つぼみな日々

いろんな花の蕾をもっていたい。たくさんの花を咲かせたい。
言葉を紡ぎたい私のブログです。

つやつやの葉っぱ

2013-09-09 01:14:19 | 日記
映画鑑賞の約束までに3分の1強しか読めず、しかしその空気感だけはしっかりと携えて映画館に向かった。

既に一度観ている友人の言っていたように、「オン・ザ・ロード」の映画は、小説で抱く自分の頭の中の映像を補完してくれるという意味合いが強かった。
全くもって1分も眠くならなかったから、私にとっての興奮というものは小説に引き続いてあったわけだけれど、映画はやはり映画として独立しているもので、あの小説の「勝手さ」には乏しいような気がした。
私が何に興奮していたかというと、「登場人物の勝手さ」ではなくて、「小説そのものの書き手の勝手さ」であったのだった。

だからマーシーも、登場人物のディーンではなくて、「キャサディキャサディ」と歌ったのだろうか。

3階の映画館から階下に行くと、空気がひやっとしていて、まさか晩夏を通り越して初秋なのかと焦ったけれど、1階の冷房がきついだけだった。
外はちゃんと晩夏の空気でホッとする。

友人と私は、ヒロトやマーシー、映画や自分の体験や自分の友人、食べ物から生活習慣、信じてきた思想までを持ち出してロックの話に終始する。
というか、何を話していてもロックに生きる方向に向かっていってしまう。
ここまで来ると、ロックとは何か、ということが「自分の本当にほしいものや願いは何か、自分は本当はどうあるべきか、自分の本当のほんとうの姿とは何か」ということに置き換わってくる。


キッチンが広くなって、前よりも料理をする感覚が身に付いてきた。
と言っても、餃子とかコロッケとか唐揚げとかハンバーグとかは全く作ろうとは思えない。
できれば肉は塊でなくて切れているものが良いけれど、切った方がおいしいのかなと思ったりもする。

手で混ぜるとか、3度に分けて浸すとかが面倒でならないのである。
食材に長く触れていることが嫌なのだと思う。
あと、色んなものをいっぱい広げて、たくさん汚す、みたいなことも嫌なのだ。
だから、ざく切りにしてとりあえず全部フライパンに投入する、という工程を踏みがちだ。

普通の家庭的なカレーが食べたいと思って食材を買いに出るけれど、雨が降っていたのでそれなりの肉が売っているスーパーまで行くのが億劫で、ひき肉やらじゃがいもやらカレールウやらを買って家に戻る。
本当はごく普通の具がごろごろしたカレーを作ろうと思っていたのだけれど、買ったのがひき肉だったのでトマトドライカレーにする。

ひき肉と玉ねぎとジャガイモとシメジと、トマト缶とショウガ。
塩コショウとコンソメ、カレールウ。
ちょっとだけ、ケチャップと醤油。

食べてみて思ったのが、ドライカレーの場合具材は全部均一に小さい方が良いということだ。
「具は大きい方がいい」というような先入観が私の中にはあって、他のものはみじん切りにしたのに大きめの賽の目にしたのだけれど、たとえじゃがいも感が薄れても他の具材、ルウと渾然一体にすべきだった。

あと、結果的においしかったけれど、何か少々足りない気がしてそれが何で改善できるのかが分かっていない。
足りなかったのは、コクとか深みとかいった類のもの。
それはよく言う「ひと晩寝かせる」ということなのか、単純に味付けなのか。

いろんな物事がそうだけれど、「こうなりたい」の手前には「こうした方が良さそう」というのがあって、明確な解決方法でなくても改善の方向性くらいは見えないと動くことができない。

まつ毛パーマをして、いつもよりもきつめに上げてくださいとお願いしたのでパーマ液を目のふちギリギリまで付けたので、目の際の皮膚に染みて腫れている。
以前にもこういうことがあった。

帰り道、雨の中顔に手をかざしてよれよれと自転車をこいでいると、手のガードむなしく木の葉っぱに溜まって大きくなった雨の雫が、よりによって左目に直撃する。
赤剥け状態の皮膚に打撃を食らって、よれよれとした自転車をさらにふらふらさせて、ぴりぴりと痛い目をぱちぱちさせる。

