●神奈川県相模川以東の高速道路不足:深谷通信所跡地に新東名と首都高速・横浜新道のジャンクション設置か? - 国際情勢の分析と予測
Unknown (Unknown) 2020-07-20 01:36:56
ぬなとチャンネル(旧新井信介 京の風)【地球規模の画策が始まっている?! 世界の支配層は東京を捨てる?!】(収録時間:26分)(2020年7月19日)
・落合莞爾先生は、天皇陛下の住まいは、京都ではなく吉野、と!!
●上皇・秋篠宮が京都に戻って平城京跡歴史公園で秋篠宮が即位、東京天皇と並立する壬申の乱の再現か? - 国際情勢の分析と予測 2019年05月18日
本ブログに5月12日に書き込まれた情報が興味深い。
「4月20日に朝日新聞が報道した秋篠宮の上の発言は、壬申の乱の時に大海人皇子が「自分は天智天皇の後を継ぐつもりは無い」と言って出家し吉野に籠もった後に反乱を起こし弘文天皇を殺して即位した歴史を彷彿とさせる。「高齢での即位は出来ない」との言葉は、近日中に即位する意図があるという不穏な発言とも解釈できる。恐らく近いうちに平成上皇と秋篠宮は京都に戻り、今上天皇だけが東京に取り残される。それによって日本は東西京体制に移行する。平城京、長岡京、平安京への遷都時には遷都の詔が出ているが東京については遷都の詔が無いので東京は実は首都では無い。また、今上天皇が5月1日に即位したことは大きな意味は無い。最も重要なのは今年11月に行われる大嘗祭で、ここで今上天皇に神とのチャネリングを行うことが出来るかどうかが試される。それには密教などの仏教系の教育が必要であり、秋篠宮や悠仁親王はその教育を受けているが、今上天皇はそれを受けていない(つまり大嘗祭を行えない)。」
というのだ。
<中略>
世界戦略情報誌『みち』の平成21年10月1日号の「いよいよ大和へ、そして吉野へ 還都への動き」と題する巻頭言の記事を見ると、平城京の大極殿が2001年から9年間かけて2010年に復元されたとの内容である。そして、奈良・吉野への還都が主張されている。この「奈良」は平城宮跡歴史公園の復元大極殿に準備された二つ目の高御座で秋篠宮が即位式の礼を挙げることを意味していると思われる。明治・大正・昭和天皇は皆京都で即位の礼と大嘗祭を行っており、現在の京都御所の既存の宮殿で大嘗祭を行うことは可能だろう。更に、奈良県議会が県庁を橿原市に移転するという謎の決議が2018年3月23日に賛成多数で可決されているが、これはかつて触れたように、奈良県庁の建物を秋篠宮に明け渡して臨時御所として利用する計画を示すと思われる。そして、「吉野」だが、これは壬申の乱で大海皇子が吉野に籠もって挙兵した歴史事実を指すのではないかと想像する。吉野に秋篠宮一家が住む場所があるのか、義務教育課程の悠仁親王の通学先はどうするのかなど疑問も多いが、場合によっては今年の夏休み時期に秋篠宮一家が吉野に移動、9月からは悠仁親王が奈良女子大附属中等学校に編入などと言うシナリオも考えられる。
●奈良県、滑走路を併設する大規模広域防災拠点の整備を補正予算に計上 | FlyTeam ニュース 2019/06/18 17:35
奈良県は2019年6月13日(木)、定例県議会に補正予算案を提出し、五條市のプレディアゴルフ場を中心とするエリアに広域防災拠点を設ける大規模広域防災拠点の整備に2,500万円を計上しました。
南海トラフ巨大地震などを想定し、大規模広域防災拠点として2,000メートル級の滑走路を備えた施設です。防災拠点は以前から構想しており、平成30年7月豪雨の他県での被害を踏まえた奈良県緊急防災大綱を2019年5月に取りまとめ、その中でも改めて施設の必要性が指摘されています。
この広域防災拠点は、給油、夜間駐機スペースに加え、消防学校などの併設も検討されています。南海トラフなど大規模災害発生の直後、陸上交通が寸断された状態でも、比較的災害に強い空路による人員、物資輸送が可能で、消防や防災ヘリコプターに加え、他県からの緊急消防援助隊、自衛隊機などの広域航空応援部隊の受入体制の整備が必要とされています。
この施設は、奈良県が具体的に施設整備などを進めながら、三重、和歌山の両県も運用面で協力することで2018年7月に3県の知事が合意しています。すでに奈良、三重、和歌山はドクターヘリの相互応援協定で連携しています。
●政府要望/奈良県公式ホームページ
提案・要望項目 18項目(令和元年11月7日時点)
2 陸上自衛隊駐屯地の配置要望(pdf 1739KB)
6 新たな「吉野山観光周遊システム」の構築・推進(pdf 647KB)
10 道路整備の強力な推進(pdf 852KB)
13 リニア中央新幹線 三重・奈良・大阪ルートの早期実現(pdf 513KB)
14 京奈和自動車道(仮称)奈良ICとJR新駅の交通結節点機能を活かしたまちづくり(pdf 523KB)
16 奈良県の都市公園等の整備推進(pdf 448KB)
17 平城宮跡歴史公園の整備推進(pdf 543KB)
●奈良~関空直結の「リニア支線」現実性は? 奈良県が検討、その背景 | 乗りものニュース 2019.07.29
奈良県は2019年度補正予算で、リニア中央新幹線の名古屋~新大阪間開業時に開設予定の奈良県新駅から関西空港までをつなぐ「リニア支線」の調査・検討費として2500万円を計上しました。
このリニア支線構想は4月の奈良県知事選で4選を果たした荒井正吾知事が公約に掲げていたものです。単線・常電導方式のリニア新幹線を建設し、リニア中央新幹線の奈良県新駅から、奈良県大和高田市、御所市、五條市、和歌山県橋本市を経由し、関西の玄関口である関西空港まで20~30分で接続し、将来的には京都府京田辺市付近で北陸新幹線にもつなげたいとしています。
2019年6月14日付の産経新聞によると、荒井知事は会見で「難しいチャレンジだが、需要や工事費を検討し実現可能性を探っていきたい」と意欲を示し、「リニア中央新幹線が品川-新大阪間で全線開通すると、関空からの結節点でもある新大阪への集中が過剰になる」として新ルートを整備する意義を強調していますが、関西空港から大阪、京都へ流れがちな外国人旅行客を奈良に呼び込みたいというのが本音でしょう。
ただ、元運輸官僚である荒井知事の構想は壮大です。このリニア支線と表裏一体の関係にあるのが、南海トラフ地震に備えて県南部の五條市に2000m級の滑走路を併設した大規模広域防災拠点を整備する計画です。こちらも今回の補正予算で調査費が計上されています。
この防災拠点は、リニア中央新幹線の建設工事で発生する排出土砂を、専用軌道を建設して奈良市から五條市まで運搬して土地の造成に活用し、さらに専用軌道の用地をリニア支線に転用するというのです。あまりにも壮大な計画の背景には一体どのような事情があるのでしょうか。
●奈良の五新線バス専用道、9月30日限りで閉鎖へ | レスポンス(Response.jp) 2014年8月4日(月)
専用道を管理している五條市によると、専用道内で最も新しい衣笠トンネルの状態が悪いことから、9月30日限りで専用道を閉鎖することにしたという。現在運行されている専用道経由のバスは、並行する国道168号を走行するルートに変更される模様だ。
●五新線ウォーキング② - 私を探さないで!! 2018年11月11日
って事で先日の続きを
城戸の先に行くと 柵がありましてその先を歩いて行きます。森の間を歩いて行く感じです。
少し行くと 少し開けてきますそこに 黒渕のバス停が有ったようです。
その周辺は 柿の木と数件の家が有ります。反対側 丹生川の先を見てみると 西吉野第一発電所が有ります。
その先を見ると、今回初めてのトンネル 黒渕トンネルが有ります。ココで、1つ目のスタンプを押してもらいました。トンネルの中は電気など無く真っ暗です。
トンネルを潜ると、今回初めての柵が有ります。今回のイベントの為に解放されており、夕方5時にはまた閉めるらしいです。
その先で 丹生川を渡ります。第8丹生川橋梁らしいです。
橋を渡ると、衣笠トンネルです。このトンネルは先ほどのより長いので真ん中はほぼ真っ暗です。
