●韓国語と日本語のあいだ 宋敏 発行:草風館 1999年 p86-89
高句麗語の再認識
現存する80余りの高句麗語の語彙のうち4個の数詞を含む30余りの語彙が古代日本語と対応するということだった。従って琉球語を除けば高句麗語は日本語と最も近い言語だと言いうる様になったわけである。それだけでなく高句麗はツングース語等とも多くの共通言語材を持っていてアルタイ語という心証を固めてくれるが、村山七郎は東部アルタイ語の系統関係を次の様に見ている(高句麗語と朝鮮語の関係に関する研究、朝鮮學報第26巻、1963年)
アルタイ共通語→東部アルタイ語→原始韓系言語→新羅語→朝鮮語
→倭・高句麗共通語→原始高句麗語→高句麗語
→倭語→古代日本語
→先ツングース語→満州・ツングース共通語→満州語
→ツングース語
●日本に残る高麗(コマ)の地名 — erikspace
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Info
日本に残る高麗(コマ)の地名
作者: takizawa at 2010年10月22日 02時40分 | Permalink
Filed under: 朱蒙
高句麗は、当時の日本では高麗(こま)と呼ばれていたようだ。従って、現在日本の各地に残る「こま」の地名は、高句麗に由来する可能性が高い。(10世紀になって建国された高麗(こうらい)と混同しがちだが、後述するように8世紀初頭には武蔵国に 高麗郡(こまぐん)が設置されていたので、一般に「こま」と言えば高句麗とみなすべきである)
ちなみに神社の入り口に鎮座する狛犬(こまいぬ)とは、「高麗の犬」のように思えるが「こま」でもなければ「犬」でもない。その起源はインドにさかのぼり、その姿も犬ではなく獅子だというのが本当のところらしい。(当時の日本人は獅子を知らなかった)
•東京都狛江(こまえ)市・・・市内にある亀塚古墳を高句麗式とする説もあり
•京都府木津川市山代町上狛
•京都府相良郡精華町下狛
•奈良県桜井市狛
•山梨県南巨摩(みなみこま)郡
•埼玉県日高市高麗本郷
•神奈川県中郡大磯町高麗
•京都府乙訓郡大山崎町大山崎高麗田
•大阪府大阪市中央区高麗橋
•徳島県鳴門市大麻町桧高麗
•鹿児島県鹿児島市高麗町
http://erik.atnifty.com/vocation/jumong/jum05
●高句麗と日本 — erikspace
作者: takizawa at 2010年10月22日 02時35分 | Permalink
Filed under: 朱蒙
高句麗と日本(当時は「倭(わ)」と呼ばれていた)の関係について史実を追ってみよう。
具体的な年代が明らかなものとしては、高句麗の隆盛期を迎えた4世紀後半の広開土王(在位391-412年)の時代に倭と高句麗が直接交戦した事実がある。(広開土王碑にその記述がある)
この時期、高句麗は朝鮮半島南部を支配下に置こうと積極的に南下し、既に成立していた百済・新羅と抗戦を続けていた。(いわゆる三国時代)
半島南部に近い倭(日本)は、当然南側の国家、特に百済との関係を強め、高句麗の南下を抑えようとした。(中国の歴史書には、百済の「住民の多くが中国人や倭人」とする記述もあるらしい)
また、5世紀に入ると、外交・軍事上の立場を有利にするため、倭の五王が宋(中国)に何度となく使いを送って朝貢していた事実がある。(「宋書」倭国条に見られる記述)
高句麗・百済・新羅の三国間の争いは7世紀まで続くが、最終的には、7世紀はじめに起こった唐(中国)と結託した新羅が660年に百済を、668年に高句麗を滅ぼし、676年に半島を統一することになる。
百済の滅亡後も各地に残っていた遺臣が百済の復興を掲げた。倭は、これに加担して朝鮮半島での優位性を復活させようと、救援のための大軍を派遣するが、結局唐・新羅の連合軍に大敗した。(これが663年の「 白村江の戦い」である)
7世紀後半、百済・高句麗の滅亡前後には、多くの人たちが日本に亡命することとなった。百済からは王族・貴族を含む数万人。そして、高句麗から日本に逃れてきた遺民たちもいた。その内の一人が、後述する 高麗王若光(こまのこきしじゃっこう)である。
http://erik.atnifty.com/vocation/jumong/jum04
●やはり朱蒙の末裔が日本にいた? — erikspace
作者: takizawa at 2010年10月22日 10時20分 | Permalink
Filed under: 朱蒙
前回、高句麗の王族の血を引く高麗王若光が日本に帰化し、その子孫が現在も高麗神社(埼玉県日高市)で宮司を務めているという事実を指摘した。
ところが、自ら朱蒙(東明聖王)の子孫であることを公言する人がいたのである。
高麗恵子(プロフィールはこちら)
苗字からしておそらく若光の子孫・一族であることは間違いないのだろう。問題は若光その人が朱蒙の直系なのか、単にその親戚だったのかということだ。(a=b、b=cならa=cが成り立つということ)
まあ、そこまで厳密に考えてもしかたないのかもしれないが、一応検討してみよう。
高句麗王系図
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Genealogy_of_Goguryeo.png
高句麗最後の王の名は、宝蔵王。上の系図をそのまま信じるならば、彼は朱蒙の直系ということになる。生年不詳だが在位は642年から668年。その息子の名が、男福(福男)・任武・徳武・安勝ということらしいが、この中の一人が若光だったのだろうか。
一方、若光が日本にやってきたのは666年。その後716年武蔵国高麗郡がおかれた時の首長(今で言えば県知事みたいなものか)を務めているので、来日後50年以上は生きていたことになる。当時の寿命がどれぐらいか正確にはわからないが、推測するに日本へやってきたときはまだ幼少だったはず。とすれば常識的に考えて生まれたのは650年以降だろう。
宝蔵王の祖父である平原王が亡くなったのは590年、その長男である嬰陽王は618年、次男(異母弟)栄留王は642年に亡くなっているので若光はいずれの子でもないことになる。問題は栄留王の弟であり宝蔵王の父でもある太陽王。彼はなぜか王位にはつかず、宝蔵王が栄留王の後を継いでいる。
ここで見逃してはならないひとつの事実がある。
