● 「満州国」人口統計の推計 - 東京経済大学
www.tku.ac.jp/kiyou/contents/economics/245/9_yamanaka.pdf
●満州国 - Wikipedia
満州はアイシン国(満洲語aisin gurun, 金国)創業の地として乾隆5年(1740年)に本格的に封禁され、漢人の移入は禁止され私墾田は焼き払われ流入民は移住させられていた(封禁政策)。旗人たちも首都北京に移住したため満州の地は「ほぼ空白地」[7]と化していた。19世紀前半には封禁政策は形骸化し、満州地域には無数の移民が流入しはじめた。chen[8]の試算によれば1851年に320万人の満州人口は1900年には1239万人に増加した[9]。1860年にはそれ以前には禁止されていた旗人以外の満州地域での土地の所有が部分的に開放され、清朝は漢人の移入を対露政策の一環として利用しはじめた(闖関東)。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%80%E5%B7%9E%E5%9B%BD
●白人国家の満州侵略計画 - かつて日本は美しかった
白人どもは満州を狙っていた。
昭和6年(1931年)9月18日の柳条湖事件をきっかけに満州事変が勃発しました。そして翌年、日本関東軍主導のもと満州国が建国されました。
国際連盟はリットン調査団を派遣します。そして出た結論は「満州国を認めない」というものでした。しかし、日本の権益は認められており、満州の民は支那の統治に反対する意向を示していたため、日本政府は連盟の勧告を受け入れても、満州は再び建国に向かうだろうと考えていました。
ところがリットン調査団の調査の裏で白人国家らが陰謀を張り巡らしていたのです。日本の外務省は嘱託の三浦幸介らの秘密機関に命じてリットン調査団を監視していました。昭和7年5月15日、調査団がは最終調査をおえて満州から引き揚げる1ヶ月前のこと、ソ連軍極東情報機関の長がハルビンのホテル「モデリン」でリットン卿と一時間会談し、アメリカのマッコイ中将と3時間会談していたことを突き止めました。ソ連は国際連盟にも加盟していないし、アメリカとも国交がありません。不審に思った三浦はソ連軍極東情報機関の長(アレクセーエフ・ボグダン・イワノフ大佐)を尾行します。
イワノフ大佐はハルビンから一人で牡丹江をへて、ウラジオストクに向かう専用列車の最後尾に乗車したので三浦らはこの大佐をおそって所持していたカバンを奪い、中身を確認したところ密約である協約草案が見つかりました。それは国際連盟の総会で日本がリットン報告書を受け入れた場合の密約でした。
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ARA密約(アングロ・ルッソー・アメリカーナの略)
1.日本が満州に持つ特殊権益は認めるが、駐兵権は国際共同管理委員会の決定による制限を受ける。
2.国際共同管理委員会に委ねられる地域の一般行政は、次の諸国が行う。
奉天省:アメリカ合衆国
吉林省:グレート・ブリテン連合王国(イギリス)
黒龍江省:ソビエト社会主義共和国連邦
熱河省:フランス共和国、ドイツ共和国、イタリー王国
この協約の内容および協約の内容は一切公表せず、秘密を厳守する。
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さらにアメリカとソ連の付属秘密議定書もあり、黒龍江省はソ連が独立させ、その後アメリカに譲り、その見返りに借款の供与と信用状取引に関する一切の便宜、関税の最恵国待遇を約束するというものもあったのです。白人国家らが満州を分割してぶんどろうとしていたのです。特にアメリカは満州に目をつけており、鉄道王といわれたハリマンはこの密約に関係している可能性があります。またこの背後にはフリーメーソン系のイルミナティという結社がおり、謀略を企てたといわれています。
三浦は外務省に報告しようとした矢先、関東軍の憲兵に挙動不審者として捕らえられました。ARA密約を知った関東軍は驚きますが、満州の主導権を持ちたい関東軍は切り札としてこの事実を秘匿し、三浦を監禁しました。
