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国際情勢の分析と予測

地政学・歴史・地理・経済などの切り口から国際情勢を分析・予測。シャンティ・フーラによる記事の引用・転載は禁止。

フルシチョフ第一書記、ブレジネフ書記長とウクライナのオレンジ革命

2007年08月11日 | ロシア・北方領土
オレンジ革命 - Wikipedia
オレンジ革命とは、2004年ウクライナ大統領選挙の結果に対しての抗議運動と、それに関する政治運動などの一連の事件の事。選挙結果に対して抗議運動を行った野党支持者がオレンジをシンボルカラーとして使用した事からオレンジ革命と呼ばれる。


写真は2004年大統領選挙の選挙結果。オレンジがユシチェンコ支持、青がヤヌコーヴィチ支持。北西部ほどユシチェンコ支持が鮮明であり、南東部ではヤヌコヴィッチ支持が鮮明になる


ヴィクトル・ユシチェンコ ウクライナ大統領 - Wikipedia

・生い立ち
1954年2月23日、ソビエト連邦の一部だった、ウクライナ共和国東部のスムィ州ホルジェフカ村の教師の家庭に生まれた。父親のアンドレイは、第二次世界大戦に出征、独ソ戦で捕虜となり、アウシュヴィッツ強制収容所に収容されていた。ユシチェンコは、ウクライナ西部のテルノポリ財政・経済大学を卒業し、経済科学準博士号を取得する。卒業後、徴兵され1年間、当時ソ連国家保安委員会 (KGB) 所属だった国境軍で勤務した。KGBに勤務したことにより、暫くの間ウクライナの極右・民族主義勢力には認められなかった。



ユリア・ティモシェンコ 元首相- Wikipedia 政党「祖国」と政治ブロック「ティモシェンコ・ブロック」の代表。

・出自
ティモシェンコの出自については、若干の議論の的となっている。その一つは、彼女は旧姓をグリギャンといい、父親がアルメニア系であるとするものである。一方で彼女の支持者は、これを否定し、彼女がロシア系で旧姓をTeleginaであると主張している。実のところ、ドニエプロペトロフスク第75中学校「B」組のアルバム上では、グリギャンと記載されている。父親は、彼女が2歳の時に家庭を捨てている。

・ガスの王女
1979年彼女は、ソ連共産党の中級党官僚の息子だったオレクサンドル・ティモシェンコと結婚した。1984年ドニエプロペトロフスク州立大学を卒業し、経済学博士候補の学位を取得した。

1995年から1997年まで、ティモシェンコは、ウクライナ統一エネルギーシステムの社長。1996年には、ロシアからの天然ガスの主要な輸入・卸売業者になり「ガスの王女」の通称で呼ばれた。



ニキータ・フルシチョフ - Wikipedia(1894年4月17日 - 1971年9月11日)

スターリンの死後、1953年3月14日 – 1964年10月14日の期間、ソ連の最高指導者として、ソ連共産党中央委員会第一書記と閣僚会議議長を兼ね、スターリン批判によってその独裁と恐怖政治を世界に暴露した。非スターリン化に基づく、自由化の諸潮流をもたらし、対外的には、アメリカを中心とする西側陣営と平和共存を図り、核実験を抑制しようとした。

・生い立ち
1894年4月17日、ロシア帝国のクルスク県カリノフカに生まれる。父親セルゲイ・フルシチョフは炭坑夫。祖父は農奴で帝政ロシアの陸軍に勤務していた。家族とともにドンバス地方のユゾフカ(スターリノ、現在のウクライナ共和国ドネツィク)に移る。15歳で鉛管工として働きはじめる。第一次世界大戦では、工場で勤務していたため、徴兵を猶予された。

・共産党入党
1917年のロシア革命の以前から、労働運動に参加したことがきっかけとなり、1918年にロシア共産党(ボリシェヴィキ)に入党した。ロシア内戦中の1919年には赤軍政治委員として参加した。1920年にはセミョーン・ブジョーンヌイ元帥の下で勤務し、反革命を標榜した白衛軍やポーランド軍との戦闘に参加。1921年ユゾフカに戻り、最初の妻ガリーナは飢饉で餓死し、1924年学校の教師であったニーナ・ペトローヴナと再婚した。

