●オーストリア・ハンガリー帝国 - Wikipedia
・オーストリア帝国の衰勢
1848年革命はヨーロッパ中に波及し、ウィーンでも暴動が起こるなど混乱の中、フェルディナンド1世の後を甥の若き皇帝フランツ・ヨーゼフ1世が継いだ。しかし、すでに帝国は衰退傾向にあった。
1853年、不凍港獲得を目指すロシア帝国は、オスマン帝国との間に戦端を開く。これに対し、バルカン半島におけるロシアの影響力増大を恐れたオーストリアは、オスマン帝国を支持した。このため、ウィーン体制の成立以来友好を保っていたロシアとの関係が悪化した。これは神聖同盟の完全な崩壊を意味し、ロシアの後押しを失ったオーストリアは、ドイツ連邦内における地位を低下させた。1859年にはイタリア統一をもくろむサルデーニャ王国との戦争に敗北し、ロンバルディアを失った。1866年にもプロイセン王国の挑発に乗って普墺戦争を起こし、大敗を喫した。その結果オーストリアを盟主とするドイツ連邦は消滅してその面目を失うなど、確実に国際的地位を低下させた。
・二重帝国の成立
この帝国の衰退に希望を抱く人々がいた。帝国内の諸民族である。先にあげたようにオーストリア帝国は、数多くの民族を抱える多民族国家であった。しかし支配階級はドイツ人であり、彼らだけが特権的地位を有していた。以前からドイツ人以外の民族の自治獲得・権利獲得の運動はあったが、帝国軍に鎮圧されていた。しかし、衰退傾向にあるこの時期、諸民族は活発に動き出した。そもそも民族運動が活発なのは、支配階級であるドイツ人が国内における人口の過半数を占めていないことも原因にあげられる。ドイツ人は帝国内の総人口の24%にすぎず、諸民族が力を持てばどうにも抑えようがなかった。帝国は改革を余儀なくされたが、改革路線として2つの道があった。
1.ドイツ人支配をあきらめ、諸民族との平等な関係にもとづく連邦国家とする。
2.帝国内人口20%を有するマジャル人(ハンガリー人)と友好を結び、ドイツ人とマジャル人で帝国を維持する。
だが、特権的地位を手放したくないドイツ人達の抵抗、諸民族による支配で帝国の様相の劇的変化を恐れる、皇帝をはじめとする支配者の存在などの要因があいまって、後者の方針が採られた。その結果1867年、帝国を「帝国議会において代表される諸王国および諸邦」と「神聖なるハンガリーのイシュトヴァーン王冠の諸邦」に二分した。このドイツ人とマジャル人との間の妥協を「アウスグライヒ」という。君主である「オーストリア皇帝」兼「ハンガリー国王」と軍事・外交および財政のみを共有し、その他はオーストリアとハンガリーの2つの政府が独自の政治を行うという形態の連合国家が成立した。これが「オーストリア・ハンガリー帝国」である。
・自治獲得の動き
しかし、(いわゆる)オーストリアとハンガリーに分割しても、オーストリアではドイツ人35.6%、ハンガリーではマジャル人48.1%という具合に、ドイツ人とマジャル人はそれぞれの国内で過半数を占めていなかった。そこでハンガリー政府はクロアチア人と妥協して協力を得ることで過半数に達した。そのような中でハンガリーは国内の「マジャル化」を推し進めたのだった。一方オーストリアでは、新憲法で「民族平等」を謳ったが、ドイツ人の反発とハンガリー政府からの要請があり、ポーランド人と協力して憲法を廃案に追い込み、ポーランド人と妥協することで支配的地位を保とうとした。
その後も民族の自治獲得の動きは鎮静化せず、むしろいっそう激化し始めた。工業を握るボヘミア(チェコ)人の発言力が増し、資本家が多いユダヤ人もまた発言力を増した。地位を保持しようとするドイツ人と、権利を得ようとする他民族との対立が目立ち始めることとなった。ハンガリーでも、マジャル化に反して民族の自治・権利を獲得しようとする動きが高揚してきていた。しかしこの時点では、どの民族も「帝国からの独立」を望んではいなかった。それは、ドイツとロシアという大国に挟まれたこの地域で、小国が生き残れないことを自覚していたためである。「独立」ではなくオーストリア・ハンガリー帝国という大きい枠のなかで「自治」を得る、つまり諸民族の連邦国家を望んでいたのである。