昭和8年2月14日、国際連盟はリットン調査報告にもどづく勧告書を発表しました。日本政府は受け入れの方針で総会の開催を待っていました。そこへ満州国執政顧問の板垣征四郎少将がとつぜん外務省を訪れ、ARA密約の写しを手渡し、国際連盟からの脱退を迫ったのです。そして日本政府は協議を行い、ジュネーブにいる松岡洋右に連盟脱退を伝えました。
参考文献
光人社「騙しの交渉術」杉山徹宗(著)
成甲書房「ユダヤは日本に何をしたか」渡部悌治(著)
http://d.hatena.ne.jp/jjtaro_maru/20111005/1317817247
http://blog.goo.ne.jp/princeofwales1941/e/ca9429a4259de5698653088eb79ac52a
●アパグループ アップルタウン: 特別対談| ドミトリー・プロホロフ氏 | 1928年の張作霖の爆殺事件はソ連の特務機関の犯行だ
張作霖爆殺事件は関東軍の河本大佐ではなく、ソ連の特務機関の犯行であるとの記述が世界的ベストセラー「マオ―誰も知らなかった毛沢東」に引用され、一躍名が知られるようになったドミトリー・プロホロフ氏。氏が拠点として活動するロシアのサンクトペテルブルクを訪ね、新説を提唱するに至った過程と、当時のソ連と中国の状況など、事件のバックグラウンドをお聞きしました。
ソ連工作員の指導の下、日本人が爆弾を仕掛けた
元谷 今日は対談に応じていただいて、ありがとうございます。私がプロホロフさんにお会いしたいと思ったのは、2005年にユン・チアンさんが書いた『マオ―誰も知らなかった毛沢東』という本が日本で出版され、中に1928年の張作霖爆殺がソ連特務機関の犯行だという記述があり、その出典がプロホロフさんの著書『GRU帝国』となっていたからです。
プロホロフ よろしくお願いします。実は、張作霖の件は『GRU帝国』には書いていないのです。2002年頃、軍の新聞に初めて張作霖爆殺事件に関する記事を書き、その後2004年に出版した『KGB ソビエト諜報部の特殊作戦』という本の中で、張作霖を殺したのは誰かという一節を書いたのです。
元谷 これがその『KGB ソビエト諜報部の特殊作戦』という本なのですね。ロシアでは何部売れましたか?
プロホロフ 合計で55,000部売れました。
元谷 ロシア以外でも出版されたのですか?
プロホロフ 私や共著者のアレクサンドル・コルパキヂも知らなかったのですが、ドイツで出版されたと聞いたことがあります。それ以外はわかりません。
元谷 本の内容としては、どのようなことが書かれているのでしょう?
プロホロフ ロシア以外で行われた、KGBが関与した事件について書いています。張作霖の事件はその一つです。張作霖のプロフィールに加え、なぜソ連が彼を暗殺しようと考えたか、1928年6月の爆殺とその2年前にあった暗殺未遂事件について記述しています。
元谷 未遂事件があったのは知りませんでした。2回にわたってソ連が張作霖を殺そうと思った理由は、何なのでしょうか?
プロホロフ 当時の中国の権力者は、共産党を支持するものと、張作霖のように反対するものに分かれていました。張はロシアの反革命軍である白軍の支援をしていました。さらに東清鉄道を巡って、張とソ連は決定的に対立していたのです。
元谷 そういう背景があったのですね。当時の特務機関の活動を、プロホロフさんはどうやって知ることができたのですか?
プロホロフ 歴史の本や当時の新聞などの記事、その他資料を読み込んだり、他のジャーナリストと情報を交換したりして、調べていきました。 歴史家のヴォルコゴノフ氏の本の中で、ナウム・エイチンゴンという諜報員が張作霖事件に関係があったという記述を見つけたのが、私の研究の出発点です。
元谷 先にソ連の関与を指摘した人がいたのですね。
プロホロフ そうです。1926年9月の張作霖暗殺未遂事件は、クリストフォル・サルヌインというラトビア人のソ連の工作員が、ブラコロフという実行者を使って、奉天の張作霖の宮殿で彼を爆殺する計画でした。これは中国当局に発見されて失敗します。1928年の爆殺も実行の指揮をしたのは、サルヌインだと考えられます。 どうも彼と繋がっている人間が、日本軍の中にいたようです。
元谷 関東軍の中にソ連の特務機関の手先がいたということですか?
