鈴木弘尚3部作は、久方ぶりの大作でした。昨日は疲れでブログ更新できませんでした(爆
「鈴木弘尚論」を(これまで13年間書きたい、と思いながら書けなかったのに)書き上げることが出来たのは、実は 8/1(金)の 『佐伯周子ベーレンライター新シューベルト全集に拠るピアノソロ曲完全全曲演奏会 Vol.4』で、リスト「ローレライ S532」の 9/8 の箇所(第33小節)に入ってスグのところだった。佐伯周子の演奏は
であった。
が通説となっている。
この通説を乗り越えられないと「ピアニスト」にはなれないが、乗り越え方法に幾つかの違う道がある。
私高本は「リストの方が、ラフマニノフより好き」だが、『ラフマニノフ編曲モノ』を聴く時に「リスト方式」を押しつけるようなアホなマネはしない。
と切り分けて聴く。
鈴木弘尚の「リスト編曲シューベルトモノ」はCDでも聴ける。「デビューCD」で、シューマン「交響的練習曲」作品13 の直後に収録されている。聴き手は「交響的練習曲」並みの演奏を期待している。少なくとも私高本は。
鈴木弘尚デビューCDは
となっている。超名演のシューマンの直後に収録された「シューベルト/リスト」に誰もが期待するだろう!!!
・・・が、シューベルトファンは裏切られる。いや、シューベルトファンでなくてもリストファンも裏切られるだろう。「リストの譜面」と違う。違い過ぎる。鈴木弘尚は「ピアノがピアノとして鳴り響いている」のだ。佐伯周子(と岡原慎也の「白鳥の歌」のリスト編曲の演奏)は「ピアノが『歌』として鳴り響いた上に、ピアノ伴奏も鳴っている」だった。
私高本のサイフを悩ませることの一つが、佐伯周子が「オペラを聴きたいのでチケット下さい」と言うことだ(涙
岡原慎也の文章で(確か「レッスンの友」掲載だったと思うが)
なんてのも読んだ。岡原慎也本人に尋ねたら、相当な金額を費やして、オペラやオケを聴きまくっていたようだ。それから室内楽もね!
もう1度「原点」に戻ろう。佐伯周子が リスト「ローレライ」を弾いた。その曲のレシタティーヴォが終わり、「アリア」相当の箇所(= 33小節)に来た時、「低めのテノール」だか「ハイバリトン」の声が聞こえたような気がした。佐伯周子が「低めのソプラノ」か「ハイメゾソプラノ」を奏でていたのかも知れませんが。
朗々と響く歌唱。濃い表情の「ピアノ伴奏部分」。佐伯周子の演奏は「端正な中に響き亘る」演奏。岡原慎也の「白鳥の歌D957」のリスト編曲 A49(サール番号不明)も、佐伯周子 と同方向だった。「シューベルト最優先」の姿勢が!
鈴木弘尚 の演奏は「ラフマニノフの方向」である。「良い悪い」ではない。単純に「趣味の問題」である。しかし「リスト編曲」を弾くと「リストファン」が喜び、「ラフマニノフ編曲」を弾くと「ラフマニノフファン」が喜ぶだろう。私高本は「プロデュース第1回」を「リスト」で実行した人間なので、
と固く信じている。錯覚かも知れないが(爆
があるのかも知れない。鈴木弘尚は「危ない橋」を渡って来てくれた恩人だと感じる。 しかし、それ以上に 岡原慎也 や 佐伯周子 は「1歩踏み外せば地獄への直行便」 の演奏会を聴かせてくれていたことを実感する。「踏み込みの良さ」に関して「シューベルト」に限定するならば、数倍(数十倍?)上だったから。
が実感。
この2人、テンポ設定だけでも相当に揉めるかもしれないが、「ブレンデル + 女弟子」よりも数倍良い演奏してくれる可能性も高い > 伊福部昭作品の共演実績から
・・・が、岡原慎也も佐伯周子も「シューベルトのピアノソロ」をもっともっと聴きたいピアニストである。
鈴木弘尚については、「シューマン、ラフマニノフ、プロコフィエフ」を聴きたいピアニストである。ヒナステラも良いぞ!
「佐伯周子の リスト『ローレライ』を聴いた瞬間、これまで13年間書けなかった「鈴木弘尚論」が書けたことだけは、ここに記しておきたい。鈴木弘尚 と 佐伯周子(と岡原慎也) には感謝するばかりである。
ピアニストはピアノ音楽だけ磨き上げればいいのか?
「鈴木弘尚論」を(これまで13年間書きたい、と思いながら書けなかったのに)書き上げることが出来たのは、実は 8/1(金)の 『佐伯周子ベーレンライター新シューベルト全集に拠るピアノソロ曲完全全曲演奏会 Vol.4』で、リスト「ローレライ S532」の 9/8 の箇所(第33小節)に入ってスグのところだった。佐伯周子の演奏は
- やや低めのテノールか、ハイバリトンのソロ歌手がそこに居て
- 佐伯周子のピアノ『伴奏』に合わせて、歌曲「ローレライ」を歌っているかのよう!