・呪われた王家
民族問題もさることながら、ハプスブルク家にとってもこの帝国の末期は悲劇の連続だった。まず1863年、ナポレオン3世の誘いに乗って、フランツ・ヨーゼフ1世の弟マクシミリアンがメキシコ皇帝に即位するも、フランス軍がメキシコ大統領ベニート・ファレスの徹底抗戦によって撤退を余儀なくされため、マクシミリアン皇帝はそのまま取り残され、1867年に銃殺刑に処された。1889年には、皇太子ルドルフがマイヤーリンクにて謎の情死事件で落命した(暗殺の疑惑も残る)。皇后エリーザベトはこの事件以来いっそう頻繁に旅行するようになるが、1898年に旅行先のスイスで無政府主義者により暗殺された。皇帝は激しく落胆し、以後それまで以上に政務に没頭するようになる。そして1914年のサラエボ事件で、皇位継承者フランツ・フェルディナント大公が暗殺された。
・サラエボ事件
1908年、トルコで青年トルコ人革命が起き、その混乱に乗じてオーストリアはボスニア・ヘルツェゴヴィナ両州を併合した。ここにはセルビア人が多く、南のセルビア王国への帰属を望む人々が多かった。またムスリムも多く、彼らはオスマン帝国への帰属を望み、一方カトリック信者はオーストリアへの帰属を望んでいた。そうした民族だけでなく宗教的にも複雑な地域を無理やり併合したオーストリアへの反感があがるのも当然のことだった。その後、2度のバルカン戦争を経て、バルカン半島は「汎ゲルマン主義」と「大セルビア主義」、それに加えて「汎スラヴ主義」が角逐し、個々の民族間でも対立が激化して「ヨーロッパの火薬庫」の様相を深めていった。
1914年6月28日、皇位継承者フランツ・フェルディナント大公は妻ゾフィーとともにボスニアの州都サラエボを軍の閲兵のために訪れていた。オープンカーでパレードしていたところに、セルビア民族主義組織「黒手組」の一員プリンチプが、この皇位継承者夫妻を銃撃した。2人は奇しくも結婚記念日のこの日に暗殺された。これを「サラエボ事件」といい、ヨーロッパ中に戦乱を告げる狼煙となった。オーストリア軍部はこれを口実にセルビアを討つことを叫んだ。国民は最初は大公暗殺に関しては冷めていたが、貴賤結婚だった大公夫妻の葬儀はあまりにも貧相に行われ、これが市民の同情を誘い、「セルビア討つべし」の声が高まった。
・帝国の評価
19世紀後半から20世紀前半の世界的な評価は、「諸民族の牢獄」・「遅れた封建体制国家」と断罪するものであり、民族自決理念による各民族の自立は、連合国にとっての戦争の正当化のための宣伝材料として申し分なかった。中でも「ポーランド復活」は、連合国にとって戦争目的の本丸と同義であり、これを果たした連合国は天狗になった。戦後処理は極めてずさんであり、大国の思惑が絡み合って領土確定が行われたことで、東欧は戦雲が晴れることはなかった。戦争目的の筆頭だったポーランドは領土問題に不満を持ち、ソヴィエト連邦やチェコスロヴァキアと戦争状態に陥り、かつてのオーストリアの盟邦ハンガリーも戦争責任を問われて領土が縮小されたため、不満がくすぶり続けた。中欧・東欧の混乱は「ヨーロッパの火薬庫」といわれていた第一次世界大戦以前より悪化した。オーストリアでは、基幹産業が無くなり深刻な不況に陥った。
ドイツでヒトラーが台頭すると、かつて連合国側が掲げた「民族自決」を逆手に取られ、中欧・東欧諸国に散らばっているドイツ人の保護を名目として次々と攻略された。中欧・東欧の小国は各個撃破され、かつての帝国諸民族の血みどろの抗争が繰り広げられた。そして第二次世界大戦後、中欧・東欧の諸国の大半はソ連の衛星国として東西冷戦の最前線となった。結局、諸民族が混在して民族ごとの領域を確定できない中欧・東欧で、無理やり「民族自決」が適用されたために、更なる混乱が生まれたのである。
