自分に影響を与えたものは手元にコレクションしたいものである。
欲しい。


新しくiPod shuffleに入れた奥田民生の「イージュー★ライダー」と「フロンティアのパイオニア」が頭から離れない。

眠らない体を すべて欲しがる欲望を
大げさに言うのならばきっとそういうことなんだろう
誇らしげに言うのならばきいとそういう感じだろう


問題ないぜ問題ないぜ 遥かに遠くへ走る走る
想像通りで検討違いで 前人未到へ走る走るひとりひとり
走る走る ひとりひとり
走る走る ひとりひとりひとり


これもまた新しく入れたブルーハーツの「歩く花」も頭から離れない。

ガードレールを飛び越えて センターラインを渡る風
その時その瞬間 僕は一人で決めたんだ 僕は一人で決めたんだ

今日からは歩く花 根っこが消えて足が生えて
野に咲かず山に咲かず 愛する人の庭に咲く
愛する人の庭に咲く




女子がそれなら

2013-09-17 22:53:26 | 日記
ふとお昼に入ったお店で、Tahiti80が流れていた。
Tahiti80の甘くて爽やかなサイダーみたいな音楽は私のちょっとした思い出を想起させる。
それが私にとって、ちょっとしたことかどうかは、今の私がそう言いたいだけなのかもしれない。

もっとも、Tahiti80のフジロックで生を聴いた曲たちは、もっと荒っぽいロックな感じもあったから色々な曲があるのだとは思うけれど。

大きなどぶのような用水路に投げ捨てたiPod nanoは、汚い水の中で一瞬だけ光を取り戻して、その後すぐにすぅっと夜のどぶ水に吸い込まれて見えなくなった。
これにまつわる今でもくっきりとした輪郭のカラーの思い出は、私の心に襞をたくさんもたらしたと思う。

私自身はこのことに対する複雑さは持っていなくて、別に難しくはない。
そう思えば、ちょっとしたことで、ちょっとしたとてつもなく大きなことだったのだと思う。
これについては、私は無理やりに前に進むことはできないし、少なくとも今は全く頑張るという気は起きない。
当たり前だけれど、代わりのきかないものだったし、唯一としての認識が強かった。
私にとって良いものが他にないという意味ではなくて。

別にそれ以上のことは私には何も語ることはできない。
それだけ自分がそのようなことが苦手だということに目をやると、そういうふうには自分で認めていなかったことをしかと認識させられてしまった。
こういうことは、言えば言うほど、暗示にかかるのであまり連発して言ったりしないようにしたいと思う。

部屋が広くなって本当に良かったと、未だにしみじみ感じる。
書道をするためだけでなくて、自由に体を伸ばせるのは快適である。
旧居は部屋に占めるベッドの割合が大きすぎて、よくベッドフレームに足やら腕やらをぶつけていた。
部屋は狭い方が掃除もしやすいし、物も手に届きやすくていい、ということも一理あるけれど、やっぱりある程度広い方がいい。

前々からずっと欲しかった、モロッコの大き目のクッションであるプフを買う。
外の革のカバーのみなので、中には季節ものの服や古いタオル、夏用の布団などをパンパンに入れて使うらしい。
試しに要らないクッションや夏の肌掛け布団、要らないマキシ丈のスカートなど入れてみたけれど、その収納力は半端ではなくて、薄い布団であれば4枚くらいかもっと入りそうである。
そんなに入れるものがない。

買ったのはもう何週間か前なのだけれど、山羊革で作られたそれはとてもとても獣臭くて、何日か日干ししてから使ってくださいとHPにも記載があった。
日干しできる日を待ち望んでいたのだけれど、なかなかスカッと晴れる日がなくて、仕方なく部屋干ししていた。
部屋の空気の一画が獣臭に満ちていた。

台風一過、スカッと晴天の今日の朝、5階の屋上まで上ってプフを干す。
明日も晴天、という予報だから、明日いっぱいまで干しておこう。

しかし、この匂いは干しても少しは残るらしく、気になる人は気になりますという記載もあったから、私はだめかもしれない。
革の風合いも、刺繍のデザインも大好きなのだけれど、匂いには勝てない。
それに、収納になるのは一石二鳥と思いたいが、収納したものが臭くなってしまっては収納の用途を成さない。