プロホロフ サルヌインだけではなく、他のソ連の工作員のエージェントも関東軍に入り込んでいました。これは事実です。
元谷 サルヌインは最初から日本軍の仕業にみせかけるために、日本人の実行者を使ったということでしょうか?
プロホロフ そうです。日本軍に属していたエージェントが、サルヌインの指令を受けて、爆弾を仕掛けたと考えられます。
元谷 先ほど名前がでたナウム・エイチンゴンという諜報員は、トロツキー暗殺を指揮したことで知られています。彼とサルヌインは、共同して爆殺に関与したのですか?
プロホロフ モスクワの命令で、別々に関与したと思われます。所属していた組織も異なりました。サルヌインは軍の特務機関であるGRUの所属だったのですが、エイチンゴンは政治的な特務機関であるKGBに属していました。1924~29年のみ、この2つの機関が一緒に活動したことはありましたが、この2人に関係があったかどうかはわかりません。
元谷 1927年に、張作霖は満州への共産主義の侵入を防ぐために、自分の軍隊を使って、ソ連の大使館員らを拘束しています。暗殺はこれに対する報復だったのではないでしょうか?
プロホロフ それも理由の一つでしょう。
東京裁判では強要されて多くの証人が偽証している
元谷 イヴァン・ヴィナロフという人をご存知ですか?
プロホロフ はい、知っています。彼もサルヌインの部下の一人です。
元谷 ヴィナロフは、張作霖爆殺時に隣の車両に乗っていたという話があるのですが。
プロホロフ それは初耳です。ヴィナロフの調査もかなり行ったのですが、彼が張作霖の事件に関与しているという資料はありませんでした。ヴィナロフはもともとブルガリア人で、事件当時中国にいたのは、確かなのですが。
元谷 彼は後に『秘密戦の戦士』という自伝をブルガリアで出版しているのですが、その中には張作霖の隣の車両に乗っていて、事件直後に撮影したという写真が掲載されています。1920年に上海でゾルゲに会ったとも書いています。
プロホロフ 本のことも、ゾルゲのことも、初めて聞きます。ヴィナロフはサルヌインの一番大切な部下でしたから、爆殺しようとする人間の隣の車両に乗せるかどうか・・・。
元谷 爆弾がどこに仕掛けられていたかに関しても、いろいろな説がありますね。貨車の天蓋が破れた写真が残っていますが、それから考えると、爆発は明らかに車内で起こったはずです。しかし定説では、立体交差の上側の線路の橋脚に爆弾が仕掛けられたとされています。プロホロフさんは、どこに爆弾があったと思いますか?車内か、橋脚か、それとも線路の上だったのか?
プロホロフ 私は爆弾の専門家ではないので・・・。しかしヴィナロフが隣の車両にいたという話が本当であれば、彼の安全を考えると、爆弾は車内にあったと考えるべきでしょう。
元谷 動いている列車の一両だけを外から狙って爆破するのは、大変難しい。全部の車両を吹っ飛ばすのなら、例えば金正日を狙って北朝鮮の龍川駅で起こった爆発のように、800 トンものTNT(高性能爆薬)を使ってなら実行可能でしょう。しかし張作霖爆殺のように、わずか300キロの黄色火薬ではそこまでの爆発は期待できません。橋脚に仕掛けたとすると、確実性が非常に低い手段をとったことになります。また線路の下で爆発したのであれば、車両は脱線しているはず。これらを考えると、私も車内に爆弾があったというのが、一番理に適っていると思います。
プロホロフ そうですね。
元谷 事件の直後ですが、イギリスの陸軍情報部極東課が本国に、「ソ連の工作だ」という報告をしたともいわれています。日本政府が「関東軍の仕業」と発表したので、改めて再調査をしたそうですが、それでも結論は「ソ連の工作」で変わらなかったというのですが・・・。
プロホロフ 英語の資料は手に入らないので、その話の詳細は知りません。
元谷 ソ連では日本の犯行と考えられていたのですか?