帝国の支配体制の一番のメリットは、この混沌とした地域を一応1つにまとめていたことにある。民族は違えど同じ帝国臣民として、帝国内を行き来し、戦争もともに戦った。ドイツとロシアという大勢力の狭間に存在した1つの大国であった。昔からビザンツ帝国、大ハンガリー、モンゴル帝国、オスマン帝国などの支配下に入り、分断・併合の連続だった同地域における秩序確立は、緩やかな統合による他ない。その点だけでも帝国の存在意義はあった。
帝国内の各民族の地位については、時代が下るにつれて向上してきていた。諸民族のねばり強い運動や各地域の重要性などもあり、支配階級も譲歩せざるを得なかった。帝国の「民主的連邦制」への改変まではいかなかったが、それなりの地位を得ることはできた。しかし、その中途半端さが独立への道に進ませたことも事実である。オーストリアの場合は、崩壊の仕方が全くもって最悪であった。長引く戦争で、諸民族の連邦制支持派が衰退して独立派が台頭し、連合国のその場しのぎの餌食となった。諸外国の介入を受けても引き離されないほどの一体感を、諸民族にもたせることができなかったことが、この帝国の一番の失敗であったと言える。
逆に、諸民族の離脱によって取り残される形となった、オーストリアのドイツ系住民にとっては、帝国の崩壊のみならず大ドイツ主義に基づくドイツとの合併までも禁止された事は、自己のアイデンティティの喪失を意味したものとなった。これは後々までオーストリアの政情の不安定さをもたらし、ついにはナチス・ドイツによる併合(「アンシュルス」)へと至らしめた。のちの悲惨さを思えば、民主的連邦制へ移行できなかったのが、激しく悔やまれたのだった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%82%AC%E3%83%AA%E3%83%BC%E5%B8%9D%E5%9B%BD
●オーストリア帝国 - Wikipedia
・民族構成
ドイツ人: 24%
ハンガリー人: 20%
チェコ人: 13%
ポーランド人: 10%
ルテニア人(ウクライナ人): 8%
ルーマニア人: 6%
クロアチア人: 5%
スロバキア人: 4%
セルビア人: 4%
スロベニア人: 3%
イタリア人: 3%
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【私のコメント】
第一次世界大戦の引き金となったサラエボ事件が起きたのは1914年の6月28日である。1863年以来の皇帝一族の悲劇的な殺害事件や不審死は、陰謀論的立場からは国際金融資本による計画的犯行の可能性も考えられるだろう。
かつて私は「覇権国家米国を凌駕する見えないドイツ」はオーストリア+カトリック(バチカン)ではないか という説を取り上げたことがある。現在のローマ教皇はカトリックの牙城のバイエルンのオーストリア国境に近い地域出身である。現在のドイツ首相であるメルケルはオーストリア人ヒトラーの娘であるという真偽不明の情報もある。そして、現在のフランスの大統領は亡命ハンガリー貴族の息子のサルコジである。欧州大陸の中央に位置しておりEU内で人口の最も多い民族がドイツ人(ドイツ+オーストリア+スイス中部・東部)であり、二番目がフランス人(フランス+ベルギー南部+スイス西部)であること、オーストリア皇位継承者のオットー・フォン・ハプスブルグがEU統合推進派の欧州議会議員として長年活躍したことを考えると、独仏連合によって支配されつつある現在のEUはドイツとハンガリーの二民族に支配されていたかつてのオーストリア・ハンガリー二重帝国の再来であるという見方ができる様に思う。