秋の風に吹かれて、唇が乾燥する。
新しく使っている化粧品がどうも肌に合わないらしい。



ソーセージの破裂

2013-09-16 22:16:24 | 日記
久しぶりに姪に会いに行く。
横浜は、なんていうか、遠い。

グラマシーニューヨークのケーキが美味しかったと言われて、横浜駅の高島屋でケーキを調達する。
大きくて煌びやかで派手でパッとしたケーキたちを、私はるんるんと選ぶ。

オレンジピール入のチョコレートケーキ、キャラメルチーズケーキ、アップルパイタルト。
染み込んでくる優しい系の味ではなくて、ダイレクト刺激物系の味。
アップルパイのりんごがとてもジューシーでとても美味しかった。

バナナが大好きな姪には、高級バナナを一本。
一本で189円という、すべすべして太くて形の良いバナナ。
食いしん坊の姪が3つくらい喋れる言葉のうち、ひとつは「ななな」
「ななな」と言いながら指をさして、「ん!」と主張する。

「このなななはもうちょっと熟れた方が美味しいから寝かせておくよ。安いなななにしよう」
と言いながら、おやつは既にさつまいもとカボチャを蒸かしたものと牛乳と決まっていて、「ななな」が好きでも執着力のない姪は、美味しそうにさつまいもとカボチャを頬張っていた。

姪はごはんが大好きだ。
まだ味付けをほとんどしていない素材だけのごはんも、止まることなく、こぼすことなく、大きな口を開けてもぐもぐしていく。
もぐもぐ、が好きで、終わってしまうと泣いて怒る。
でもあまり執着力のない姪は、ごはんが終わって他のことで気を紛らせると、すぐにそっちに行く。

「はい、どうぞ」というのが流行りらしくて、何でも手渡してくれる。
「ありがとう」と言うと、にこっと笑って「どういたしまして」のお辞儀をする。
何かの入れ物を頭にかぶって手を広げてポーズを取ると、お父さんとお母さんが喜んだから、得意になって何度もそれを繰り返す。
「おとうさんおかあさん、見て!ほら!」かわいくにこにこした顔で、何度も繰り返す。

「アンパンマン」と「お母さんといっしょ」は子どもにとってアドレナリンが出るような何かが仕組まれている、というのが母親界の中では通説らしい。
姪ももれなく、「アンパンマン」と「お母さんといっしょ」をテレビで流すと吸い込まれるように寄って行って、食い入るように見ている。
私といもうとが大きな声で会話をしていても別に怒らないし、それでも画面にへばりついて見ているから映像や色に惹きつけられているのだろう。
ちなみに、そのあとでリアルタイムにやっていた「ちびまる子ちゃん」にはまるで興味を示さなかった。

姪は保育園に行っているが、何かを人と取り合うことも、また家ではその相手もいないため、自分に過剰に注意を引かせるというような行動をしない。
愛情も一心に受けられ、満足なほどに目線を与えられて。
安心しています、という姪の顔を見ていると、私は不意に泣きそうになる。
いっぱい愛情もらって、心の根底に敷き詰めるんだよ。

1歳の誕生日に、いもうと夫妻と一緒に真ん中に写った姪に、どうしてだか私は父の面影を見てしまった。
父は姪の祖父にあたるわけだし、親族なのだから似ていてもおかしくはないのだけれど、顔というか雰囲気がどことなく父のようだった。

姪のところには、良くも悪くも、私の心の中に巣食っているまだ形がなくて矛盾した、とてつもなく巨大で、もしかしたら空虚な、そんなものがたくさんある。
それは姪本人にはほとんど関係がなくて、私がそれらに思いを馳せるきっかけに過ぎない。
私は確かに、1週間も姪と一緒の生活はできないだろうし、あのかわいさもその場で本気でかわいいなあ、と思うこと以上には何もないのだ。