1925年ユゾフカのペトロフスコ・マリインスク地区党書記に就任し、以後党活動に専従することとなる。ウクライナでのフルシチョフは、精力的な仕事ぶりと経験から学んだ実際的な現地事情に関する広範な知識で台頭し、ヨシフ・スターリンの側近であった、ラーザリ・カガノーヴィチに注目されることになる。1929年にはモスクワのスターリン記念工業大学に入学を許可され、冶金学を学ぶとともに、大学内でも党活動を熱心に推進し、大学の共産党書記に選出される。

・中央委員就任
フルシチョフとヨシフ・スターリン1931年モスクワ党専従となり、モスクワ地下鉄の建設の功でレーニン勲章を受章した。この功績がスターリンの目に留まり、1934年第17回ソ連共産党大会で中央委員に選出され、翌1935年モスクワ党第一書記となる。1938年政治局員候補となり、スターリンに粛清されたスタニスラフ・コシオールの後任として、ウクライナ共産党第一書記となった。1939年第18回党大会で政治局員に昇格する。

・ 第二次世界大戦
第二次世界大戦では、ウクライナ共産党の責任者としてウクライナの産業を東部に疎開させることに尽力する。疎開作業の完了後、陸軍中将と同位の政治委員の階級を授与され、南部戦線でナチス・ドイツ軍と戦った。スターリングラード攻防戦では、エレメンコ大将の政治委員となり、1943年クルスクの戦いでは、ヴァトゥーチン中将の政治委員として直接前線に参加している。




レオニード・ブレジネフ - Wikipedia( 1907年1月1日- 1982年11月10日)

スターリンの死後一時左遷されるが、1964年10月14日、フルシチョフの失脚により共産党の第一書記(1966年に書記長と改称)となり、コスイギン首相、ポドゴルヌイ最高会議幹部会議長と集団指導体制を敷く。1977年から1982年の死去までの間は最高会議幹部会議長を兼ねて、ソ連の最高指導者を務めた。

・生い立ちと権力の掌握
ブレジネフは1906年12月19日、ウクライナのカメンスコエ(現在のドニエプロジェルジンスク市)で生まれる。父イリヤは、祖父の代以来の地元の金属工場の労働者であった。彼はウクライナに於ける少数民族のロシア人だったが、生涯ウクライナ訛りと風習を保った。1921年に家族とともにクルスクへ転居。15歳で地元の製鉄所に勤務し、1923年には共産党青年組織であるコムソモール(正式名称は全ソ連邦レーニン共産主義青年同盟)に加わった。共産党はコムソモールの若い労働者を大学で学ばせ指導者および専門家に育て上げるという方針を採り、彼はその方針下で育った「60年代ソ連指導者の典型」であった。ロシア革命後の多くの労働者階級青年のように彼は1924年から27年までクルスクの職業技術学校に学び初級農業技師となって土壌改良業務に就く。1930年にカメンスコエに戻り翌年共産党に入党。その後彼はドニエプロジェルジンスク冶金大学で冶金学を学び、1935年に卒業し東ウクライナの製鉄所技師になった。

1935年には陸軍に入隊、戦車訓練校での訓練後に彼は戦車部隊での政治委員となった。1936年末にはドニエプロジェルジンスク冶金大学の校長になった。1937年にウクライナ共産党幹部、モルダビア(現モルドバ)党委員会第一書記、1939年にはドニエプロペトロフスク州党委員会書記になり、防衛産業の組織を行った。

彼はロシア革命前に成人していなかったソ連共産党員の最初の世代であった。また、1924年のレーニン死後の共産党の主導権争いには若すぎたため参加できなかった。ブレジネフが入党したとき、スターリンは絶対的な指導者であり、ブレジネフを含む多くの若い共産党員が純粋なスターリン主義者として成長した。スターリンの大粛清をまぬがれた者達は党および州の重要職に就くこととなった。

1941年6月、ナチス・ドイツはバルバロッサ作戦でソ連に侵入した。ドニエプロペトロフスクは8月26日にドイツ軍の手に落ちたが、ブレジネフは市の産業を待避させるために努力した。彼は戦争の始まりと同時に軍の政治委員として働いた。赤軍では専門の士官と政治委員による二重システムによって部隊が運用された。このシステムは非能率的であり、職業軍人にとっては不満の募るものであった。10月にブレジネフは旅団人民委員の階級と同時に南部方面軍政治指導部次長に就任した。