プロホロフ そうです。そして東京裁判でも、日本人の実行者や命令者の証言があり、関東軍犯行説が定説化していったのです。しかし東京裁判でも、ニュールンベルグ裁判でも、ソ連は自国の国益のために、日本人を含む多くの証人に偽証をさせているのです。これらの裁判の証言を信用してはいけません。
元谷 東京裁判において張作霖爆殺は、河本大佐の指示によって行われたとされました。しかし裁判当時中国の太原収容所に収監されていた河本本人を、中国は出廷させていません。彼が本当に指示を出しているのなら、裁判で証言させた方が中国側に有利なはずです。この対応からも、私は謀略戦の匂いを感じます。
ソ連特務機関関与の証拠が残っている可能性がある
元谷 ところでいろいろな調査の結果、この張作霖の事件はソ連特務機関の犯行という結論に達したということだと思うのですが、何か決定的な物証はあったのでしょうか?特務機関は工作にあたって、文書を残さないという話を聞いたことがあるのですが・・・。
プロホロフ 張作霖の事件への特務機関の関与を直接示すような書類などは、発見されていません。未遂事件を含め、さまざまな状況から、私はそれを確信したのです。もちろん資料が存在するケースもあります。例えば1925年にブルガリアで行われた工作の書類は、コミンテルンの古文書保管所で発見されました。工作員も何かを報告しなければ、お金を得ることができません。ですから、紙の形で工作の証拠が残っているケースは多いと思います。
元谷 では、張作霖爆殺関連の証拠も、どこかに残っている可能性があるのでしょうか?
プロホロフ そうですね。あるとしたら、ロシア大統領の古文書保管所でしょうか。私に研究のきっかけを与えたヴォルコゴノフ氏であれば、何か知っていたでしょうが、もう亡くなってしまいました。
元谷 プロホロフさんが出した結論については、私もまったく同意見なのですが、日本でソ連特務機関犯行説を主張する場合には、例えば書類が残っているとか、誰かが証言をしたとか、そういった証拠があれば、納得させやすいのですが・・・。
プロホロフ ただいえることは、私が新聞や本で主張したこの説に対して、「間違っている」と反論をした人は一人もいないのです。
元谷 なるほど。反論ではなく、脅かされるなど、危険を感じたことはありませんか?
プロホロフ ないですね。もっと激しいことを書いたことがあります。プーチンの友人が、工場から国家財産を盗んでいるというストーリーです。
元谷 大丈夫だったのですか?
プロホロフ 雑誌に記事を出すことができなくなりました。5年間、ペンネームを使って、今のロシアに関する記事をいろいろと書いていたのです。しかし編集者に「もう限界」といわれまして・・・。
元谷 本や雑誌に書いたことは、100%正しいと思っていますか?
プロホロフ 100%正しいかどうかはわかりませんが、自分の中で疑問あれば、そんなことは絶対に書きません。
元谷 なるほど。ところで、『マオ―誰も知らなかった毛沢東』の作者であるユン・チアン氏からは、何か連絡があったのですか?
プロホロフ 何もありませんでした。
元谷 『マオ・・・』に引用されたことで、多くの人がプロホロフさんとその著書を知ることになりました。日本をはじめ、世界中から取材がたくさんあったかと思うのですが、産経新聞の内藤モスクワ支局長の取材は、どんな感じだったのでしょうか?