トンネルの出口 トンネル内に入れないようにする柵が有ります。少し歩くと、下をバスが走っています。国道189号線です。
で、またバス停のような建物が 衣笠バス停のようです。
●五新線 - Wikipedia
宗川橋梁 - 1976年5月31日竣工、延長約149 m、1996年6月に塗装が行われた。
立川渡駅 - 未着工
立川渡トンネル - 未着工、入口と出口で高低差が約50 mのループトンネルの計画、延長2,140 m
天辻トンネル - 約5年の歳月をかけ1972年3月31日竣工、延長5,039.50 m、入口と出口の標高差は約114 m。1997年、阪本側に大阪大学核物理研究センターの大塔コスモ観測所が置かれる。2007年、国道168号の拡張工事に伴い、阪本側坑口が削られた。
●五新線廃線跡調査4
緩やかにカーブしている宗川橋梁。脚の形状なども特徴があって記憶に残りやすい。1996年に塗り替えが行われていた。何の役にも立たないのにしっかりメンテナンスがされていることが素晴らしい。
●4K【奈良交通】五新鉄道バス 2014.9.30最終日 五條バスセンター→専用道城戸 - YouTube
●賀名生の里歴史民俗資料館/五條市
・南朝と賀名生
1336年(〈南朝〉延元元・〈北朝〉建武3)、後醍醐天皇は、幽閉先の京都・花山院(かざんいん)を脱出し、吉野へと向かいました。この途中で賀名生に滞在しています。吉野にこもった天皇は、自らが正統の天皇であると主張したことから、京都(北朝)と吉野(南朝)の二つの朝廷が出現する事態になりました。こうして、以後約60年にわたる両朝が対立・抗争する「南北朝時代」が幕を開けました。
後醍醐天皇の賀名生滞在の理由の一つに、真言密教に大きく帰依(きえ)していた天皇が、総本山である高野山金剛峯寺への行幸(ぎょうこう)を強く願い、それがかなわない場合に吉野山金峯山寺へと向かう計画のため、高野山と吉野山のほぼ中間地点に位置する賀名生で様子をうかがっていたことが挙げられます。
後醍醐天皇の跡を継いだ後村上天皇は、1348年(正平3・貞和4)、南朝の本拠地の吉野山が焼き討ちにあうと、賀名生に行宮(あんぐう)を定めました。それから間もない1351年(正平6・観応2)、北朝の天皇を擁立した足利尊氏が、一時的に南朝に降伏し北朝の天皇は廃されます。こうして、わずか数か月のことですが、南朝が唯一の朝廷となり、賀名生は都になりました(このできごとを「正平の一統」と呼びます)。
その後、南朝の行宮は河内や摂津などにも移りますが、賀名生は南北朝時代を通して、度々その拠点となりました。
・地名の由来
南北朝時代に記された記録などによると、この地はもともと「穴生」・「穴太」・「阿那宇」などと表記され、「あなう」と呼ばれていたようです。正平の一統の時、後村上天皇は「願いがかなってめでたい」との思いから、この地を「加名生(かなう)」と名付けたと伝わっています。後に、この地の人々は「加名生」はおそれ多いので「賀名生」に改めたといわれ、明治のはじめに読み方を「あのう」に統一しました。
●堀栄三 - Wikipedia
堀 栄三(ほり えいぞう、1913年(大正2年)10月16日 - 1995年(平成7年)6月5日)は、日本の陸軍軍人、陸上自衛官。階級は陸軍少佐、陸将補。
正確な情報の収集とその分析という過程を軽視する大本営にあって、情報分析によって米軍の侵攻パターンを的確に予測したため、「マッカーサー参謀」とあだ名された。戦中の山下奉文陸軍大将、そして戦後海外の戦史研究家にもその能力を高く評価されている。
奈良県吉野郡西吉野村(現五條市)出身。伊藤祐一郎の子に生まれ、陸軍航空本部長・第1師団長や留守航空兵団司令官を務めた堀丈夫陸軍中将の養子となる。明倫中学から1927年(昭和2年)4月、東京陸軍幼年学校に入り、1930年(昭和5年)3月から陸軍士官学校に進む。<中略>終戦後の9月に陸軍省軍務局課員、10月に予備役編入(最終階級は陸軍中佐)。郷里の奈良県吉野郡西吉野村に帰り、健在であった父の堀丈夫中将と共に農耕に従事。
戦後、1954年(昭和29年)に陸上自衛隊に入隊。<中略>1967年(昭和42年)3月、陸将補で退官。 1974年(昭和49年)から大阪学院大学ドイツ語講師となる。1991年(平成3年)4月から郷里の西吉野村の村長を務め、名産吉野柿の普及に力を入れた。二期目在職中の1995年(平成7年)6月5日、ガンのために死去、享年82。
奈良県吉野郡西吉野村和田(現:五條市)の堀家は、松本清張・樋口清行『奈良の旅』で「吉野郡西吉野村和田にある、後村上天皇の賀名生行在所といわれる堀栄三氏宅も、足利時代初期に近い構造を一部残している」と紹介されている[17]。「堀家住宅(奈良県吉野郡西吉野村)」として、堀の生前の1979年(昭和54年)5月21日に重要文化財に指定され[18]、2012年(平成24年)現在も保存されている。賀名生#歴史参照
●堀丈夫 - Wikipedia
堀 丈夫(ほり たけお、1881年(明治14年)7月2日 - 1952年(昭和27年)4月4日)は、日本の陸軍軍人。陸軍航空本部長・第1師団長や留守航空兵団司令官を務め、階級は陸軍中将勲一等に至る。
経歴
村長・吉野神宮宮司堀重信の長男として奈良県に生れる。陸軍幼年学校を経て1901年(明治34年)11月に陸軍士官学校(13期)を卒業。
●堀家住宅 賀名生皇居跡/五條市
●五條市でランチ|重要文化財 カフェ レストラン賀名生旧皇居 KANAU
KANAUは、国指定重要文化財「堀家住宅」賀名生旧皇居をリノベーションして2019年4月にオープンしました。ホテルとレストラン、そしてウェディング。
奈良県西吉野村の北部・和田の丹生川の清流に臨むようにひっそりとある賀名生の旧皇居「堀家住宅」。延元元年(1336年)の年の暮れ、足利尊氏によって京の都を追われた後醍醐天皇は、吉野へと向かう途中に郷土堀孫太郎信増の邸宅に迎えられました。天皇を手厚くもてなした郷士「堀孫太郎信増」の邸宅はその後、後村上、長慶、後亀山天皇の皇居として南朝の歴史を刻んできました。
堀家住宅のある奈良県西吉野村の北部・和田は、昔「穴生(あなふ)」と呼ばれていましたが、後村上天皇は南朝が正統でありたいと「叶名生(かなふ)と名付けられました。正平6年(1351年)足利氏が南朝に帰順し、多くの公卿や殿上人が賀名生に参候して北朝が否定されたので、翌正平7年の正月、後村上天皇は「願いが叶って目出度い」との思し召しから「賀名生」と改める勅書を下されたと伝えられています。当時は「かなふ」と呼ばれていましたが、明治の始めになって呼び方を「あのう」に統一しました。
KANAUの名は、堀家住宅を後村上、長慶、後亀山天皇の皇居としてお使いいただいた当時のこの地の呼び名「かなふ」を意味しています。
●後醍醐天皇と吉野 | 深掘り!歴史文化資源 | 奈良県歴史文化資源データベース「いかす・なら」
歴史を振り返ると、応神天皇以来幾度も吉野への行幸の記録があり、離宮として吉野宮が築かれました。
また、中大兄皇子の異母兄の古人大兄皇子は、乙巳の変で自分の後見人であった蘇我入鹿が殺されたのを見て吉野に向かい、兄頼朝に追われた源義経は、静御前や弁慶を伴って吉野吉水院に入りました。
このように、吉野は中央で居所を失った人々が再起を図る場所でもありました。そして「南朝」を開いた後醍醐天皇も、吉野で復活を望んだ一人でした。
●宮滝遺跡 - Wikipedia
宮滝遺跡(みやたきいせき)は、奈良県吉野郡吉野町宮滝にある複合遺跡。国の史跡に指定されている。いくつかの異なった年代の遺構が存在し、吉野宮・吉野離宮の存在も推定される。
●吉野宮 - Wikipedia
天智天皇崩御の際に弟の大海人皇子(後の天武天皇)が妃の鵜野皇女(後の持統天皇)や子供の草壁皇子ともに吉野宮に隠棲したが、後に弘文天皇(大友皇子)と対立してここで挙兵した(壬申の乱)。
●前川喜平 - Wikipedia