引っ越して暴風大雨は初めてで、案外音がよく響く。
ベランダもなく、窓一枚で外なのだから当然と言えば当然である。
旧居は建物の作りがしっかりしていて、その上、ベランダや共用部の廊下もあったため、外の天気がほとんどわからなかった。
どちらがいいとか悪いとか特段ないけれど。

展覧会前の最後の創作。
「リンダリンダ」は何度書いても、思いは乗る。
だって本当に、私の一番大事なことのひとつだから。

だが結局、書作的に何かを壊すことはできなかった、それなりには、私なりには、壊した、でも私が思うようには壊せなかった。
私の技術と発想の無さは存分に露呈することとなった。
11月末に展覧会があるものの、これが飾られる確率はどちらかというと低い。
入選して且つ、出品する自分の作品のうち一番出来が良くないといけない。

ただ、またヒロトの詞を書いてみて思うのは、私はこれをすることによって、もっと彼らの精神に触れたいということだった。
今のところ私が彼らの精神に触れられそうなのは書道以外にはないから、そうするけれど、他の方法でそれができるなら是非それもやりたい。

11月、友人がヒロトがゲストで来るというライブのチケットを取ってくれた。
私も30回くらいは電話をかけたけれど、全然つながらなかった。
よかった、本当によかった、友人にありがとう。

「リンダリンダ」のバンドスコアを見つけて、ギターも弾く。
ギターは今のところ、精神に触れる以前の基礎的なところに辿りつけないから、楽しみながらやりたい。

近くのTSUTAYAへ。
近所にあって便利だうれしい、と思っていたのになかなか行けず、行ってみたら16日で閉店すると書かれている。
なんてことだ。

とりあえず、「グレイズアナトミー」「デスパレートな妻たち」「最強のふたり」
「最強のふたり」はフランス映画らしい空気感のある映画だった。
銃殺も爆発も派手な罵り合いすらもないけれど、しみじみ丁寧、良い映画だった。



綿の中の矛盾

2013-09-13 00:24:26 | 日記
自由でなくてはいけない。
自由になりたい。

己の自由を縛るものがあるとしたら、それは紛れもなく自分自身だ。
環境のせいではない、周りの人のせいでもない。

何のせいにもしなかったら、本当は、何でも描けるはずで、何でも描いていいはずで。

常識や過去の慣習は、ひっそりと音もなく、しかしながら容赦なく、タフ・ストロングな勢いで、今の私の自由に忍び込んでくる。

壊す、壊したい方向に壊す。
取り払う、固定観念もレギュレーションも全部。

壊しているつもり、取り払っているつもり。
そんなの全然壊れてない、そんなの全然取り払われてない。

新しい、とは尊いことで、誰かにとって新しくなかったとしても、自分にとって新しかったら大いに意味はある。
でも新しいのはその最初の一時しかない。
一度触れたら、もう新しくない。

無論、新しいだけが良いわけではなくて、ただ良いものがほしいだけだ。
でも、新しいということは、良し悪しを置いておいても、新しいのだ。

受け入れるではなく、自分でやるとしたら、その新しいはとても難しい。

それは自由か?
本物の自由か?
本当の自由か?

私がより私であることは、今の私を持続的にやっていくことではない。
変化が不変である中で、“そのときの今”の私がより私であり続けることだ。


私は小心者だから、最後に言う。

誰かを攻撃したいのでは全くない。
誰かに迷惑をかけるつもりも全くない。

「オン・ザ・ロード」の続きを引き続き読んでいて、精神が荒々しくなる。

安い旅にならないように。



強靭な空気

2013-09-10 23:59:23 | 日記
休みを取って書道教室に行く。
また展覧会の出品期日に追われていて、先生に見せる当日に漢詩作品と「リンダリンダ」を2枚ずつ仕上げる。
これでそれぞれ15枚ずつくらいは書いただろうか。
「リンダリンダ」はもう、私は何度書いてもぎゅうっとなって途中で中断を余儀なくされる。