実は栄留王は家臣の淵蓋蘇文によって殺害され、その淵蓋蘇文によって擁立されたのが宝蔵王だったということだ。つまりクーデターがあったのだ。当時高句麗は対外的に非常に緊迫した時期だった。穏健派の栄留王が唐と親善をはかろうとしていたのに対し、淵蓋蘇文は強硬策に走る。結果、国は滅びてしまったわけだが。
淵蓋蘇文が太陽王ではなく宝蔵王を擁立したというのは、つまりその方が彼にとって都合よかったからだ。おそらく王位についたとき(642年)宝蔵王はまだ小さな子供だったのだろう。
だとすれば、若光が宝蔵王の兄弟であるという説もギリギリ成り立ちそうだ。
隣国から攻められ、家臣によって王が殺されるという、そんな不安定な時代にあって、ひとりの若者(赤ん坊?)に高句麗の未来を託そうと意図した人物が、どこかにいたのかもしれない。
http://erik.atnifty.com/vocation/jumong/jum11
●朱蒙の末裔が現代の日本に実在する? — erikspace
作者: takizawa at 2010年10月22日 02時40分 | Permalink
Filed under: 朱蒙
神奈川県平塚市の西側を流れる花水川を渡ると、「高麗(こま)山」という名前の小高い山がある。この周辺が「高麗」という地名である(行政区は「中 郡大磯町」)。高麗山の麓には「高来(たかく)神社」という神社があるが、かつては「高麗(こうらい)神社」という名前だった。地元の言い伝えによれば、 唐により滅ぼされた高句麗の王族の一人若光(じゃっこう)が一族を率いて来航し、大磯に上陸して高麗山の麓、化粧坂のあたりに住み着いたのがその由来とい うこと。
しかし、若光は伝説の人ではなく、「日本書紀」にもそれに該当する人物の名(天智5年10月条 高句麗から来日した進調使「二位玄武若光」)が見られる。そして、彼のその後の足取りも明白である。
「続日本紀」によれば、「716年5月に駿河、甲斐、相模、上総、下総、常陸、下野7か国から高句麗人1,779人を武蔵国に移し、高麗郡を設置し た」とある。この際、若光は首長を命ぜられて郡を治めることになるのだが、再び「続日本紀」によれば、703年に「従五位下高麗若光に王姓を賜う」とある ので、郡司就任前に位を授けられたことになる。もともと高麗の王族であったこともあるのかもしれないが、相当に優れた人材であることを認められていたのだ ろう。(「王」の姓を賜ったとあるが、これは「おう」ではなく「こきし」と読む。)
ところで、若光が来日した666年は高句麗滅亡の2年前である。いわば緊急避難的脱出とも考えられるわけで、王族の一人という情報しか残されていな いが、高句麗にとっても極めて貴重な人材・血筋であった可能性は高い。だとすれば、彼が高句麗の初代王(朱蒙)の子孫である可能性も無いとはいえないだろ う。
そして、ここからがさらに重要なのだが、若光の子孫が現代の日本にも実在するのである。埼玉県日高市にある高麗神社の現在の宮司さん(60代目)がその人である。だから、もしかしたら朱蒙の末裔が日本に存在する、というのは事実かもしれない。
高麗神社:埼玉県日高市
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E9%BA%97%E7%A5%9E%E7%A4%BE
ちなみに高麗神社は「出世明神」とも呼ばれ、参拝に訪れた水野錬太郎、若槻禮次郎、浜口雄幸、斎藤実、鳩山一郎等が後に総理大臣に就任した実績があ るのだとか。それにあやかろうと言う魂胆なのか、自民党「谷垣禎一」氏の真新しい芳名録も見られた。そのほかにも、芸能人や各界の著名人、来日した韓国の 要人が多数参拝しているとのこと。やはり、何かありそうな雰囲気を感じさせる。
http://erik.atnifty.com/vocation/jumong/jum06
●(cache) 諏訪春雄通信 50
朝鮮で高句麗や百済を建国した夫余族はツングース系の遊牧民族でした。
http://megalodon.jp/2008-1107-1735-41/www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f06/suwa50.htm
●高句麗語の研究を勉強する
http://www.dai3gen.net/kg0.htm
●高句麗語 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%8F%A5%E9%BA%97%E8%AA%9E
●高麗神社
高麗神社の主祭神は、かつて朝鮮半島北部に栄えた高句麗からの渡来人高麗王若光(こまのこきしじゃっこう・
「王」は 他に「こしき」「こにしき」「こにきし」などとも読む)です。
最盛期は5世紀の「広開土王(こうかいどおう)」、「長寿王(ちょうじゅおう)」治世の100年間で、中華人民共和国吉林省集安県にある「広開土王碑」から、そのころの高句麗の強勢ぶりをうかがうことができます。
若光が渡来した年代についての社伝はありませんが『日本書紀』天智天皇称制5年(666年)10月高句麗から派遣された使節の中に「若光」の名があります。
『続日本紀』文武天皇大宝3年(703年)に「従五位下高麗若光に王の姓を賜う」と記されており、高句麗が668年に唐と新羅によって滅ぼされてしまったことを考えると、『日本書紀』にある「若光」と当社の御祭神である「高麗王若光」は同一人物と思われます。
若光は元正天皇霊亀2年(716年)武蔵国に新設された高麗郡の首長として当地に赴任してきました。当時の高麗郡は未開の原野であったといわれ、若光は、駿河(静岡)甲斐(山梨)相模(神奈川)上総・下総(千葉)常陸(茨城)下野(栃木)の各地から移り住んだ高麗人(高句麗人)1799人とともに当地の開拓に当たりました。若光が当地で没した後、高麗郡民はその徳を偲び、御霊を「高麗明神」として祀りました。これが当社創建の経緯です。
高麗神社は、若光の子孫が代々宮司を務め、現宮司は60代目になります。
高麗郡は明治29年(1896年)入間郡に合併されましたが、当社はその後も広く崇敬を受けてまいりました。特に浜口雄幸、若槻禮次郎、斉藤実、小磯国昭、幣原喜重郎、鳩山一郎らが当社参拝後相次いで総理大臣となったことから「出世明神」と広く知られるようにもなりました。現在は年間約40万人の参拝があります。