プロホロフ 張作霖の部分についての取材は、内藤さんからだけでした。あとブルガリアとオーストリアから、私の本のそれぞれの国に関する部分について、取材を受けました。この3つがすべてですね。内藤さんとのお話は、今日のように張作霖事件に関する私の見解についてがほとんどでした。
元谷 プロホロフさんが非常に大事な指摘をされているのに、日本からの取材がそれ一つというのは、私にはとても不思議なことに思えます。張作霖の爆殺後、息子の張学良は1936年の西安事件で蒋介石を監禁、この事件がその後の第二次国共合作による抗日戦へと繋がっていきます。張学良のバックにソ連がいたという説があるのですが。
プロホロフ 私の知っている限り、張作霖の息子とソ連は関係がありません。
元谷 では、中国共産党の毛沢東の画策によって、日本は中国との戦線を拡大させていったということですね。ソ連も特務機関を使って、日本を中国からアメリカ、イギリスとの戦いに向かうようにし、シベリア方面の安全確保を図ったのではないでしょうか。日米開戦時にチャーチルが「これで戦争に勝った」と喜んだ話は有名ですが、ソ連も同じようにうれしかったでしょう。
プロホロフ そうかもしれません。ただ、東から西への大規模な軍の移動というのは、ありませんでした。強兵で知られていた極東のソ連軍は、配備されたままでした。
元谷 東側の脅威が少なくなって、対ドイツ戦に専念、勝利を掴んだということは推測できます。
プロホロフ そうですね。
張作霖事件の解明によって旧来の歴史観を変えていく
元谷 私の知っているプロホロフさんの著作は、『GRU帝国』、『KGB ソビエト諜報部の特殊作戦』、『ロシアの対外諜報』です。しかしプロホロフさんの本は、まったく日本では出版されていません。これまでに何冊本を書いたのですか?
プロホロフ 12冊です。
元谷 共著者であるアレクサンドル・コルパキヂさんとは、どういう役割分担なのでしょうか?
プロホロフ 私の役割は書くこと。アレクサンドルは出版社との関係を築いたり、大切な金銭関係のやり取りを担当していました。
元谷 そういう関係なのですね。私は今、「真の近現代史観」を広める活動を行っています。今日本で教えられたり、報道されたりしている歴史は、真実ではありません。その結果、国民は自国に誇りと自信が持てず、中国などに謝罪外交を繰り返しているのです。昨年、「真の近現代史観」の懸賞論文を募集したところ、航空幕僚長の田母神さんが『日本は侵略国家であったのか』という論文で応募し最優秀賞を獲得、大変話題になりました。田母神さんの論文にも、『マオ・・・』からプロホロフさんの張作霖の爆殺は日本軍の仕業ではないという説が引用されています。このことは日本人にとって、非常に重要な指摘なのです。それなのに、日本からの取材が一件というのを聞いて、がっかりしました。プロホロフさんは、この無関心さをどう思いますか?
プロホロフ 日本でもロシアでも同じですが、どの国も認められた歴史を修正することに興味が薄いですね。国の安定を損なう感覚があるからでしょう。私も東京裁判の結果を見直すことに、何か意味があるとは思えません。
元谷 日本は東京裁判史観に苦しんでいるのです。「日本が侵略戦争を始めた」という嘘の歴史を 基に、中国や韓国、アメリカが日本をいまだに貶めているのです。
プロホロフ 第二次世界大戦を日本が始めたということではないでしょう?あの大戦は、ヨーロッパで始まったものです。
元谷 もちろんそうですが、アジアでの第二次世界大戦の端緒となったのは日中戦争であり、その発端が張作霖の爆殺だとみなされてきたのです。これが日本軍ではなくソ連の特務機関の仕業だとなれば、日本が中国大陸を侵略しようとしたというこれまでの定説がその根拠を欠き、大きく揺らぐことになるのです。
プロホロフ そういう意義があるのですね。よくわかります。
元谷 プロホロフさんは本当によく調べられていて、その努力に敬意を表します。できれば、調査を続けられて、日本向けに日本に関する事件だけをまとめた本を書いてもらえないでしょうか?出版権を買って、翻訳して日本で本として出したいと思うのです。また、その本の中に、張作霖爆殺がソ連特務機関の犯行であることを示す具体的な証拠が入っていると、なお良いのですが・・・。
プロホロフ わかりました。さらにいろいろと調べてみます。ただ執筆のみに集中しても、半年ぐらい時間がかかると思います。
元谷 よろしくお願いします。また日本にもぜひ一度来てください。日本の歴史家とディベートする機会があれば、また何か得るものがあるのではないでしょうか?