奈良県御所市生まれ[2][9]。小学校4年時の1963年、東京へ転居、1967年、麻布中学校・高等学校へ入学[2][9]。1973年、東京大学文科一類入学。2年の留年後、1979年に東大法学部を卒業。国家公務員試験(甲種 - 行政職)を4番目の成績で合格し[11]、文部省入省[3]。
<中略>
2016年6月、文部科学事務次官[8]。
2017年1月20日に、文部科学省における再就職等規制違反を受け、文部科学事務次官退任[13][注 1]。
●シャープがメガソーラーを続々立ち上げる、北海道と奈良に7.8MW - スマートジャパン
「シャープ美吉野太陽光発電所」(奈良県吉野町)は、面積約4万2000m2の敷地に建設した出力(直流出力、以下同じ)約2.7MWのメガソーラー(図2)。2013年7月19日から営業運転を開始し、年間予想発電量は約270万kWh。固定価格買取制度(FIT)によって、20年間、40円(税別)で関西電力に売電する。
●京都・奈良とは何か:小浜市のお水送りと東大寺のお水取りに見る畿内を守る五芒星の結界とその中心軸 - 国際情勢の分析と予測 2017年12月24日
畿内には五芒星がありその中心に平城京がある。五芒星の頂点は伊吹山・伊勢神宮内宮・熊野本宮大社・伊弉諾(いざなぎ)神宮・元伊勢内宮皇大神社である。この五芒星はほぼ東西対称形となっており、伊弉諾神宮と伊勢神宮内宮、元伊勢内宮皇大神宮と伊吹山は緯度がほぼ等しい。
また、五芒星の正中線上には平安京・飛鳥京・若狭彦神社・若狭姫神社があり、経度がほぼ等しいため。南北に一列に並んでいる。
長岡京・恭仁京・難波京・平安京・平城京・飛鳥京は全てこの五芒星の中心の五角形の中にある。その周囲の五個の二等辺三角形の中には大津京・信楽京・福原京・南北朝時代の吉野の南朝政府などの宮殿所在地があるがいずれも短期間の首都にとどまっている。信楽京を除くと壬申の乱・源平合戦・南北朝の対立など複数の天皇を擁する勢力が五芒星中心の五角形の中にも存在し並立して激しく争うという内戦の時代であった。東京はこの五芒星から遠く離れた場所にあるが、南朝系の明治天皇・昭和天皇・今上天皇・浩宮などと北朝系の大正天皇・三笠宮・秋篠宮・悠仁親王などが並立している点は類似している。ひょっとすると真の北朝系の皇族は東京では無くこの五芒星の中に住み続けており、秋篠宮や悠仁親王は影武者に過ぎないのかもしれない。
いずれにせよ古墳時代から明治維新までの日本の首都は全てこの五芒星の中にある。驚くべきことだ。第二次世界大戦では平安京・平城京・飛鳥京はいずれも空襲を逃れている。五芒星の結界に守られていたのだろう。
<中略>
このように、小浜市の若狭彦神社と神宮寺から京都市・精華町・奈良市・橿原市を経て熊野本宮大社に至る南北の線は日本の真の中心軸であり、それを防衛するために結界が作られているのだと思われる。お水送り・お水取りはこの結界を外敵から守るために行われているのだろう。北陸新幹線(山陰新幹線も)が小浜を経由するのもこの結界を守る祈祷者らの交通の便のためではないかと思われる。従って、北陸新幹線は間違いなく小浜から京都駅を経て新皇居の建設される京阪奈京に至るルートで建設されると確信する。京阪奈京の先は天王寺から関西新空港に向かうルートだろう。
●飛鳥ナンバー人気 松戸と接戦 新ご当地ナンバー17地域の図柄 「飛鳥3110」で取る人も | 乗りものニュース 2020.07.08
2020年5月11日から、全国17の地域で自動車用ナンバープレートの新しい地域名表示、いわゆる「ご当地ナンバー」の交付が始まりました。いずれも、「地方版図柄入りナンバープレート」を導入しており、地域ゆかりの図柄が描かれたプレートを申し込むことができますが、この図柄入りプレートの申し込み数で、奈良県の「飛鳥」ナンバーが健闘しています。
●奈良県の陸運局【自動車・バイクの名義変更・住所変更などの手続き】
◇飛鳥ナンバーの管轄区域 --- 橿原市、三宅町、田原本町、高取町、明日香村
●市町村間の連携等/奈良県公式ホームページ
橿原・高市広域市町村圏:橿原市、高取町、明日香村
山辺広域市町村圏 :天理市、山添村、川西町、三宅町、田原本町
●佳子さま結婚へ! 留学先で“理系男子”と愛育まれる 眞子さま結婚問題後の見込み(週刊女性PRIME) - Yahoo!ニュース
【私のコメント】
県庁の橿原市移転決議、奈良高校の校舎老朽化放置と強制閉鎖される平城高校跡地乗っ取りによる移転、リニア奈良市付近駅誘致を巡る県内自治体間の意見対立、使途不明の広大な空き地となって放置されている奈良ドリームランド、近鉄奈良線西大寺奈良間の線路移転でに新たに2駅建設する計画だが駅間距離が近すぎる(特に油阪駅と近鉄奈良駅)、五條市への広域防災拠点建設と2000m滑走路建設・陸上自衛隊誘致計画、リニア奈良市付近駅と関空を結ぶリニア支線が高田・御所・五條・橋本経由で遠回りであり新幹線ともリニアとも直通できない規格である点など、最近の奈良県は謎が多い。私は以前から、これは京阪奈学研都市へのリニア駅設置・新皇居建設と平城京跡歴史公園の復元大極殿での秋篠宮即位の準備であると主張してきた。飛鳥ナンバーの人気、飛鳥ナンバー管轄区域に飛鳥とは縁もゆかりもなく別の広域市町村圏に所属する田原本町と三宅町が含まれているのも謎だが、未来の自治体合併で橿原飛鳥市(仮称)を三宅町まで広げることが必要なのかもしれない。
新井信介氏によると、落合莞爾氏は最近「天皇陛下の住まいは、京都ではなく吉野」と主張しているという。また、世界戦略情報誌『みち』の平成21年10月1日号の「いよいよ大和へ、そして吉野へ 還都への動き」と題する巻頭言の記事を見ると、平城京の大極殿が2001年から9年間かけて2010年に復元されたとの内容に続いて、奈良・吉野への還都が主張されている。本当に吉野に天皇が住むのだろうか?
奈良県歴史文化資源データベースでは、「吉野は中央で居所を失った人々が再起を図る場所」との記述がある。南朝を開いた後醍醐天皇の他に、大化の改新で殺された古人大兄皇子、源頼朝に追われた源義経が挙げられている。壬申の乱で吉野に隠遁しそこで挙兵した大海人皇子が取り上げられていないのが気になる。
大海人皇子と古人大兄皇子が隠遁したのは吉野宮で、現在の宮滝遺跡と考えられている。吉野川沿いだが中央構造線の少し南に位置する。
後醍醐天皇が南朝を開いたのは吉野山金峯山寺だが、吉野以外にも天皇の行宮が置かれた場所があり、旧西吉野村(現在は五條市西吉野町)の賀名生は3人の天皇が行宮とした場所として知られる。賀名生は「あのう」と読むが、正平の一統の際に後村上天皇は「願いがかなってめでたい」との思いから、自分の行宮のあるこの地を「加名生(かなう)」と名付け、一時は「かなう」と呼ばれたとされる。賀名生は吉野山金峯山寺と高野山金剛峯寺の中間に位置し、宮滝遺跡と同様に中央構造線の少し南に位置する点で共通する。後醍醐天皇を迎えもてなした郷士「堀孫太郎信増」の邸宅は3人の天皇の行宮となり、その子孫の堀栄三 (帝国陸軍軍人、陸上自衛隊を経て西吉野村長)の存命時期に重要文化財に指定されている。堀栄三は西吉野村に生まれたが堀丈夫陸軍中将の養子となったことで堀家の一員になっている。堀丈夫陸軍中将が吉野神宮宮司の長男であることは、西吉野村郷士の堀家と吉野山の親密な関係を示唆している。
賀名生では五條市との合併の直前に西吉野村によって賀名生の里歴史民俗資料館が建設され、現在は五條市がそれを継承している。更に、堀家住宅は国指定重要文化財でありながらリノベーションされて2019年4月より「カフェ レストラン賀名生旧皇居 KANAU」として営業を開始している。長屋を改装したホテルも併設している。「かなう」との呼称は、関西への環都を願う人々の願いが「かなう」ことを願っているかのようだ。秋篠宮が今後この賀名生旧皇居にしばらく隠遁してこの地を「かなう」と改称し、その後天皇即位を宣言して東西二天皇体制に移行、今上が退位するといったシナリオがあるのではないだろうか?小室圭や佳子内親王の噂される都内理系大卒婚約者は秋篠宮一家を支える武将として北畠親房(堀家住宅の近くに墓がある)や楠木正成の様に活躍するのだろうか?後者は奈良女子大に新設される工学系学部の教員になるシナリオではないか?