第1駐車場内の将軍標(しょうぐんひょう・チャンスン)チャンスンは朝鮮半島の古い風習で、村の入り口に魔除けのために建てられました。将軍標は平成4年に大韓民国民団埼玉県地方本部によって奉納されたものです。
http://www.komajinja.or.jp/rekisi.html
【私のコメント】
紀元前37年から668年まで朝鮮半島北部から満州南部にかけて存在した高句麗は高句麗語を使用していた。この高句麗語は琉球語の次に古代日本語に近い言語であったという。高句麗語と最も近い言語は古代日本語であり新羅語や古代朝鮮語はやや遠い関係になる。倭・高句麗共通語が村山七郎によって提唱されている。これに反論する学者がほぼ全て韓国系であることは韓国の伝統である歴史捏造と評価すべきであろう。恐らく日本は高句麗と兄弟民族の関係にある。トルコ・モンゴル・朝鮮民族は従兄弟か又従兄弟ぐらいか。高句麗遺民が建国に参加した渤海も日本の兄弟国家と見なせるだろう。日本と渤海の頻繁な交流は注目される。
言語は文化の最も重要な要素である。外見上欧州人と区別困難なイスタンブールのトルコ人やハンガリー人・フィンランド人・エストニア人はウラル・アルタイ語(ツラン)という繋がりによって、日本と同じ北方アジア系の文化を共有している。東欧に多数居住しロシア革命の原動力となり現在は米国やイスラエルで巨大な政治力を有するハザール系ユダヤ人もおそらくこのツラン系民族の一員である。ベリヤの親類であったソ連高官のカガノビッチ、クリントン政権の国防長官であったウィリアム・コーエン(Cohen)は名前から考えてハザール汗国の王である可汗(カガン)の子孫だろう。チンギス・カンと同様に中央アジア遊牧民族の王はカン、カーン、汗、可汗などと自称するからだ。米国の新国務長官であるケリー上院議員も先祖は東欧のアシュケナジー系ユダヤ人でコーン(Kohn)という苗字であり、ハザール汗国の可汗の一族かもしれない。
モンゴロイドは北方系と南方系に分類される。氷河期に前者は南シベリア、後者は東南アジアの現在は南シナ海やインドネシア近海の海となっている低地(スンダランド)で生活し、その後アジア大陸や米国に移住した。ウラル・アルタイ系民族、揚子江より北の漢民族、チベット人、アメリカ先住民は全て北方モンゴロイドの子孫である。ただし、欧州に移住した集団は混血により北方モンゴロイドの外見を失っている。ハザール系ユダヤ人を満州に移住させるというかつての河豚計画はツラン民族の絆という観点から見ることが出来る。
高句麗滅亡の2年前に来日した高句麗政府高官(恐らく王族)が日本に帰化し、後に武蔵国に高句麗出身移民とともに高麗郡を作りその首長に命じられ、その直系の子孫が高麗神社の宮司を勤めている。これは高句麗王室の子孫かもしれない。
高句麗を滅亡させたのはモンゴル高原の遊牧民族鮮卑族が中国北部に侵入して建国した随と唐である。聖徳太子が超大国随に不遜な国書を送ったこと、白村江で日本が唐と戦ったことは、高句麗との兄弟関係が関係している可能性がある。セルビア人に民族・言語・宗教で兄弟関係にあるロシアがその関係故にセルビアを支持して第一次大戦に参戦したのと似ている。民族の絆を重視することは国益の純粋な追求を阻害することにも繋がる。この観点から、私はツラン同盟や河豚計画には反対する。
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高句麗語の再認識
現存する80余りの高句麗語の語彙のうち4個の数詞を含む30余りの語彙が古代日本語と対応するということだった。従って琉球語を除けば高句麗語は日本語と最も近い言語だと言いうる様になったわけである。それだけでなく高句麗はツングース語等とも多くの共通言語材を持っていてアルタイ語という心証を固めてくれるが、村山七郎は東部アルタイ語の系統関係を次の様に見ている(高句麗語と朝鮮語の関係に関する研究、朝鮮學報第26巻、1963年)
アルタイ共通語→東部アルタイ語→原始韓系言語→新羅語→朝鮮語
→倭・高句麗共通語→原始高句麗語→高句麗語
→倭語→古代日本語
→先ツングース語→満州・ツングース共通語→満州語
→ツングース語
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日本に残る高麗(コマ)の地名
作者: takizawa at 2010年10月22日 02時40分 | Permalink
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高句麗は、当時の日本では高麗(こま)と呼ばれていたようだ。従って、現在日本の各地に残る「こま」の地名は、高句麗に由来する可能性が高い。(10世紀になって建国された高麗(こうらい)と混同しがちだが、後述するように8世紀初頭には武蔵国に 高麗郡(こまぐん)が設置されていたので、一般に「こま」と言えば高句麗とみなすべきである)
ちなみに神社の入り口に鎮座する狛犬(こまいぬ)とは、「高麗の犬」のように思えるが「こま」でもなければ「犬」でもない。その起源はインドにさかのぼり、その姿も犬ではなく獅子だというのが本当のところらしい。(当時の日本人は獅子を知らなかった)
•東京都狛江(こまえ)市・・・市内にある亀塚古墳を高句麗式とする説もあり
•京都府木津川市山代町上狛
•京都府相良郡精華町下狛
•奈良県桜井市狛
•山梨県南巨摩(みなみこま)郡
•埼玉県日高市高麗本郷
•神奈川県中郡大磯町高麗
•京都府乙訓郡大山崎町大山崎高麗田
•大阪府大阪市中央区高麗橋
•徳島県鳴門市大麻町桧高麗
•鹿児島県鹿児島市高麗町
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作者: takizawa at 2010年10月22日 02時35分 | Permalink
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高句麗と日本(当時は「倭(わ)」と呼ばれていた)の関係について史実を追ってみよう。
具体的な年代が明らかなものとしては、高句麗の隆盛期を迎えた4世紀後半の広開土王(在位391-412年)の時代に倭と高句麗が直接交戦した事実がある。(広開土王碑にその記述がある)
この時期、高句麗は朝鮮半島南部を支配下に置こうと積極的に南下し、既に成立していた百済・新羅と抗戦を続けていた。(いわゆる三国時代)
