国際情勢の分析と予測

地政学・歴史・地理・経済などの切り口から国際情勢を分析・予測。シャンティ・フーラによる記事の引用・転載は禁止。

旧樺太庁所在地の豊原の地名の由来は、ロシアの文豪チェーホフの旅行記「サハリン島」だった?

2007年08月15日 | ロシア・北方領土
●ユーラシアブックレットNo.108 サハリンのなかの<日本> -都市と建築- 
井澗 裕 著 東洋書店   ISBN 978-4-88595-711-6
・都市の移り変わりや建造物という視点から、サハリン(樺太)の歴史を概観し、遺された日本領有期建造物とサハリンの「いま」を紹介。
http://www.toyoshoten.co.jp/eurasia/index.html




●ドストエフスキーとチェーホフ-マイタウン北海道 asahi.com:⑰ 北大の力 【第5部 ロシアを究める (’04)】 2004年12月18日


「罪と罰」「悪霊」「白夜」──

 スラブ研究センターの望月哲男教授(53)の研究室では、本棚のひとつをビデオが占領している。ソ連・スターリン時代のフィルム、ペレストロイカ(改革)後の映画など200本以上ある。その中心が、ドストエフスキー原作などの文芸作品だ。「罪と罰」が小学校の必読書だったソ連時代は終わったが、没後120年以上たった今も、作品は様々な形で人々を引きつける。


観察者の視点

 ロシアでは今、テレビドラマ「白痴」が話題だ。「厳密な時代考証に基づき、原作者に対する尊厳に満ちた作品」だという。一方で、同じ小説をパロディー化した映画「ダウンハウス」も最近、劇場公開された。原作で「聖なる人」として描かれた主人公が、都市の変わり者として出てくる。共産主義国家が崩壊し、それまで否定していた資本主義が社会に急速に入り込んだ。その混乱から伝統的な精神や美意識をどう取り戻すかを考える時、ドストエフスキーが語った精神的、宗教的価値に向かう。ロシアばかりでない。虐待、家族崩壊、引きこもり、自殺──。日本の社会問題を語るときにも、この作家はよく引き合いに出される。「単純に悪を悪と断罪するのでなく、観察する視点があるからではないか」と望月教授はみる。



競争し、協力し

 ドストエフスキーが最後の大作「カラマーゾフの兄弟」を出版した1880(明治13)年、20歳のロシアの医学生が書いた作品が初めて雑誌に掲載された。没後100年を今年迎えたそのチェーホフを、北大で研究しているのが文学研究科の望月恒子助教授(51)だ。研究テーマに選んだのは、東大文学部に入り、ロシア文学を読みあさる中でだった。トルストイやドストエフスキーのような「熱っぽい文学」とは違った、さわやかさにひかれた。大学時代、ドストエフスキーを専攻する先輩と出会い結婚した。それがスラ研の望月教授だ。夫は「こっちがサボっているうちに、追いついてきた」と苦笑いする。7月にスラ研であったシンポジウム。「チェーホフ・サハリン・日本」をテーマにした分科会では、夫が司会、妻が報告者を務めた。「かもめ」「三人姉妹」「桜の園」で知られる劇作家ではなく、記録文学作家としてのチェーホフに望月助教授は注目している。



命がけの「ルポ」

 1890年、サハリン島(樺太)へ命がけの旅をした。当時のサハリンは、手かせ、足かせをつながれた労役囚が働く流刑の島だった。囚人や住民に面接しカードに記録した。5年後に出た「サハリン島」には、島の人たちの生活や社会状況が克明に記され、「苦役に満ちた」囚人の生活が、怒りを込めて描写されていた。文学と言うよりルポルタージュだった。「ドストエフスキーは観念的なことにリアリティーを感じたが、都会的に生き切れなかったチェーホフはイデオロギーでなく、自分の目で極東の島を見たかったのでしょう」

「サハリン島」では、南端の港町コルサコフで、日本の領事に会ったことも記されている。《いづれもヨーロッパ風の教養を受け、申し分なく慇懃(いんぎん)で、洗練された、愛想の好(よ)い人々である》(岩波文庫・中村融訳)


 行きはシベリア経由だった。帰りは船に乗り函館や長崎を訪ねるつもりだったという。コルサコフから稚内までは約40キロ。1世紀前にチェーホフが越えられず、その後も体制の壁が立ちはだかった隔たりを、今、両国の学者は軽々と行き来している。
http://mytown.asahi.com/hokkaido/news.php?k_id=01000349999992278





