林光さん企画・出演による<コンサート自由な風の歌5~百年の氷、溶けよ!>
◆日時:7月17日(土)午後2時開演 ◆会場:新宿御苑前の四谷区民ホール
『自由な風の歌便り(3)』(2010/6/6)コンサート自由な風の歌5実行委員会
「君が代」伴奏せず「停職」処分を受けて定年退職を迎えた岸田さんに、思いを書いていただきました。
☆ ゼロにならないこと
入場曲の合奏が終わって私は指揮台から降り、教職員席二列目の端、指定された席に座った。
副校長がやって来て、「国歌の伴奏をお願いします。職務命令違反で処分になるかもしれませんよ。10時3分・・」と言う。
目の前の6年生は、頭は動かさないが、視線はこちらを見ている。すぐ横の4年生が、「どっか痛いの?」と心配そうな顔をする。私は4年生に、「大丈夫だよ。」と目で話す。子どもたちと一緒に「君が代」を聞いた。
「老師(先生)!」と中国籍の卒業生が飛んで来た。頬の温かさを感じながら、私も泣いた。「卒業おめでとう」「元気でね」そして「今年は居ることができたよ。」「これまで私だけ逃げていて、ごめんなさい。」と繰り返し、繰り返し思っていた。
「国旗・国歌法」は強行採決されたが、卒業式入学式の式次第は職員会議で話し合う時聞が持てた。当時の保谷市では「日の丸・君が代」のないことも、「音楽教員だけの問題ではない。」の意見もあったし、テープの「君が代」で着席する教員たちもいた。しかし2003年の「10・23通達」そして「学校名を公表する」の通知から、着席する教員は見当たらなくなった。
音楽教員の私には「君が代」ピアノ伴奏、あるいは「起立斉唱」の職務命令書が手渡されてきた。あっという間に処分は累積され、次は「停職」処分が予想された。
子どもたちから離される「停職」処分を、どうしたら避けられるだろうか。弾いてしまおうか。立ってしまおうか。うとうとしては眼が覚める。子どもたちは、「目が赤いよ。花粉症?」と無邪気に尋ねた。
「卒業おめでとう」「入学おめでとう」と、終始会場に居て祝うことが、何年間もできなかった。一日休んで、庭に出て曇り空を見上げている振りをしても、涙が止まらなかった。遅刻をして、「君が代」が終わるまで、会場の外で息を潜めていた。私は何故こんなことをしているんだろう。他に方法はないのだろうか。「君が代」を弾かない音楽教員は他にもいるが、職務命令は出ていない。そうだ、職務命令を出さないでもらおう。
「ずっと会場に居たいんです。だから職務命令は出さないでください。」と校長に言い統けてきた。3月8日、校長室に呼ばれて職務命令書を渡された時は、涙ぐんでしまった。泣いてぱっかりで情けない。情けないけれど、果敢に闘えないのが私なのだから、仕方ない。
翌日から、「職務命令を撤回してください。」と言い続けた。必死だった。私の愚痴を聞いた組合、地域、キリスト教会の友人たちからの手紙、FAXで、校長のファイルがどんどん膨らんでいくのが、心強かった。
子どもたちは、私が「君が代」を弾かない、弾けないのを知っている。「和歌披講」「雅楽」「初代」「保育唱歌」「小学唱歌」「陸軍ラッパ譜付き」の順に、「君が代」の歴史と変遷をCDで聴いてゆく「君が代」の授業が終わると、中国やフィリッピン国籍の子どもが、「日本軍のしたこと」を本国で習ったと発言した。
業績評価につながる自己申告書や週案などを提出しない、子どもを分ける計画には異議を唱えてゆく。私は、私の場所で、私のできる小さなことを続けてきた。「君が代」ピアノ伴奏拒否、起立斉唱拒否も、同じ方向の路である。
3月30日、都教委、区教委の役人が「停職一ヶ月」の処分書を持って勤務校に来た。定年退職だから、翌31日一日だけの「停職」処分である。
5月21日に人事委員会に審査請求の申し立てをした。定年退職で無職になったけれど、突然呼ばれて「君が代」を弾かされそうになる不安が消えない。それでも他人事のように、遠い先を見ている自分がいる。