半島南部に近い倭(日本)は、当然南側の国家、特に百済との関係を強め、高句麗の南下を抑えようとした。(中国の歴史書には、百済の「住民の多くが中国人や倭人」とする記述もあるらしい)
また、5世紀に入ると、外交・軍事上の立場を有利にするため、倭の五王が宋(中国)に何度となく使いを送って朝貢していた事実がある。(「宋書」倭国条に見られる記述)
高句麗・百済・新羅の三国間の争いは7世紀まで続くが、最終的には、7世紀はじめに起こった唐(中国)と結託した新羅が660年に百済を、668年に高句麗を滅ぼし、676年に半島を統一することになる。
百済の滅亡後も各地に残っていた遺臣が百済の復興を掲げた。倭は、これに加担して朝鮮半島での優位性を復活させようと、救援のための大軍を派遣するが、結局唐・新羅の連合軍に大敗した。(これが663年の「 白村江の戦い」である)
7世紀後半、百済・高句麗の滅亡前後には、多くの人たちが日本に亡命することとなった。百済からは王族・貴族を含む数万人。そして、高句麗から日本に逃れてきた遺民たちもいた。その内の一人が、後述する 高麗王若光(こまのこきしじゃっこう)である。
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前回、高句麗の王族の血を引く高麗王若光が日本に帰化し、その子孫が現在も高麗神社(埼玉県日高市)で宮司を務めているという事実を指摘した。
ところが、自ら朱蒙(東明聖王)の子孫であることを公言する人がいたのである。
高麗恵子(プロフィールはこちら)
苗字からしておそらく若光の子孫・一族であることは間違いないのだろう。問題は若光その人が朱蒙の直系なのか、単にその親戚だったのかということだ。(a=b、b=cならa=cが成り立つということ)
まあ、そこまで厳密に考えてもしかたないのかもしれないが、一応検討してみよう。
高句麗王系図
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Genealogy_of_Goguryeo.png
高句麗最後の王の名は、宝蔵王。上の系図をそのまま信じるならば、彼は朱蒙の直系ということになる。生年不詳だが在位は642年から668年。その息子の名が、男福(福男)・任武・徳武・安勝ということらしいが、この中の一人が若光だったのだろうか。
一方、若光が日本にやってきたのは666年。その後716年武蔵国高麗郡がおかれた時の首長(今で言えば県知事みたいなものか)を務めているので、来日後50年以上は生きていたことになる。当時の寿命がどれぐらいか正確にはわからないが、推測するに日本へやってきたときはまだ幼少だったはず。とすれば常識的に考えて生まれたのは650年以降だろう。
宝蔵王の祖父である平原王が亡くなったのは590年、その長男である嬰陽王は618年、次男(異母弟)栄留王は642年に亡くなっているので若光はいずれの子でもないことになる。問題は栄留王の弟であり宝蔵王の父でもある太陽王。彼はなぜか王位にはつかず、宝蔵王が栄留王の後を継いでいる。
ここで見逃してはならないひとつの事実がある。
実は栄留王は家臣の淵蓋蘇文によって殺害され、その淵蓋蘇文によって擁立されたのが宝蔵王だったということだ。つまりクーデターがあったのだ。当時高句麗は対外的に非常に緊迫した時期だった。穏健派の栄留王が唐と親善をはかろうとしていたのに対し、淵蓋蘇文は強硬策に走る。結果、国は滅びてしまったわけだが。
淵蓋蘇文が太陽王ではなく宝蔵王を擁立したというのは、つまりその方が彼にとって都合よかったからだ。おそらく王位についたとき(642年)宝蔵王はまだ小さな子供だったのだろう。
だとすれば、若光が宝蔵王の兄弟であるという説もギリギリ成り立ちそうだ。
隣国から攻められ、家臣によって王が殺されるという、そんな不安定な時代にあって、ひとりの若者(赤ん坊?)に高句麗の未来を託そうと意図した人物が、どこかにいたのかもしれない。
http://erik.atnifty.com/vocation/jumong/jum11
●朱蒙の末裔が現代の日本に実在する? — erikspace
作者: takizawa at 2010年10月22日 02時40分 | Permalink
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神奈川県平塚市の西側を流れる花水川を渡ると、「高麗(こま)山」という名前の小高い山がある。この周辺が「高麗」という地名である(行政区は「中 郡大磯町」)。高麗山の麓には「高来(たかく)神社」という神社があるが、かつては「高麗(こうらい)神社」という名前だった。地元の言い伝えによれば、 唐により滅ぼされた高句麗の王族の一人若光(じゃっこう)が一族を率いて来航し、大磯に上陸して高麗山の麓、化粧坂のあたりに住み着いたのがその由来とい うこと。
しかし、若光は伝説の人ではなく、「日本書紀」にもそれに該当する人物の名(天智5年10月条 高句麗から来日した進調使「二位玄武若光」)が見られる。そして、彼のその後の足取りも明白である。
「続日本紀」によれば、「716年5月に駿河、甲斐、相模、上総、下総、常陸、下野7か国から高句麗人1,779人を武蔵国に移し、高麗郡を設置し た」とある。この際、若光は首長を命ぜられて郡を治めることになるのだが、再び「続日本紀」によれば、703年に「従五位下高麗若光に王姓を賜う」とある ので、郡司就任前に位を授けられたことになる。もともと高麗の王族であったこともあるのかもしれないが、相当に優れた人材であることを認められていたのだ ろう。(「王」の姓を賜ったとあるが、これは「おう」ではなく「こきし」と読む。)
ところで、若光が来日した666年は高句麗滅亡の2年前である。いわば緊急避難的脱出とも考えられるわけで、王族の一人という情報しか残されていな いが、高句麗にとっても極めて貴重な人材・血筋であった可能性は高い。だとすれば、彼が高句麗の初代王(朱蒙)の子孫である可能性も無いとはいえないだろ う。
そして、ここからがさらに重要なのだが、若光の子孫が現代の日本にも実在するのである。埼玉県日高市にある高麗神社の現在の宮司さん(60代目)がその人である。だから、もしかしたら朱蒙の末裔が日本に存在する、というのは事実かもしれない。
