最近、コソボ共和国に旅行した。コソボはセルビア系住民とアルバニア系住民の間で紛争が起きた場所であり、現在はKFORという欧米諸国の軍隊が駐留することで治安が維持されている。アルバニア系住民のほとんどはイスラム教徒なので、この紛争は文明の衝突という要素もあった。現地を視察することで、コソボ紛争の未来について考えてみたい。
コソボでは首都のプリスティナに滞在した。プリスティナ市街地、北方にありセルビア系住民居住地域とアルバニア系住民居住地域に分断されたミトロヴィツァ、プリスティナ近郊のセルビア系住民が居住する飛び地であるグラチャニツァを訪問した。
プリスティナはかつては少数派のセルビア系住民も住んでいたが、今は彼らは一掃されてアルバニア系住民だけの町になっている。町の中心にあるセルビア正教の教会は全ての装飾が破壊され、煉瓦とコンクリートの壁だけが残された無惨な状態になっていた。ドームの頂上に残された金色の十字架だけが、ここがかつてキリスト教の教会であったことの証拠となっている。恐らく、セルビア系住民への怒りに燃えるアルバニア系住民が破壊し尽くしたのだろう。教会周辺の土地も荒野となっていたが、かつては公園やセルビア系住民の住居などが存在したのだと思われる。
しかし、欧州がキリスト教の大陸であること、欧州の先進国でイスラム教徒の移民に対する反感が非常に高まっていることを考えるならば、このコソボのアルバニア系住民によるキリスト教教会の破壊は今後大きな問題になってくるのではないかと感じた。
プリスティナには幾つかの大きなモスクがある。これらも見学した。参拝者は少なかったが、サウジアラビアがモスクの経営を支援している様であった。まさに文明の衝突である。
その後、コソボ博物館を訪れた。博物館の三階は米軍によるコソボ紛争介入でコソボが独立した経緯を詳しく展示している。当時のクリントン大統領の名を冠した大通りがプリスティナに存在することから考えても、コソボは米軍の力で作られた国であると考えて良いだろう。
ミトロヴィツァ北部とグラチャニツァでは、文字の表記がほとんどキリル文字になり、通貨もセルビアディナールが通用している。コソボ国内なのだが、事実上セルビアの飛び地の状況である。KFORの軍隊の保護を受けながらセルビア系住民は細々と生きている印象であった。
グラチャニツァでは世界遺産に指定されている修道院を訪れた。修道院内に住んでいる医者一家とコソボ紛争問題について少し話した。彼らはアルバニア系住民の蛮行を非難していた。また、「セルビア系とアルバニア系のどちらが正しいと思うか?」と質問してきた。私は、「軍事力が強いものが勝利しているだけであり、必ずしも勝者に正義がある訳ではない。日本はかつて米国と戦い敗北したが、我々は日本に正義があったと考えている」と答えた。彼らは「それは我々と同じ状態だ」と言っていた。
コソボがセルビア系住民のものなのか、アルバニア系住民のものなのかは難しいところだ。紛争直前でもコソボの多数派はアルバニア系住民であった。ただ、何世紀か前の状況を見ると、コソボの住民の多数派はセルビア系住民であった。イスラム教徒のアルバニア系住民はイスラム教のオスマントルコの統治下でコソボに移住し、高い出生率によって人口を増やして多数派になったのだ。従ってコソボの歴史的建造物は全てセルビア系であり、アルバニア系のものは存在しない。この状況は、現在の欧州諸国のイスラム系住民居住地区と似通っている。
コソボ紛争は、ボスニア紛争と類似した面を持っている。セルビア系住民が悪役とされ、イスラム系住民が正義役とされた。また、旧ユーゴスラビアから独立したスロベニアとクロアチアを真っ先に承認したのはドイツとオーストリアであった。これは、第一次世界大戦を起こしたセルビア人に対する、ドイツ人による懲罰であったのだろう。しかしながら、欧州を事実上支配するドイツ人にとって、真の敵はイスラム教徒であり、セルビア人はイスラムと戦う点でドイツ人の味方である。セルビア人のアルバニア系住民に対する鬱積した不満を将来爆発させることで欧州からイスラム教徒を一掃してしまう計画をドイツ人は持っているのではないかと私は感じた。
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コソボでは首都のプリスティナに滞在した。プリスティナ市街地、北方にありセルビア系住民居住地域とアルバニア系住民居住地域に分断されたミトロヴィツァ、プリスティナ近郊のセルビア系住民が居住する飛び地であるグラチャニツァを訪問した。
プリスティナはかつては少数派のセルビア系住民も住んでいたが、今は彼らは一掃されてアルバニア系住民だけの町になっている。町の中心にあるセルビア正教の教会は全ての装飾が破壊され、煉瓦とコンクリートの壁だけが残された無惨な状態になっていた。ドームの頂上に残された金色の十字架だけが、ここがかつてキリスト教の教会であったことの証拠となっている。恐らく、セルビア系住民への怒りに燃えるアルバニア系住民が破壊し尽くしたのだろう。教会周辺の土地も荒野となっていたが、かつては公園やセルビア系住民の住居などが存在したのだと思われる。
