映画鑑賞の約束までに3分の1強しか読めず、しかしその空気感だけはしっかりと携えて映画館に向かった。
既に一度観ている友人の言っていたように、「オン・ザ・ロード」の映画は、小説で抱く自分の頭の中の映像を補完してくれるという意味合いが強かった。
全くもって1分も眠くならなかったから、私にとっての興奮というものは小説に引き続いてあったわけだけれど、映画はやはり映画として独立しているもので、あの小説の「勝手さ」には乏しいような気がした。
私が何に興奮していたかというと、「登場人物の勝手さ」ではなくて、「小説そのものの書き手の勝手さ」であったのだった。
だからマーシーも、登場人物のディーンではなくて、「キャサディキャサディ」と歌ったのだろうか。
3階の映画館から階下に行くと、空気がひやっとしていて、まさか晩夏を通り越して初秋なのかと焦ったけれど、1階の冷房がきついだけだった。
外はちゃんと晩夏の空気でホッとする。
友人と私は、ヒロトやマーシー、映画や自分の体験や自分の友人、食べ物から生活習慣、信じてきた思想までを持ち出してロックの話に終始する。
というか、何を話していてもロックに生きる方向に向かっていってしまう。
ここまで来ると、ロックとは何か、ということが「自分の本当にほしいものや願いは何か、自分は本当はどうあるべきか、自分の本当のほんとうの姿とは何か」ということに置き換わってくる。
キッチンが広くなって、前よりも料理をする感覚が身に付いてきた。
と言っても、餃子とかコロッケとか唐揚げとかハンバーグとかは全く作ろうとは思えない。
できれば肉は塊でなくて切れているものが良いけれど、切った方がおいしいのかなと思ったりもする。
手で混ぜるとか、3度に分けて浸すとかが面倒でならないのである。
食材に長く触れていることが嫌なのだと思う。
あと、色んなものをいっぱい広げて、たくさん汚す、みたいなことも嫌なのだ。
だから、ざく切りにしてとりあえず全部フライパンに投入する、という工程を踏みがちだ。
普通の家庭的なカレーが食べたいと思って食材を買いに出るけれど、雨が降っていたのでそれなりの肉が売っているスーパーまで行くのが億劫で、ひき肉やらじゃがいもやらカレールウやらを買って家に戻る。
本当はごく普通の具がごろごろしたカレーを作ろうと思っていたのだけれど、買ったのがひき肉だったのでトマトドライカレーにする。
ひき肉と玉ねぎとジャガイモとシメジと、トマト缶とショウガ。
塩コショウとコンソメ、カレールウ。
ちょっとだけ、ケチャップと醤油。
食べてみて思ったのが、ドライカレーの場合具材は全部均一に小さい方が良いということだ。
「具は大きい方がいい」というような先入観が私の中にはあって、他のものはみじん切りにしたのに大きめの賽の目にしたのだけれど、たとえじゃがいも感が薄れても他の具材、ルウと渾然一体にすべきだった。
あと、結果的においしかったけれど、何か少々足りない気がしてそれが何で改善できるのかが分かっていない。
足りなかったのは、コクとか深みとかいった類のもの。
それはよく言う「ひと晩寝かせる」ということなのか、単純に味付けなのか。
いろんな物事がそうだけれど、「こうなりたい」の手前には「こうした方が良さそう」というのがあって、明確な解決方法でなくても改善の方向性くらいは見えないと動くことができない。
まつ毛パーマをして、いつもよりもきつめに上げてくださいとお願いしたのでパーマ液を目のふちギリギリまで付けたので、目の際の皮膚に染みて腫れている。
以前にもこういうことがあった。
帰り道、雨の中顔に手をかざしてよれよれと自転車をこいでいると、手のガードむなしく木の葉っぱに溜まって大きくなった雨の雫が、よりによって左目に直撃する。
赤剥け状態の皮膚に打撃を食らって、よれよれとした自転車をさらにふらふらさせて、ぴりぴりと痛い目をぱちぱちさせる。
顔を洗ってもぴりぴりと痛い。
シャワーは顔にかけられない。
アイラインが引けない。
ばっちり上がったまつ毛とノーメイクの腫れた目。
瞼が腫れているせいで重たくて、朝からずっと酷く眠たい。
