つぼみな日々

いろんな花の蕾をもっていたい。たくさんの花を咲かせたい。
言葉を紡ぎたい私のブログです。

君のせい

2015-01-18 20:36:16 | 日記
30歳になった。
私は全く同じ誕生日の人が生まれながらにいる。
同じお母さんから、同じ日に生まれる子どもを双子というのだ。

そして偶然誕生日が同じだった生徒さんとのレッスン。
その方は38歳。
ホワイトボードを使ったレッスンをしていたので、「おめでとう」と書いてみる。
「お」「め」「で」「と」「う」は必ずしも同じ字の大きさでなくても良い、むしろこのくらいメリハリが・・・とおめでとうの意味を飛び越えたお誕生日レッスン。

そしてまた奇しくも1月17日の昨日、友人の子どもが産まれた。
0歳の誕生日。
命名書を書いてほしいと頼まれて、出産祝いに額も用意して、筆をとる。

子連れの友人には何とも絶妙なフォルムのステンレス製のポットをいただき、里帰り出産をする別の友人からはギターの箱に入ったチョコレートとバンダナのマーシーセットと素敵なメッセージが届いて、私が行けなかった昨日が結婚式の友人は私が花好きだからと結婚式の花をわざわざ家まで届けに来てくれた。
私が気負って、ひよって連絡できていなかった人からも、わざわざそのことに触れるようにメッセージをくれた。
私がやりたい曲をスタジオで、というのを誕生日プレゼントにしてくれた人もいた。
けいこは感無量です、とメールを送ってきた。

皆さま本当にどうもありがとうございます、恐縮です、という思いでいっぱい。
産まれる、とか、生きている、ということはやっぱり大事というか、むしろそれしかない。
それはまあ、誕生日でなくても、いつだってそうとも言えるけれど。


最近、女優の吉田羊さんに似ているととてもよく言われる。
既に合計で7,8人の人から言われている。
彼女が最近テレビの露出が増えているから、というのもあるだろう。

わざわざそのことを伝えにメールをしてきた人さえいた。
吉田羊さんが出演しているテレビ番組の録画画像を止めてまじまじと見たという人もいた。

私は自分でそう思ったことがないので、「ふーん、そうなのか」と思って吉田羊さんの画像やらを見てみるのだが、別にそんなにたくさんの人に言われるほど似ていると思えない。
たぶん私に似ていると言った人も、おそらく細部のパーツを確認すれば似ていないことがよく分かると思う。
体の線だって吉田羊さんはとってもとっても細い。

まあしかし、それだけ言われるということはおそらく醸している雰囲気が瞬間的に近しいということはあるのだろう。
あと髪型がボブであることとか。

瞬間的に似ていても継続的には似ていないだろうから、もしいつかのタイミングで「やっぱ全然違うじゃん」と急に落胆されるようなことがあったとしたらなんだか損だなと思ったりもする。
女優さんに似ているなんて光栄なことだけれども、しかし私は誰にも似ていない私のはずだ、とか気恥ずかしさを覆い隠すような発言もしたくなる。
それに例えば、玉木宏のような美男子に似ている、と言われるような人は、中途半端さや“惜しい”感みたいなのが出ているようにも思うので、やっぱり「似ている」というのはどうなんだろう、と考えてしまう。

ちなみに、おそらく、いもうとは吉田羊さんに似ていると言われることはないであろう。
私といもうとはパーツはそっくりだけれど、醸している雰囲気が全然違う。


日曜だと言うのに、自転車が撤去されてしまった。
5000円・・・というショックと、取りに行くこの上ない面倒くささと。
自転車での行動範囲が広い私は、最近の猛烈な忙しさに無理やり挿入して自転車を引き取りにいかねばならない。
悪いのは私だけれど。

私はとても疲れていて、非常な空腹だった。
暗くなった夜道を、半べその半べそくらいをかきながら、その直前に買っていた明太フランスをかじりながら歩いて家まで帰る。
自転車に乗っていたら、明太フランスを歩きながらかじるということもなかっただろうに。


十歳の阪神忌から三十歳




ラポール

2015-01-16 16:00:45 | 日記
個人事業主が「忙しい」と口にした場合、それは確かに喜ばしいことなのかも知れない。
しかしその忙しさの責任を一手に負っているのだから、本人の状況としては当然、どうなんだろう、という点は残る。

と言うのも、年明けから教えている方のお仕事の新規体験レッスン数が半端なく、私はそれだけを仕事にしているわけではないので、既に仕事量としては私が思うところの限界の7割、8割に達している。
この状況よりもたぶん何倍もの状況になって既に受付不可能となっているという話を他の講師職をやっている方から聞いたばかりだけれど、私の状況の原因は、主に事務局側が広告を全開に打っていること、ユーキャンがテレビCMでペン字について大々的にやっていることが挙げられる。