かつてのオーストリア・ハンガリー二重帝国の民族構成はドイツ人が最多で24%、二番目がハンガリー人の20%であり、三番目のチェコ人(13%)以下を大きく引き離していた。二重帝国はドイツ人・ハンガリー人が主導権を握るために苦心したとされるが、これは独仏両国が現在トルコのEU加盟に反対していることとよく合致する様に思われる。現在人口7000万人、近い将来に人口がドイツを上回る1億に達するとされるトルコのEU加盟はEUに於ける独仏両国の主導権を破壊してしまうからだ。また、帝国はオーストリア帝国とハンガリー王国に二分され、ウィーンとブダペシュトの二つの首都を持っており、両国は共同外務省と共同財務省を設置して、外交・軍事・財政以外の内政権をハンガリーに対して大幅に認めたとされるが、それは現在のEUの国家像に似通っている面もある。
現在のEUに於ける独仏両国をかつての二重帝国でのオーストリアとハンガリーに例えるならば、最大の違いは現在は独仏両国に近い人口規模や発言力を持つ国家としてイギリス・イタリア・ポーランド・スペインの4カ国が存在することだろう。イギリス・イタリアの人口はフランスの6000万人にほぼ等しく、ポーランド・スペインの約4000万人はそれに次ぐルーマニアの2200万人と大きな格差がある。ドイツとフランスが影響力を増大させる為には、ベルギー・スイス・オーストリアなどに居住するドイツ人・フランス人を自国に編入することが必要になるかもしれない。もう一つの方法としては、ライバルであるイギリス・イタリア・スペイン・ポーランドを分裂させることである。1990年代以降、イタリアでは富裕な北イタリアの分離独立を求める「ロンバルディア同盟」という政治団体が存在する。ロンバルディア地域がかつてオーストリア帝国の領土であったことは興味深い。スペインではフランスに近いカタルーニャの分離独立運動が存在する。イギリスではスコットランドの分離独立派がスコットランド議会で第一党になったばかりであり、北アイルランドなどの他の地域の分離を引き起こしかねない。ポーランドについては、オーストリア継承戦争で1741年にオーストリアからプロイセンに割譲され、第二次大戦後にポーランド領になったシレジアに分離独立ないしドイツへの編入を求める声が上がる可能性があるという説をかつて読んだ記憶がある(本の名は思い出せない)が、ドイツに帰属意識を持つ人々が追放されてガリチアから移住したポーランド人が入植した経緯を考えるとこれはかなり眉唾の様にも思われる。
ポーランドについて興味深いのは、前ローマ教皇のヨハネス・パウロ二世の出身地であるクラコフがワルシャワとは対照的に何故か第二次大戦で破壊を逃れ、ワルシャワ遷都前の古都の歴史的建造物が今も残されていることである。また、クラコフの近郊にはアウシュビッツ・ビルケナウの両強制収容所が存在する。クラコフが戦災による破壊を逃れた理由は「ドイツ軍の司令部が存在したから」という説もある http://www013.upp.so-net.ne.jp/sero/journey/2000pol02.htmが、これは妙な話であり、司令部が存在するならばより激しい破壊が行われても良いように思われる。これは根拠のない私の妄想だが、クラコフが18世紀のポーランド分割によりオーストリア帝国に組み込まれたこと、プロテスタント優位であったシレジアとは対照的にクラコフではカトリックが優位であったと想像されることから、親オーストリアのクラコフを破壊しないことでナチスドイツとソ連の両者の間に秘密合意が存在したのかもしれない。むろん、この仮説はナチス・ドイツが親オーストリア勢力に支配されていたという前提に立つものである。また、アウシュビッツ・ビルケナウの両強制収容所でのガス室によるユダヤ人虐殺という嘘が捏造され維持されたのも、収容所へのドイツ人訪問団の形を取ることでドイツやオーストリアがクラコフ地域と人的交流を保つことが目的であった可能性も考えられる。日本の南京大虐殺、731部隊の人体実験の舞台となった場所はそれぞれ南京の汪兆明政権、満州国に対応しており、表向きは謝罪目的の日本人訪問団が実は現地に残る親日中国人・満州人との交流を目的としていた可能性も陰謀論の立場からは考え得るのと同様である。
