10分間だけ、開いて閉じるで、出来ること。
あと五分で、
宇治に似て山なつかしき新茶かな 支考
あっ、終わり。
落語「長屋の花見」ではないが、江戸の庶民は、たくあんを玉子焼きに見立てて充分楽しんだ。
粋とか、洒落を解せば今でも「見立て」は、心を豊にしてくれる。
ブログでの中で、吉天も小を大に見立て、大を小に見立て変えたりする。
笑い飛ばすまでは行かないが、ひそかに ほくそえむ楽しみが得られる。
たとえば先日の記事で、片田舎のパン屋さんを、南仏プロヴァンスの風景に置き換えるとか致しましたが、このような「見立て」の術は自らを愉快にし健康で長生きできると信じている。
将来にわたって、介護の世話にはならずに済ましたい。
それには健康と意識の自己管理に尽きると考える。