最終章だけど、、、

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味噌シチュー

2020-09-18 19:49:15 | 日記

またの名前を豚肉の入らない豚汁 もっと端的に言うと
実だくさんの味噌汁でしかありません。
豚汁に、さつまいもを入れる人が少なからずいると思います。
私の決め手は、里芋を入れること。
大根、里芋、ニンジン、ゴボウ、ネギ、あれば、なめこや白菜。
豚肉の代わりに油揚げを入れることが多いです。

この夏は、お味噌汁を作っても一度に食べきれる量に限られましたし、
あまりほしいともおもいませんでした。汁物は、おすましがおおかったですね。

やっと涼しくなって、里芋も売り場に登場して
味噌シチューの出番が始まりました。
これは、余っても翌朝、もう一度加熱で腐りません。
ありあわせの野菜は何でもつぎ込みます。

お椀に入れたあと、しょうがを下ろして少し入れます。
あと、ゆずなど。
今日はいただいたカボスの小片を切って入れるつもり。
ガス台の横にちらっとみえるでしょ。とっても大きいカボスです。
いっそ、主役にして写メしましょうか。。。


カボスは到来物。同じ方にちょっと前はスダチをもらいました。真冬には
ゆずをいただきます。柑橘類も当地ではレモンは無理でも、スダチ、カボス、ゆずは
育つらしいです。。。

味噌シチューに最後に1,2片加えて出来上がり。
真冬には、けっこうたくさん作って二日がかりで食べる、楽しむことも多いです。

この夏は野菜が品質が悪く、値段も高くてだいぶ我慢しました。
やっと実りの秋を迎えることができますね。





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秋彼岸

2020-09-17 18:58:34 | 日記
お彼岸の入りを迎えました。
暑さ寒さも彼岸まで、は夜間には実感しますが、日中はまだまだです。

1982年から入っていた生協を脱会することにしました。
市民生協と県民生協が今度一体化するという知らせがきまして、利用をしていたときにかけてきた協力金?が、うやむやになる可能性もありそうなのでは、と、思いきって問い合わせてみました。掛け金約85,000円くらい、来年四月に戻ってくるそうです。多年に渡り、ありがとうございました、と丁寧に言われました。会員だった40年弱のうち、しっかり利用していたのは、最初の20年間でした。ムスコのいた時代には、まず、食べさせることが、私の生きる道の半分くらいを占めていましたので(笑)

「ノカンゾウ」

毎月取り寄せているフジッコの黒豆の酢入り煮が三か月目に入っていよいよ、悪い癖、だんだん飽きてくる、消費しにくくなる、たまってくる、が始まっています。まだ開けてもいない荷を解いたら、もちろん印刷ですが、上の絵が入っていました。おおたいくや画だそうです。
そういえば、草原で見かけたような。。。季節の花ですね。
もうしばらくは、この健康食品を毎月の印刷の絵に惹かれて、購買を続けようと思いました。その他にもいくつもサプリメントなど気慰めにとっているのですけどね。


今朝、花を求めに車を走らせていたとき、ちょっと思いついて、郊外へ参りました。
近年通ったことのない国道より1本か2本うちに入った道路から撮影した光景です。重たく垂れる稲穂の田んぼが美しい。
そして、何だか遠くの記憶にあるのが、この建物でした。
そうだ、この廃墟は、病院だったんだ。
整形外科病院でした。ちょうど30年くらい前、住宅ローンを完済してほぼ貯金ゼロになったところで、親子三人で、海外旅行に行くことにしました。
シンガポールとマレーシアでした。小学生のムスコが大喜び。出発前に私に腰痛が生じて、その時にお世話になったのがこの病院でした。何とか治して、旅行に出たい、との思いを察していただき、帰るまで無事でした。
好機逃がすな、です。ムスコ小6の夏、オーストラリアにホームステイしながら母子二人の旅ができたものの、あとは、ムスコと旅したのは婚約時代の親子4人のときのみ。これからもきっと実現は望めないでしょう。連れ合いの英国長期出張時に、ムスコも私も多忙で同行できず、何しろ、三人しかいないのに、それぞれが、それぞれの用事であちこち飛んだ一時代もありました。
思い出の象徴ともいえるこの病院・・・後継ぎさんがいらっしゃらなかったのか。。。よもやの経営不振か。。。
花を買って、やっと活けました。巨峰も少々ですが母にお供えしました。