顔を洗ってもぴりぴりと痛い。
シャワーは顔にかけられない。
アイラインが引けない。

ばっちり上がったまつ毛とノーメイクの腫れた目。
瞼が腫れているせいで重たくて、朝からずっと酷く眠たい。



ざんざん雨と濡れた革

2013-09-05 21:35:32 | 日記
久しぶりに生の音楽を聴く。
もう何度目だろう、BREEZEというジャズのコーラスグループ。
初めて聞いたとき、音のミストを浴びているようだと思った。

私はジャズの演奏はどちらかというとボーカルは邪魔に思ってしまうことが多いのだけれど、4人の人が作る声という楽器のハーモニーはとても心地よい。
何度か聴いて、少し歌い手の彼らとお話なんかして。

私はバーに行っても、いまいち何を飲んでいいのかわからなくて大抵ジントニックを注文する。
ビール同様に味がおいしいと思ったことはないのだけれど、でもこのバーのジントニックはおいしい。
生のライムが最初から絞ってあること以外に、ジンやトニックウォーターにも他の店と違いがあるのだろうか。

アイスピックで大きく丸く削られた氷が、薄くて太めのグラスにゆっくりとあたる感触を楽しむ。
薄いグラスは、それだけで冷たい飲み物がおいしくなる。

マスターは基本的に寡黙で、いくつかの重たいカウンターチェアとソファ席。
暗く調光されたお店には、クリムトの大きな絵が飾ってある。
大してバーなど知らない地方者の私が言う、由緒正しき東京の大人のバー。
ここでお酒を飲むとドラマのワンシーンのような映像も手伝って、頭がぐわんとなる。

一転して、大して居酒屋など知らない地方者の私が言う、由緒正しき東京下町の居酒屋。
ドラマ「深夜食堂」のようで、常連さんがそれぞれの都合で入れ替わり立ち替わりやってくる。
24時間営業だから、「深夜食堂」のめしやの小林薫のようにひとりでやっているわけではないけれど、やさしい高倉健みたいな雰囲気の社長と、マリオみたいな髭の小柄なおじさん、短い銀髪ののっぽなおじさん。

タクシーの運転手らしき人は鮭とみそ汁とごはんを。
くたくたの緑色のポロシャツをズボンの中にしまった人は、瓶ビールとたらこを。
ベレー帽をかぶった小太りの人は、焼酎の水割りとマグロの刺身を。

ベレー帽の人は自分で描いたという風景画を見せて嬉しそうな顔で社長に一方的に喋っている。

ラーメンを主とする中華料理屋らしいのだが、刺身やらオクラやら鮭定食やら、とりあえず言えば大抵のものは出てくるらしい。
まさに「出来るものなら何でも作るよ」の「24時間食堂」

看板は落ちてきそうなほどに古ぼけているし、餃子頼んだのに火を点けるところで忘れられてしまうし、客がセルフでお酒を作っているし、なんだかよくわからないけれど、どれを食べてもおいしい。

朝ごはんを食べる習慣のない私が、「私この辺なので、朝ごはん食べに来てもいいですか」と社長に聞く。
下町人情の関係がほしいわけで全然なくて、空腹を心まるごと満たしてくれるおいしいものが食べたい。
そうか、私は満ちたいのか。


チェルシーの飴がつるつるしていておいしい。
塩チョコとヨーグルト。

塩スイーツが好きだなあと思う。
塩大福、塩チョコ、塩キャラメル。
圧倒的な甘さの中から、ひと粒の塩が遠くで叫んでいる感じ。
距離は結構遠いのだけれど、その遠くで小さくとも大手を振っているものだから見逃せないしそれどころか気になる。
甘さとしょっぱさでいい塩梅、ともならずにひと粒ひと粒が独立闊歩しているような。