1942年1942年にはウクライナが完全に失われた。ブレジネフはザカフカス正面の政治指導部次長としてカフカスに派遣された。1943年4月に彼は第18軍の政治部長になった。同年末に赤軍は主導権を回復し、第18軍は第1ウクライナ正面軍の一部となりウクライナを通り西方に進撃した。正面軍の上級政治委員は後にブレジネフの重要な後援者になるニキータ・フルシチョフだった。ヨーロッパ戦の終了時、ブレジネフは第四ウクライナ方面軍政治指導部部長としてプラハに入った。

1946年8月、ブレジネフは少将の階級で赤軍を去った。彼は軍司令官ではなく政治委員として大祖国戦争を戦った。ウクライナ共産党のザポロジエ州委員会で再建計画に携わった後、彼はドニエプロペトロフスク州委員会の第一書記になった。1950年にはソ連最高会議代議員となり、その年の終わりにモルダビア共産党中央委員会第一書記に就任した。1952年には共産党中央委員会および最高会議幹部会のメンバーになった。

ブレジネフはドニエプロペトロフスク州やモルダビア、後のカザフスタンなどの任地での人脈を後年の権力強化に大いに利用した。「ドニエプロペトロフスク・マフィア」、「モルダビア・マフィア」等と称される人々の中には、コンスタンティン・チェルネンコ、ディンムハメッド・クナーエフ、ニコライ・チーホノフ等も含まれている。




ウクライナ社会主義ソビエト共和国 - Wikipedia

・農業集団化
しかしながら、1927年にヨシフ・スターリンが実権を握ると、この状況は一転することとなった。スターリンは農民を革命の克服すべき対象として捉えており、農民国家でかつ民族主義の強いウクライナに対して大いなる疑念を抱いていた。加えて、スターリンの採った「一国社会主義」の立場から、強引な近代化と工業化が進められた。特に「五ヵ年計画」で推し進められた農業の集団化は、ウクライナに深刻な事態を齎すこととなった。

1928年から1932年にかけて行われた第一次五ヵ年計画では、ウクライナは重点地域となっていた。ウクライナでは急速な工業化が行われ、ドンバスなど東ウクライナから中部ウクライナにかけてその発展は目覚しかった。工業化の結果、それまで主として農村に生活していたウクライナ人の都市部への移住が発生した。都市におけるウクライナ人人口は、1926年に6 %であったものが1939年には30 %となっていた。

計画のもうひとつの軸となったのが、農業集団化であった。安い食料を労働者の居住する都市へ供給するため、また輸出へ食糧を回すため、国家による統制を行い易い自営農家を国営農場(ソフホーズ)や集団農場(コルホーズ)に集団化し、農民を土地から切り離すという政策が採られたのである。

農民にとって土地から切り離されるということは、自らのアイデンティティを喪失することにほかならなかった。ウクライナの農民はこの集団化にできうる限りの手段で対抗したが、その結果多くの者がシベリア送りになったり高率な税によって苦しめられたり、また比較的裕福な農民である「クラーク」(富農)は、農民階級のブルジョワであり、人民の敵であるとして土地を没収され、収容所送りになったり処刑されたりした。また、この時期に抵抗する農民が所有する家畜をするなどしたため、その半数が失われた。

ウクライナでは、こうした急激な集団化のため1932年から1933年にかけて大飢饉が発生した。耕作態勢の混乱で不作に陥ったところに、モスクワ政府は政府調達ノルマとして収穫物の大半を収奪していったのである。政府による食糧の収集は強引なもので、飢えていない者は食糧を隠しているとされた。食糧を隠した者は、死刑とされた。党の活動家は食糧調達の権利を与えられた。

飢饉のピークは1933年の春で、飢饉はウクライナの他に同様の政策の採られていた北カフカースにおいても発生した。都市部では党の食糧調達のおかげで飢饉は発生しなかったが、農村では多くの者が餓死し、300万から600万の死者が出たとされる。

現代では、この飢饉は強引な集団化や穀物調達によって人為的に起こされたものであると評価されており、スターリンによるウクライナ民族主義への弾圧の一環であるとも言われている。