高麗神社:埼玉県日高市
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E9%BA%97%E7%A5%9E%E7%A4%BE
ちなみに高麗神社は「出世明神」とも呼ばれ、参拝に訪れた水野錬太郎、若槻禮次郎、浜口雄幸、斎藤実、鳩山一郎等が後に総理大臣に就任した実績があ るのだとか。それにあやかろうと言う魂胆なのか、自民党「谷垣禎一」氏の真新しい芳名録も見られた。そのほかにも、芸能人や各界の著名人、来日した韓国の 要人が多数参拝しているとのこと。やはり、何かありそうな雰囲気を感じさせる。
http://erik.atnifty.com/vocation/jumong/jum06
●(cache) 諏訪春雄通信 50
朝鮮で高句麗や百済を建国した夫余族はツングース系の遊牧民族でした。
http://megalodon.jp/2008-1107-1735-41/www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f06/suwa50.htm
●高句麗語の研究を勉強する
http://www.dai3gen.net/kg0.htm
●高句麗語 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%8F%A5%E9%BA%97%E8%AA%9E
●高麗神社
高麗神社の主祭神は、かつて朝鮮半島北部に栄えた高句麗からの渡来人高麗王若光(こまのこきしじゃっこう・
「王」は 他に「こしき」「こにしき」「こにきし」などとも読む)です。
最盛期は5世紀の「広開土王(こうかいどおう)」、「長寿王(ちょうじゅおう)」治世の100年間で、中華人民共和国吉林省集安県にある「広開土王碑」から、そのころの高句麗の強勢ぶりをうかがうことができます。
若光が渡来した年代についての社伝はありませんが『日本書紀』天智天皇称制5年(666年)10月高句麗から派遣された使節の中に「若光」の名があります。
『続日本紀』文武天皇大宝3年(703年)に「従五位下高麗若光に王の姓を賜う」と記されており、高句麗が668年に唐と新羅によって滅ぼされてしまったことを考えると、『日本書紀』にある「若光」と当社の御祭神である「高麗王若光」は同一人物と思われます。
若光は元正天皇霊亀2年(716年)武蔵国に新設された高麗郡の首長として当地に赴任してきました。当時の高麗郡は未開の原野であったといわれ、若光は、駿河(静岡)甲斐(山梨)相模(神奈川)上総・下総(千葉)常陸(茨城)下野(栃木)の各地から移り住んだ高麗人(高句麗人)1799人とともに当地の開拓に当たりました。若光が当地で没した後、高麗郡民はその徳を偲び、御霊を「高麗明神」として祀りました。これが当社創建の経緯です。
高麗神社は、若光の子孫が代々宮司を務め、現宮司は60代目になります。
高麗郡は明治29年(1896年)入間郡に合併されましたが、当社はその後も広く崇敬を受けてまいりました。特に浜口雄幸、若槻禮次郎、斉藤実、小磯国昭、幣原喜重郎、鳩山一郎らが当社参拝後相次いで総理大臣となったことから「出世明神」と広く知られるようにもなりました。現在は年間約40万人の参拝があります。
第1駐車場内の将軍標(しょうぐんひょう・チャンスン)チャンスンは朝鮮半島の古い風習で、村の入り口に魔除けのために建てられました。将軍標は平成4年に大韓民国民団埼玉県地方本部によって奉納されたものです。
http://www.komajinja.or.jp/rekisi.html
【私のコメント】
紀元前37年から668年まで朝鮮半島北部から満州南部にかけて存在した高句麗は高句麗語を使用していた。この高句麗語は琉球語の次に古代日本語に近い言語であったという。高句麗語と最も近い言語は古代日本語であり新羅語や古代朝鮮語はやや遠い関係になる。倭・高句麗共通語が村山七郎によって提唱されている。これに反論する学者がほぼ全て韓国系であることは韓国の伝統である歴史捏造と評価すべきであろう。恐らく日本は高句麗と兄弟民族の関係にある。トルコ・モンゴル・朝鮮民族は従兄弟か又従兄弟ぐらいか。高句麗遺民が建国に参加した渤海も日本の兄弟国家と見なせるだろう。日本と渤海の頻繁な交流は注目される。
言語は文化の最も重要な要素である。外見上欧州人と区別困難なイスタンブールのトルコ人やハンガリー人・フィンランド人・エストニア人はウラル・アルタイ語(ツラン)という繋がりによって、日本と同じ北方アジア系の文化を共有している。東欧に多数居住しロシア革命の原動力となり現在は米国やイスラエルで巨大な政治力を有するハザール系ユダヤ人もおそらくこのツラン系民族の一員である。ベリヤの親類であったソ連高官のカガノビッチ、クリントン政権の国防長官であったウィリアム・コーエン(Cohen)は名前から考えてハザール汗国の王である可汗(カガン)の子孫だろう。チンギス・カンと同様に中央アジア遊牧民族の王はカン、カーン、汗、可汗などと自称するからだ。米国の新国務長官であるケリー上院議員も先祖は東欧のアシュケナジー系ユダヤ人でコーン(Kohn)という苗字であり、ハザール汗国の可汗の一族かもしれない。
モンゴロイドは北方系と南方系に分類される。氷河期に前者は南シベリア、後者は東南アジアの現在は南シナ海やインドネシア近海の海となっている低地(スンダランド)で生活し、その後アジア大陸や米国に移住した。ウラル・アルタイ系民族、揚子江より北の漢民族、チベット人、アメリカ先住民は全て北方モンゴロイドの子孫である。ただし、欧州に移住した集団は混血により北方モンゴロイドの外見を失っている。ハザール系ユダヤ人を満州に移住させるというかつての河豚計画はツラン民族の絆という観点から見ることが出来る。
高句麗滅亡の2年前に来日した高句麗政府高官(恐らく王族)が日本に帰化し、後に武蔵国に高句麗出身移民とともに高麗郡を作りその首長に命じられ、その直系の子孫が高麗神社の宮司を勤めている。これは高句麗王室の子孫かもしれない。
高句麗を滅亡させたのはモンゴル高原の遊牧民族鮮卑族が中国北部に侵入して建国した随と唐である。聖徳太子が超大国随に不遜な国書を送ったこと、白村江で日本が唐と戦ったことは、高句麗との兄弟関係が関係している可能性がある。セルビア人に民族・言語・宗教で兄弟関係にあるロシアがその関係故にセルビアを支持して第一次大戦に参戦したのと似ている。民族の絆を重視することは国益の純粋な追求を阻害することにも繋がる。この観点から、私はツラン同盟や河豚計画には反対する。