生徒数が増える初期の段階では、例えば「儲かる」ということを取り出してみると、「さして儲からない」という点もその他の講師さんが言っていたことで、また同様である。
往々にして、初回は無料であったり、半額であったりと「お試し」であることがほとんどだ。
お金云々じゃない部分もあれど、お金云々ですという部分だって当然あるのは他のどんな仕事だって同じことだ。

もちろん、選んでやっているわけだし、扱っていることも大好きなことだ。
生徒さんにはできる限り「良くなってほしい」というのも本当だ。
だから自ずと他の好まない仕事よりも気合いが入ってしまうというのもあり、当たり前ながらエネルギーを消費する。

悠長なことを言っている場合でないのだけれど、何を取って、何を捨てるのか、きちんと舵取りをせねばならない。

ところで、会社勤めをしていたときは、新しい人と会ったり、営業したりすることを仕事で避け続けてきた私であるが、今はそういうことに関してはあまり気にはならない。
時々、女性の生徒さんに「こういうお仕事ってちょっと不安だったり怖かったりしませんか?」と聞かれるのだけれど、正直に言って私は全然そういうふうには捉えていない。
「新しい出会い」というのは何であれ、何かしらお互いにとって良いものでありますように、という淡い期待も混じる。

確かに、いろんなタイプの人がいて、いろんな職業の人がいる。
向こうからすれば、私の職業の方が懐疑的というか、見えづらいというのもあるだろうけれど、なんにせよ、対人間と出会うときにはまずフラットで良いと思うので、とりあえず「怖い」ということはない。
精進せねばと自分を恥じたり、身につまされる思いをすることはあるけれど。

多くの人と会っていると、データベース的に共通点が非常に多い人もいてびっくりすることがある。
大学が同じ、というのは別にとてもよくあることだけれど、それでも近しさを感じる共通点の一つだろう。
地元が近い、というのもそういう類の話である。

最近、それのもっと局所的バージョンが立て続けにある。
いもうとが勤めている会社が同じ、誕生日が同じ、大学の学部・専修・年齢まで同じ、挙げ句いもうとが住んでいるマンションにお住いの方まで現れて、お互い少々気恥ずかしいことを知ってしまった感じがした。

データベース的共通点というのは、ただそれがそれである、というだけの話ではあるものの、それが局所的であればあるほど最初は盛り上がる。


菌友になりましょうよと言っていた生徒さんから、椎茸の栽培キットが届いた。
椎茸を送りますと聞いていたものの、私はてっきり、収穫した椎茸を送って下さるのかと思っていたら、原木が届いたのでちょっと度肝を抜かれた。
送ってくれた生徒さんに、ありがとうございます、といくつかの質問をする。

原木からはすでにうっすらと椎茸の香りがする。
キットの説明通りに、原木を洗って霧吹きで水をかける。

透明なプラスチックのドーム型の入れ物に表面がごつごつした切り株のような感じのもの。
なんだか、家に見慣れないものが増えた。

たっぷり愛でたい。


飽きたらず、『カイジ』語録シリーズ。


元日に背を向け跳ねる雪兎




50冊あまり

2015-01-14 02:04:46 | 日記
月にひと粒と決めているロキソニンが、あとひと粒残っていたはずなのに見当たらなくて、なぜかコートのポケットの中に入っていたイブをふた粒飲む。
私は今までのところ体はかなり強い方だし、その資産というのはとてもラッキーなことなのかもしれない。
毎月定常的にこれに悩まされる時点で、生物的に言って一応正常の証でもある。
私だってホルモンの支配からは逃れられないし、あぁ女なんだなと毎月まいつき思い知らされるのである。

これは個人差が大きいと思うし、私といもうとでさえもそのパターンは全然違うから、もう本当になんとも言えないけれど痛いものは痛い。
ロキソニン、ロキソニン、、と体を折って探してしまう。
温めると気持ちがいいから、電気ひざ掛けをダニモードくらいまで上げて、腰に巻きつけてじっとする。

もう考えても仕方がないけれども、どうやって考えれば腹立たしくなくなるのか、いい案があれば誰か是非教えてほしい。
痛みというものは、何か生命を脅かす信号の機能ではないのか。
「あなたの体は正常ですよ」ということがどうして痛みを伴うのか。

