親切な方のご厚意で警察に届けられた財布が戻った私の恥ずべき話を綴ってから、10日近くになります。その日のことをメモ程度の日記に記していたので、それが8月18日の出来事であったのを先程、確かめて、少しだけホッとしました。
といいますのも、8月20日夕方から、昨日辺りまで(あるいは今もいろいろな見分事におおわらわの渦中から抜け出ていないかもしれません)当地の警察も市民も大変でした。
案じ、祈るだけの無力な私は公にこの事件のことをあらわにするのは控えてはいました。
私の日記を引用します。
8月20日 豪雨。市内東部で4軒床下浸水だったとか。そんな最中、西高岡で2歳男児がお勝手口から出て行方不明と知った。胸が苦しい。一刻も早く見つかってほしい。
その日以来、酷暑もあれば、雨模様にも見舞われながら、異常な8月の下旬が非情に過ぎました。
私は、世間が疎くて、そのあたりには知人もなく、土地勘がまるでありません。ただ、のどかな田園を含む郊外の住宅地?程度の理解はありました。と同時に、おそらく縦横に張り巡らされている用水路のことは、不安ながら想定できました。
2週間、市民の方々、そして県内外の方々もひたすら懸命の捜査に携わってくださり、情けないことに微力すぎる私は、ただただ祈り続けるだけでした。
そして、結果がもたらされました。大海原なのに、ちゃんと見つけてくださる方がいらしたおかげでした。悲しすぎる短い一生の最後に、だれにも知られずに、小さい流れ、大きい流れ、ついには広い海という舞台迄、一人で旅したこの男児の果敢な足取り・・・ここにいるよ、と声なき声で訴えるかのように、待ち続けた人たちのところにもどってきてくれました。
たくさんの教訓を私たちに残してくれました。
小さい人たちを、地域の人々みんなで守ってゆこう、とも思います。
9月18日以降、雨もたくさん降ったのと、とてもそのきになれなかったのとで、陋屋へは半月ぶりに先日参りました。
ちょうど、こちらが台風11号の影響で37.5℃の気温の日でした。南風も強くて、真夏よりもっと夏の一日でした。夏支度をしても殆ど夏を味わうことのなかった陋屋の長い庇の土間からも室内の写真を撮りました。
37.5℃あっても、この陋屋では30℃しか温度計が示していないのは、やはり、家は夏向きに・・・という先人のこだわりのおかげですね。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/73/9f/9f3157db4e3c63cadf7b7c95742bfddc.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6a/34/d4f66e79afbc2c7df93b3f63cdc1879b.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/76/85/b763b903f591f212880a2fad2e7673a5.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3c/96/8f172472db55786414541c0baace8018.jpg)
前座敷に掛けてあるお軸は、お盆が過ぎているのに 「蓮」です。
新しく天国に舞い上がっていったこのけなげな男の子は、もう、蓮の花の小さな露と化しているでしょうか。私の実母は、最後は、蓮の花の露になるからね、と申していましたから、きっと。
といいますのも、8月20日夕方から、昨日辺りまで(あるいは今もいろいろな見分事におおわらわの渦中から抜け出ていないかもしれません)当地の警察も市民も大変でした。
案じ、祈るだけの無力な私は公にこの事件のことをあらわにするのは控えてはいました。
私の日記を引用します。
8月20日 豪雨。市内東部で4軒床下浸水だったとか。そんな最中、西高岡で2歳男児がお勝手口から出て行方不明と知った。胸が苦しい。一刻も早く見つかってほしい。
その日以来、酷暑もあれば、雨模様にも見舞われながら、異常な8月の下旬が非情に過ぎました。
私は、世間が疎くて、そのあたりには知人もなく、土地勘がまるでありません。ただ、のどかな田園を含む郊外の住宅地?程度の理解はありました。と同時に、おそらく縦横に張り巡らされている用水路のことは、不安ながら想定できました。
2週間、市民の方々、そして県内外の方々もひたすら懸命の捜査に携わってくださり、情けないことに微力すぎる私は、ただただ祈り続けるだけでした。
そして、結果がもたらされました。大海原なのに、ちゃんと見つけてくださる方がいらしたおかげでした。悲しすぎる短い一生の最後に、だれにも知られずに、小さい流れ、大きい流れ、ついには広い海という舞台迄、一人で旅したこの男児の果敢な足取り・・・ここにいるよ、と声なき声で訴えるかのように、待ち続けた人たちのところにもどってきてくれました。
たくさんの教訓を私たちに残してくれました。
小さい人たちを、地域の人々みんなで守ってゆこう、とも思います。
9月18日以降、雨もたくさん降ったのと、とてもそのきになれなかったのとで、陋屋へは半月ぶりに先日参りました。
ちょうど、こちらが台風11号の影響で37.5℃の気温の日でした。南風も強くて、真夏よりもっと夏の一日でした。夏支度をしても殆ど夏を味わうことのなかった陋屋の長い庇の土間からも室内の写真を撮りました。
37.5℃あっても、この陋屋では30℃しか温度計が示していないのは、やはり、家は夏向きに・・・という先人のこだわりのおかげですね。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/73/9f/9f3157db4e3c63cadf7b7c95742bfddc.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6a/34/d4f66e79afbc2c7df93b3f63cdc1879b.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/76/85/b763b903f591f212880a2fad2e7673a5.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3c/96/8f172472db55786414541c0baace8018.jpg)
前座敷に掛けてあるお軸は、お盆が過ぎているのに 「蓮」です。
新しく天国に舞い上がっていったこのけなげな男の子は、もう、蓮の花の小さな露と化しているでしょうか。私の実母は、最後は、蓮の花の露になるからね、と申していましたから、きっと。
と思っておりましたが、やはりそうでしたか。
何も出来なければ、祈る。
は正しい事である。と思いますよ。
子供を育てた人なら、5歳頃までには、何度か
うわぁ!。。。しまったぁぁぁ!!