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なんでもビュルム氷河期が明けた頃、日本の縄文人が西へ旅に出たところ、中東辺りでケルト人と出合って、混血したのだろうな。
その日本の縄文人がしばらくして、日本に何段階かに分かれて帰って来て、何段階目かに帰国時に一緒に連れられて帰ってきた他の連中を弥生人というのだそうです。指導者は例の出戻り縄文人だったらしいです。
それで、その頃、日本には残留縄文人が暮らしていたのだが、いろいろと悶着があったとのこと。
その旅する出戻り縄文人は、旅の途中に世界各地で国家を作りながらして、日本に帰国したそうな。何千年かかったことやら。
信じるも信じないもあなた次第です。
高句麗も日本も鉄器技術を持つアーリア系民族であり、もともと同じ国家として北西アジアに侵攻したと考えたほうが矛盾がなくなる。ゲルマン人との共通文化を含め。
現に万里の長城を漢民族につくらせた集団が馬にのった野蛮人と考えることに無理がある。現在の人種がモンゴロイド的だからと言って先祖となる民族がモンゴロイドとはかぎらない。征服によって生産基盤(稲作)、DNA、も被征服者から奪っていくのだから。現に遼東半島に白人が住んでいたのは明確になっている。
神武天皇はヒムカイの国より東征にでたと記紀にあるが。ヒムカイ人はヒムカイトであり英語のヒッタイトともおもわれる。また、「日本」の2字を1字に合わせるとほぼ「東」すなわち「ヒムカイ」である。また、別称「倭奴」はヒッタイトの別名「ヒト」と合致する。
さらに、旧唐書に日本が倭を征服したとあるが、ヨーロッパでもアナトリアにあったヒト国をヒッタイトが征服したとある。これらのことより、日本語高句麗語は西から侵攻した印欧語族であり、その占領地で先住民語がクレオール化したのがウラルアルタイ語群ではないのか。大陸の日本(ヒムカイ:ヒッタイト)語、民族は滅び太平洋にのみ生息し続けたのではないか。
日本国家の最重要祭祀である新嘗祭はクリスマスの原型と一致する。
扶とは太陽である。
扶桑とは中国人のつけた日本国の美称である。
つまり、扶余とは「日本の余り」であり、神武東征後の大陸残留日本人のことである。
遊牧民がそのまま中国に対抗し得る国になれるはずがない。万里の長城は古代から昭和にいたるまで日(ヒッタイト)中国境であった。
ヒッタイトはもともと南ロシアの穀倉地帯を本拠とした農耕民族であり、鉄器を発明した後、被支配民族を活用し騎兵戦法、海戦上陸戦法等の新しい戦術を編み出しアフリカ、東アジア、太平洋に進出したのだろう。
また、律令以前の風俗はアーリア人のものである。
言語的には、印欧語族アナトリア派ヒッタイト語にほとんど一致することが研究者のあいだではしゅちょうされてきている。
よって、ヒッタイト帝国が東方に進出し土着のアジア人を征服しながら日本列島に東征支配し人種的にモンゴロイド化したが、大陸では民族滅亡し、日本列島でのみ存続し続けるというじょうたいなのではないか。
高句麗は上つくにであり、しもつくに(列島:筑紫)、御真那、琉球を統治する日本(ヒムカイ)国より辺境にあったため独立したのではないか。ウラルアルタイ語は語族というより日本(ヒッタイト)語とアジア諸語のクレオール言語である。
ちなみに、ヒッタイト国の別称「ヒト国」はℎの音が聴き落とされ「イト国:倭奴国」となり略され「倭国」となったとかんがえられる。
邪馬台国は倭国の首都の地域名であり律令時代の大和国と変わらなかったと考えたほうがよさそうである。
南方に航路をとったのも、瀬戸内海の外国船通行が禁止されていたものであり、九州南方にて黒潮にのって鳥羽(投馬)に入るというのがしぜんであろう。
経済基盤となる、東南アジア系の農耕民族は本来の日本民族ではなく、被支配層とし神武東征により、御真那(=古ヒユウガ)より、つれてきたうえで、カヨイコンにより、同族化していった。日本人のミトコンドリア遺伝子が多様なのは原始人が世界中から集まったわけではなく、移動が広範囲であったため一夫多妻により混血したため)Y遺伝子の特性からして東アジア起源ではない。また、日本人は地中海性の病気を持つ。
日・高とは神話の違う韓国人〈新羅人)の祖は言語的にアイヌ語と関連あるようなので影響を受けて発展した東アジア土着系ではないか。
学校では、戦後、弥生時代に農耕が伝わり、縄文人が、300の国家を形成したなどとおしえてきたが、古事記、日本書紀にあるとおり、「高天原帝国」から極東へ降臨した分国が海を越えて領土化、首都移転をおこなった。王族がふえたため、領地をわたし、さらなる分国として300の国にわかれたと考えるほうが国際的に普遍な理論ではないか。
日本列島の人種入れ替えが起こった時期と、BC660の神武東征はほぼあっている。
後の8代については、たいしたことがなかったため、記録が遺失してしまったが、大PJの東征だけは、記憶されていたのではないだろうか。
ちなみに、卑弥呼はヒメ御子のなまり、元首ではない。すでに、大和国家は大昔にせいりつしていたはず。4世紀統一説はGHQによるねつ造神話。(アメリカの公式文書では日本建国はBC660となっている)
2013-02-05 23:18:20
考古学的発掘と、遺伝子解析、および米の由来の最新結果を考慮すれば、間違いだと思う。
前方後円墳の経緯を見れば十分だし、北朝鮮にある古墳の天文図ときとら古墳のそれは比べもにならないほど気トラのほうが上だという。
このほど盗まれた仏像の出来と白鳳時代のそれお比べてもどちらが上かは一目瞭然だ。
現代考古学的「事実はこれまでの津を否定してして、古代史の変更を迫っていることを知らないようですね。
一番は稲作は朝鮮から来たことは否定されたこと。水田工作は我国日本のほうがはるかに早かったこと。
極めつけは弥生人という概念が否定される事でしょう。つまり渡来人は来なかった。逆だということです。これが決定的で、発掘によると履中天皇の存在が発掘物で裏ずけられたことなど、神武以降の記述の正しさがこれから出る可能性が生じたことなどです。
大体冷静に、奈良時代の朝鮮の仏像と我国のそれを比べれば技術の差はおおきい。
まず、物を見よ。
日本の何処に北方文化があるのか?