●日露の辺境・サハリン 2006年09月29日(金) -吹浦忠正(ユーラシア21研究所理事長)の新・徒然草

今月は、月初めにサハリンを訪問して以来、なんどもサハリンのことを書いたが、その歴史の基本、日露両国の関わり、日露戦争、特に、そのときのサハリンでの捕虜の問題について最後にまとめておきたい。

 サハリンは両国にとって辺境の地であった。したがってその地ではしばしばこぜリあいが起こり易く、また、軍事力を含む政府権力の移動が起こりやすい。

 以下の記述は、基本的に、拙著『捕虜たちの日露戦争』(NHK出版、2005年9月刊行)による。同書は、この戦争で両国がいかに捕虜を大事に扱ったかということがベースになっているものだが、その片隅で行なわれた残念なできごとをも、隠すことなく記した。

 さて・・・

 今でこそ、サハリンは人口57万1千(2004年1月現在。ピークは1992年の72万人)、州都ユジノサハリンスク(日本時代の豊原)はその3分の1の人口(18万人)を擁する都会になり、北サハリンは石油・天然ガスの開発で注目されている。しかし、今から150年前(日露戦争の50年前)はまだ荒涼たる地に草木と野生動物ばかりで、わずかに日本の漁民が南部の沿岸に、ロシア人が北西部に少しずつ入り込んでいるという状況だった。古来、ニブヒ人、アイヌ人などが住み着いていたが、当時に至るも大きな勢力にはなっていなかった。

 このため1855年の下田条約(日魯通好条約)では「界を分たす是迄仕来の通りたるへし(第2条)」、すなわち日露協国民「雑居の地」とされた。雑居とは今の言葉で言えば、混住ないし共住の意であるが、人口希薄とはいえ、同じ地域で双方が雑然と居を構え、それぞれがしのぎを削っていたというのが現実である。法律の適用もあいまいであり、むしろ無法地帯、勝手し放題といってもいい状況であったとされる。

・流刑囚の島サハリン
 サハリンにロシア人が入植し始めたのは、1851年、この地に石炭の鉱床があるという情報が伝わり、その後の探検で重要な産炭地になりうるとして注目されてから。ロシアは1858年の愛暉条約でアムール川(黒龍江)左岸地方を、2年後の北京条約でウスリー地方(沿海州)を獲得し、極東地区に足場を広げていった。

 同時に、炭鉱開発に目をつけたロシア政府はサハリンを最果ての流刑地と定め、政治犯を含む囚人を積極的に送り込み始めた。19世紀後半、これによってサハリンへのロシア人の「滞在者」が増えた。

 一方、明治になって、函館戦争に敗れた榎本武揚(たけあき 1836~1908)は東京・丸の内の刑務所に約3年間下獄した。

 その後、北海道開拓使として出仕し、北海道以北にさらに大きな関心を寄せた。駐露公使となった榎本は、サハリンにおいて、ロシア側の勢力が日本側を凌駕しつつある事態に、首都サンクトペテルブルクで懸命な外交努力を重ね、かろうじて、妥協点を見つけ出し、両国の境界線を変更することができた。

 すなわち、1875年の樺太千島交換条約の締結である。これによってロシアはサハリンを完全に領有し、日本はそれまで択捉(えとろふ)島までであった日本の領土を、その先にある得撫(うるっぷ)島以北、カムチャツカ半島からわずか17㌔の占守(しゅむしゅ)島までの全千島とすることができた。

 日本では生まれたばかりの唱歌「蛍の光」の4番で「千島の奥も沖縄も 八洲(しま)のうちの守りなり」と歌われた。沖縄は1872年に琉球藩となり、79年には日本が軍隊を動かして廃藩置県を強行、正式にわが国の領土とした(琉球処分)。
http://blog.canpan.info/fukiura/archive/1078





●チェ-ホフとサハリン 2006年09月29日(金)  -吹浦忠正(ユーラシア21研究所理事長)の新・徒然草

『ワーニャ伯父さん』『桜の園』『三人姉妹』などで広範に親しまれているアントン・チェーホフ。既に結核に侵されていた身でありながら、馬車を乗り継いでデコボコ道を進み、大河を利用して船旅をしてというこの旅行(一部は鉄道の利用も)は、チェーホフの生涯にとっても特筆すべき一幕である。

 サハリンに滞在すること約3ヵ月、チェーホフは多くの炭鉱を訪ね歩き、囚人と会話し、約1万枚のカードにこれを整理した。日本を経由して帰国する予定だったが、コレラが流行しているという情報があり、香港に向かい、南周りで黒海のオデッサに帰着した。このサハリンへの訪問について、チェーホフは93年から翌年にかけて、継続的にその報告を書き著し、『サハリン島』にまとめた。