ちなみに、「毎月悪いものを体から追い出しているのよ。女は毎月生まれ変わることができるの」なんてポジティブシンキングは通用はしない。
もし本当に私に憑りついた悪を出して、スッキリハッピー、みたいな感覚があれば、確かにこのくらいの痛みは容易に我慢できる。
しかし、「生理が明けてスッキリハッピー」という発言を未だかつて私は聞いたことがない。
なので、意志に関係なく、時に長ければおよそ半月もこれによってなんだかすっきりしないことを、毎月さして生まれ変わっているような実感もないことの理由にされたくはない。

まあ、こんな生理痛、特別なことでもなければ、もっと痛いとかもっと不快なんてことはどれだけでもあるわけだけれど、自分が何であれ痛みの渦中にいればただそれが早くなくなってほしいと願うばかりである。
他人の痛みは、絶対的に同様には感じられないのだ。

書いていて気付いたが、私は過去にほとんど同様の話を書いていると思う。
これについては毎月少しの時間怒りすら覚え、しかし全然改善策を見つけられずにいる。

そんな折、ちょうどLINEをしていた人から、「万能薬ロキソニン大量にあったからあげれば良かったね。ほら胸の痛みにも効くし」とか言うものだから笑ってしまった。


私の好みで、ペン字を教えるネタとしても歌詞を書くことがある。
題材は何だっていいわけで。
セオリーなど特別にはないわけで。

これをやっている生徒さんは3万円の立派な万年筆を持っている。
私も使わせてもらったが、金のペン先の上品で硬質な書き味がした。
それに、ブルーグレーのインクが小気味よく出てくる。

せっかくだから私もガラスペンを使って書いてみる。
別にお手本ではなく、ただ私も書きたいから。
そう言えば、このガラスペンを買ったばかりの頃、これでヒロトに手紙を書いた。

こんなに整然と書いていても、私はこの歌に触れると、泣きそうになる。


泣き顔を上げて冴ゆ月眼で光り




器が小さいままで

2015-01-11 15:40:35 | 日記
知人のブログやら、フェイスブックやらを見ていると、一汁三菜かそれ以上のものがとてもきれいに盛り付けられていて毎度驚く。
ごはんがあって、お漬物があって、お味噌汁があって、フライとその付け合わせがあって、常備菜のような小鉢があって、デザートの果物があって。
1つのトレンチの上の定食のように、あれもこれもにぎやかな食事。

こういうのが一般的に言って「普通」なのか。
けいこは大皿料理しか作らないし、何せ料理自体が好きではないので、品数多くは作らない。
出来あいものも多かった。

それについて私は特別な文句は本当にない。
しかし、「普通」「平均的」にみんなあのような素晴らしい食卓を毎日囲んでいるのだろうか。
どれほど手間暇をかけて、食事の準備をしているのだろう。

先日、友人の家でキムチ鍋をなぜか私がその場を仕切って作ったけれど、その時の手際を友人は褒めてくれた。
キムチ鍋なんて、材料を切って鍋に放り込むだけだから、何が何と言うわけではないけれど、慣れた作業については私は確かに段取りよくこなす方だと思う。

しかしキムチ鍋でなくても私のいつもの調理時間なんてあのくらいのもので、いや使う材料の種類から言ってもっと短いかもしれない。
じっくり作らねばならない料理を作ることはほとんどないし、工程の多いものもやらない。
切って煮るだけ、切って炒めるだけ。

もっとも、料理に慣れた人なら30分で3品、とか作れるのだと思う。
しかし、私には3品プラス汁物、といったまず発想がない。

また、あのような素晴らしい食卓には、名のある料理、例えば「卵焼き」とか「ハンバーグ」とか「回鍋肉」とかが並ぶ。
しかし私の食事には特別には「名のない料理」ばかりになる。
そういえば、家庭を持って私よりも品数多く作るいもうとも、「名のない料理」ばかりを作っている気がする。

あと、「ていねいに」も作れない。
どうせ食べてお腹に入ってしまうものについて、「ていねいに」盛りつけたり、「ていねいに」飾り切りをしたり、「ていねいに」下処理をしたり、手をかけることができない。

そういう私も、自分の食べる分の料理を普通にはする。
今でさえ、葱とごぼうと豚肉と油揚げの煮物を煮ている。
特別な名はないけれど。
出汁だって、お味噌汁の場合には厚削りのかつお節からとる。

あ、でもこれは「ていねいに」かもしれない。
「ていねいに」することによるメリットを知っていれば、できるということか。

何が食べたい、ということの本質がまだまだいつもは分からないでいる私は、あのような素晴らしい食卓を常時で望んでいるかといえば、そうでもない。
時にいいなという憧れはありつつも、今何が食べたい、ということの方が今の私に強いたいことではある。