文化は南方系と共通してると思うけど。
つか、やはりブログ主は思想的に何かおかしい。
いや批判とかではもちろん無いのだが
思想が先にあり、そこから帰結法で物事を見ている気がするのだ。
○○にどこどこが滅亡する。
その根拠を問うても、ビシっとした答えは返ってこない。
これは帰結法を用いているのであろう。
全て結論から始まっている。
こうなると都合の良い情報だけを集めがちだ。
もちろんだからといって的中しないと言っているわけではない。むしろかなり「近いラインを掠っている」と感じる。しかし柔軟な軌道修正が出来ないという欠点もあるのだ。
その中でも、高句麗or百済の勢力が最大で、本家が滅びてしまったので、移民が流れ込み、何とか一矢を報いようと、白村江まで出撃したのではないだろうか。
→ 5世紀前半には、半島南部は倭の勢力圏内だった。広開土王碑でも見なさい。韓国は中国共産党政府も認めるそんな歴史的事実が書かれた記述も必死こいて捏造しようと躍起になっているようだが……。
そんなこと、どうだっていいだろ、低能野郎
K氏ですか?
>モンゴルとの混血児かもよ
だいたい正しいと思う。「韓」も中国の「漢」もKhanに当て字したもので、これはアルタイ語では「人」という意味。歴史上、どっちの国も北からモンゴル系とかトルコ系、ツングース(女真族=満州族など)の遊牧民族がどんどん南下して今では古代のその土地の人間とはだいぶ入れ替わっている。
で、ここの命題に戻ると、古代の「高句麗」はツングース(=女真族=満州族}。じゃあ日本人はというと、縄文、弥生の基層の上に、大陸からも入ってきてるので、今ではよく混じっている。
これに対して、政治家やTVなどに出てくる人たちの顔は、元の半島の3種類くらいの顔の特徴をよく備えていて、近頃では日本人でないのが一目でわかるようになった。
モンゴルとの混血児かもよ
それよりも韓国の基になった国、新羅の正体が気になります。
637 :金持ち名無しさん、貧乏名無しさん:2012/12/08(土) 02:27:41.74
秦氏がユダヤの流れを引いているとはよく言われることだが、これは事実である。
そもそも秦氏を秦氏と書くのは、中国でペルシャを秦と書いていたからである。
ペルシャ帝国がバビロン捕囚からユダヤ人を解放し、そのままユダヤ人の一部はペルシャに居住した。
そこで多くのユダヤ人はペルシャ化され、そのまま世界中に散っていった。
これが「失われた十支族」である。
その中のダン族こそが秦氏である。
言うまでもなくペルシャはキリスト教の最大の敵であり、ペルシャ化されたユダヤ人は悪魔となる。
「獣」と書いて「jew」と読むのはそのためである。
ファリサイ派というのは「ファールス」という語からできた言葉であり、ペルシャ派ということである。
秦氏はその後朝鮮半島を経由して日本へと来る。
新羅を一時「波斯(ペルシャ)」と書いていたのは、秦氏が居住していたからであろう。
日本に来た秦氏は最初権力に座るが、後に身分へと落とされる。そして鬼になる。
鬼に角が生えているのは、バールに角が生えているのと同じ理由である。
秦氏の神はスサノヲやヒルコだが、これが記紀神話でどういう扱いを受けているか考えてみるといい。
要するに、皇室と繋がりはあっても、厄介者なのだ。
ちなみに現在の・在日も≒秦氏である。弾左衛門の「ダン」とは、ダン族のことである。
イランと北朝鮮が繋がっているというのは、現代だけの問題ではない。古代に遡ることなのだ。
つまり、秦氏=悪魔崇拝者のネットワークである。
--------
これは京大教授も事実だと認めた、私の自論です。
旧朝鮮総督府によるもので標準語朝鮮語も同じ
意外に「朝鮮連邦」とすると朝鮮の国家の本性が現れるかもよ
百済州、新羅州、タンラ州、高麗州などなど
>支配層と大衆は別民族ということはないのかね
でもその差異を意識してる層が北の支配層に居るとは思えないね
長い民族混淆の歴史で差異すらないと思うね
日本ですら皇族の方々がその意識を持っているかどうか、可能性がある程度だろう
↑
ということは、今回のブログは、
>地政学・歴史・地理・経済などの切り口から←ココで終わり
>国際情勢を分析・予測←これはやらずじまい
ということだね。
こういう場合もあることがわかったよ
よくわかるな。これで最後の頼みの綱である
大昔の細い糸のような縁をしっかりと切ること
ができたわけだ。
大体そうだろうな。
でもそれだと困る連中がいるわけで(笑)
支配層と大衆は別民族ということはないのかね
〔秋田県の佐竹敬久(のりひさ)知事は5日、ロシアのプーチン大統領から贈られたシベリア猫を受け取った。ロシアとの貿易拡大をめざす佐竹知事が昨年、大の犬好きで知られるプーチン氏にロシアで人気の秋田犬(あきたいぬ)を贈呈したことへの返礼。猫好きの知事にはロシア原産の猫を、というわけだ。知事は、現在飼っている7匹の猫と一緒に、秋田市内の公舎で育てる。〕
いい話だってばよ~
人生はにゃん・・だと・・・!?の連続だってばよ~!!