上記の私の予想は何ら確たる根拠のないものであり、陰謀マニアの妄想とみなすべきものであろう。従って、このブログの読者は眉につばを付けてお読み頂き、「陰謀論的観点からはそういう可能性もあり得るかな」ぐらいに考えていただければ幸いである。しかしながら、現在のEUと民主的議会を有した多民族国家であるオーストリア・ハンガリー二重帝国の類似性には留意すべきではないかと考える。そして、オーストリア人ヒトラーの娘と言う噂のあるメルケル独首相、ハンガリー貴族の息子であるサルコジ仏大統領、旧オーストリア領ガリチア出身でオーストリア・ハンガリー二重帝国の退役軍人を父に持つヨハネス・パウロ2世とバイエルン人ベネディクト16世、更にはオーストリア出身で米国に移住し現在カリフォルニア州知事を務めるシュワルツネッガー氏などによって、EUやバチカン、米国最大のカリフォルニア州は既に再興したオーストリア・ハンガリー二重帝国(あるいは神聖ローマ帝国)に支配されているのかもしれない。6月27日に退任する英国のブレア首相の最後の客人がシュワルツネッガー氏であり、退任後はカトリックへの改宗が予想されているのも意味深である。そして、JJ予知夢が予想するEUの東西分裂は、オーストリア・ハンガリー二重帝国と同様に、ベルリン又はウィーンを首都とするドイツとパリを首都とするフランスの二自治国家の形成を意味するのかもしれない。人口3億人の米国の世界覇権(パックス・アメリカーナ)の後の覇権国は人口数百万人のオ-ストリアになるのだろうか?
【7月2日追記】
●シュワちゃん「副大統領」なれる? 移民だけど…-世界からのニュース:イザ! 2007年7月1日
【ワシントン=夕刊フジ特電】来年行われる米大統領選挙に絡み、アーノルド・シュワルツェネッガー・カリフォルニア州知事が、副大統領になれるか否かの議論が米国内で高まっている。憲法上、移民であるシュワ氏は大統領や副大統領になれないはずだが、一部専門家は「場合によっては可能性もある」というのだ。
「シュワ副大統領」案は、今月中旬に発売されたタイム誌が取り上げ、一躍注目された。同誌は独立系候補として出馬の可能性が取りざたされているマイケル・ブルームバーグ・ニューヨーク市長と、盟友のシュワ知事について特集。環境問題や肥満対策、医療保険などで次々と政策を打ち出す2人の姿を追った。2人は昨秋ごろから、環境政策などを通じて急接近したという。この中で、投資家のウォーレン・バフェット氏が「ブルームバーグ大統領、シュワ副大統領」構想を「グッド・アイデア」として披露したのだ。
米国憲法では、大統領は「米国生まれ」と規定され、同様の規定は副大統領にも適用されるが、AP通信によると、「法は明確だが、裁判所が政治的プロセスに任せずに法を適用するかどうかは100%ではない」(マイケル・ドーフ・コロンビア大学教授)とし、シュワ副大統領誕生の可能性に含みを残している。
金融情報のブルームバーグ創始者で大富豪でもあるブルームバーグ市長は19日、共和党からの離党を表明。独立系候補として大統領選に出馬する-との憶測が強まっている。この離党表明がカリフォルニアで行われたことも、俳優知事から実力派知事に変貌(へんぼう)したシュワ氏の副大統領への期待を加速させている。
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/world/america/59971/
【コメント追記】
実現するかどうか微妙ではあるが、オーストリア人のシュワルツネッガー知事がもし副大統領になれば、オーストリアによる米国の間接支配が部分的に実現するかもしれない。シュワルツネッガー知事の動向が今後非常に注目される。
http://www012.upp.so-net.ne.jp/ppt-3rd/naganuma.html
がんばれよ・・・