教室に行ってそれらを先生に見せる。
これまでに書いた作品と見比べていって良いものをひとつだけ残しておく。
最終出品までそれを続ける。

今日書いた4枚は全部、前に書いたものに敵わなかった。
疲れてもいなかったしそれなりに乗って書いているつもりだった。

先生曰く、「上手になっちゃってるんだよね」

練習は物を言うものだけれど、創作の場合必ずしも多くを書けばどんどん良いものが出来ていく、というものではない。
書けば書くほど字の配置や流れが決まって、それを洗練させようとする。
私の場合、飽きが生じて適当にもなってくる。

私は鉛筆などで他の紙に下書きをすることもしないから、一番最初は紙の上でどこへ行こうかなと考えながら書く。
こっちに行ってみたら面白い字の表情になった、筆が思うようについてこなかった、思ったより掠れてしまった、というふうに出来上がっていく。
書く前から頭の中に出来上がりのイメージがあるわけでもないから、書いてみてはじめて自分から出たものと対面することになる。
最近は少し創作にも慣れてきた感があって、何をやっても私らしすぎて笑ってしまうことがある。
それは、今の私と向き合うという点ではいいけれど、創作をする上では面白いものではない。

そうして、字を追いながら初めて書いたものを原稿として、2枚目に書いたものがたいていは良いことが多い。

挙げ句、教室で書いたものも前のものに敵わずボツとなった。

「最初の方がいいタイプなんだね」と先生に言われて、出品期日をあと一週間に控えて、全く新しい漢詩を書くことにした。
1枚字を追って、2枚目。
「結構良いのでこれは最終判断まで取っておきましょう」となる。

書いてみて思うのは、やっぱり新しいのは面白いということである。
先生にアドバイスをもらいながら、こうしてみたらもっと面白い、という方向に持っていく。
自分的にちょっとやりすぎかなと思えるところまで線を広げてみる。

「もっとキチガイみたいなの書いてよ。奇抜なやつ。お行儀良くしててもつまんないじゃない」と言われる。

そう、そうなのだ、私は優等生なのだ、常識人なのだ。
自分的なやりすぎなんて、ちっともやりすぎになっていない。
少しでも、ほんの少しでも、優等生や常識人から出られたら世界がまた違う色で見えるかもしれない。
私はその違う色が見たい、であれば、自分の未踏の領域に足を踏み入れなければいけない。
どこまで行ったって私は私から抜けられないから、戻って来られなくなる心配なんてずっと無用だ。

書作において、そのひとつの方法は「自分の嫌なことをしてみる」と先生は言った。
私は、なるほど、と思った。

書の世界は、清廉、たおやか、静謐、凛、というような感じのことを重んじるところも多いと思うが、私の通う教室では先生たちも自己顕示欲の塊のような字を書く先生が多い。

創始者の作ったルールの中で、ということではあるけれど、その幅はかなり広いのではないかという気がする。
別に奇抜であることが最良であるわけでもないけれど、より自分であることはひとつの良いことなのではと思う。

字は、声と同じくらい個人を消せないものだ。
気配を消そうと頑張っても、出たものから匂い立ってしまう。

それを今は、「気持ちが悪いほどに私」を書けばいい。


久しぶりにiPod shuffleの曲を入れ替えた。
新たに加えたのは、JAM、奥田民生、Tom Robinson、真心ブラザーズ、岡村靖幸、oasisのいくつかの曲。
あと、ブルーハーツとハイロウズとクロマニヨンズの曲を一部入れ替え。

この前借りたコンピレーションアルバムの「The PUNK US Hits」がとても良い。
「The PUNK UK vs US」もとても良かったけれど、これもとても良い。
私は本当にパンクロックが好きみたいだ。

全然知らないバンドがほとんどで、検索するとローリングストーン誌が選ぶ歴史上最も偉大なロックバンドのランキングに入っていることを知る。
Iggy popの「Lust for life」という曲がJETの「Are You Gonna Be My Girl」にそっくりだと思って調べていると、この話題はかなり有名なことらしい。
ロック好きな人が通る道を私も通れているような気がして嬉しくなる。


日曜日に作ったトマトマレーの残りを食べる。
「何か足りないような気がする」というのは「寝かせる」ということでほぼ解決した。
「寝かせる」ことが大事なのか、と思って使ってしまわないといけないトマト缶の残りと、残り野菜を入れて、今食べないトマトソースを夜な夜な作る。