  チェーホフは『サハリン島』で具体的に「1877、78、85、87、88、89年に1,501名の流刑・労役囚たちが脱走した。そのうち、捕らえられたり自発的に戻ってきた懲役囚は1,010名、死体となって発見されたり、追跡の際殺害されたもの40名、杳(よう)として消息を絶った者451名」「脱走の咎(とが)で懲役囚に加えられる最も軽い刑は、革鞭40と労働時間の4年間延長、最も重いのは革鞭100、無期懲役、一輪車に3年間縛りつけにし、受刑囚として20年間禁錮である」(中村融訳、岩波文庫)とすさまじい報復の刑罰をも記述している。

 ロシア語やフランス語に通じた日本人のクゼ領事とスギヤマ書記官に出会い、その教育程度の高さと洗練された慇懃さに感服したことも記されている。

 また、世界的伝記作家といわれるアンリ・トワイヤは『チェーホフ伝』〔村上香住子訳〕『足枷をはめられ、トロッコに鎖でつながれた一部の受刑者は、炭鉱の坑内に這いつくばって働かされている様子を見、残酷な鞭打ち刑執行現場にも立会い、悪夢にうなされた』。「サハリンというところは、放埓(ほうらつ)と狂暴と虚偽で固められた王国だと確信するにいたった」と述べている。

 サハリンでの日露両軍の戦は、チェーホフが首都を発ってからちょうど15年。日露戦争当時でもサハリンの全人口は3万人程度だったが、うち、成人男子の多くが出稼ぎの炭鉱労働者、元囚人、そして服役中の囚人であった。

 ロシアとしては、サハリンが30年前に完全に編入されたとはいえ、この遠隔地全体の防衛を全うすることは初めから不可能と考えていた。ロシアの中心部からあまりに遠く、「敵国」日本からは目と鼻の先という地政学的不利を織り込んでいたのである。人員の十分な配置も補給も至難であり、直接的な防衛価値さえ疑問視されていた。

 それでも、1903年、沿海州総督リレーヴィチ中将はサハリンを視察した。

 そして、北サハリンのアレクサンドロフと南サハリンのコルサコフ(日本時代の大泊=おおどまり)を拠点に防衛拠点を築くべきであると判断、同年5月に視察した侍従武官長クロパトキン陸相の了解を得た。アレクサンドロフは間宮(タタール)海峡に臨む北西海岸の港町、コルサコフはアニワ湾からオホーツク海に面している。日露戦争海戦のわずか2年前のことである。

 宗谷岬からサハリンの南端クリリオン岬までは43㌔㍍、晴れた日にはよく見える。日本時代には、稚内(わっかない)と大泊の間に稚泊連絡船の定期航路が設置されてにぎわった。終戦とともにもの定期航路は消滅したが、1995年来、フェリーでの通航が復活している。

  チェーホフがサハリンまでやってきたことは、もちろん今のサハリン住民のほとんどが知っている。州都ユジノサハリンスクの中心部にある美術館の前庭には、この著名な作家の銅像がある(写真)。

  また、かつて野田と呼ばれた日本海側の村はロシア人の村長がチェーホフを好きだというだけで、この作家の名前に変更した。チェーホフ自身が訪れてはいない。
http://blog.canpan.info/fukiura/archive/1079







【私のコメント】
現在のロシア共和国サハリン州の州都ユジノサハリンスクが戦前には日本領で豊原と呼ばれていたことはよく知られている。しかし、1875年の千島樺太交換条約で樺太がロシア領と決定されてから、1905年のポーツマス条約で南樺太が日本に割譲される迄の30年間、豊原が何と呼ばれていたかを知る人は少ない筈だ。2007年6月発行のユーラシアブックレット108号では、著者の井澗裕(いたにひろし)氏が豊原という地名の由来について詳しく語っている。

井澗氏によれば、ロシア領時代の豊原は樺太南部を管轄するコルサコフ管区の統治下にあり、ウラジミロフカと呼ばれる農業集落が存在した。コルサコフは日本名大泊で、現在稚内から船便のある樺太南岸の港湾都市である。ウラジミロフカの開基は1881年ないし1882年とされ、その地名は当時のコルサコフ管区長官V・N・ウラジーミル少佐の名に由来すると言う。ウラジミロフカは農業適地であったと考えられ、1890年に当時流刑地であったサハリンを三ヶ月に渡って訪問して後に旅行記「サハリン島」を記したロシアの文豪チェーホフは旅行記の中で「農業植民地としては北部の両管区を合わせたほどの価値を持っている」と高く評価している。そして、井澗氏はこのチェーホフの一文が「豊原=豊かな平野」の地名の由来ではないかと想像している。

