連弾ソナタ ホ短調 D823 作品63 & 作品84 にて、作品をバラ売りされた シューベルト
それまでにも、「出版社」とはいろいろなトラブルを抱えていたシューベルトだが、『ソナタ』を『行進曲風』として売られたのは、初めてだった。この出版時(1826.06.17)直後に、『最後の弦楽四重奏曲 = ト長調D887』を作曲している。(1826.06.20 - 30)
出版社は ヴァイグル。特に深い付き合いの出版社では無かった。だが、第2楽章以降の「原稿料」も約束されており、実際に翌年に「変奏曲 と 華麗なロンド」として出版された。
そして、1826年10月に作曲された ピアノソナタ第18番ト長調「幻想ソナタ」D894作品78 は、シューベルト自身が最も信頼していた出版社 = ハスリンガー に拠って、『幻想曲、アンダンテ、メヌエット、アレグレット』として出版された(泣
この頃のシューベルトは、
世界初の「楽譜売り」だけで生活できる作曲家、を目指していた
「ソナタ」の世界に、疑問を持ち始める出版社と「胸突き八丁」の交渉を経過しながら、自身の発展を遂げた!
である。
後世の「シューベルト研究家」は『シューベルト = 大芸術家 の観点のみ』だが、「シューベルト自身」は『シューベルト = 流行の最先端を行く 流行作曲家 が最優先』
であった。
ベートーヴェン や モーツァルト とは違い、ピアノ協奏曲で聴衆を唸らせることは皆無だった。また、オペラ作曲家としては、シューベルティアーデの友人たちの努力に拠り「ウィーンでオペラ2本、劇音楽1本 上演!」にまで漕ぎ着けたが、ロッシーニ や モーツァルト のようには聴衆の支持を取り付けられなかった。
これまた、シューベルティアーデの友人たちのおかげで、1821年に「歌曲 + ピアノソロ + ピアノ連弾」が出版されるや、わずか4年で「ウィーン中の音楽出版社」と対等以上に交渉できる地位を築いた。
作品50、作品67、作品77 の舞曲集に洒落た題名を付けたのは出版社だっただろうが、シューベルトは承認していたのである。作品50の「感傷的なワルツ」の題名が気に食わなければ、「ウィーンの貴婦人レントラー」や「高雅なワルツ」の名前で出版されるワケが無い!!!
冒頭の連弾ソナタ ホ短調 D823 の場合も、「シューベルトは承認していた」ことは確実。作品55 の行進曲が人気を呼んだことが原因だろう。ウィーンは小さな町なので、出版社間の情報は早かった!
シューベルトが「単独曲」または「非ソナタの2曲以上の小品集」を作曲開始したのは、1826年10月の 「華麗なるロンド」作品70、D895 が最初
若い頃の「アンダンテ」や「アダージオ」など、作曲の練習に書いたのか? 他人の曲の1部差し替えの為に書いたのか? はっきりしない曲はることはある。(D29, D178 etc.)
だが、
出版するつもりで作曲した「単独曲」または「非ソナタの2曲以上の小品集」は、「華麗なるロンド」作品70、D895 が最初
である。非常に凝った構成であり、初演はとても好評であったことが伝えられている。