「国民楽派」はチェコで生まれ、ヨーロッパ中に敷衍して行った
ショパンが亡くなった1849年頃までのヨーロッパは、ドイツやイタリアは「弱国」だった。「フランス」や「ハプスブルク家オーストリア」になるように小さな領主たちが競い合っていた。まず、イタリアが1861年に不完全ながら「イタリア王国」として成立する。次いで1871年に(後世「第2帝政」と呼ばれる)「ドイツ帝国」が成立する。
「イタリア王国」成立の数年前から、ヨーロッパの弱国の民族の「血」が徐々に騒ぎ始めた。強国は「フランス」「オーストリア」「イギリス」「ロシア」くらいなので、「弱国」は多い(爆
イタリア統一の際 → ヴェルディ「ナブッコ」
ドイツ統一の際 → ワーグナー
が音楽的象徴として掲げられ、実際に統一されていった。イタリアは「オペラの中心地」であり、古くから「オペラはイタリア語」が当たり前だった(モーツァルトもイタリア語で作曲したオペラの方が、ドイツ語作曲よりも多い)が、ドイツ語オペラで「大ヒット」を飛ばし続けたのはワーグナーが初めてであった。(ウェーバーは「魔弾の射手」で大当たりを取ったが、「一発屋」に近い)
・・・と言う時期に、スメタナは(生まれつきはドイツ語しか話せなかったのにも関わらず、努力してチェコ語を習得し)「チェコ語オペラ」に没頭した。その第2作が「売られた花嫁」である。主役男声=ヤン は生い立ちが悲惨なのだが、機転の利く明晰な頭の持ち主で、最後はハッピーエンドで幕を閉じる。「元気出るオペラ」であること間違いなし!
1863年作曲で1866年プラハにて世界初演、スメタナは何度も改訂に改訂を重ね、現行版に至る。「売られた花嫁」は「チェコ民族の魂」に火を点け、何度も何度も再演を重ねたので、スメタナも「さらにより良いオペラ」にしようとした結晶である。1872年から、連作交響詩「わが祖国」を作曲し始める。第2番「ヴァルダヴァ(モルダウ)」が超ヒット作となり、チェコ民族の「民族意識」が高まるきっかけとなる。この辺りは、ワーグナーとの近似性を感じる。
ドヴォルザークは、「スメタナの指揮」でオーケストラで演奏した経験がある。まだ修業時代のことだ。ドヴォルザークの若い日の力の入った作品は「交響曲と弦楽四重奏曲」。交響曲は第5番まで、弦楽四重奏曲は第8番までを「ブラームスから認められる」前に作曲完了している。交響曲は9曲、弦楽四重奏曲は14曲作曲したので、過半数を占める。
「ブラームス賞賛以前のドヴォルザーク」は、(おそらく大半のクラシックファンのドヴォルザーク観とは違い)「ベートーヴェンとシューベルト指向の巨大ソナタ楽曲指向」である。「ポルカ」「ドゥムカ」「フリアント」などの「スラブ舞曲」がスケルツォ楽章の替わりになるのは、「ブラームスに認められた後」の作品だけである。
「ブラームスから認められる」前の13曲の交響曲と弦楽四重奏曲を聴くと「チェコ民族の血」は全く聞こえて来ない。「ベートーヴェンを越すぞ! シューベルトを越すぞ!!」と言う若人の熱血だけを感じる。
そんな時に、「モラヴィア2重唱曲」で、ブラームスから絶賛を受けた。コンクール提出作品なので、自信作だったのだろうが、「世界的大作曲家=ブラームス」から大絶賛を受け、大都市=ベルリンの出版者=ジムロックを紹介された。1877年のことである。(ドイツが統一された6年後だ)
ジムロックからは「待望の委嘱作品」が来た!
・・・が、「交響曲と弦楽四重奏曲のどちらでもない」のだ。そう、「ブラームス作曲ハンガリー舞曲に匹敵するピアノ連弾舞曲集」だった。ピアノ曲は既に「ピアノ協奏曲ト短調作品33」を作曲いていたほど楽器は熟知していたが、依頼されたのはピアノ協奏曲でもピアノソナタでもなく「連弾舞曲集」だった。おそらく困惑したことだろう。「ハンガリー舞曲集続編」を作ることは、ドヴォルザークの作曲技巧からすれば可能だった、と推測するが、それでは「ブラームスの2番煎じ」になる。2番出しのお茶は渋いばかりでおいしくないからなあ(爆
依頼を受けて、約半年後にジムロックに提出したのが「スラブ舞曲集第1集」作品46の8曲。
ドヴォルザーク「スラブ舞曲集」は、ブラームスと違って隣り合う「踊りの種類」が全部異なる
のが新機軸。さらに(ジムロックの基盤=ドイツの音楽ファンから見ると)異国情緒にあふれた名作揃いであった。その上、(ジムロックが気付いたかどうかは全く不明だが)地元プラハで大評判で再演を重ねていた スメタナ「売られた花嫁」 から、「スコチナー」を引用した第5曲も混ぜておいた。
楽譜は売れまくるわ、地元プラハでは「管弦楽版が楽譜出版前に世界初演される」わ、の大賑わいとなった。ドヴォルザークの狙いは当たったのである!
ドヴォルザークの名誉のために、補足しておく。「器楽曲はベートーヴェン&シューベルト指向」であったが、「声楽曲はチェコ語の響きを重視」して作曲していた。ブラームスが高く評価したのも声楽曲。「後半の交響曲と弦楽四重奏曲」は、チェコ風味がたっぷりと振りかけられ非常に人気の高い曲が多い。スメタナと並んで「チェコ国民楽派の創始者の1人」である。
スメタナとドヴォルザークは互いに影響を与えながら「チェコ国民楽派の創始者」となった。「売られた花嫁」から始まった「チェコ国民楽派」音楽は、
「チェコ舞曲集第2集」で最もチェコの人々を細やかに描いた。
ドヴォルザークの「スラブ舞曲集第1集」は「ドゥムカ(おそらくウクライナ地方の踊り)」を含んでおり、もっと広範囲の「スラブ」を描いたのと対照的に「チェコ」だけを描いたことが スメタナの真骨頂 である。
実は、
本日の原稿は、「下野竜也+読響のドヴォルザーク交響曲全曲演奏」(現在進行中)で、演奏から教わったことばかり
である。
プログラムノートとかではない。「読響の音」から教わったことばかりである。第6番の「チェコのにおいぷんぷん」は未だに忘れられないほどの名演であった。(ティンパニ首席の定年退官の日と重複していたことも印象深い)
そう、「国民楽派」って、「スメタナ + ドヴォルザーク」から、ヨーロッパ中に拡散したのだった。「ノルウェーのグリーグ」に。「ロシアの5人組とチャイコフスキー」に。スペインにも行ったね!
3/28の「佐伯周子のスメタナ」は面白いよ。
- 声部進行
- ダイナミクスの巾広さ
が尋常でない。
ここだけの話だが、練習用ピアノのペダルを壊したほど、(機械的なペダル水準を越えた)細かなペダリングを延々と続けている。「浅過ぎる」のが根本原因だろう。「ハーフペダル」を要求する「スメタナの楽譜」と、「そこまで細かく踏むな!」の楽器の間で悶絶していたようだ。ここまで突き詰めないと「スメタナ音楽」は十全な演奏にならないのだな!(泣