吉野山・高野山・熊野大社は紀伊山地の霊場と参詣道(きいさんちのれいじょうとさんけいみち)として世界文化遺産に2004年に指定された。古来の山岳信仰に密教系の仏教が加わった修験道の中心であり、ここで培われた密教僧侶達の超能力がこれまでの日本の奇跡的な生き残りを支えてきたのだと思われる。そして、神武天皇から後醍醐天皇に至る多くの皇族・貴族がこの地を訪れたのは、そのような超能力が皇位継承に不可欠であると知っていたからだろう。神武天皇を支えた八咫烏の人々だけでなく、現在も奈良県南部にルーツを持つ人々が東京含め日本で活躍している。北岡伸一元東大法学部教授・元国連大使とその弟である北岡篤吉野町長については以前に触れた。前川喜平元文科相事務次官は9歳まで御所市で育っている。実家は御所の林業家で、前川製作所の創業者である前川喜作を祖父に持つ。吉野に移住する秋篠宮一家は彼らがを支えることだろう。
また、2013年7月19日に営業を開始したシャープ美吉野太陽光発電所は吉野山金峯山寺から谷を隔てた山の尾根筋を切り開いて建設されているが、切り開かれた広大な土地の一部しか発電所に利用されていない。残る空き地の使途は不明であるが、吉野山参拝者の駐車場にでもするのか、それとも皇室関係者の参拝や行事目的なのか?誰か知っている人がいたら教えて欲しい。
吉野山は近鉄南大阪線、高野山は南海高野線とケーブルカーでアクセス可能である。熊野大社の参道は新宮市や紀伊田辺市から続く長い山道であり鉄道の便はない。しかし、昭和の時代に計画されていた五條駅から新宮駅に至る五新線は完成していれば熊野本宮への鉄道アクセスになったと思われる。この五新線は昭和時代に一部建設されたが国鉄末期に建設が中止されている。完成していた路盤は五條市の管理下となり一部は路線バス専用道として利用されていたがトンネルの状態悪化を理由に2014年9月にバス運行が停止された。しかしその後も五條市による管理が続いている。五新線ウォーキングイベントが時々開催されていること、利用の目処のない宗川橋梁に完成後20年経過した1996年に塗装が行われていることなどから、近い将来に利用することを前提に管理が行われているのではないかと思われる。
五新線のトンネルはカフェ レストラン賀名生旧皇居 KANAUの敷地を通過している。賀名生旧皇居を秋篠宮の行宮にする場合、皇族専用駅舎を敷地内に建設することも可能だろう。更に、来年4月以降は校舎移転で空き地となる奈良県立五條高校賀名生分校(県立高校の分校だが何故か五條市立である)が近隣にあり、ここも皇室関連施設として利用可能であろう。
さて、五新線の路盤は五條駅から天辻トンネルを越えた阪本まで完成している。ただし、延長2,140mで入口と出口で高低差が約50 mのループトンネルである立川渡トンネルと立川渡駅は未着工である。 未着工区間があるのに五條市が金を出して管理を続けているということは、今後何らかの形で未着工区間が着工されることを示唆している。では、その着工後の利用形態はどうなるのだろうか?
常識的に考えて通常の鉄道建設は無理である。どう考えても採算がとれない。とすると、
1.観光客向け歩道(五條市の場合は「世界遺産紀伊山地の霊場と参詣道」の参詣道)が最も合理的な用途だろう。
2.五條市西吉野町の賀名生に秋篠宮の行宮が設けられ、そこを拠点に秋篠宮が吉野・高野山・熊野大社への参拝と祈祷を行うのであれば、五新線の路盤は皇室専用の自動車道として利用される可能性があるだろう。既に京奈和道が橿原市から和歌山市まで開通しており、秋篠宮とともに悠仁親王が賀名生皇居に住んで奈良盆地方面など遠方の学校(奈良女子大附属中等教育学校等)に自動車で通学することが十分可能である。今後奈良教育大と奈良女子大は附属幼小中高を含めて改組されてそれぞれ学習院大学と学習院女子大学の後継となるシナリオを想像する。秋篠宮の関西移住が行われるならば、落合莞爾氏や世界戦略情報誌『みち』の主張する様にそれは最初が吉野、それも交通アクセスの良い五條市西吉野町付近になるだろう。そしてその後は京阪奈京に皇居が移るが、秋篠宮は天皇即位後も高野山・吉野・熊野への参拝を繰り返すと思われる。その為に京奈和道の橿原和歌山区間が先行開通し、リニア奈良市付近駅から高田・御所・五條・橋本を経て関西空港に至る遠回りの高速鉄道の建設計画や五條市の陸上自衛隊基地と2000m滑走路建設を奈良県知事が提案しているのだと思われる。秋篠宮一家を西側支配階層という敵の攻撃から守るには陸上自衛隊が必要であるし、関西空港が利用できない場合の皇室利用空港として五條市の空港が必要なのだと思われる。
3.五條市を通る高速鉄道計画が単線・常電導方式のリニア新幹線であるのも謎だ。中央リニアとも北陸新幹線とも別の規格なので直通できない。常電導方式のリニアは1990年開業の大阪メトロ長堀鶴見緑地、1991年開業の都営大江戸線を皮切りに5都市7路線で開業している非浮上型と、2005年に開催された「愛・地球博」の会場アクセス路線として建設された「愛知高速交通東部丘陵線(リニモ)」の浮上型に分かれるがいずれも複線である。単線では輸送力に限界があり採算がとれないと思われる。しかし、皇族が利用するのであれば採算は度外視できるのかもしれない。リニアの最大の長所は車体が小さく狭いトンネルで可能なこと、急勾配や急曲線に強いことである。単線の非電化区間として建設された五新線のトンネルは拡幅工事なしにリニアを走らせることができると思われる。その他、未着工の立川渡トンネルとその前後区間は急勾配に強いリニアの特徴を生かしてループトンネルを止めて地上区間にする計画なのかもしれない。阪本から熊野大社を経て新宮まで延伸する場合も安いコストで可能だろう。山陰新幹線や四国新幹線などの需要の小さい路線は今後この規格で建設される可能性もあろう。
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Unknown (Unknown) 2020-07-20 01:36:56
ぬなとチャンネル(旧新井信介 京の風)【地球規模の画策が始まっている?! 世界の支配層は東京を捨てる?!】(収録時間:26分)(2020年7月19日)
・落合莞爾先生は、天皇陛下の住まいは、京都ではなく吉野、と!!