南樺太を占領した日本軍第十三独立師団の司令部は主な地名に自分達の名をつけようと画策し、一時期ウラジミロフカは晴気村と称された時期もあったという。しかし、この案は陸軍次官に却下されてお流れとなった。そして、1908年8月23日に樺太庁がコルサコフからウラジミロフカに移転されるのと同時に地名改正令が交付され、コルサコフが大泊に、ウラジミロフカが豊原に改められた。

敵国の文豪の著作の一文から政庁所在地を名付けるというのは一見突拍子もなく思える。しかし、チェーホフの樺太旅行記が日露戦争のわずか9年前に出版されていること、ロシア領時代の樺太を詳細に描写していることを考えると、樺太攻撃・占領を計画していた日本軍の中枢部はこのチェーホフの旅行記を熟読していた筈だ。そして、北海道や樺太の多くの都市が先住民であるアイヌ人の言葉から地名を取っているのと比較して「豊原」という地名がアイヌ語と関係がない奇妙さを考えれば、チェーホフの言葉が由来という井澗説は十分説得力があるだろう。なお、井澗氏は、第二次大戦後に南樺太を占領したソ連が「豊原」とチェーホフの関係を知っていれば地名を変更しなかったかもしれないと言っているが、少なくとも1953年のハザール人独裁打倒までのソ連ではそのようなことは困難であったのではないかと私は想像する。

チェーホフ博物館やチェーホフ村の存在からも分かるように、チェーホフは現在のサハリン州でも人気がある。しかし、そこには複雑な背景が存在するのではないだかと考える。チェーホフが訪れた1890年のサハリンは住民の大部分が囚人であり、旅行記はその囚人達の悲惨な境遇を告発するものであった。

第二次大戦後のサハリンでは戦前に日本が建設した製紙工場の大部分がソ連崩壊までそのまま稼働し、鉄道も日本時代そのままの狭軌単線非電化であった。最近になって石油・天然ガス開発の推進に伴い急激に発展しているが、ソ連崩壊以前のサハリンは1890年と同様に見捨てられた最果ての島であり、住民たちは囚人同様の貧しい暮らしを送っていたのではないかと想像する。このことが、サハリン州住民のチェーホフへの関心をより深めたのではないだろうか。


豊原の現在の名前である「ユジノサハリンスク」の「ユジノ」は「南の」という意味であり、日本語に直訳すれば「南樺太市」という味気ない地名である。同様に千島列島の南クリル地区・クリル地区・北クリル地区の中心行政地も日本語に直訳すると「南千島町」「千島町」「北千島町」という味気ない地名である。私は、近い将来に日露の対立が解消されると共に「ユジノサハリンスク」がチェーホフの樺太旅行記から取られた昔の名前である「豊原」に変更されることを望む。それは、ソ連崩壊と共にレニングラードがドイツ名のサンクトペテルブルグに改められたのと同様の意味合いを持ち、日露両国の友好形成に役立つことだろう。
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2 コメント

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株価暴落作戦 (地震兵器とユダヤ閥)
2007-08-16 10:28:48
アラビア系アカデミーの連山から地震警報がでていますな。
大きな電磁衝撃波がくるでしょうね。

売国奴の三輪耀山と江田島孔明、株価暴落オペを開始したか・・・恐ろしい。

記事:
http://www.teamrenzan.com/archives/writer/tachibana/2000.html
返信する
Unknown (Unknown)
2007-08-16 12:24:26
東証、大幅続落 下げ幅400円超
 16日午前の東京株式市場は、日経平均株価が前日終値比で400円超下げる大幅続落となった。(08/16 11:37)【記事全文】

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070816-00000202-yom-int
ペルー沖でM7・9の地震、17人死亡の報道も
8月16日11時44分配信 読売新聞

【マイアミ(米フロリダ州)=中島慎一郎】
 米地質調査所(USGS)によると、南米ペルー沖の太平洋で15日
午後(日本時間16日午前)、マグニチュード(M)7・9の強い地震
が発生した。
 ペルーの地元テレビ局は、少なくとも17人が死亡、約70人が負傷
したと伝えた。
 ロイター通信によれば、震源に近いペルー中部ピスコや首都リマで、
家屋倒壊、火災などの被害があったという。南部では複数の町で停電と
なっている。
 地震の震源は首都リマの南南東145キロで、震源の深さは約40キロ
・メートル。米ハワイ州にある太平洋津波警報センターは、ペルー、
チリ、エクアドル、コロンビアに津波警報を発令した。
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