最近なんて、出かけにごはんを食べ損ねて、出先でごはんを食べる時間もないのにこれではエネルギー切れになってしまう、というくらいお腹が空いたときには、コンビニでおにぎりを買って店頭でかじっていることもある。
しかし、こういうときに食べるおにぎりってとても美味しかったりすることも事実なわけで。

“素晴らしい食卓”について考えていたら、けいこからみかんが段ボール箱で届いた。


久しぶりに花の定期便でカーネーションが届いて、ローアングルから眺める。
花の後ろ姿や首筋あたりが大好きで、カーネーションは特に好きなのである。

あと、先日の筆ペンが気に食わなすぎて書いたリベンジ書。


ビタミンを飲んで気休めお年玉




群青色の喧嘩

2015-01-09 18:28:24 | 日記
たまに、筆ペンなどを誰かが持っているとき、不意に「書いてよ」と言われることがある。
これ、本当にやめてほしい。
筆であっても不意に振られるのは困ってしまうけど、まだ全然筆の方がいいし、何せ筆ペンで何かを書くというのはギタリストがベースを弾くようなものだと思う。

筆ペンにも種類があるが、決まって穂先が開かず柔軟性に欠けるので、線の太細が非常に付けづらい。
あと単純に慣れていないので力の入れ加減がわからない。

昨日もそんな機会があって、分からないように草書で書いてみたり色々誤魔化してみたけれど、私は昨日の自分の不出来と、それを見られたことに、結構大きなショックを今日まで引きづっている。
何がそんなにダメなんてたぶんあの場にいた人たち全員がほとんど分からなかったであろうが、本当になんだかなあというものを書いてしまったのだった。
書いたあのノートを奪って燃やしてしまいたい。

人に教えている手前、いつでもどこでもまあまあ書けます、という状態は必要であろうが、条件が整わないことにおけるプライドもまあまあ重要なような気がする。
私はパフォーマンス書道をしているわけではないから、その場のパフォーマンスが自分の納得がいかないならやらなければいい。
しかし、それでもそういうことは機会として訪れるだろうし、断るのも「それほどのものかよ」という気がするのでそれも選べない。
ならば筆ペンの練習とかした方が良いのだろうか。

というか、私は人前で何かをするのが、何であれ、非常に苦手なのである。
会話、は問題なくできるけれど、自分に視線が向けられています、ということが酷くひどく苦手だ。
プレゼンだって、会議の進行役だって、本当にほんとうに苦手だ。
普通の打合せで何かを報告するのも、4人以上いたら緊張する。

これを書いていて思ったけれど、私が鍛えねばならないのは筆ペンではなくて、そのことなのかもしれない。
おそらく「自分が及び得る最高のパフォーマンスが人前でできないこと」や「自分の考えに自信がない、他人から批判されたり軽んじられたり誤解されたりすること」を極度に恥ずかしい、と思っているから緊張するのだと思う。

そして私の緊張しいはとても顕著に体に現れる。
手が冷たくなったり、震えたりする。
鼓動はバクバクだし、深く息を吸うことができなくなって、喉が渇く。
なぜか顔には体の反応ほどは出ず、わりに飄々として見えるらしいのだが。
人に見られることが快感、という人も絶対にいると思うけれど、私はとてもとてもそんなことは言えない。

しかし、自分が感じている他人の評価の大半が、私自身が生み出した幻想だ。
私は極めて、独りよがりの妄想屋だ。

しかし、それが分かったところでどうやったらそれが消えるのだろうか。
消えないまでも、落ち着くだろうか。

要は、「自分に対する自信」が十分に持てるか、ということになるであろう。
自分に対して偽りなく、謙虚さを持たないということでもなく、自信が持てたら、たぶんそれほどまでにビビりはしないだろう。
体力と知力の限り、というほど大げさでなくても、でもそれくらいやり尽くしたものならば、きっとそれほどまでに緊張したりもしないだろう。

と、あとは「慣れ」もあるだろう。
ショック療法的に恥ずかしい思いをして、研鑽を重ね、そしてまた恥ずかしい思いをするしかないのだろうなと思う。

話は戻るが、筆ペンの練習か・・と思うわけだけれど、ペン字の練習か・・と思っていたのもつい先日までの事実で、やってみると案外楽しいのかもしれない。
いやでも、だったら細筆を墨を持ち歩いた方が良いくらいにも思えてくる。

まあなんていうか、単純な意味で、落ち込んでいる。


爪の色塗り替えタイプ初仕事