しかし、欧州がキリスト教の大陸であること、欧州の先進国でイスラム教徒の移民に対する反感が非常に高まっていることを考えるならば、このコソボのアルバニア系住民によるキリスト教教会の破壊は今後大きな問題になってくるのではないかと感じた。
プリスティナには幾つかの大きなモスクがある。これらも見学した。参拝者は少なかったが、サウジアラビアがモスクの経営を支援している様であった。まさに文明の衝突である。
その後、コソボ博物館を訪れた。博物館の三階は米軍によるコソボ紛争介入でコソボが独立した経緯を詳しく展示している。当時のクリントン大統領の名を冠した大通りがプリスティナに存在することから考えても、コソボは米軍の力で作られた国であると考えて良いだろう。
ミトロヴィツァ北部とグラチャニツァでは、文字の表記がほとんどキリル文字になり、通貨もセルビアディナールが通用している。コソボ国内なのだが、事実上セルビアの飛び地の状況である。KFORの軍隊の保護を受けながらセルビア系住民は細々と生きている印象であった。
グラチャニツァでは世界遺産に指定されている修道院を訪れた。修道院内に住んでいる医者一家とコソボ紛争問題について少し話した。彼らはアルバニア系住民の蛮行を非難していた。また、「セルビア系とアルバニア系のどちらが正しいと思うか?」と質問してきた。私は、「軍事力が強いものが勝利しているだけであり、必ずしも勝者に正義がある訳ではない。日本はかつて米国と戦い敗北したが、我々は日本に正義があったと考えている」と答えた。彼らは「それは我々と同じ状態だ」と言っていた。
コソボがセルビア系住民のものなのか、アルバニア系住民のものなのかは難しいところだ。紛争直前でもコソボの多数派はアルバニア系住民であった。ただ、何世紀か前の状況を見ると、コソボの住民の多数派はセルビア系住民であった。イスラム教徒のアルバニア系住民はイスラム教のオスマントルコの統治下でコソボに移住し、高い出生率によって人口を増やして多数派になったのだ。従ってコソボの歴史的建造物は全てセルビア系であり、アルバニア系のものは存在しない。この状況は、現在の欧州諸国のイスラム系住民居住地区と似通っている。
コソボ紛争は、ボスニア紛争と類似した面を持っている。セルビア系住民が悪役とされ、イスラム系住民が正義役とされた。また、旧ユーゴスラビアから独立したスロベニアとクロアチアを真っ先に承認したのはドイツとオーストリアであった。これは、第一次世界大戦を起こしたセルビア人に対する、ドイツ人による懲罰であったのだろう。しかしながら、欧州を事実上支配するドイツ人にとって、真の敵はイスラム教徒であり、セルビア人はイスラムと戦う点でドイツ人の味方である。セルビア人のアルバニア系住民に対する鬱積した不満を将来爆発させることで欧州からイスラム教徒を一掃してしまう計画をドイツ人は持っているのではないかと私は感じた。
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コソボはロシアから遠く離れており、ロシアはそこに死活的利益を有していません。コソボの未来はドイツやオーストリアの意向次第だと思います。独やオーストリアではイスラム教の移民に対する反感が高まっています。コソボでイスラム教のアルバニア系住民がセルビア正教の教会を焼き討ちしたのは、越えてはならない一線を越えてしまったと思います。キリスト教というアイデンテティを確認しイスラムに対して排他的になる欧州はコソボのアルバニア系住民やアルバニアの国民を異質なもの、欧州に相応しくない人々と認識して今後迫害していくのではないかと私は想像しています。
http://www.crystalinks.com/tarabich.html
ミタール・タラビッチ(1829年~1899年)の予言全訳
今回はミタール・タラビッチの予言の全訳を掲載する。全体を分かりやすくするために、前回の分も一緒に掲載し、一続きの記事とした。以下が全訳である。
大きな戦争の後、世界各地に平和が訪れる。いろんな新しい国々が誕生する。黒、白、赤、黄色というような。国際的な裁判所(国連のこと)が作られ、国家が戦争をすることを許さなくなる。この裁判所(国連)はすべての王(政府)の上に立ち正しい判断をくだす。そして、憎しみと残虐性を愛と平和に変えるように努力する。このような時代に生きるものはなんと幸運なことか。
しかし、しばらくすると、偉大な王(国家)や小さな王も裁判所(国連)への尊敬を失い裁判所をだまし、自分たちの好きなようにやるようになる。これが原因で多くの小さな戦争が始まる。そして何千人もの人々が死ぬが、それでも大きな戦争は起こらない。
イスラエルでもいくつかの戦争は起こるが、この地にも最終的には平和が訪れる。これらの小さな戦争では兄弟同士が戦い、キスをして平和条約を結ぶが、憎しみは残る。これらの小さな戦争は大きな国家(アメリカやソ連)によって引き起こされたものだ。なぜなら、これらの大きな国家は悪意に満ちているからである。そして相互に戦うはめになる国々は、自らの盲目的なバカさから戦うのである。
わが国(セルビア)では平和と繁栄の時期が長く続く。何世代も人々は平和な時代に生き、人生を終わる。戦争のことを人々は、知識を収めた本や証言、そして奇妙な装置を通して知る。(テレビのことか?)