●上皇・秋篠宮が京都に戻って平城京跡歴史公園で秋篠宮が即位、東京天皇と並立する壬申の乱の再現か? - 国際情勢の分析と予測 2019年05月18日
本ブログに5月12日に書き込まれた情報が興味深い。
「4月20日に朝日新聞が報道した秋篠宮の上の発言は、壬申の乱の時に大海人皇子が「自分は天智天皇の後を継ぐつもりは無い」と言って出家し吉野に籠もった後に反乱を起こし弘文天皇を殺して即位した歴史を彷彿とさせる。「高齢での即位は出来ない」との言葉は、近日中に即位する意図があるという不穏な発言とも解釈できる。恐らく近いうちに平成上皇と秋篠宮は京都に戻り、今上天皇だけが東京に取り残される。それによって日本は東西京体制に移行する。平城京、長岡京、平安京への遷都時には遷都の詔が出ているが東京については遷都の詔が無いので東京は実は首都では無い。また、今上天皇が5月1日に即位したことは大きな意味は無い。最も重要なのは今年11月に行われる大嘗祭で、ここで今上天皇に神とのチャネリングを行うことが出来るかどうかが試される。それには密教などの仏教系の教育が必要であり、秋篠宮や悠仁親王はその教育を受けているが、今上天皇はそれを受けていない(つまり大嘗祭を行えない)。」
というのだ。
<中略>
世界戦略情報誌『みち』の平成21年10月1日号の「いよいよ大和へ、そして吉野へ 還都への動き」と題する巻頭言の記事を見ると、平城京の大極殿が2001年から9年間かけて2010年に復元されたとの内容である。そして、奈良・吉野への還都が主張されている。この「奈良」は平城宮跡歴史公園の復元大極殿に準備された二つ目の高御座で秋篠宮が即位式の礼を挙げることを意味していると思われる。明治・大正・昭和天皇は皆京都で即位の礼と大嘗祭を行っており、現在の京都御所の既存の宮殿で大嘗祭を行うことは可能だろう。更に、奈良県議会が県庁を橿原市に移転するという謎の決議が2018年3月23日に賛成多数で可決されているが、これはかつて触れたように、奈良県庁の建物を秋篠宮に明け渡して臨時御所として利用する計画を示すと思われる。そして、「吉野」だが、これは壬申の乱で大海皇子が吉野に籠もって挙兵した歴史事実を指すのではないかと想像する。吉野に秋篠宮一家が住む場所があるのか、義務教育課程の悠仁親王の通学先はどうするのかなど疑問も多いが、場合によっては今年の夏休み時期に秋篠宮一家が吉野に移動、9月からは悠仁親王が奈良女子大附属中等学校に編入などと言うシナリオも考えられる。
●奈良県、滑走路を併設する大規模広域防災拠点の整備を補正予算に計上 | FlyTeam ニュース 2019/06/18 17:35
奈良県は2019年6月13日(木)、定例県議会に補正予算案を提出し、五條市のプレディアゴルフ場を中心とするエリアに広域防災拠点を設ける大規模広域防災拠点の整備に2,500万円を計上しました。
南海トラフ巨大地震などを想定し、大規模広域防災拠点として2,000メートル級の滑走路を備えた施設です。防災拠点は以前から構想しており、平成30年7月豪雨の他県での被害を踏まえた奈良県緊急防災大綱を2019年5月に取りまとめ、その中でも改めて施設の必要性が指摘されています。
この広域防災拠点は、給油、夜間駐機スペースに加え、消防学校などの併設も検討されています。南海トラフなど大規模災害発生の直後、陸上交通が寸断された状態でも、比較的災害に強い空路による人員、物資輸送が可能で、消防や防災ヘリコプターに加え、他県からの緊急消防援助隊、自衛隊機などの広域航空応援部隊の受入体制の整備が必要とされています。
この施設は、奈良県が具体的に施設整備などを進めながら、三重、和歌山の両県も運用面で協力することで2018年7月に3県の知事が合意しています。すでに奈良、三重、和歌山はドクターヘリの相互応援協定で連携しています。
●政府要望/奈良県公式ホームページ
提案・要望項目 18項目(令和元年11月7日時点)
2 陸上自衛隊駐屯地の配置要望(pdf 1739KB)
6 新たな「吉野山観光周遊システム」の構築・推進(pdf 647KB)
10 道路整備の強力な推進(pdf 852KB)
13 リニア中央新幹線 三重・奈良・大阪ルートの早期実現(pdf 513KB)
14 京奈和自動車道(仮称)奈良ICとJR新駅の交通結節点機能を活かしたまちづくり(pdf 523KB)
16 奈良県の都市公園等の整備推進(pdf 448KB)
17 平城宮跡歴史公園の整備推進(pdf 543KB)
●奈良~関空直結の「リニア支線」現実性は? 奈良県が検討、その背景 | 乗りものニュース 2019.07.29
奈良県は2019年度補正予算で、リニア中央新幹線の名古屋~新大阪間開業時に開設予定の奈良県新駅から関西空港までをつなぐ「リニア支線」の調査・検討費として2500万円を計上しました。
このリニア支線構想は4月の奈良県知事選で4選を果たした荒井正吾知事が公約に掲げていたものです。単線・常電導方式のリニア新幹線を建設し、リニア中央新幹線の奈良県新駅から、奈良県大和高田市、御所市、五條市、和歌山県橋本市を経由し、関西の玄関口である関西空港まで20~30分で接続し、将来的には京都府京田辺市付近で北陸新幹線にもつなげたいとしています。
2019年6月14日付の産経新聞によると、荒井知事は会見で「難しいチャレンジだが、需要や工事費を検討し実現可能性を探っていきたい」と意欲を示し、「リニア中央新幹線が品川-新大阪間で全線開通すると、関空からの結節点でもある新大阪への集中が過剰になる」として新ルートを整備する意義を強調していますが、関西空港から大阪、京都へ流れがちな外国人旅行客を奈良に呼び込みたいというのが本音でしょう。
ただ、元運輸官僚である荒井知事の構想は壮大です。このリニア支線と表裏一体の関係にあるのが、南海トラフ地震に備えて県南部の五條市に2000m級の滑走路を併設した大規模広域防災拠点を整備する計画です。こちらも今回の補正予算で調査費が計上されています。
この防災拠点は、リニア中央新幹線の建設工事で発生する排出土砂を、専用軌道を建設して奈良市から五條市まで運搬して土地の造成に活用し、さらに専用軌道の用地をリニア支線に転用するというのです。あまりにも壮大な計画の背景には一体どのような事情があるのでしょうか。
●奈良の五新線バス専用道、9月30日限りで閉鎖へ | レスポンス(Response.jp) 2014年8月4日(月)
専用道を管理している五條市によると、専用道内で最も新しい衣笠トンネルの状態が悪いことから、9月30日限りで専用道を閉鎖することにしたという。現在運行されている専用道経由のバスは、並行する国道168号を走行するルートに変更される模様だ。
●五新線ウォーキング② - 私を探さないで!! 2018年11月11日
って事で先日の続きを
城戸の先に行くと 柵がありましてその先を歩いて行きます。森の間を歩いて行く感じです。
少し行くと 少し開けてきますそこに 黒渕のバス停が有ったようです。
その周辺は 柿の木と数件の家が有ります。反対側 丹生川の先を見てみると 西吉野第一発電所が有ります。
その先を見ると、今回初めてのトンネル 黒渕トンネルが有ります。ココで、1つ目のスタンプを押してもらいました。トンネルの中は電気など無く真っ暗です。
トンネルを潜ると、今回初めての柵が有ります。今回のイベントの為に解放されており、夕方5時にはまた閉めるらしいです。
その先で 丹生川を渡ります。第8丹生川橋梁らしいです。
橋を渡ると、衣笠トンネルです。このトンネルは先ほどのより長いので真ん中はほぼ真っ暗です。
トンネルの出口 トンネル内に入れないようにする柵が有ります。少し歩くと、下をバスが走っています。国道189号線です。
で、またバス停のような建物が 衣笠バス停のようです。
●五新線 - Wikipedia
宗川橋梁 - 1976年5月31日竣工、延長約149 m、1996年6月に塗装が行われた。