圧倒的な砂糖の甘さに混ざらない遠く独立した塩感。

ちなみに、トマトに塩、スイカに塩、というのは好きではない。
圧倒的な砂糖の甘さの中の独立した塩感が好き。


また自転車が撤去されてしまった。
この辺りの放置自転車の監視は非常に厳しいらしい。
ごめんなさい、もうしません。



平行植物とジェット世代の放浪児

2013-09-03 22:35:15 | 日記
追加でたくさん借りたアルバムのうち、イーグルス、ディープパープル、ドアーズ、ザ・スミスのあたりが良い。
ただ、最近で言えばレッド・ツェッペリンやU2の方が良い。
やっぱりハードすぎるハードロックは肌に合わない。

尾崎豊が私にはいまいち響かないのは、多感過ぎるその精神の成長途中を私自身は大して味わわなかったからということもあるし、もっと大きくは、やはり環境への鬱屈をその環境に対して叫んでいるからだと思う。
それと、現実は良くないものだ、というスタート地点であるからだと思う。
ある程度の年齢まで、親の保護という面からもお金という面からも精神的回避手段を知らないという面でも、そこからの脱出は困難を極めるだろうから、それを叫ぶのもわかる。
しかし私がぎゅうっとなるのは、こういう環境支配による鬱屈をそれが鬱屈だと叫ぶことではない。

ちなみに、女に対する愛や恋を絶頂として歌っているのも私としてはあまりぎゅうっとこない。
これは尾崎豊ではなくて。

エルヴィス・プレスリーやチャック・ベリー、クイーン、マンフレッドマンなどは私の中で同じようなイメージでカテゴライズされているのだけど、ぐっと来るポイントが未だよくわからない。
私が音楽を漁り始めてからはじめの方に好きになったアーティストたちは、往々にして彼らから影響を受けているらしいのだけどそれがよくわからないのだ。
すごくわかりたいのだけれど、わからない。

私の中で、洋風の喫茶店で流れる心地の良い古い音楽、の域を出ることができない。

今後何年かして、今わからないと括られた音楽たちが私の中にまだ割れずにあるエミューの卵をかち割ることがあったとしたらそれはとても面白い。
そんなことがあるといいなと思う。


映画が公開されても読書下手な私は手をつけられずにいたのだが、期日迫られてようやく「オン・ザ・ロード」を読み始めた。
読書下手な私は、文章を行ったり来たりしながら遅々と読み進めていく。

「64,928-キャサディ・キャサディ」というマーシー作詞曲のハイロウズの1曲はこの小説がモチーフになっていると言われている。
それは別として、私はともすれば一番最初の「リンダリンダ」と同じくらいの衝撃をこの「64,928-キャサディ・キャサディ」から受けた。
私はこの曲を同じくヒロトとマーシーが大好きな友人のブログから知った。
曲の世界観は後から理解してそれはそれでマーシーへ思いを馳せたけれど、私を引っ掴んだのはライブ映像の歌い出す前のマーシーの叫び声だった。
私はそのとき、コーヒーカップを手にしたまま、その場にしゃがみ込んで動けなくなって、泣いていた。

そんなことからの小説「オン・ザ・ロード」と、それを煽るように公開になった映画「オン・ザ・ロード」

たかだか数十ページをランチの30分くらいの間に読んだだけだけれど、マーシーが影響を受けたのが本当に良くわかる。
私は小説は、文才かプロットかトリックか、だと思っているけれど、そのどれかで読ませているわけではない。
そもそも翻訳の分、原文での味わい方はできないし細かい言い回しのニュアンスを掴むこともできないけれど、特段文章の質や雰囲気が良いわけではない。
ミステリーではないからトリックは関係なくて、プロットと言っても旅路を時系列を追って語られているシンプルな作りである。

単純な興奮について書かれている。
その興奮が文章に漏れ出でている。
登場人物の所謂勝手さのようなものが、文章の勝手さとなって表れている。

時間を見計らって仕方なしに本を閉じて会社に戻る。
興奮全然、冷めやらず。



コトノハ帳

2013-09-02 00:11:26 | 日記
福島県立美術館。
けいこが伊藤若冲さんの絵が観たいということで前泊は私の新居にして、土曜日に一緒に出かける。
東日本大震災の復興応援のような形で、所有権を持っているアメリカの方が東北地方の美術館に貸してくれているらしい。