既に一度観ている友人の言っていたように、「オン・ザ・ロード」の映画は、小説で抱く自分の頭の中の映像を補完してくれるという意味合いが強かった。
全くもって1分も眠くならなかったから、私にとっての興奮というものは小説に引き続いてあったわけだけれど、映画はやはり映画として独立しているもので、あの小説の「勝手さ」には乏しいような気がした。
私が何に興奮していたかというと、「登場人物の勝手さ」ではなくて、「小説そのものの書き手の勝手さ」であったのだった。
だからマーシーも、登場人物のディーンではなくて、「キャサディキャサディ」と歌ったのだろうか。
3階の映画館から階下に行くと、空気がひやっとしていて、まさか晩夏を通り越して初秋なのかと焦ったけれど、1階の冷房がきついだけだった。
外はちゃんと晩夏の空気でホッとする。
友人と私は、ヒロトやマーシー、映画や自分の体験や自分の友人、食べ物から生活習慣、信じてきた思想までを持ち出してロックの話に終始する。
というか、何を話していてもロックに生きる方向に向かっていってしまう。
ここまで来ると、ロックとは何か、ということが「自分の本当にほしいものや願いは何か、自分は本当はどうあるべきか、自分の本当のほんとうの姿とは何か」ということに置き換わってくる。
キッチンが広くなって、前よりも料理をする感覚が身に付いてきた。
と言っても、餃子とかコロッケとか唐揚げとかハンバーグとかは全く作ろうとは思えない。
できれば肉は塊でなくて切れているものが良いけれど、切った方がおいしいのかなと思ったりもする。
手で混ぜるとか、3度に分けて浸すとかが面倒でならないのである。
食材に長く触れていることが嫌なのだと思う。
あと、色んなものをいっぱい広げて、たくさん汚す、みたいなことも嫌なのだ。
だから、ざく切りにしてとりあえず全部フライパンに投入する、という工程を踏みがちだ。
普通の家庭的なカレーが食べたいと思って食材を買いに出るけれど、雨が降っていたのでそれなりの肉が売っているスーパーまで行くのが億劫で、ひき肉やらじゃがいもやらカレールウやらを買って家に戻る。
本当はごく普通の具がごろごろしたカレーを作ろうと思っていたのだけれど、買ったのがひき肉だったのでトマトドライカレーにする。
ひき肉と玉ねぎとジャガイモとシメジと、トマト缶とショウガ。
塩コショウとコンソメ、カレールウ。
ちょっとだけ、ケチャップと醤油。
食べてみて思ったのが、ドライカレーの場合具材は全部均一に小さい方が良いということだ。
「具は大きい方がいい」というような先入観が私の中にはあって、他のものはみじん切りにしたのに大きめの賽の目にしたのだけれど、たとえじゃがいも感が薄れても他の具材、ルウと渾然一体にすべきだった。
あと、結果的においしかったけれど、何か少々足りない気がしてそれが何で改善できるのかが分かっていない。
足りなかったのは、コクとか深みとかいった類のもの。
それはよく言う「ひと晩寝かせる」ということなのか、単純に味付けなのか。
いろんな物事がそうだけれど、「こうなりたい」の手前には「こうした方が良さそう」というのがあって、明確な解決方法でなくても改善の方向性くらいは見えないと動くことができない。
まつ毛パーマをして、いつもよりもきつめに上げてくださいとお願いしたのでパーマ液を目のふちギリギリまで付けたので、目の際の皮膚に染みて腫れている。
以前にもこういうことがあった。
帰り道、雨の中顔に手をかざしてよれよれと自転車をこいでいると、手のガードむなしく木の葉っぱに溜まって大きくなった雨の雫が、よりによって左目に直撃する。
赤剥け状態の皮膚に打撃を食らって、よれよれとした自転車をさらにふらふらさせて、ぴりぴりと痛い目をぱちぱちさせる。
顔を洗ってもぴりぴりと痛い。
シャワーは顔にかけられない。
アイラインが引けない。
ばっちり上がったまつ毛とノーメイクの腫れた目。
瞼が腫れているせいで重たくて、朝からずっと酷く眠たい。
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