日本人が米国の占領状態から独立して、多極化するこれからの世界の中で生き抜くには、日本という国の成り立ちや特徴を深く分析することが必要不可欠です。孫子の言う「彼を知り己を知れば百戦して殆うからず(敵と味方の情勢を知ってその優劣短所を把握していれば、たとえ百回戦ったとしても敗れることはないということ)」の通りです。
私の想像ですが、高句麗と同じく扶余族系とされる百済も支配階層は日本の兄弟民族であり、唐の攻撃による高句麗・百済滅亡後に彼らのうちで生き残った者の多くは日本に脱出して兄弟民族の日本人の一員になったのではないかと思います。残る人々は新羅や満州民族や漢民族や遊牧民族に吸収され、大陸では日本の兄弟民族は消滅したことでしょう。
皇族もDNA鑑定すればいいのに
その中でも、高句麗or百済の勢力が最大で、本家が滅びてしまったので、移民が流れ込み、何とか一矢を報いようと、白村江まで出撃したのではないだろうか。
北朝鮮人2000万のうち、ユダヤ人のように
1000年2000年前の自分の民族の血筋を意識してる奴なんて只の一人も居ないと思うね
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20130123-OYT1T00765.htm?from=popin
↑
北方領土のイスラム化が進行中
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130205-00000006-jij-eurp
時事通信 2月5日(火)0時57分配信
【レスター(英)AFP=時事】2012年9月に英イングランド中部レスターの駐車場から発掘された500年前の男性の遺骨は、中世のイングランド国王リチャード3世(1452~1485)のものであることが4日、確認された。
レスター大学の考古学チームが、リチャード3世の姉の直系子孫2人のDNAを用いて鑑定を行っていた。
考古学チームは記者会見で、「リチャード3世の遺骨だというのが学術的な結論だ」と断定した。姉の直系子孫の一人は、「世紀の発見に衝撃を受けた」と興奮。
復元された祖先の顔を見るのが楽しみだと話した。
これは正しいと思う。最新のDNA関係の本をお読みになることをお勧めします。日本人の基層(すなわち縄文系)はいわゆる「Coastal leneage」で、サハラ砂漠(全人類はすべてサハラ砂漠発祥です)を出発したあと、インド、東南アジアの海岸沿いから、上海あたりにいたり、ここから日本列島へ入っています。上海から黒潮に乗ると自然と日本列島へ流れつくのですね。また彼らが(というか私たちの祖先が)最初に上陸した日本列島の地点は沖縄ではなく、まず九州で、そこから逆に南へ下って沖縄へ入ったという動きの順序までDNAで解析されています。
弥生人は、東南アジアか華南に動いたcoastal lineageの一部がさらに日本列島へ入ったもので、いわば再合流したもので、縄文人とあまりDNAの違いはないようです。
もちろん歴史のなかで匈奴(モンゴル、トルコ、ツングース系などのアルタイ系)も当然はいってきているはずですし、スキタイ系も入ってきていると思います。
しかし日本人が特別に「高句麗と兄弟」であるわけではありません。
書き間違い。
ちなみに、どちらもツングース系の扶余人の征服王朝。
例の2012年の予想が外れたからだと思うがw
最低、最新の邪馬台国研究の勉強をしような。
高句麗なんて、せいぜい紀元前18年の建国だろう?
高句麗族なんて民族はいなくて、後世の女真族と同じツングース系の扶余人の王朝だよ。
その時代よりもずっと前に倭人がいる。
だから、いくらなんでも無理だ。
倭は紀元前1世紀から、中国の楽浪郡に送って、外交関係をもっていたわけだから。
管理人さんよ、怪しいソースにしがみつくのなら、最低、最新の邪馬台国論争を勉強しようや。とくに考古学のアカデミックのやつでな。
↑
管理人の主張する大日本帝国・北朝鮮の正義を守る、とか、北と結んで韓国を潰す、とかとも矛盾するのでは?
日本語は中国南方雲南省やインドネシアの言語とより近い。
いくつかの単語で共通点があるなら、日本語が変化したものだ。
関東にチョンくさい地名があるのは、自国から逃れてきたチョンをよりチョン半島から
引き離すために流刑地まがいの場所に隔離したためだ。
源頼朝の父義朝が平治の乱で負けてどこに流されたのか。
11世紀のレベルでも東日本がどういう扱いだったのか。
国益を阻害するといいながら、どうあってもチョンとの関係を既成事実化したいようだ。
在日がよく使う「俺は日本人だけど朝鮮のほうが正しい」という言い草とそっくりだ。
いちいち遡っていうならば人類は皆アフリカ人だ。
日本人は北チョンなどとは関係ない。
http://japanese.ruvr.ru/2013_02_04/ronichigaimujikankyuu-senryakutaiwa-mosukuwa/
↑
いよいよだぜ、失禁するなよ!
「なん・・・だと・・・!?、の起源も韓国ニダァ!」
と言い出すぞ。
日本と朝鮮は朝鮮併合以前から、それ以前から関わっている歴史があるのはそれもまた事実だしな
しかしネットが普及して来て、サッカーW杯の日韓大会の八百長、韓流ブームの捏造でのごり押し、色々な在日問題など、ここ近年の南朝鮮や在日韓国人共は日本で好き勝手し放題にしてきたことがネットで知った人も多いだろう
ロンドン五輪でのサッカー日韓戦の試合後独島(竹島)アピールのプラカードを掲げてたのも新しく記憶に残る
今の日本人から見れば、そういった戦後外国にずっと舐められた問題をずっと我慢してきて、いつか不満が爆発するのもしょうがないことだと思うよ
TPPのことも含め、外国に舐められていけないんだという強い感情から、選挙の結果はどうあれ今回の政権交代にも繋がったと思うよ
考察・予想が無いなら古代史エッセイに過ぎないと思うんですが。
兄弟国、大日本帝国の正嫡子と言うなら、
その人達(畑中理とその理想を共にした日・鮮人の末裔達?)
は北の民衆を踏みにじってる事になりますが。
理想の為には、或いは支配階層だけで話がついてりゃ、
その人達は下々は飢えようが収容所国家であろうがどうでもいい
と感じてるって事ですかね?
皮肉ではありません、単なる疑問です。私は別にヒューマニズム万歳とも思ってませんので
ひな人形も皇族も弥生系の不細工
百済系なのかもしれない