立川渡駅 - 未着工
立川渡トンネル - 未着工、入口と出口で高低差が約50 mのループトンネルの計画、延長2,140 m
天辻トンネル - 約5年の歳月をかけ1972年3月31日竣工、延長5,039.50 m、入口と出口の標高差は約114 m。1997年、阪本側に大阪大学核物理研究センターの大塔コスモ観測所が置かれる。2007年、国道168号の拡張工事に伴い、阪本側坑口が削られた。
●五新線廃線跡調査4
緩やかにカーブしている宗川橋梁。脚の形状なども特徴があって記憶に残りやすい。1996年に塗り替えが行われていた。何の役にも立たないのにしっかりメンテナンスがされていることが素晴らしい。
●4K【奈良交通】五新鉄道バス 2014.9.30最終日 五條バスセンター→専用道城戸 - YouTube
●賀名生の里歴史民俗資料館/五條市
・南朝と賀名生
1336年(〈南朝〉延元元・〈北朝〉建武3)、後醍醐天皇は、幽閉先の京都・花山院(かざんいん)を脱出し、吉野へと向かいました。この途中で賀名生に滞在しています。吉野にこもった天皇は、自らが正統の天皇であると主張したことから、京都(北朝)と吉野(南朝)の二つの朝廷が出現する事態になりました。こうして、以後約60年にわたる両朝が対立・抗争する「南北朝時代」が幕を開けました。
後醍醐天皇の賀名生滞在の理由の一つに、真言密教に大きく帰依(きえ)していた天皇が、総本山である高野山金剛峯寺への行幸(ぎょうこう)を強く願い、それがかなわない場合に吉野山金峯山寺へと向かう計画のため、高野山と吉野山のほぼ中間地点に位置する賀名生で様子をうかがっていたことが挙げられます。
後醍醐天皇の跡を継いだ後村上天皇は、1348年(正平3・貞和4)、南朝の本拠地の吉野山が焼き討ちにあうと、賀名生に行宮(あんぐう)を定めました。それから間もない1351年(正平6・観応2)、北朝の天皇を擁立した足利尊氏が、一時的に南朝に降伏し北朝の天皇は廃されます。こうして、わずか数か月のことですが、南朝が唯一の朝廷となり、賀名生は都になりました(このできごとを「正平の一統」と呼びます)。
その後、南朝の行宮は河内や摂津などにも移りますが、賀名生は南北朝時代を通して、度々その拠点となりました。
・地名の由来
南北朝時代に記された記録などによると、この地はもともと「穴生」・「穴太」・「阿那宇」などと表記され、「あなう」と呼ばれていたようです。正平の一統の時、後村上天皇は「願いがかなってめでたい」との思いから、この地を「加名生(かなう)」と名付けたと伝わっています。後に、この地の人々は「加名生」はおそれ多いので「賀名生」に改めたといわれ、明治のはじめに読み方を「あのう」に統一しました。
●堀栄三 - Wikipedia
堀 栄三(ほり えいぞう、1913年(大正2年)10月16日 - 1995年(平成7年)6月5日)は、日本の陸軍軍人、陸上自衛官。階級は陸軍少佐、陸将補。
正確な情報の収集とその分析という過程を軽視する大本営にあって、情報分析によって米軍の侵攻パターンを的確に予測したため、「マッカーサー参謀」とあだ名された。戦中の山下奉文陸軍大将、そして戦後海外の戦史研究家にもその能力を高く評価されている。
奈良県吉野郡西吉野村(現五條市)出身。伊藤祐一郎の子に生まれ、陸軍航空本部長・第1師団長や留守航空兵団司令官を務めた堀丈夫陸軍中将の養子となる。明倫中学から1927年(昭和2年)4月、東京陸軍幼年学校に入り、1930年(昭和5年)3月から陸軍士官学校に進む。<中略>終戦後の9月に陸軍省軍務局課員、10月に予備役編入(最終階級は陸軍中佐)。郷里の奈良県吉野郡西吉野村に帰り、健在であった父の堀丈夫中将と共に農耕に従事。
戦後、1954年(昭和29年)に陸上自衛隊に入隊。<中略>1967年(昭和42年)3月、陸将補で退官。 1974年(昭和49年)から大阪学院大学ドイツ語講師となる。1991年(平成3年)4月から郷里の西吉野村の村長を務め、名産吉野柿の普及に力を入れた。二期目在職中の1995年(平成7年)6月5日、ガンのために死去、享年82。
奈良県吉野郡西吉野村和田(現:五條市)の堀家は、松本清張・樋口清行『奈良の旅』で「吉野郡西吉野村和田にある、後村上天皇の賀名生行在所といわれる堀栄三氏宅も、足利時代初期に近い構造を一部残している」と紹介されている[17]。「堀家住宅(奈良県吉野郡西吉野村)」として、堀の生前の1979年(昭和54年)5月21日に重要文化財に指定され[18]、2012年(平成24年)現在も保存されている。賀名生#歴史参照
●堀丈夫 - Wikipedia
堀 丈夫(ほり たけお、1881年(明治14年)7月2日 - 1952年(昭和27年)4月4日)は、日本の陸軍軍人。陸軍航空本部長・第1師団長や留守航空兵団司令官を務め、階級は陸軍中将勲一等に至る。
経歴
村長・吉野神宮宮司堀重信の長男として奈良県に生れる。陸軍幼年学校を経て1901年(明治34年)11月に陸軍士官学校(13期)を卒業。
●堀家住宅 賀名生皇居跡/五條市
●五條市でランチ|重要文化財 カフェ レストラン賀名生旧皇居 KANAU
KANAUは、国指定重要文化財「堀家住宅」賀名生旧皇居をリノベーションして2019年4月にオープンしました。ホテルとレストラン、そしてウェディング。
奈良県西吉野村の北部・和田の丹生川の清流に臨むようにひっそりとある賀名生の旧皇居「堀家住宅」。延元元年(1336年)の年の暮れ、足利尊氏によって京の都を追われた後醍醐天皇は、吉野へと向かう途中に郷土堀孫太郎信増の邸宅に迎えられました。天皇を手厚くもてなした郷士「堀孫太郎信増」の邸宅はその後、後村上、長慶、後亀山天皇の皇居として南朝の歴史を刻んできました。
堀家住宅のある奈良県西吉野村の北部・和田は、昔「穴生(あなふ)」と呼ばれていましたが、後村上天皇は南朝が正統でありたいと「叶名生(かなふ)と名付けられました。正平6年(1351年)足利氏が南朝に帰順し、多くの公卿や殿上人が賀名生に参候して北朝が否定されたので、翌正平7年の正月、後村上天皇は「願いが叶って目出度い」との思し召しから「賀名生」と改める勅書を下されたと伝えられています。当時は「かなふ」と呼ばれていましたが、明治の始めになって呼び方を「あのう」に統一しました。
KANAUの名は、堀家住宅を後村上、長慶、後亀山天皇の皇居としてお使いいただいた当時のこの地の呼び名「かなふ」を意味しています。
●後醍醐天皇と吉野 | 深掘り!歴史文化資源 | 奈良県歴史文化資源データベース「いかす・なら」
歴史を振り返ると、応神天皇以来幾度も吉野への行幸の記録があり、離宮として吉野宮が築かれました。
また、中大兄皇子の異母兄の古人大兄皇子は、乙巳の変で自分の後見人であった蘇我入鹿が殺されたのを見て吉野に向かい、兄頼朝に追われた源義経は、静御前や弁慶を伴って吉野吉水院に入りました。
このように、吉野は中央で居所を失った人々が再起を図る場所でもありました。そして「南朝」を開いた後醍醐天皇も、吉野で復活を望んだ一人でした。
●宮滝遺跡 - Wikipedia
宮滝遺跡(みやたきいせき)は、奈良県吉野郡吉野町宮滝にある複合遺跡。国の史跡に指定されている。いくつかの異なった年代の遺構が存在し、吉野宮・吉野離宮の存在も推定される。
●吉野宮 - Wikipedia
天智天皇崩御の際に弟の大海人皇子(後の天武天皇)が妃の鵜野皇女(後の持統天皇)や子供の草壁皇子ともに吉野宮に隠棲したが、後に弘文天皇(大友皇子)と対立してここで挙兵した(壬申の乱)。
●前川喜平 - Wikipedia
奈良県御所市生まれ[2][9]。小学校4年時の1963年、東京へ転居、1967年、麻布中学校・高等学校へ入学[2][9]。1973年、東京大学文科一類入学。2年の留年後、1979年に東大法学部を卒業。国家公務員試験(甲種 - 行政職)を4番目の成績で合格し[11]、文部省入省[3]。
