旧マーラー全集でも
新マーラー全集でも
1899年初出版時も
未出版に終わった「幻の1892年版」も
「手稿日付」も
全てが全て「第1曲」になっている「歩哨の夜の歌」
だが、これまで『全ての録音』で「男女2名」または男声(しかもバリトンのみ)が歌っている。(これももちろんソプラノ = 老田裕子 が歌う!)
「歩哨の夜の歌」の構造
冒頭、いきなり歩哨(当然、男)が勇壮な掛け声とともに登場
女(歩哨の妄想の産物と思われる)が艶かしく言い寄って来る
歩哨が決然と断り、「私は勇壮な兵である!」と宣言
女(歩哨の妄想の産物と思われる)が艶かしく言い寄って来る
歩哨が決然と断り、「私は勇壮な兵である!」と宣言
ナレーター(男女が歌う時は100%女声が歌う)が「ここで歌っているのは誰よ?」「真夜中に歌うんだよ、真夜中だよ、真夜中だよ」などと合いの手を入れる
単行本化されている曲目解説でも、CD解説でも、上記のようになっているし、ほぼ全ての録音で上記の構造で歌われている。大筋では合っているのだが、実際に演奏しようとすると不自然な感触が残る。
第1節は冒頭で気合入れまくっているが、「歩哨なんか立ちたくねえよぉ」と言うボヤキが主体、つまり主人公=歩哨 は弱音だらけの兵士!
を表現することが大切なのである。
「弱音だらけの兵士」が強がるのか? 「勇壮な兵士」でも女の妄想を見るのか?
この違いは「曲の根本解釈」に直結する。これまでの「録音」は『英雄は色を好む』の傾向があまりにも大! そんな英雄が「何で起きてなくてはならない?!」とか言うかな???????????
指揮者(1例だけだが、ピアニストの場合も含む)がマーラー「子供の不思議な角笛」全曲(「全曲」がどの範囲を指しているのか? は敢えて問わない)を采配していることが大半の「録音」の場合、男声と女声で「鮮やかに色分けされる」ので、『もう充分、結構!』となるようで、なんだが J.シュトラウス2世「こうもり」のオルロフスキー公爵を見ているかのようだ(爆
「女声」の第2節と第4節は近似、「ナレーター」の第6節は別物
「男声」の第1節、第3節、第5節は近似
に「あたかも見える」のだが、デュナーミクが奇数節(男声)は第1節は冒頭以外は「ピアノ」と通されるが、第3 & 5節は「フォルテ」で通すのだ。この差は大きい。なぜ、演奏家たちは見逃すのか???
歌手が気付いた、としよう。オーケストラ(またはフルコンサートグランドピアノ)で「フォルテ」でガンガン被せられた「悪夢」の直後に追い討ちを掛けて、「君、声出ないの? 出ないならば女声に切り替えようか?」と 独裁者=セル みたいな指揮者が言うワケだ(爆
フィッシャー=ディースカウ は、独裁者=セル の指揮で「録音開始」
ハンプソン も、「2名歌い」を数年強いられてからの録音
ゲンツは知らない。「1人歌いの偉業」を成し遂げている3名の名バリトンでさえ、「トラウマ」が付いて廻る曲 = 「歩哨の夜の歌」なのである。
この「無闇に厄介な曲」が冒頭にあるのが、原因で、マーラー「子供の不思議な角笛」は、あまり演奏されない。ピアノ伴奏版だけに限ると「若き日の歌」よりも少ない感触である><