プロホロフ いろいろ情報交換ができそうですね。
元谷 プロホロフさんの今後の執筆活動に期待しています。今日はありがとうございました。
プロホロフ ありがとうございました。
ドミトリー・プロホロフ氏
11961年レニングラード(現在のサンクトペテルブルグ)生まれ。ソ連国立ゲルツェン記念名称教育大学歴史学部卒業。旧ソ連、ロシアの特務機関に関する著作を多数執筆。著書に『GRU帝国』『KGB ソビエト諜報部の特殊作戦』『ロシアの対外諜報』などがある。
http://megalodon.jp/2010-0107-2038-44/www.apa.co.jp/appletown/pdf/taidan/0912taidan.html
●張作霖爆殺事件ソ連特務機関犯行説 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%B5%E4%BD%9C%E9%9C%96%E7%88%86%E6%AE%BA%E4%BA%8B%E4%BB%B6%E3%82%BD%E9%80%A3%E7%89%B9%E5%8B%99%E6%A9%9F%E9%96%A2%E7%8A%AF%E8%A1%8C%E8%AA%AC
●西安事件 - Wikipedia
西安事件(せいあんじけん)は、1936年(民国25年)12月12日に中華民国西安で起きた、張学良・楊虎城らによる蒋介石拉致監禁事件。中国では西安事変と呼ばれる。事件収束に至る真相の詳細はいまだ不明だが、この事件によって、その後の共同抗日と国共合作が促されたとされる。
背景[編集]
1934年1月8日に欧州旅行から帰国した東北軍(zh)首領の張学良はドイツ・イタリアの民衆が心を合わせて指導者を擁護しながら復興を遂げていることに感銘を受け、帰国するやいなや「われわれも領袖を擁護しなければならない」と語り、中央の蒋介石支持を明らかにした[1]。まもなく、張学良は蒋介石から河南省、湖北省、安徽省の剿共副総司令に任命され共産党軍の長征による北上を阻止する任務についたが[1]、1935年9月には指揮下の第67軍の第110師団が壊滅的損害を被り師団長・参謀長を失った[2]。1935年10月には西北剿共副総司令に任命され西安に司令部を進めたが、指揮下の第57軍の第109師団の師団長が捕虜になるなど損害を出し続けていた[1][2]。このような状況に置かれていた張学良は楊虎城に剿共が嫌になったと打ち明け、1936年に入ると共産軍との接触を始めた[3]。1936年4月9日、張学良の働きかけによって周恩来・張学良会談が延安で開かれた[4]。
西安の地方軍閥である楊虎城(第17路軍総指揮)は、中央軍・共産軍どちらの進出も望んでおらず、共産軍と相互不可侵協定を結んでおり、西安に進出した張学良に司令部を提供することもなく、蒋介石の剿共作戦に批判的であった[2]。
共産軍は中国政府軍の剿共戦により21万人から7万人まで勢力を弱め[5]、陝西省・甘粛省の2省に追い詰められていた。このため、蒋介石は共産軍を殲滅する最後の軍議を西安で開き、20個師団と100機を超える航空機を投入して2週間から1月間以内に8年間にわたる剿共戦を終わらせようとしていた。蒋介石は将軍たちに「剿匪の完全成功まで、いまや最後の5分間の段階にきている。各自はこの機会を逃すことなく、勇敢迅速に行動してほしい」と繰り返し命令していた[6]。
日本との間には、1936年9月23日に上海共同租界内で日本人水兵射殺事件が前年度の中山水兵射殺事件の解決をみる前に再び引き起こされ[7][8]、9月24日に蒋介石は臨戦態勢をとるよう軍政部長等に命令を下す状況に陥っていた[8]。10月1日、ナチス・ドイツから派遣されているファルケンハウゼン将軍によって立案された上海・漢口租界の日本軍への奇襲攻撃作戦が蒋介石に伝達された[9]。10月5日、蒋介石と川越大使との会談が行われ、蒋介石は日中友好を力説した[10]。
1936年10月、国民政府行政院長(首相)蒋介石は、紅軍(中国共産党軍)の根拠地に対する総攻撃を命じたが、共産党と接触していた張学良と楊虎城は共産党への攻撃を控えていた[11]。このため、蒋介石は攻撃を督促するために12月4日には西安を訪れていた[11]。
