皆さんは、神奈川方式という高校入試のやり方をご存知ですか?
かつて神奈川県下の中学生は2年時に、アチーブメントテストというのを受けなければなりませんでした。
一発勝負の筆記試験のみ、というのが従来の入試でしたが、ちょうど半世紀前くらいから中2のア・テストの結果を内申点?に加えることにして、それと中3の3学期実施の高校入試との合算で合否が決まると改革されたらしいです。が、これも悪名高い方式でそれでも30年間は続いてやっと今世紀にはなくなりました。
私自身、神奈川県の県立高校入試を体験しましたが、このア・テストが始まる前年?の入試だった記憶があります。学区制もなく、一発勝負で出願、受験です。
当時、定年退職は55歳だったようです。それに合わせて父は念願のマイホームのために横浜市内とは名ばかりの辺鄙な高台に造成された分譲団地に土地を求めていました。新築までは、今までどおり目黒区の官舎から団地近くの高校に通うということで、団地近くの高校を志望校にしました。
それが横浜翠嵐高校です。翠嵐という校名の語感がいいのと、そこそこ伝統校で自主独立の校風らしいと、中学の先生にも勧められ迷わず決めました。
入試は2月だったと思います。入試前日に下見に行き、確か2日間入試はありました。
合格発表の前に突然、思いがけないことが起こりました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1d/34/b16f28ad3123187d9bd4c8977fc76042.jpg)
父の転勤でした。どうやら勤務先の役所で何か難しいこと、たぶん、よくないことが起きたようです。父が降格、地方に飛ばされることになりました。いわゆる左遷です。それもトップの方の都合で、、、だったと私には誰も教えてくれませんでしたが、父は、ただ忙しく、そしてさらに無口になって、とにかく、官舎を出て引っ越さなければなりません。
だれもが、私と母が小さなマンションの一室でも借りて、父は単身赴任と思っていたようでした。そんな折、私の変な癖がむくむくとわきあがり、父一人で赴任生活してほしくない、私と母がついて行こう、と思ったのでした。自分の意志を告げて、中学の先生に問い合わせてもらったところ、むこうの県の入試の出願が間に合っていることがわかり、出願、受験票も届いて、三月中旬?雪の少し積もったその地に降り立ち、受験を無事終えたのです。
父の赴任先は金沢でした。母の実家が当時は市内にありましたが、市の都市計画で母の育った家がなくなろうとしていました。そこで、祖父の別宅のある隣県の県立高校を受験したのです。
入試の傾向も事前調査もできません。過去問を3年分ほどやり備えました。父がそのために、日帰りで当市の本屋さんに買いに来てくれました。インターネットのなかった時代のこと。受験科目が9教科ではなく、5教科だったので、助かりました。
そして合格、あわただしい高校生活の始まりでした。
毎夏冬に母の実家や祖父の別宅には逗留しにきていたので、言葉の問題もありませんでしたが、私自身はこちらの言葉が話せませんでした。
高校時代は予期せぬことから始まりました。
横浜翠嵐高校へ行ったのは3日のみ。入学することなく私には幻の志望校で終わりました。
自分の出身高校も自主独立の旧制中学の流れをひく自由闊達な伝統校で、カルチャーショックは多少あったものの、のびのびした生活が送れたことは確かです。
高校卒業時には横浜に家もできており、大学時代を自宅で過ごしたあと、私はまたこの地に戻ります。高校時代の恩師とのご縁で、仕事も、結婚相手も約束されていたかのようにあっさり決まったのでした。
久しぶりに、と言いますか、滅多にこんな話をしないのですが、
もしあの時、私が横浜翠嵐高校に入学していたら、、、
きっと今の自分とは異なっていたでしょう。
私を溺愛してくれた父とは父のいる限り、ほぼ一緒の地で過ごせた、そのことだけで、
若き自分の選択に悔いはありません。
かつて神奈川県下の中学生は2年時に、アチーブメントテストというのを受けなければなりませんでした。