わが国(セルビア、ユーゴスラビア)多くの人々に愛され尊敬される。人々は白パンを主食とし、黒パンは欲しいときにしか食べない。人々は牛が引かない車(自動車)に乗る。そして空を飛んで旅をし、タラ山の2倍ほどもある高さから下を眺めるようにもなる。
セルビアは、青い目の白い馬に乗った人物が統治するときにもっとも繁栄する。この人物はセルビアに新しい宗教のようなものを持ち込む。彼は権力の頂点に上り、100歳に近い年齢まで健康に生きる。彼は狩りの愛好者だが、狩りの途中で誤って落馬し、足を切断する。この傷が原因で彼は死ぬ。年齢からではない。
彼の死後、国は一種の連邦制によって統治されるが、かつてのような状態には戻らない。わが国の国民は惨めさと飢えを忘れ、豊かさの中で暮らしているが、国民は互いに悪意を抱き憎むようになる。
われわれの国(セルビア)や、彼らの国の国境の先には新しい国が生まれる。新しい国々は雨後のタケノコのように誕生する。そうした国々はもともと良心的で誠実だが、われわれの憎しみには憎しみをもって応える。これらの国々は、互いに兄弟でもあるかのようにめんどうを見合う。しかしわれわれ(セルビア人)は気が狂ったようになり、自分たちは全知全能でありなんでもできると信じ、彼らに自分たちの信念を強制する。だが、こうしたことはすべて無駄に終わる。なぜなら、彼らは自分たちしか信頼しないからだ。その後、これが原因となり大きな問題が起こる。だが、わが国(セルビア)は勇敢だ。
何年もこの問題は続くが、だれも止めることはできない。なぜなら、雨後のタケノコのように新しい国々は次から次にできるからだ。あなた(叔父の神父)の死後何十年もたってから生まれる指導者は、誠実で知的な人物だ。この人物はこうした新しい国々と平和的な関係を結ぶ。彼らは向こう側に、われわれはここと向こう側に住む。われわれは平和に暮らす。
父さん、第二の大きな戦争の後、世界が平和になり人々が豊かに暮らすようになると、それがすべて幻想であることがはっきりする。なぜなら、人々は神を忘れ、人間の知性のみを崇拝するようになるからだ。でも父さん、神の意志からみると人間の知性なんてあまりにとるにたらないものだ。神が海なら、人間の知性なんて一滴の海水にもならないくらいだ。
人間はさまざまなイメージが見える箱のような装置を作る。この箱を介して私にコミュニケートしようとしても無駄だ。このとき私はすでに死んでいるのだから。でも、このイメージの箱は、向こう側の世界(死者の世界)にとても近いところにある。それは、髪の毛と頭皮との距離くらいに接近している。このイメージ装置のおかげで人々は世界中で起こっていることを見ることができるようになる。
人間は地中深くに井戸を堀り、彼らに光とスピードと動力を与える金を掘り出す。そして、地球は悲しみの涙を流すのだ。なぜなら、地中ではなく地球の表面にこそ金と光が存在するからだ。地球は、自らに開けられたこの傷口のために苦しむだろう。人々は畑で働くのではなく、正しい場所や間違った場所などあらゆる場所を掘削する。だが、本物のエネルギー源は自らの周囲にある。エネルギー源は「見えないの?あなたの周囲にある。私をとって」などと言うことはできない。長い年月がたってからやっと人間はこのエネルギー源の存在を思い出し、地中に多くの穴を開けたことがいかに馬鹿げていたのか後悔するようになる。このエネルギー源は人間の中にも存在しているが、それを発見し取り出すには長い歳月がかかる。だから人間は、自分自身の本来の姿を知ることなく、長い年月を生きるのだ。高い教育を受けた人々が現れる。彼らは本を通して多くのことを考え、自分たちがなんでもできると思い込む。彼らの存在は、人間が自分自身の真の姿に気づくことの大きな障害になる。だが、人間が一度この気づきを得ると、こうした教育ある人々の言葉に聞き入っていた自分自身がいかに大きな錯覚に陥っていたのか自覚するようになる。この本来の知識はあまりに単純なので、これをもっと早く発見しなかったことを後悔する。