・反ウクライナ化政策
スターリンの権力掌握は、1920年代に行われたウクライナ化政策も劇的に変更させることとなった。1933年の大飢饉を受けて、共産党はウクライナ化には「行き過ぎ」があったとして路線の変更を命じ、すなわち「ロシア化」が導入された。こうした中で、1920年代に活躍したインテリや文化人はなべて弾圧を受け、多くの者が再び亡命者となった。1930年代中盤には、ウクライナの民族楽器を弾くコブザールやバンドゥリーストが大量に殺害された。

ウクライナをはじめ、ソ連全域で教育・文化は一律化された。それはすなわちロシア化であった。ウクライナでは再びロシア語が必修となり、ウクライナ語出版物も規制されるようになった。また、ウクライナ語の修正も行われ、いくつかの文字が変更・廃止されたり、ロシア語から語彙や文法が取り入れられるなどした。

ウクライナ共産党員への粛清も凄惨を極めた。ソ連での大粛清に先立ち、1932年頃からウクライナでは粛清が始められた。1933年の飢饉の責任がウクライナ共産党員に押し付けられ、彼らに対する批判が公然と行われるようになった。また、1920年代にウクライナ化政策を推進した中心的な党員が皆自殺したり、あるいは逮捕されその後二度と姿を現さなかった。1933年から1934年までの1年間で、ウクライナ共産党は10万の党員を失ったとされる。1930年代後半になると、ウクライナ政府の閣僚17人全員が逮捕され、処刑された。ボロチビスト出身のパナース・リューブチェンコ首相は自殺した。ウクライナ共産党員の内17万人が粛清された。こうして、ウクライナの自治組織は壊滅した。かわって投入されたのは、スターリンの部下たちであった。

1937年、憲法の承諾のもとで国名の単語の順序が入れ替えられ、国号は正式に「ウクライナ・ソビエト社会主義共和国」となった。翌1938年には、スターリンの側近であるニキータ・フルシチョフがウクライナ共産党第一書記として送られてきた。




ハザール王室直系の子孫、カガノビッチの暗躍


■スターリンを操ったモンスター、カガノビッチの正体


10月革命以降、特に1920~1930年代に、ユダヤ人はロシアで「国家内国家」をつくっていった。それはまさしく、8世紀~10世紀ごろに栄えたハザール王国の再現であった。

ロシアにはハザール王国の皇帝の子孫がいたのである。スターリンは傀儡であり、ユダヤ人たちのロボットであった。スターリンは表向きの指導者であって、ユダヤ国家には陰の指導者がいたのである。その陰の指導者がすべての実権を握るほんとうの支配者であった。

それは誰か。 世上、スターリンの片腕といわれたユダヤ人、ラーザリ・カガノビッチである(カガノビッチはいかにもロシア的な姓のように「ビッチ」を付しているが、祖父の時代にはカガンと名乗っていた)。カガン(可汗)とはハザール人たちの言葉で、ユダヤ教の宗教の指導者、皇帝などを意味している。ハザール王国もハザール・カガン国と名乗っていた。カガノビッチの元の姓がカガンであるということは、彼がかつてのハザール王国皇帝の直系の子孫であることを示している。

ハザール王国は数世紀前に消滅したが、その皇帝の直系の子孫が生きていたのである。
 
スターリンは共産党書記長というポストについていたが、カガノビッチはただの書記にすぎなかった。しかし、実際にはカガノビッチやカガノビッチの補佐官が、すべての政策を取り仕切っていた。スターリンはこのカガノビッチの政策の執行者にすぎなかった。

ハザール王国では宗教的権威をもつカガン(皇帝)のほかに、実際の政務を行なうビャク(執行者)があった。その意味でも、当時のソ連政府はまさしくハザール王国の再現であった。

一般に「スターリンの独裁」とよくいわれるが、事実はハザール人のハザール王国の指導者による独裁だったのである。この事実は決して触れられることがない。

■ハザールの王・カガノビッチがロシアを支配した

カガノビッチはどのようにしてロシアの国家内国家、すなわちユダヤ国家を指導していったのだろうか。共産党によったのではない。共産党も表向きの形式にすぎなかった。実際には裏の組織があった。それが国家保安省(後の国家保安委員会=KGB)である。国家保安省の幹部のすべてがユダヤ人だった。トップだけではなく、中間層も下層も、ほとんどがユダヤ人で占められていた。