<中略>
2016年6月、文部科学事務次官[8]。
2017年1月20日に、文部科学省における再就職等規制違反を受け、文部科学事務次官退任[13][注 1]。
●シャープがメガソーラーを続々立ち上げる、北海道と奈良に7.8MW - スマートジャパン
「シャープ美吉野太陽光発電所」(奈良県吉野町)は、面積約4万2000m2の敷地に建設した出力(直流出力、以下同じ)約2.7MWのメガソーラー(図2)。2013年7月19日から営業運転を開始し、年間予想発電量は約270万kWh。固定価格買取制度(FIT)によって、20年間、40円(税別)で関西電力に売電する。
●京都・奈良とは何か:小浜市のお水送りと東大寺のお水取りに見る畿内を守る五芒星の結界とその中心軸 - 国際情勢の分析と予測 2017年12月24日
畿内には五芒星がありその中心に平城京がある。五芒星の頂点は伊吹山・伊勢神宮内宮・熊野本宮大社・伊弉諾(いざなぎ)神宮・元伊勢内宮皇大神社である。この五芒星はほぼ東西対称形となっており、伊弉諾神宮と伊勢神宮内宮、元伊勢内宮皇大神宮と伊吹山は緯度がほぼ等しい。
また、五芒星の正中線上には平安京・飛鳥京・若狭彦神社・若狭姫神社があり、経度がほぼ等しいため。南北に一列に並んでいる。
長岡京・恭仁京・難波京・平安京・平城京・飛鳥京は全てこの五芒星の中心の五角形の中にある。その周囲の五個の二等辺三角形の中には大津京・信楽京・福原京・南北朝時代の吉野の南朝政府などの宮殿所在地があるがいずれも短期間の首都にとどまっている。信楽京を除くと壬申の乱・源平合戦・南北朝の対立など複数の天皇を擁する勢力が五芒星中心の五角形の中にも存在し並立して激しく争うという内戦の時代であった。東京はこの五芒星から遠く離れた場所にあるが、南朝系の明治天皇・昭和天皇・今上天皇・浩宮などと北朝系の大正天皇・三笠宮・秋篠宮・悠仁親王などが並立している点は類似している。ひょっとすると真の北朝系の皇族は東京では無くこの五芒星の中に住み続けており、秋篠宮や悠仁親王は影武者に過ぎないのかもしれない。
いずれにせよ古墳時代から明治維新までの日本の首都は全てこの五芒星の中にある。驚くべきことだ。第二次世界大戦では平安京・平城京・飛鳥京はいずれも空襲を逃れている。五芒星の結界に守られていたのだろう。
<中略>
このように、小浜市の若狭彦神社と神宮寺から京都市・精華町・奈良市・橿原市を経て熊野本宮大社に至る南北の線は日本の真の中心軸であり、それを防衛するために結界が作られているのだと思われる。お水送り・お水取りはこの結界を外敵から守るために行われているのだろう。北陸新幹線(山陰新幹線も)が小浜を経由するのもこの結界を守る祈祷者らの交通の便のためではないかと思われる。従って、北陸新幹線は間違いなく小浜から京都駅を経て新皇居の建設される京阪奈京に至るルートで建設されると確信する。京阪奈京の先は天王寺から関西新空港に向かうルートだろう。
●飛鳥ナンバー人気 松戸と接戦 新ご当地ナンバー17地域の図柄 「飛鳥3110」で取る人も | 乗りものニュース 2020.07.08
2020年5月11日から、全国17の地域で自動車用ナンバープレートの新しい地域名表示、いわゆる「ご当地ナンバー」の交付が始まりました。いずれも、「地方版図柄入りナンバープレート」を導入しており、地域ゆかりの図柄が描かれたプレートを申し込むことができますが、この図柄入りプレートの申し込み数で、奈良県の「飛鳥」ナンバーが健闘しています。
●奈良県の陸運局【自動車・バイクの名義変更・住所変更などの手続き】
◇飛鳥ナンバーの管轄区域 --- 橿原市、三宅町、田原本町、高取町、明日香村
●市町村間の連携等/奈良県公式ホームページ
橿原・高市広域市町村圏:橿原市、高取町、明日香村
山辺広域市町村圏 :天理市、山添村、川西町、三宅町、田原本町
●佳子さま結婚へ! 留学先で“理系男子”と愛育まれる 眞子さま結婚問題後の見込み(週刊女性PRIME) - Yahoo!ニュース
【私のコメント】
県庁の橿原市移転決議、奈良高校の校舎老朽化放置と強制閉鎖される平城高校跡地乗っ取りによる移転、リニア奈良市付近駅誘致を巡る県内自治体間の意見対立、使途不明の広大な空き地となって放置されている奈良ドリームランド、近鉄奈良線西大寺奈良間の線路移転でに新たに2駅建設する計画だが駅間距離が近すぎる(特に油阪駅と近鉄奈良駅)、五條市への広域防災拠点建設と2000m滑走路建設・陸上自衛隊誘致計画、リニア奈良市付近駅と関空を結ぶリニア支線が高田・御所・五條・橋本経由で遠回りであり新幹線ともリニアとも直通できない規格である点など、最近の奈良県は謎が多い。私は以前から、これは京阪奈学研都市へのリニア駅設置・新皇居建設と平城京跡歴史公園の復元大極殿での秋篠宮即位の準備であると主張してきた。飛鳥ナンバーの人気、飛鳥ナンバー管轄区域に飛鳥とは縁もゆかりもなく別の広域市町村圏に所属する田原本町と三宅町が含まれているのも謎だが、未来の自治体合併で橿原飛鳥市(仮称)を三宅町まで広げることが必要なのかもしれない。
新井信介氏によると、落合莞爾氏は最近「天皇陛下の住まいは、京都ではなく吉野」と主張しているという。また、世界戦略情報誌『みち』の平成21年10月1日号の「いよいよ大和へ、そして吉野へ 還都への動き」と題する巻頭言の記事を見ると、平城京の大極殿が2001年から9年間かけて2010年に復元されたとの内容に続いて、奈良・吉野への還都が主張されている。本当に吉野に天皇が住むのだろうか?
奈良県歴史文化資源データベースでは、「吉野は中央で居所を失った人々が再起を図る場所」との記述がある。南朝を開いた後醍醐天皇の他に、大化の改新で殺された古人大兄皇子、源頼朝に追われた源義経が挙げられている。壬申の乱で吉野に隠遁しそこで挙兵した大海人皇子が取り上げられていないのが気になる。
大海人皇子と古人大兄皇子が隠遁したのは吉野宮で、現在の宮滝遺跡と考えられている。吉野川沿いだが中央構造線の少し南に位置する。
後醍醐天皇が南朝を開いたのは吉野山金峯山寺だが、吉野以外にも天皇の行宮が置かれた場所があり、旧西吉野村(現在は五條市西吉野町)の賀名生は3人の天皇が行宮とした場所として知られる。賀名生は「あのう」と読むが、正平の一統の際に後村上天皇は「願いがかなってめでたい」との思いから、自分の行宮のあるこの地を「加名生(かなう)」と名付け、一時は「かなう」と呼ばれたとされる。賀名生は吉野山金峯山寺と高野山金剛峯寺の中間に位置し、宮滝遺跡と同様に中央構造線の少し南に位置する点で共通する。後醍醐天皇を迎えもてなした郷士「堀孫太郎信増」の邸宅は3人の天皇の行宮となり、その子孫の堀栄三 (帝国陸軍軍人、陸上自衛隊を経て西吉野村長)の存命時期に重要文化財に指定されている。堀栄三は西吉野村に生まれたが堀丈夫陸軍中将の養子となったことで堀家の一員になっている。堀丈夫陸軍中将が吉野神宮宮司の長男であることは、西吉野村郷士の堀家と吉野山の親密な関係を示唆している。
賀名生では五條市との合併の直前に西吉野村によって賀名生の里歴史民俗資料館が建設され、現在は五條市がそれを継承している。更に、堀家住宅は国指定重要文化財でありながらリノベーションされて2019年4月より「カフェ レストラン賀名生旧皇居 KANAU」として営業を開始している。長屋を改装したホテルも併設している。「かなう」との呼称は、関西への環都を願う人々の願いが「かなう」ことを願っているかのようだ。秋篠宮が今後この賀名生旧皇居にしばらく隠遁してこの地を「かなう」と改称し、その後天皇即位を宣言して東西二天皇体制に移行、今上が退位するといったシナリオがあるのではないだろうか?小室圭や佳子内親王の噂される都内理系大卒婚約者は秋篠宮一家を支える武将として北畠親房(堀家住宅の近くに墓がある)や楠木正成の様に活躍するのだろうか?後者は奈良女子大に新設される工学系学部の教員になるシナリオではないか?