ついでに、自宅のあちこちの花を生け変えて、掛け軸と色紙をやっと秋モードにしました。

明日は、義父の祥月命日、お寺さまにいらしていただきます。お仏壇の仏花はもとより、家じゅう秋の花、シュウメイギク、孔雀草、花ナス、菊、庭からはそろそろフジバカマ、水引草、糸ススキなど手折ることにしましょう。
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九月十六日

2020-09-16 02:28:23 | 日記
亡き実母の祥月命日です。
来年が十七回忌にあたります。

義父は母の2日後に身罷りました。
15年前の私は、50代になったばかり、夫は典型的仕事人間。
京都で大学生活を送っていたムスコは、夏休み中で帰省していたはずですが、
その夏のムスコの記憶がまるでありません。
7月に入院、ややあって死の宣告を受け、二か月後に旅立った母の夜の付き添いは、私ということになり、70日間病院の(今でいうホスピス待遇で)夜を共に過ごしました。
7月中は授業がありましたから、昼夜兼行、8月は年休もとったりして、何とかやりくりしたのでしょう。
母と過ごす最後の数十日を、心をこめて時を重ねた記憶がないのも情けないです。

健康寿命が長くなった現在も、病魔の前には長生きは許されません。母は存命なら九十代半ば。まだまだ私のことをあれこれ気にかけてくれていたようにも思われます。

あの時の私も未熟でした。母の死をどうやって乗り越えたのか、全く体感した部分がありません。

ただひたすら申し訳なく思うのは、母の亡くなった年齢まであと十年余りになった今、元気だった母の記憶力をからかったり、すいぶんぞんざいな口のきき方をしていたことです。
すでに、私は、母の晩年に比べて全く恥ずかしい限りの無精者に成り下がっています。
① 手紙を書かない
② 日記を書かない
③ 読書に集中しない
④ 縫物をしない
⑤ 茶道華道をさぼる
⑥ 煮物を作らない
⑦ 義理堅くない
⑧ 家の内外の掃除や整頓を徹底しない

もっとあるのですが、筆まめだった母、いつも針仕事に余念がなかった母、茶道が生きがいだった母のムスメとしては失格なのは、母自身、育て方が悪かったから・・・と諦めてくれている、と居直っています。
私の日常生活に読書が密着しなくなるとは、母は思ってもみないことでしょう。

これを機に、日々の暮らしを意識的に改善する、と自分を律する前に今の私は、そんなことできるはずがない、と全く消極的、短絡的です。

母の存在がなくなって、もう注意をしてくれる人がいない、母は私にとって一種の箍(たが)だったのだろうか、大人になることなく、子役として母の人生の一部だったのか・・・

確かにこの15年、母なしで生きては参りました。
よりよく生きる、という目標がないままに、幸い健やかに日を重ねただけです。
もともと他の人との関わりの少ない生活のところ、この半年はその距離がさらに大きくなったので、よけいに前向きになれない傾向にあるのだ、とも言い聞かせます。

母がこの世を去った年齢になるまであと十年余り。
世の中がまたもう少し自由に出歩ける状態になったときに、何をしたいか、どこへ行きたいか、目標を持つこれからにしたい、と、今日という特別な日に思い知りました。

お彼岸が近いので、今日の墓参は、その時に兼ねさせてもらうことにして、とりあえず、仕事の帰りに、とびっきり勢いのいい菊を求めたいと思います。自宅の写真(父母、二組の義父母の総勢6名の写真立ての中で母のを前面に出して、お抹茶を点てて、お菓子も心をこめておきたいと思います。

限りある時間と知りながら、漫然と過ごしたこの15年間でした。今日からは、どうせできないから、とさじを投げる前に、些細なことからでも自分に何かを課していきたいものです。
何かに焦がれる自分でありたい、体力・気力の衰えをも納得の上、それでも「したいこと」はまだあるはず、と自分に発破をかけたいと思うのです。。。
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少し見方をかえて、