国家保安省にはベリヤというきわめて危険な人物がいた。彼はユダヤ人(母親)とのハーフで、グルジアの北コーカサス出身のユダヤ人であった。ベリヤはカガノビッチの従兄弟にあたる。カガノビッチはベリヤ、すなわち国家保安省を通して、ロシア=ハザール国家を支配していったのであった。




ハザールとユダヤ ~ハザール系ユダヤ人について~


「ガリチア」とは、ウクライナ北西部とポーランド南東部にまたがる地域で、カルパチア山脈一帯のことを指し、ハザール王国領に隣接していた地域である。この地域はハザール王国滅亡以降、多くのユダヤ人が住んでおり、特に東ガリチアの町ドロゴビッチは、ユダヤ教の一大中心地となっていた。
 

ハザール王国とガリチア地方(黄色で塗られた場所)



【私のコメント】
3年前のウクライナのオレンジ革命と、25-54年前のソ連の二人の指導者の間に何の関係があるのか、と訝る人もいるだろう。しかし、両者は関連性がある。フルシチョフとブレジネフは共に、ウクライナ東部または隣接するロシアの州を故郷とし、ウクライナを主要な活動の場としたロシア人政治家である。ロシアの1/3の人口のウクライナの中の少数民族であるロシア人が1953年のハザール人独裁打倒からゴルバチョフ登場までの間のソ連を支配したという事実は実に興味深い。

そして、オレンジ革命の中心人物であるユシチェンコ大統領とティモシェンコ元首相も、何故か支持基盤のウクライナ西部ではなく親ロシアの東部の出身なのである。ユシチェンコはKGB勤務暦があるし、ティモシェンコが巨万の富を築いたガス産業はロシアからの供給を受けている。この二人の政治家は恐らくロシア政府の工作員として反ロシア運動を推進するという俳優を演じているのだと思われる。

フルシチョフはハザール独裁打倒直後の1955年に、ウクライナ融和策の一環として住民の大部分がロシア人のクリミア半島をロシアからウクライナに割譲している。このような措置が急遽必要なほどウクライナとロシアの対立は深刻であったのだろう。そして、その主因が1930年代のウクライナの大飢饉と大粛清であったことは言うまでもない。深刻な飢饉の起きた地域はウクライナと北カフカスに限局していることが非常に注目される。この地域は耕作に適した黒土地帯だが、ボルガ川流域・西シベリアの黒土地帯や中央アジアのオアシスでは深刻な飢饉は起きていない。

これは私の想像だが、ハザール人独裁政権であった当時のソ連政府は、ハザール人の伝統的居住地域であった北カフカス・ウクライナでの永年の住民との対立の怨念を晴らすべく、両地域に限定して穀物を収奪して農民を大虐殺したのではないかということだ。そして、その後の粛清でウクライナの知識人を大虐殺することに成功したのではないか。

ロシア人ではあるがウクライナで育ち活動したフルシチョフは飢饉のため妻を失っており、ウクライナ人の経験した苦難とハザール人・モスクワ政府への怨念を誰よりも理解していただろう。その対策としてクリミア割譲が必要だったのだと想像する。

ウクライナ史では公式にはナチスは侵略者とされている。しかし、ウクライナを占領したナチスが大虐殺したのはユダヤ人であったことも歴史に明記されている。これは、ナチスドイツが実はハザール系ユダヤ人による大虐殺からウクライナを救い出そうとした救世主であったことを暗示しているのではないか。近い将来に国際金融資本の世界支配が崩壊した時、ウクライナから(恐らくロシアも同様だろうが)「ヒトラーは我々の救世主だった!」との叫び声が上がるのではないかと想像する。
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6 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
2007年イラン (決戦の年)
2007-08-12 13:52:53
ユダヤ新撰組副長、江田島孔明、新撰組跡地を訪ね必勝を祈願する!

http://klingon.blog87.fc2.com/blog-entry-316.html
侍にしてやるという幕府の御触れを信じ上洛し、尊王討伐やったら最後には幕府からも見放され、賊軍です