一発勝負の筆記試験のみ、というのが従来の入試でしたが、ちょうど半世紀前くらいから中2のア・テストの結果を内申点?に加えることにして、それと中3の3学期実施の高校入試との合算で合否が決まると改革されたらしいです。が、これも悪名高い方式でそれでも30年間は続いてやっと今世紀にはなくなりました。
私自身、神奈川県の県立高校入試を体験しましたが、このア・テストが始まる前年?の入試だった記憶があります。学区制もなく、一発勝負で出願、受験です。
当時、定年退職は55歳だったようです。それに合わせて父は念願のマイホームのために横浜市内とは名ばかりの辺鄙な高台に造成された分譲団地に土地を求めていました。新築までは、今までどおり目黒区の官舎から団地近くの高校に通うということで、団地近くの高校を志望校にしました。
それが横浜翠嵐高校です。翠嵐という校名の語感がいいのと、そこそこ伝統校で自主独立の校風らしいと、中学の先生にも勧められ迷わず決めました。
入試は2月だったと思います。入試前日に下見に行き、確か2日間入試はありました。
合格発表の前に突然、思いがけないことが起こりました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1d/34/b16f28ad3123187d9bd4c8977fc76042.jpg)
父の転勤でした。どうやら勤務先の役所で何か難しいこと、たぶん、よくないことが起きたようです。父が降格、地方に飛ばされることになりました。いわゆる左遷です。それもトップの方の都合で、、、だったと私には誰も教えてくれませんでしたが、父は、ただ忙しく、そしてさらに無口になって、とにかく、官舎を出て引っ越さなければなりません。
だれもが、私と母が小さなマンションの一室でも借りて、父は単身赴任と思っていたようでした。そんな折、私の変な癖がむくむくとわきあがり、父一人で赴任生活してほしくない、私と母がついて行こう、と思ったのでした。自分の意志を告げて、中学の先生に問い合わせてもらったところ、むこうの県の入試の出願が間に合っていることがわかり、出願、受験票も届いて、三月中旬?雪の少し積もったその地に降り立ち、受験を無事終えたのです。
父の赴任先は金沢でした。母の実家が当時は市内にありましたが、市の都市計画で母の育った家がなくなろうとしていました。そこで、祖父の別宅のある隣県の県立高校を受験したのです。
入試の傾向も事前調査もできません。過去問を3年分ほどやり備えました。父がそのために、日帰りで当市の本屋さんに買いに来てくれました。インターネットのなかった時代のこと。受験科目が9教科ではなく、5教科だったので、助かりました。
そして合格、あわただしい高校生活の始まりでした。
毎夏冬に母の実家や祖父の別宅には逗留しにきていたので、言葉の問題もありませんでしたが、私自身はこちらの言葉が話せませんでした。
高校時代は予期せぬことから始まりました。
横浜翠嵐高校へ行ったのは3日のみ。入学することなく私には幻の志望校で終わりました。
自分の出身高校も自主独立の旧制中学の流れをひく自由闊達な伝統校で、カルチャーショックは多少あったものの、のびのびした生活が送れたことは確かです。
高校卒業時には横浜に家もできており、大学時代を自宅で過ごしたあと、私はまたこの地に戻ります。高校時代の恩師とのご縁で、仕事も、結婚相手も約束されていたかのようにあっさり決まったのでした。
久しぶりに、と言いますか、滅多にこんな話をしないのですが、
もしあの時、私が横浜翠嵐高校に入学していたら、、、
きっと今の自分とは異なっていたでしょう。
私を溺愛してくれた父とは父のいる限り、ほぼ一緒の地で過ごせた、そのことだけで、
若き自分の選択に悔いはありません。
そして、ア・テスト、受けましたとも!
中学は神奈川にいましたしね。
高校(受験)で沖縄に行く時
せっかくア・テスト受けたんだし、もったいないんじゃないか?とも言われました。
ぽこさんのお父様も、国家公務員だったんですか?