人間は、何も知らないのに自分を全能だと思い込み、あらゆる馬鹿げたことをする。東洋に賢者が現れる。この人物の偉大な教えは大海と国境を越え世界に広がるが、人々はこの真実の教えをウソと決め込み、あまり長い間信じることはない。
人間の魂は悪魔にのっとられるのではない。もっと悪いものにのっとられるのだ。人間の信じているものには真実などいっさいないのに、自分たちの信じる幻想こそが真実だと思い込むのである。ここセルビアでも世界の他の地域と同様である。人々はきれいな空気を嫌い、神々しいさわやかさと美しさは、人間が作った上下関係の階層関係のもとで見えなくなってしまう。だれも彼らを強制するわけではない。人間は自分の自由意思からこうしたことを行うのだ。
ここクレムナでは、多くの畑が牧草地となり、多くの家が放棄される。でもこの地を離れたものは、きれいな空気で自分を癒そうとまた戻ってくる。セルビアでは男と女を区別することはできなくなる。みんな同じような服装になるからだ。災いは海外からやってくるが、それはわれわれの間に長くとどまることになる。新郎は花嫁をめとるが、だれがだれなのか分からなくなる。人々は自分自身が分からなくなり、なにも感じなくなる。多くの男は、自分の祖父や曾祖父がだれなのか知らない。人間は自分がすべて知っていると思っているが、実はまったくなにも知らないのだ。
セルビア人は互いに分裂し、自分たちはセルビア人ではないと言い張ることになる。邪悪なものたちがこの国を支配し、セルビア人の女性たちと寝床をともにする。セルビアの女達は邪悪なものたちの子を身ごもるが、この子供たちは、世界が始まって以来、セルビアではもっとも劣った子孫となる。虚弱なものだけが生まれ、真のヒーローが生まれることはない。
ある時期、われわれはセルビアの地から去ることになる。われわれは北に行くが、そこでこれが馬鹿な行いであったことに気づき、もといたセルビアの地に戻ってくる。戻るやいなや、賢くもわれわれは邪悪なものたちを追い払い、彼らを二度と見ることはなくなる。
(以下続く)
世界中で奇妙な伝染病が蔓延する。だれもその治療法は分からない。だが、みな「私は高い教育があり、頭がいいから治療法は分かっている」と言い張るが、だれもなにも知ってはいない。人々は考えるに考えるが、正しい治療法を見つけることはできない。だが、治療のカギとなるものは人間自身の中や周辺にあるのである。
人間は他の世界(惑星)に旅行するが、そこでは生命が存在しない砂漠を発見するだけである。神よ、許したまえ。彼らは自分たちが神よりも全知全能であると信じているのです。そこでは神が創造した静けさだけがあるが、心の底では人々は神の美と力を見るのである。月や星では人々は馬車のようなものを運転する。彼らは生物を探すが、われわれに似た生物は見つかることはない。生命はそこに存在しているが、彼らはそれが生命であることを理解しないし、知ることもない。
他の星に行ったものたちは、この時代の常識的な考えとして神をまったく信じていないが、地球に戻ってきたあと、「みなさんは神の存在を疑っているだろうが、私の行ってきた世界に行ってごらんなさい。神の意志と力を見ることになる」と言うだろう。
知識が増大するにつれ、彼らは互いを愛したり心配したりすることはなくなる。彼ら相互の憎しみはあまりに大きく、彼らは自分の親戚のことよりも、自分たちのもっている所有物や小物のことを気にかける。人々は、自分の隣人よりも、自分がもっているいろいろな機械や装置のほうを信頼する。
北方にある国の国民で、愛と慈悲を人々にといてまわる小男が現れる。しかし、彼の周囲には多くの偽善者がおり、多くの浮き沈みを経験する。こうした偽善者のだれも人間の真の偉大さとはなにかを知ろうとはしない。だが、この人物の書いた本と話した言葉は残るので、人々は自分たちがいかに自己欺瞞に陥っていたのか気づくようになる。