て経験は必ずしてると思います。
幸いにも、大事には至らなかっただけ。
単に運が良かっただけ。
当然、覚えていないだけで、私にもあったハズです。
こうして見ると、非常に悲しい出来事、ではありましたが、人が一人大人になる。
てのは、かなり。運が良い事。なのではないのか?
と思ったのでありました。
神さまのご加護のおかげ、など微塵にも思わずに、目の前にある気になる事柄、それも命にまで関わるような大事はそうあるはずはない、そんな事柄に心奪われたり、「悩み」の迷路にはまりこんでゆくことも。
命さえあれば、何とかなる、あるいは、いつかは一条の光が望めるかも、そう思ってまずは、その日、この日を生き続けるしかありません。
最優先事項は何か、を時折自分に問わないと、と思いました。
職場にも、ちょっと用事に行ったお店の中にも、ボランティアで捜査に関わっている方々がいらっしゃいました。私は、何もできないのが辛かったです。それに本能的になのか?ネットを覗くことも避けていました。
私にはそんな能力がないのが残念ですが、ご遺族がこれから前を向いて生きられるのに、寄り添えるような役割があったら、とつくづく思います。それもただ祈るだけのことしかできないのに。。。
すらいむらいだーさんにもお気にかけていただき、感謝します。
気持ちをリセットして、近づく秋の気配に便乗して、少しずつ、動きませんとね。
この小さな男の子の失踪事件は気になって、ニュースを毎日注視していました。
悲しい、残念な結果でした。
何がどうなったのか、まさかあのような結果があるとは。
でも、あの広い海の波間で小さな身体が見つかったのは、やはり神様のご温情と思わざるをえません。
お若いご両親が、嘆きより皆さまへの感謝の言葉が先だったことが、
かえってどんなに辛いおもいだったかと、胸が痛くなりました。
御地が37.5度とテレビで見て驚きました。
まあ、どんなに暑かったことでしょう。
でも、日本家屋って、拝見しているだけでは涼し気ですね。
お軸はハス、大胆な構図ですね。
夏が終わったら、今度は秋冬仕様ですね。
誰でもができることではない、羨ましくも素晴らしいことですが、
それはぽこさんにとって、面倒な事? それとも楽しみ?
神隠し・・・という言葉さえ行き交うような、長くて辛くて不思議な捜査の日々でした。
一度にやってくる豪雨が、悲劇の発端でした。ほんの一瞬、目を離した隙に、とお母さんが自責の念に駆られるのを慰めることができない無力さ。あの夜の怒涛のような降り様が、そもそもの悪魔の轟でした、と思っています。
>あの広い海の波間で小さな身体が見つかったのは、やはり神様のご温情と思わざるをえません。
そのニュースをテロップで見たとき、別室にいた家族のところに走って言葉をかけました。
「大変なことが起きたの。どうしよう」
家人はどう答えたと思われます?
「朝乃山がコロナに罹ったの?」
私の大事件が朝乃山の状態と並立している、と家人に思われているとは!
「あの子が氷見沖で見つかったらしいの」という私の第二声に、家人は「よかった、神仏、皆さんのおかげ、そして本人も頑張って・・・」と返しました。「ママのもとに帰れるのね、やっと」と私も答えました。
こんな形で戻ってこれて、これからずっと供養できるのは、奇跡のようです。私も機会あるごとに、冥福を祈り、あちこちのお地蔵様などに手を合わせたいと思いました。
さて、最後にお答えしますね。
面倒か、それとも楽しみか、
当然面倒です。
でも若い時の方がもっと面倒でした。
正直、身体の労苦は今の方がずっとこたえますが、少しは、風情とか季節の変化を愛でるとか、に置き換わってきつつありますから、面倒だけど楽しみ、が正解です(笑)
籐筵が、冷たく感じるようになるまでもう少し放っておきましたら、段通の絨毯に替える重みが少しマシになる錯覚が生じます。
土蔵から10メートルくらいの畳廊下を以前は引きずるように、一人で運びましたが、今は、家人と二人で端と端を持って作業します。
中庭のフジバカマが満開になるころになりますね。ちょうど、お彼岸の頃でしょうか。。。