我が家もそうでした。
今は割りと当人の希望も通るようですが当時は、もう、全国を周っておりましたな。父は20代で公務員になり、引退までの40年間、平均すると6年に1回位の割合で転勤しておりました。
そんな訳で、私も、北海道で生まれ、沖縄の高校を出たわけです。
私は泣かず飛ばすでしたがこの前バラを贈った友達はほぼ100点。
輝いてました。
ぽこさんが一時でも神奈川県民だったなんて親近感湧きます。
ちょっと私と境遇が似ているところも。。。
父親の仕事にしても、中三卒業のあと、異国の地での高校生活のことといえ。。。
私は、つい最近まで、自分は、誕生は長野県上田市だと思い込んでいました。ふとしたことから、実は、高校生から住み始めた当地で生まれたことが判明。母が里帰り出産したのなら、金沢なのにどうして、と思って諸事情の消息通に聞いてみました。どうやら、祖父母が私の生まれる半年くらい前から長期の大ゲンカ中で、祖母は、祖父の別宅(ここに、祖父の秘密の家庭があったらしいです)に乗り込んできて一年は覇権をふるって居座ったみたいです。お産に来た母も祖母の味方で、生まれてきた私の世話をしながら、祖父の不行跡を文句いいあった、そうな)
私が物心ついたときは、信州の父の生家が没落して、母と祖母に背中を押されて役人として出世するように、昭和30年代、高度成長の日本のど真ん中で、父は滅私奉公しました。母は官舎住まいが窮屈だと、私を連れて金沢に、鬼平犯科帳のふじたまこと演じるあの人みたいです。
父も転勤はつきものでしたが、あまり引っ越ししたくない母の意向で、遠くは甲府、静岡くらいは、単身赴任、週末自宅(官舎)という生活もしました。
すらいむらいだーさんのお宅はご家族ご一緒の異動だったんですね。
私はセンター試験(もうありませんね)の前の共通一次世代の直前で、共通テストの洗礼を受けていません。ア・テストも大学時代に家庭教師先で、かなり頑張ってもらい、親御さんに感謝されたそれがア・テストで、自分には未経験なことゆえそれなりに対策を研究しました。
つまり、朝令暮改の如く、いろいろかわった教育体制の始まる直前で、入試は一回勝負、わかりやすいものでした。
神奈川県民は都合6年間でした。
中学時代は、都民でしたが、東横線の学芸大が最寄り駅で、通ったのは横浜市内、最も横浜らしい元町近く、山手という駅が最寄り駅で、元町をぶらぶらしたいい思い出ばかり。国立大学の付属中学でしたので、確か高校はなかった、それで受験になりました。昼間は横浜にいましたから、神奈川県民9年間ですね。今はその中学も金沢区?だったかに移転しているそうです。校舎とその位置が違うと母校っていう気が全くしません。
もっともご当人や周りの方々は面白いではすまないでしょうが。
今、世間を不倫で世間を騒がせている方々、昭和初期以前では珍しくもなかったことでしょう。
神奈川方式、息子たちは経験しましたが、これって良いところも悪いところもありますね。
良いところは4科も一生懸命になるところ、悪いところは数字で表せないので、先生の感情が入るところです。
私ごとで恐縮ですが、長男は幼い頃から大腸過敏症で、すぐに腹痛がおきました。
中2のある日、学校から帰宅するなり「もう、希望の高校には入れない」と泣き出しました。
その日の体育の時間のときに腹痛で医務室にねていると、体育の先生がズカズカと入って来て、
「お前は俺のことが嫌いなのか。授業を休むなら成績は1にしてやる」と怒鳴ったそうです。
息子のいい分だけを聞くわけにはいかないので、医務室にお邪魔して医務の先生にお話を聞きました。
息子の言う通りのことがあったそうで、医務の先生の言われるには、「いじめは生徒の間の話だけではないのですよ、先生も」と嘆いておられました。
息子には「体育は実技だけでなくテストもあるからテストに満点をとれば、5にはなるから」と言いました。
やはり、今まで9だった成績表が6になっていましたが。