多くの数字が書かれた本を読んだり書いたりするものが、自分たちがもっともよくものを知っていると考える。これらの教育のある人々は、自分の人生を計算に基づいて送ろうとし、数値の命ずるままに行動する。こうした人々の中にも悪人と善人が存在する。悪人は悪い行いする。彼らは空気と水、そして河川や土地を汚染し、このため人々はさまざまな病気で突然と死ぬようになる。善人で賢いものたちは、彼らの努力にはなんの価値もなく、ただ世界を破壊するだけであることを悟り、数字に答えを見いだすのではなく、瞑想を通して真実を発見しようとする。
彼らが瞑想すると神の知恵に近付いて行く。だが、ときはすでに遅すぎた。悪意をもつものたちが全世界を荒らし回っており、巨大な数の人々がすでに死にはじめているからである。人々は都市から逃げ出し、田舎に避難する。人々は十字が三つ並んだ山を探す。その中では人々は息をすることができ、水も飲むことができる。この中に逃げ込んだものたちは、自分も家族もともに救うことができる。だが、それは長くは続かない。なぜなら、すごい飢饉が襲うからだ。町や村には十分に食べ物がある、だが、それらは汚染されている。飢えた人々はそれを食べるが、食べたとたんに死んでしまう。早く死んだものたちこそ逆に生き延びるのだ。なぜなら、聖霊に助けられ神に近付くことができるからだ。
もっとも怒ったものたちが、もっとも強大で恐ろしいものたちを攻撃する。
このひどい戦争を空で戦うものたちには大変な災いとなる。陸上や海上で戦うものたちのほうがまだましだ。
この戦争を戦うものたちは、科学者に奇妙な大砲の弾を作らせる。それが爆発すると、人を殺すのではなく人間や動物に呪いをかける。この呪いで人々は戦うかわりに眠りに眠りこむ。
セルビアはこの戦争に参戦することはない。だが、わが国の上空で別の国の軍が戦う。ポゼガという町の近くで、空から焼け焦げた人々が落ちてくる。世界の果てにあり、大海原に囲まれ、ヨーロッパくらいの大きさの国だけがなんの問題もなく平和に生き残る。この国では大砲の弾はひとつも爆発することはない。
三つの十字のある山に逃げ込んだものたちだけが避難場所を見つけ、愛と幸福に満たされ、豊かに暮らすことができる。なぜならもう戦争は起こらないからである。
以上である。
19世紀の半ばに行われたとは思えないほどの臨場感のある予言だ。旧ユーゴスラビアのチトー大統領の死後、特に1990年以降、ユーゴスラビアはセルビア、スロベニア、クロアチア、モンテネグロ、マケドニア、ボスニア・ヘルツェコビナなどの小国に分裂し、セルビアの民族主義政権の暴政から内戦状態となったが、そうした状況が実によく説明されている。
「新しい国々は雨後のタケノコのように誕生する。そうした国々はもともと良心的で誠実だが、われわれの憎しみには憎しみをもって応える。これらの国々は、互いに兄弟でもあるかのようにめんどうを見合う。しかしわれわれ(セルビア人)は気が狂ったようになり、自分たちは全知全能でありなんでもできると信じ、彼らに自分たちの信念を強制する」
ところで、タラビッチのこの予言が初めて英語に翻訳され、ネットで公表されたのは、コソボ紛争が勃発した1999年のことである。この時の翻訳者は脚注で非常に興味深い指摘をしている。いまそのサイトはなくなっているが、幸いにも筆者はだいぶ以前にサイトをコピーし保存していた。それは以下のような脚注であった。
※彼らは向こう側に、われわれはここと向こう側に住む=これは1999年のクロアチアの状態だろう。タラビッチが「彼らは向こう側に、われわれはここと向こう側に住む」というとき、「彼は」を「クロアチア人」、「われわれ」を「セルビア人」と理解すると「クロアチア人」は「クロアチア」に住み、「セルビア人」は「セルビアとクロアチア」に住むということになる。
※多くの数字が書かれた本=これはコンピュータのプログラミングのことではないのだろうか。
※三つの十字のある山=「三つの十字」とは核シェルターの扉のように見える。核シェルターの扉には、これを開けるためのハンドルがついており、それは十字のように見えるからだ。するとこの「山」は核シェルターのことであろう。
※世界の果てにあり、大海原に囲まれ、ヨーロッパくらいの大きさの国=これはおそらくオーストラリアのことであろう。