◆日時:7月17日(土)午後2時開演 ◆会場:新宿御苑前の四谷区民ホール
『自由な風の歌便り(3)』(2010/6/6)コンサート自由な風の歌5実行委員会
「君が代」伴奏せず「停職」処分を受けて定年退職を迎えた岸田さんに、思いを書いていただきました。
☆ ゼロにならないこと
入場曲の合奏が終わって私は指揮台から降り、教職員席二列目の端、指定された席に座った。
副校長がやって来て、「国歌の伴奏をお願いします。職務命令違反で処分になるかもしれませんよ。10時3分・・」と言う。
目の前の6年生は、頭は動かさないが、視線はこちらを見ている。すぐ横の4年生が、「どっか痛いの?」と心配そうな顔をする。私は4年生に、「大丈夫だよ。」と目で話す。子どもたちと一緒に「君が代」を聞いた。
「老師(先生)!」と中国籍の卒業生が飛んで来た。頬の温かさを感じながら、私も泣いた。「卒業おめでとう」「元気でね」そして「今年は居ることができたよ。」「これまで私だけ逃げていて、ごめんなさい。」と繰り返し、繰り返し思っていた。
「国旗・国歌法」は強行採決されたが、卒業式入学式の式次第は職員会議で話し合う時聞が持てた。当時の保谷市では「日の丸・君が代」のないことも、「音楽教員だけの問題ではない。」の意見もあったし、テープの「君が代」で着席する教員たちもいた。しかし2003年の「10・23通達」そして「学校名を公表する」の通知から、着席する教員は見当たらなくなった。
音楽教員の私には「君が代」ピアノ伴奏、あるいは「起立斉唱」の職務命令書が手渡されてきた。あっという間に処分は累積され、次は「停職」処分が予想された。
子どもたちから離される「停職」処分を、どうしたら避けられるだろうか。弾いてしまおうか。立ってしまおうか。うとうとしては眼が覚める。子どもたちは、「目が赤いよ。花粉症?」と無邪気に尋ねた。
「卒業おめでとう」「入学おめでとう」と、終始会場に居て祝うことが、何年間もできなかった。一日休んで、庭に出て曇り空を見上げている振りをしても、涙が止まらなかった。遅刻をして、「君が代」が終わるまで、会場の外で息を潜めていた。私は何故こんなことをしているんだろう。他に方法はないのだろうか。「君が代」を弾かない音楽教員は他にもいるが、職務命令は出ていない。そうだ、職務命令を出さないでもらおう。
「ずっと会場に居たいんです。だから職務命令は出さないでください。」と校長に言い統けてきた。3月8日、校長室に呼ばれて職務命令書を渡された時は、涙ぐんでしまった。泣いてぱっかりで情けない。情けないけれど、果敢に闘えないのが私なのだから、仕方ない。
翌日から、「職務命令を撤回してください。」と言い続けた。必死だった。私の愚痴を聞いた組合、地域、キリスト教会の友人たちからの手紙、FAXで、校長のファイルがどんどん膨らんでいくのが、心強かった。
子どもたちは、私が「君が代」を弾かない、弾けないのを知っている。「和歌披講」「雅楽」「初代」「保育唱歌」「小学唱歌」「陸軍ラッパ譜付き」の順に、「君が代」の歴史と変遷をCDで聴いてゆく「君が代」の授業が終わると、中国やフィリッピン国籍の子どもが、「日本軍のしたこと」を本国で習ったと発言した。
業績評価につながる自己申告書や週案などを提出しない、子どもを分ける計画には異議を唱えてゆく。私は、私の場所で、私のできる小さなことを続けてきた。「君が代」ピアノ伴奏拒否、起立斉唱拒否も、同じ方向の路である。
3月30日、都教委、区教委の役人が「停職一ヶ月」の処分書を持って勤務校に来た。定年退職だから、翌31日一日だけの「停職」処分である。
5月21日に人事委員会に審査請求の申し立てをした。定年退職で無職になったけれど、突然呼ばれて「君が代」を弾かされそうになる不安が消えない。それでも他人事のように、遠い先を見ている自分がいる。
(岸田静枝)
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