2020-09-14 01:14:09 | 日記
こんにちは。
先日は、こちらでも地震がありましたが、一昨日は岩手県を震源地として東北地方一帯が揺れたとお昼ころ報じられていました。
それのみならず、台風が去ったあとも、あちこち、まだ集中豪雨があるとの予報を聞きます。
地球温暖化がそもそもの原因らしいです。森林伐採も、森林の無防備に育ちすぎるのもどちらも豪雨にとって大敵・・・らしいですが。
自然の驚異、ではなくて脅威ですね、それを前にすると、自分の存在を何とか自力で守ることのみを念頭に置くべし、に尽きます。
さて、本日のお題になります:

大袈裟に構えてしまいましたが、なんてことはありません。
ガラケーをふりかざして、いつも撮ろうとする被写体を、少しだけ角度をかえたり、
ちょっとだけ場所をずらしてみて、撮ってみた結果をご披露します。
場所は変わらず、陋屋です。
自宅から持参した熨斗蘭を投げ入れることと、それだけでは花材が足りないので、いつものように、ありあわせ、陋屋のを摘んだり、最悪ドライフラワー状の実、花まで使って、自己流のお花活けです。水をかえるのが目的みたいなものに成り下がっています。
まずは奥座敷 これは熨斗蘭のみです

後座敷です。外に出る障子戸も入れて部屋の隅っこを撮影しました。

前座敷です。いつものように登場

前座敷の隅っこを撮影してみました。向かって左側が金屏風裏側、右手が後座敷との間の襖、ほぼしまっていますが、つき当たりの戸(ぼっとといって、前座敷の炉をあけて、お茶席にするときは、茶道口になる)をあけるとキッチン。キッチンの右手は居間になります。

キッチンから内玄関回りを省略して家の西側に向かう廊下の途中です。右手はご不浄。つきあたりは水屋入口です。

ご不浄の外側の壁にかかっているのは、

さて小さい水屋を角度を変えて撮影するといかにも広そうに見えるのが写真の不思議


水屋は本来、茶道具などを狭いながらもきちんと片付けておく物入の要素があるので、

お茶室の入口のところ、茶道口になります。家のそこここに、切り炭が入っていますが、ここでも。小さな雪洞がありますが、これは電気がつきます。紙ではなくてシルクが貼られています。塗は輪島塗。明治33年製らしいです。そのころには電気が通っていたのか、、、

水屋から小間に入ります。お茶室もどきです。

躙り口になっていて、庭に出ます。障子戸からくぐって、(外側には杉板の雨戸が入っています)

天井は立体的になっています。三?四重構造に見えます。何のためなのでしょう。

居間の様子は、いずれまた。
なんて言ってると永久にこの日の記録は残せません。
一枚のみ、お菓子の話題と共に。

お菓子は、長崎堂のクリスタルボンボン。かつて、田辺聖子の「苺をつぶしながら」に登場していたお菓子で、もちろん見る由もなかったのでしたが、幾星霜、やっと手に、目にしたお菓子です。ロマンティックなお菓子は想像以上でした。大阪心斎橋だったかにある長崎堂でしか買えないと聞いています。
お店のHPからお菓子の写真を拝借します。

こうして、どうでもいいことに心を傾けて、それがいかにも私そのものであるのを自覚しつつ安心して今夜も眠りにつくことができそうです。




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倍返し

2020-09-13 00:57:07 | 日記
「倍返し」という言葉が、テレビドラマを通じて周知されているようです。
日ごろ、あまりテレビに親しんでいない私は、そのドラマの詳細は関知に至りませんが、
「倍返し」の意味については、想像できます。

昔話の中に鶴やらお地蔵さまの「恩返し」の美しいシーン。と共に、赤ずきんちゃんの
中では、悪いオオカミのお腹が切り開かれ、食べられたはずのおばあさんが無事脱出され、お返しに、石でお腹をいっぱいする、というシーンも鮮やかです。

私も実は、「倍返し」の恐怖に怯えたこの2週間でした。
実際は、何かあったわけではないのですが、不安と恐怖のために、精彩を欠いた日々を過ごすことになりました。

「ネコの倍返し」が気になって、あの現場には、再び行くこともできず、それどころか、毎日または隔日の日課として行っていた陋屋にも近づくことができなくなりました。
折角、次々咲いてくれる熨斗蘭も、自宅で切っては活けるだけ、陋屋のお仏壇にもお供えできずにおりました。