であった。
- 楽器「ピアノ」は打楽器の一種なので、アクセントを出したりするのは得意だが
- 「歌う」ことはやや不得意の楽器
が通説となっている。
この通説を乗り越えられないと「ピアニスト」にはなれないが、乗り越え方法に幾つかの違う道がある。
- 「とにかく歌わせる」ことだけを最優先にし、他は顧みない(→ ラフマニノフ方式)
- オペラや交響曲、協奏曲など「広い範囲の音楽」を身に付け、「自然に歌い」かつ「自然に伴奏」を1人で演じる(→ リスト方式)
私高本は「リストの方が、ラフマニノフより好き」だが、『ラフマニノフ編曲モノ』を聴く時に「リスト方式」を押しつけるようなアホなマネはしない。
- リスト編曲モノ → リスト方式
- ラフマニノフ編曲モノ → ラフマニノフ方式
- ボロドス編曲モノ → ラフマニノフ方式
と切り分けて聴く。
鈴木弘尚の「リスト編曲シューベルトモノ」はCDでも聴ける。「デビューCD」で、シューマン「交響的練習曲」作品13 の直後に収録されている。聴き手は「交響的練習曲」並みの演奏を期待している。少なくとも私高本は。
鈴木弘尚デビューCDは
- シューマン(交響的練習曲)
- シューベルト/リスト(「水車屋と小川」A128/2 ← サール番号不明)
- ラフマニノフ5曲
- ヒナステラ「アルゼンチン舞曲」
となっている。超名演のシューマンの直後に収録された「シューベルト/リスト」に誰もが期待するだろう!!!
・・・が、シューベルトファンは裏切られる。いや、シューベルトファンでなくてもリストファンも裏切られるだろう。「リストの譜面」と違う。違い過ぎる。鈴木弘尚は「ピアノがピアノとして鳴り響いている」のだ。佐伯周子(と岡原慎也の「白鳥の歌」のリスト編曲の演奏)は「ピアノが『歌』として鳴り響いた上に、ピアノ伴奏も鳴っている」だった。
私高本のサイフを悩ませることの一つが、佐伯周子が「オペラを聴きたいのでチケット下さい」と言うことだ(涙
岡原慎也の文章で(確か「レッスンの友」掲載だったと思うが)
ピアノを演奏するためには、ピアノだけでなく「オペラ」や「オーケストラ」を貪欲に聴くことが糧
なんてのも読んだ。岡原慎也本人に尋ねたら、相当な金額を費やして、オペラやオケを聴きまくっていたようだ。それから室内楽もね!
もう1度「原点」に戻ろう。佐伯周子が リスト「ローレライ」を弾いた。その曲のレシタティーヴォが終わり、「アリア」相当の箇所(= 33小節)に来た時、「低めのテノール」だか「ハイバリトン」の声が聞こえたような気がした。佐伯周子が「低めのソプラノ」か「ハイメゾソプラノ」を奏でていたのかも知れませんが。
朗々と響く歌唱。濃い表情の「ピアノ伴奏部分」。佐伯周子の演奏は「端正な中に響き亘る」演奏。岡原慎也の「白鳥の歌D957」のリスト編曲 A49(サール番号不明)も、佐伯周子 と同方向だった。「シューベルト最優先」の姿勢が!
鈴木弘尚 の演奏は「ラフマニノフの方向」である。「良い悪い」ではない。単純に「趣味の問題」である。しかし「リスト編曲」を弾くと「リストファン」が喜び、「ラフマニノフ編曲」を弾くと「ラフマニノフファン」が喜ぶだろう。私高本は「プロデュース第1回」を「リスト」で実行した人間なので、
リスト > ラフマニノフ
と固く信じている。錯覚かも知れないが(爆
- コンクール用の選曲 と
- 非コンクール用の選曲
があるのかも知れない。鈴木弘尚は「危ない橋」を渡って来てくれた恩人だと感じる。 しかし、それ以上に 岡原慎也 や 佐伯周子 は「1歩踏み外せば地獄への直行便」 の演奏会を聴かせてくれていたことを実感する。「踏み込みの良さ」に関して「シューベルト」に限定するならば、数倍(数十倍?)上だったから。
佐伯周子 + 岡原慎也 の連弾 が聴きたい!
が実感。
この2人、テンポ設定だけでも相当に揉めるかもしれないが、「ブレンデル + 女弟子」よりも数倍良い演奏してくれる可能性も高い > 伊福部昭作品の共演実績から
・・・が、岡原慎也も佐伯周子も「シューベルトのピアノソロ」をもっともっと聴きたいピアニストである。
鈴木弘尚については、「シューマン、ラフマニノフ、プロコフィエフ」を聴きたいピアニストである。ヒナステラも良いぞ!
「佐伯周子の リスト『ローレライ』を聴いた瞬間、これまで13年間書けなかった「鈴木弘尚論」が書けたことだけは、ここに記しておきたい。鈴木弘尚 と 佐伯周子(と岡原慎也) には感謝するばかりである。