技術の時間にノコギリで手を切った生徒の母は、学校に謝りに行きました。うちの子が注意散漫で申し訳なかったと。
今なら学校が謝るでしょうが。
次男の場合は音楽の成績が悪かったので、近所のピアノ教室にピアノは習わずに音楽の補習をしてもらいに通わせました。
これはア・テ方式のお蔭で音楽に強くなれました(笑)。
祖母は厳格な人で、家の恥を外に知られるのを固く拒みましたので、いわば、武士のつまようじ然と、問題の何もない美しい家庭のように取り繕っておりました。ただ、相当懲りたのか、私があるとき、薬学部を受けようかな、と言いましたら、言下に反対。「薬学を出たらまず、医者と縁談が決まる。医者は必ず若い看護婦と間違いをおこす、家を守る妻が一番苦労する。よって薬学はだめ」と。
マドンナさんの現役お母さま時代を今日は垣間見た重いです。お坊ちゃまたちの中学生時代のア・テストの悩み、さながら、マドンナさんには一番の心配事としていまだに赤裸々と残っているのです。
そうなんです、音体美家の実技4教科は、ほんとに不公平でした。教師側のえこひいきと主観と実技ならではの制約と、、、今の時代には考えられないおさえこみの、開かれない評価でした。
マドンナさんが心を痛められたのはよくわかります。
金沢にかつてあった母の実家(私にとっても大事なおじいちゃんち)は、私がちょうど高校生になるころに、都市計画で撤去になりましたが、「院醫〇」と右から左に読む墨書の看板がかかっていました。
私が高校以降住むことになったのちの私の実家は金沢にあった旧式医院の分院で、祖母の知らない間にそこが祖父の第二の家庭にもなっていた、というまあ陳腐な話です。私が住み始めたころにはもう家業はやめていました。こちらの看板は、「〇医院」と縦書きでしたが、祖母によって焼かれたそうです。変な話を持ち出してきてごめんなさい。
わが家の重大秘密のはずですが、今となってはどうってことないですね。
横浜翠嵐高校の卒業生の方?でも幻のがあるし。
興味を惹かれて読ませてもらいました。
もったいない、というのが正直なところです。
私は、ア・テストなしの入試の世代です。
もしかしたら、同じ学年?
私の母校は、横浜希望が丘高校です。
当時は、翠嵐と同レベルで、けっこう進学実績などから人気がありました。
今の神奈川県の高校は、やはり、私立特に慶応の付属が難しくなり、公立高校は二番手です。
その中でも横浜翠嵐が群を抜いている、という印象です。
孫の中学や高校受験の話に首をつっこむわけにはいきませんが、漏れ聞くところから、何となく気にしています。
これからもこのブログを楽しみにしています。
思いがけないコメントに、感謝いっぱいです。
慶応大学湘南藤沢キャンパス(SFCと言いましたっけ)ができたのが、いつのころか存じませんが、愚息が高校時代には、もう創立されてしまっていたような記憶があります。
それまでの慶応は、福沢諭吉先生見学の精神を受け継ぐ理財科転じて経済学部(本学である三田キャンパス)が難関で、
理系は日吉キャンパス、早稲田>慶応の難易度という風なイメージでした。
SFCには、環境情報と総合政策の文理共に当時の最先端新鋭の学部があり、愚息にも環境情報を受けてみない?と勧めた記憶があります。
SFCの台頭とともに高等部ももちろん登場することになったのですよね。
神奈川県の私立高校では最も偏差値が高いというイメージがあり、もはや全国区の生え抜きかと思われます。
古い時代の受験のあれこれしか知らない私には、藤沢といえば、湘南高校とほぼ自動的に反応してしまいます。かつては神奈川県の最名門校だった。。。はずです。今や中高一貫の私学には、神奈川県外(東京)からもたくさんきていると聞きます。
よろしかったら、ぜひまたお立ち寄りください。
拙いブログですが、ご高覧が何よりの励みになります。ありがとうございました。
福沢諭吉先生見学→福沢諭吉先生建学 でした。
他にもあるかもしれませんが、ご容赦いただきたく存じます。