吉野山・高野山・熊野大社は紀伊山地の霊場と参詣道(きいさんちのれいじょうとさんけいみち)として世界文化遺産に2004年に指定された。古来の山岳信仰に密教系の仏教が加わった修験道の中心であり、ここで培われた密教僧侶達の超能力がこれまでの日本の奇跡的な生き残りを支えてきたのだと思われる。そして、神武天皇から後醍醐天皇に至る多くの皇族・貴族がこの地を訪れたのは、そのような超能力が皇位継承に不可欠であると知っていたからだろう。神武天皇を支えた八咫烏の人々だけでなく、現在も奈良県南部にルーツを持つ人々が東京含め日本で活躍している。北岡伸一元東大法学部教授・元国連大使とその弟である北岡篤吉野町長については以前に触れた。前川喜平元文科相事務次官は9歳まで御所市で育っている。実家は御所の林業家で、前川製作所の創業者である前川喜作を祖父に持つ。吉野に移住する秋篠宮一家は彼らがを支えることだろう。
また、2013年7月19日に営業を開始したシャープ美吉野太陽光発電所は吉野山金峯山寺から谷を隔てた山の尾根筋を切り開いて建設されているが、切り開かれた広大な土地の一部しか発電所に利用されていない。残る空き地の使途は不明であるが、吉野山参拝者の駐車場にでもするのか、それとも皇室関係者の参拝や行事目的なのか?誰か知っている人がいたら教えて欲しい。
吉野山は近鉄南大阪線、高野山は南海高野線とケーブルカーでアクセス可能である。熊野大社の参道は新宮市や紀伊田辺市から続く長い山道であり鉄道の便はない。しかし、昭和の時代に計画されていた五條駅から新宮駅に至る五新線は完成していれば熊野本宮への鉄道アクセスになったと思われる。この五新線は昭和時代に一部建設されたが国鉄末期に建設が中止されている。完成していた路盤は五條市の管理下となり一部は路線バス専用道として利用されていたがトンネルの状態悪化を理由に2014年9月にバス運行が停止された。しかしその後も五條市による管理が続いている。五新線ウォーキングイベントが時々開催されていること、利用の目処のない宗川橋梁に完成後20年経過した1996年に塗装が行われていることなどから、近い将来に利用することを前提に管理が行われているのではないかと思われる。
五新線のトンネルはカフェ レストラン賀名生旧皇居 KANAUの敷地を通過している。賀名生旧皇居を秋篠宮の行宮にする場合、皇族専用駅舎を敷地内に建設することも可能だろう。更に、来年4月以降は校舎移転で空き地となる奈良県立五條高校賀名生分校(県立高校の分校だが何故か五條市立である)が近隣にあり、ここも皇室関連施設として利用可能であろう。
さて、五新線の路盤は五條駅から天辻トンネルを越えた阪本まで完成している。ただし、延長2,140mで入口と出口で高低差が約50 mのループトンネルである立川渡トンネルと立川渡駅は未着工である。 未着工区間があるのに五條市が金を出して管理を続けているということは、今後何らかの形で未着工区間が着工されることを示唆している。では、その着工後の利用形態はどうなるのだろうか?
常識的に考えて通常の鉄道建設は無理である。どう考えても採算がとれない。とすると、
1.観光客向け歩道(五條市の場合は「世界遺産紀伊山地の霊場と参詣道」の参詣道)が最も合理的な用途だろう。
2.五條市西吉野町の賀名生に秋篠宮の行宮が設けられ、そこを拠点に秋篠宮が吉野・高野山・熊野大社への参拝と祈祷を行うのであれば、五新線の路盤は皇室専用の自動車道として利用される可能性があるだろう。既に京奈和道が橿原市から和歌山市まで開通しており、秋篠宮とともに悠仁親王が賀名生皇居に住んで奈良盆地方面など遠方の学校(奈良女子大附属中等教育学校等)に自動車で通学することが十分可能である。今後奈良教育大と奈良女子大は附属幼小中高を含めて改組されてそれぞれ学習院大学と学習院女子大学の後継となるシナリオを想像する。秋篠宮の関西移住が行われるならば、落合莞爾氏や世界戦略情報誌『みち』の主張する様にそれは最初が吉野、それも交通アクセスの良い五條市西吉野町付近になるだろう。そしてその後は京阪奈京に皇居が移るが、秋篠宮は天皇即位後も高野山・吉野・熊野への参拝を繰り返すと思われる。その為に京奈和道の橿原和歌山区間が先行開通し、リニア奈良市付近駅から高田・御所・五條・橋本を経て関西空港に至る遠回りの高速鉄道の建設計画や五條市の陸上自衛隊基地と2000m滑走路建設を奈良県知事が提案しているのだと思われる。秋篠宮一家を西側支配階層という敵の攻撃から守るには陸上自衛隊が必要であるし、関西空港が利用できない場合の皇室利用空港として五條市の空港が必要なのだと思われる。
3.五條市を通る高速鉄道計画が単線・常電導方式のリニア新幹線であるのも謎だ。中央リニアとも北陸新幹線とも別の規格なので直通できない。常電導方式のリニアは1990年開業の大阪メトロ長堀鶴見緑地、1991年開業の都営大江戸線を皮切りに5都市7路線で開業している非浮上型と、2005年に開催された「愛・地球博」の会場アクセス路線として建設された「愛知高速交通東部丘陵線(リニモ)」の浮上型に分かれるがいずれも複線である。単線では輸送力に限界があり採算がとれないと思われる。しかし、皇族が利用するのであれば採算は度外視できるのかもしれない。リニアの最大の長所は車体が小さく狭いトンネルで可能なこと、急勾配や急曲線に強いことである。単線の非電化区間として建設された五新線のトンネルは拡幅工事なしにリニアを走らせることができると思われる。その他、未着工の立川渡トンネルとその前後区間は急勾配に強いリニアの特徴を生かしてループトンネルを止めて地上区間にする計画なのかもしれない。阪本から熊野大社を経て新宮まで延伸する場合も安いコストで可能だろう。山陰新幹線や四国新幹線などの需要の小さい路線は今後この規格で建設される可能性もあろう。
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もしかして、本物が残置されたからこそ、偽物はいらなかった?
終戦直後から山岳部の隠蔽地下陣地に潜伏していた陸軍とその子孫がいて、降伏を拒否して秘密戦を続けたのかも。
しかし長引く戦いに、流石に今は奈良県内で地元の警察や消防など市民として潜伏していて、装備を調達できない。
それで、いざという時に援軍を集結させる広域防災拠点が必要になったのかも知れませんね。
【PS】 装甲騎兵ボトムズOP
https://www.youtube.com/watch?v=7ed4-CW4Q3A
最新鋭10式戦車の訓練に密着 衝撃と轟音の徹甲弾射撃【動画】
https://www.youtube.com/watch?v=OvjDwjAJc_Y
「平和」には家畜の意味があるのを知っていますか?
http://cocorofeel.blog119.fc2.com/blog-entry-21287.html
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200725/k10012532261000.html
コロナ「第1波」大きく上回るペース 奈良で1日あたり過去最多の13人 2020年7月24日
https://mainichi.jp/articles/20200724/k00/00m/040/080000c
https://kotonoani.com/2020/07/26/takahashi-349/
https://www.iwate-np.co.jp/article/oricon/2166030
1980年代から女性は労働と恋愛が素晴らしいとされ、結婚や出産・子育ては無価値という価値観が大々的に宣伝されてきた。これは日本だけでなく田の先進国にも当てはまると思われる。そのような政策が女性の非婚化と少子化の最大の原因であった。
今その政策が漸く終わり始めているのだろう。
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200726/k10012533061000.html
キム・ジョンウン委員長はケソンを完全封鎖するよう指示したうえで25日、党政治局の緊急会議を開催し、「新型コロナウイルスが流入したとみることができる危険な事態が発生した」と述べて危機感をあらわにしました。(中略)北朝鮮は、これまで国内で新型コロナウイルスの感染者は1人もおらず、安定した防疫態勢を維持できていると主張していました。
http://www.finemolds.co.jp/FB/48995.html
ラボーチキン LaGG-3 日本陸軍 (プラモデル)
https://www.ms-plus.com/67930
にもかかわらず堀栄三氏を親子二代で輩出してるのは異例ですね
(中略)
菊水刀とは、海軍主体のもとに制作された刀剣のことです。
https://www.touken-world.jp/tips/48664/
軍刀も二つに分かれていた。
戦後、軍刀は廃止されましたが、そう言えば近年、陸自マークに軍刀が入りましたね。空自、海自には在りません。
陸上自衛隊エンブレム「桜刀(さくらかたな)」
https://www.mod.go.jp/gsdf/about/mark/index.html