コミンテルンによる指令[編集]スターリンによる国際共産党は、事件以前から中国共産党に対して、蒋介石と日本軍を戦わせて両者を共倒れさせることにより、中国の共産革命を成功に導くよう、指令を与えていた[12]。
事件[編集]拉致[編集]1936年12月11日午後10時、張学良は親衛隊第二旅長唐君堯、騎兵第六師長白鳳翅、親衛隊第二営長孫銘九に抗日のための蒋介石連行計画を打ち明け、翌日の作戦計画の取り決めがなされた[13]。12月12日午前1時、張学良は緊急幹部会議を行いその他の幹部にも作戦実施を告げた[13]。
12月12日午前5時、西安からトラックに分乗した拉致実行部隊(張学良の親衛隊第2営第7連120名)が出発した[14]。西安では楊虎城の第17路軍が陝西省政府、憲兵隊、警察、保安隊、飛行場、蒋介石配下の将軍等が宿泊する西安賓館を襲撃した[14]。第17路軍は憲兵団長揚鎮亜を射殺し、西安賓館の将軍等を一箇所に集めて監禁するとともに脱出を試みた邵元沖元立法院院長代理を射殺した[15][14]。蒋介石が滞在している華清池(zh)から500mに位置する臨潼県城には第105師師長劉多茎と親衛隊第二旅長唐君堯が到着し、拉致実行部隊(張学良の親衛隊第2営第7連120名)の到着を待った[14]。
午前6時25分、蒋介石拉致実行部隊(張学良の親衛隊第2営第7連120名[14]。)が華清池(zh)の五間廰表門で守備についていた憲兵の誰何に応答することなくトラックで侵入を図ろうとしたため、憲兵が威嚇射撃を行うと、トラックから実行部隊が降り立ち憲兵と銃撃戦となった[16][17]。降り立った実行部隊たちは塀を乗り越えて門内に侵入した[18]。銃声を受けて異変を察知した特務員蒋堯祥は侍衛官竺培基の指示を受け調べに向かったところ実行部隊に銃撃され応戦中に左胸を打ち抜かれながらも変を叫んで知らせた[18]。蒋介石は侍衛官竺培基から避難するよう伝えられると、竺培基、特務員施文彪、従兵蒋孝鎮の4名で塀を乗り越えて脱出した[18]。一行は裏山の標高790mの斯家山の頂上付近まで退避したが、途中警護の者達は次々と銃弾に倒れ[19]、蒋介石は一人岩間に身を潜めた[20]。午前7時30分には警備隊は制圧され護衛侍従長銭大鈞、侍従室第3組長蒋孝先など20名、実行部隊は17名の死傷者を出した[19]。実行部隊は捕らえた憲兵の一人に拳銃を突きつけて尋問するとともに2千元を渡し蒋介石の情報を提供をすれば釈放すると条件を出したため、憲兵は蒋介石が裏山に逃げたことを自白した[21]。蒋介石の発見に2万元の懸賞金がかけられ、午前9時には発見された[20]。捕らえられた蒋介石は西安に連行された。
略奪[編集]その間、楊虎城の第17路軍によって陝西省政府、保安隊、警察、銀行、西安賓館、西安駅、農村合作事処、民家などで略奪が行われた[21]。西安駅では中央軍の兵糧が略奪され将兵たちによって転売された[21]。西安賓館では書類以外全てが略奪の対象となり、宿泊していたアメリカ人女性記者はメガネから下着にいたるまで奪われた[21]。張学良の銀行である東北辺業銀行では制止に入った西北剿共総司令部員張式維が射殺された[21]。
午後8時になると甘粛省蘭州では東北軍第51軍が中央軍第8師、第24師留守処、綏靖公署、公安総局、中央銀行、農民銀行、郵便局などを襲撃し掠奪を行った[22]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%AE%89%E4%BA%8B%E4%BB%B6
●日本の鳩山元首相が日清戦争を語る、「日本は反省しなければならない」―華字紙|中国情報の日本語メディア―XINHUA.JP - 2014年08月21日
中国・環球網は20日、「日本の鳩山元首相が日清戦争を語る、『日本は反省しなければならない』」と題した記事を掲載した。
20日付の華字紙・日本新華僑報(電子版)によると、鳩山由紀夫元首相は「甲午戦争(日本名:日清戦争)120周年という節目の今年、日本が最も考えなければならないのは、いかにして過去を反省するかということだ」と語った。