毎晩のように、トトロのネコバスのような巨大ネコに追っかけられる夢を見ました。
静かな時間を過ごしていると、どこからともなく、ニャーミャーといういたいけな仔猫の声までしてきます。
機械的に口にする食事に味を感じなくなり、食欲も減退、それもそのはずです。十分な睡眠がとれないために、身体が疲労困憊状態、というお粗末さ。
静かな屋内にいると、幻聴(猫の声)が起こりそうなので、モーツアルトのピアノコンチェルトとバイオリンコンチェルトを繰り返し聞き続けました。

思えば、もともとコロナ禍で、お客さまを迎える状態は半年皆無ですし、だれかと話すこともそうないのです。不要不急のことばかりの私の生活では、週に二度、ささやかな仕事をしに半日社会に出るだけで、業務に関わることは話してもあとは、あいさつ程度です。

母ネコが「私の赤ちゃんを返しておくれ~~」と夜な夜な、陋屋の彼女がお産した片隅をチェックしに来ているように思えて、昼間であっても足がすくんで、陋屋の門を開けることもできません。

こんなバカげたことを誰かに打ち明けようにも、やはり、自分が異常な気がして、ちょっと口にできません。

救世主のように、昨日金曜日、植木屋さんが剪定にきてくれました。まずは、自宅から。10時のおやつに、ヒレカツ200グラムを揚げ、涼しかったので煎茶を淹れました。
職人さんは二人です。午後早々に終わったら、陋屋に回る、と言われるので、いつものように、門の鍵を渡して、お願いします、何か不審なことがないか、気をつけてみてくださいね、何かの死骸でもあったらいやだから、と近からずも遠からずのお願いを真剣にしたのでした。

夕方鍵を返しに自宅に寄られた庭師さんに、ねぎらいと共に懸案事項を尋ねたのは言うまでもありません。

今年は暑すぎたのか、虫も少なくて、虫食い葉がほとんどなかったですよ。あっちの大きい松は今年は剪定せずに、他のものもささっと枝をおろしただけにしました。何も変なものが落ちても死んでもいませんでした。

やっとほっとしました。これ以上、ネコの鳴き声の幻聴に襲われたら、心療内科にでも行くことになる、と覚悟していました。

折から、久しぶりに友人と電話で、話すことがあり、もう少しでネコ騒動を口にしそうでしたが、それすら、どうでもいいことに思われ、敢えて話しませんでした。

元気だった?との友人の問いかけに、
「一応人並みに、ちょっと夏バテしたのか、2キロくらい痩せたみたい」と答えました。
実際は2週間で3キロも減っているのに昨夜気づきました。が、
今朝はもう2キロ戻っていました(笑)
それどころか、こんなに健康といいますか、美味しそうな私の腕をご覧いただきましょう。

今日、陋屋に出向こうと外に出て、自宅前の剪定したばかりの赤松を写メをしていたら、ぶうううーーーんと蚊の音がして、ケータイをコンクリート面に落としました。
ちょっと外側が壊れました。自撮りした記憶もないのに、私のパフスリーブからの立派な二の腕以下が写っていました。なんて太くてたくましくて、そして、美味しそうな腕でしょう!



明日にでも暇にまかせて、今夕、陋屋で熨斗蘭をやっと活けたり、ひとりティータイムした写真を載せたいと思います。

追記になります。
今写メしました。わが家のピアノの上、ご覧の通り物置化していますが、注目すべきは

当時小学生だった私のムスコのためにではなく、40歳代にもなろうかという不肖ムスメの私のために、横浜高島屋で実母が買ってくれた老ネコのぬいぐるみ、ほぼリアルのネコです。
また、雨田光弘さんという、日フィルのチェリストがネコの絵の作家で、その絵が大好きで、カレンダーや文具など毎年身の回りにネコの絵を置いてはいます。

ネコ自体は、こうして鑑賞は嫌いでもないので、少しはご安心くださいませ(笑)
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