東北新幹線やまびこ。
私は新幹線のヘビーユーザーだ。
でも私にとっての新幹線とは東海道新幹線のことで、東北や長野新幹線ももちろん新幹線であることに時々はっとすることがある。
確かに、当たり前に新幹線なのだけど。
そしてこのはっと感はつい先日越後湯沢に行ったときも感じているのだけれど。
けいこもよく言うけれど、東京より東あるいは北にほとんど所縁がなくて地理感覚や名所名物などもさっぱりわからない。

東海道新幹線と違って、東北新幹線には観光客と思しき年配者が多い。
東海道新幹線はスーツのサラリーマンが多い。

福島県立美術館は山に迫られたところにあって、レンガ色のとても広々とした立派な建物だった。
敷地内の庭園には、「芝生は除染を完了しております」や「線量が高いところがありますのでこれより先には立ち入らないようお願い致します」といった立て看板があった。

若冲さん以外にも、若冲さんのお弟子さんの作品や、コレクターであるアメリカ人のプライスさんの所持品などもあって、東京の美術館の半額くらいの値段で、非常にたくさんの作品が観られた。
私はあまり日本画に何かを感じたことはない。
というか、私が何となくでも他人の説明や意見なしに美術作品を観られるようになったのは本当にここ1~2年程度なので、日本画はほとんど鑑賞したことがない」というのが正しい。

よく絵に対して「紙から飛び出てきそうな」とか「今にも動き出しそうな」とかそういう躍動感・臨場感を表現する場合があると思うが、ようやく今回それを2,3点の作品に対して体感することができた。
しかしそれは単に、描かれている動物の動きの途中を切り取ったというようなことや、ギロッと目が鋭いというようなことだけでそう思えるのかもしれない。

展示物の隣にある説明書きには、若冲さんの技法についてたくさん書かれていた。
絵についてはさっぱりの私だけれど、その技術は非常に優れていたらしい。

風景が写実から飛び出したとき、画家の頭と心と手を通って再構築される。
“本当”ってなんだろう、と思う。
芸術家に「なぜこういうふうにしたのか」と聞くことは時にとても野暮なことだとは想像がつくけれど、創り手の思いが知りたくなってしまう。
それについて創り手と喋りたくなってしまう。
「別に本当に意味なんてないんだ」という回答でも、それはそれでとても納得する。

心が震えるような、という感じではないけれど、楽しい美術館であった。
作品があまりに多いので、休憩スペースで私は居眠りをしてしまったけれど。
けいこはもう一回観てくると、私がうつらうつらしているところ、展示室に戻って行った。

若冲さんのトラの絵のポスターと、ピカソの画集、ルオーのポストカードを買う。

夜ごはんに入った小さなイタリアンレストランの何気ない料理が優しくてとてもおいしかった。

やさしい生ホウレンソウとカリカリベーコンのサラダ、玉ねぎソースをお好きなだけ。
やさしい半熟オムレツ、トマトソースがけ。
やさしいボンゴレビアンコ、あさりいっぱい。
やさしい熱々フレンチトースト、たっぷり生クリームと冷え冷えアイスクリーム添え。

先日私の言う「脳天を突っ切るような」というのは、旨い!甘い!辛い!とかの味覚における強めの刺激のことをいっていたような気がする。
それらはひと口めの感動で勝負をするもので、総じて油分が多いものが多い。
脳がおいしいと思う、快感物質が出る類のもの。
それも確かな、「おいしい」という経験。

ただ、そうではなくて、素材そのものが少しの調味料によってその旨みを増したりとか、他の素材との組み合わせで引き立てあったりとかしておいしくなるもの。
調味料は最小限で、限りなく素材の力に頼れるもの。
たぶん料理として作るのはこちらの方が難しい。

身体に染み込むような、等身大のおいしさ。
脳天突っ切るような料理も好きだけれど、そもそもがこっちだった、と思い出す。

ホテルに帰ってまたよく寝る。
22時に寝てしまってそのまま朝9時。
普段の私の睡眠時間は6~7時間程度だが、これだと慢性的に睡眠不足らしい。

上野駅に着いて、即刻iPodをつなぐ。