なお、今、取材で京都にいます。琵琶湖で船に乗ったのですが、水がきれいで安心しました。琵琶湖がシーパワーの中心となった事がわかる気がします
明日大坂に行きます
2007/08/11(土) 18:04 | URL | 孔明 #-[ 編集]
大坂ですか……
愚か者は「大阪」と揚げ足取りして孔明殿を嘲笑するんでしょうが、孔明殿の意識はすでに 400年前にあるんでしょうね。「あと9年で太閤秀吉の築いた大坂城も炎上」、現代に想いを致せば、それに匹敵する大事件がやはり10年以内に起こりそうです。願わくばそれが「国難」となりませんように。
2007/08/11(土) 20:54 | URL | のらくろ #-[ 編集]

本日、壬生の新撰組屯所跡をたずね
芹沢鴨惨殺現場に立ち会ってきました。
2007/08/12(日) 11:43 | URL | 孔明 #-[ 編集]
返信する
Unknown (Unknown)
2007-08-14 22:12:29
参議院選挙で民主が勝利した。これは
すべてユダヤ新撰組のマスコミ操作。
自民主導の和平交渉は失敗に終わった。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070814-00000099-san-pol
イスラエル入り大統領と会談 麻生外相
8月14日16時36分配信 産経新聞

【エルサレム=田北真樹子】
 麻生太郎外相は13日午後(日本時間同日夜)、陸路でヨルダンから
イスラエル入りし、ペレス大統領とエルサレムの大統領府で約50分間、
会談した。両氏は、中東和平の推進に向けて日本が提案した「平和と繁栄の
回廊」構想の具体化促進が重要との認識で一致した。
 麻生氏は会談で「イスラエル、パレスチナ間の信頼醸成のためには言葉だけ
でなく、実際に目に見える成果を示す必要がある」と述べ、イスラエル側の
支援を要請。ペレス大統領は、構想がパレスチナ人の生活水準の向上につながる
として、「経済面から和平に貢献しようとする日本の試みを高く評価している」
と応じた。
 同構想は、イスラエル、パレスチナ、ヨルダン、日本の4者が、将来の
パレスチナの経済的自立を目指して、農産業分野を中心にヨルダン渓谷の
経済開発を図ることを柱としている。
返信する
Unknown (Unknown)
2007-08-14 23:22:14
神の最後の御技がどのように成されるのか、
この日本の救世主としての使命が近いうちに
知られるだろう!
世界金融資本や偽ユダヤの滅亡は必然である。
これは聖書の黙示録に書き記されている。
返信する
Unknown (Unknown)
2007-08-15 02:25:05
ユダヤ新撰組局長、三輪耀山が動く。それは11月のイラン攻撃へ
http://ytaka2011.blog105.fc2.com/blog-entry-33.html
李鵬(りほう:Li Peng:1928年10月 - )は、中華人民共和国共産党の政治家。中華人民共和国国務院総理、全国人民代表大会第9代委員長などを務めた。

1995年 オーストラリアを訪問した李鵬は、ジョン・ハワード豪首相との首脳会談中に、「日本など20年も経てば地球上から消えてなくなる」と発言し、物議を醸した。

「今の日本の繁栄は一時的なものであだ花です。その繁栄を作ってきた日本人がもうすぐこの世からいなくなりますから、20年もしたら国として存在していないのではないでしょうか。中国かあるいは韓国ないしは朝鮮の属国にでもなっているかもしれません」

衆議院まで民主党に占拠されると隣の国に乗っ取られますよ。

民主党⇒韓国
社民党⇒北朝鮮
共産党⇒中国
公明党⇒創価学会 、韓国
であることを絶対に忘れてはならない。

在日韓国朝鮮人の参政権を画策する民主党と公明党。
返信する
年金・郵貯略奪で狂乱物価演出か? (ロゴス)
2007-08-15 04:41:11
日本年金や郵貯が対日攻撃の爆弾に化ける、

「作られたウインブルドン現象」。







http://alternativereport1.seesaa.net/pages/user/m/article?article_id=51127176&stq=session%3A%3Ablog%3A%3Ab3c1fe7e8b026844b837d050bdcb171d



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政府調達情報 (政府調達情報)
2009-03-03 11:21:20
全国の政府調達情報(一般競争入札)を公開
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