甲午戦争(日清戦争)120周年という特別な年にあたる今年、日本メディアが中日情勢について「日清戦争の開戦前に似ている」と報じたり、「中国脅威論」を振りかざしたりして、日本の国民までもが「もう1度、中国との戦争が勃発するかもしれない」と思うようになっている。
これについて、鳩山氏はこう語った。1880年~90年代は欧米列強の植民地政策が蔓延し、欧米を手本としていた日本もこれに倣い、海外に進軍した。当時の清朝時代の中国は不安定で、日本にとっては「手を下す絶好のチャンス」。こうして日清戦争が勃発した。だが、他国を侵略して自らの植民地とするこのようなやり方が間違っていることは明らかで、絶対にしてはならないことだ。
日中両国の過去の歴史は絶対に抹消してはならず、両国の未来の関係において、再び侵略があってはならない。武力は両国人民の相互理解のためにならず、われわれは対話によって平和な局面を作り出すべきである。今、最もやるべきことは互いに協力して対話の環境を作り出し、各方面の協力を強化すること。「価値観の違い」や「中国脅威論」などは対話を拒否する理由にはならない。
http://www.xinhua.jp/socioeconomy/economic_exchange/392875/
【私のコメント】
日本が大東亜戦争に突入した謎は日本の生命線とされた満州にある。満州は日本のみならずアジア全体にとっても生命線だったからだ。
ARA密約(アングロ・ルッソー・アメリカーナの略)は、国際金融資本が満州を植民地化することを狙っていたことを示す。当時の満州は人口4億人の中国本土と異なり人口は3000万人程度と少なく、更に満州は白人にとって過ごしやすい冬期冷涼な気候であった。満州に白人移民を導入することで南アフリカの様に白人国家を建設し、そこを根拠地として中国本土や中央アジアを植民地化することを彼らは狙っていたと見る。中央アジア支配の目的は、それによって国際金融資本はユーラシア大陸沿岸部の湿潤地帯(特に残る中国とロシア)を海洋と内陸乾燥地帯の両方から挟み撃ちして完全支配することが可能になるからだ。
インドや東南アジアを植民地化し、ロシアもある程度コントロールするようになった国際金融資本は地球全体を支配する事を狙い、最後に残った未支配地域である中国や中央アジアの植民地化を計画した。ただ、中国は遠隔地にあり、人口が非常に多く、満州族の団結が強いため分裂も期待できない。中央アジアは更に遠く補給が困難である。阿片戦争や太平天国の乱である程度中国を弱体化させることこそできたが、本格的に植民地化するには中国の近くに根拠地が必要であった。その最大の候補が満州であり、その満州を支配するには満州から伸びる朝鮮半島とその先の日本列島が軍事基地兼傭兵調達場所として必要だったのだ。もし中国本土を直接海から支配するのが目的であれば、より中国本土に近い台湾を占領することが必要不可欠であるが、実際には国際金融資本は台湾には関心を示さずにペリー来航で日本を事実上乗っ取ってきた。
日清戦争・日露戦争は国際金融資本の命令によって日本が傭兵として戦わされたものであり、日本が戦った清とロシアはともに日本が国際金融資本の支配から逃れるための貴重な味方であった。明治天皇は日清戦争や日露戦争に本音では反対であったとされるがその理由はここにある。鳩山首相が「日本は日清戦争を反省すべき」という理由もこれである。日清戦争と日露戦争は表向きは日本が勝ったとされるが実際には日本は中露と同様に敗北したのであり、勝ったのは国際金融資本である。そして、国際金融資本が満州を植民地化するために日露戦争後の1905年に米国鉄道王のハリマンを通じて南満州鉄道の共同経営を持ちかけてきた時に小村寿太郎がそれを断った時に日本は事実上大東亜戦争に突入したのだ。第二次世界大戦では正義は日本やドイツなどの枢軸国にあった。中露両国は日独と戦い勝利したがこれは貴重な味方を倒してしまったのであり、最悪の敗北というのが真相である。中露両国は第二次大戦について、日独に謝罪する必要があるのだ。
前置きが長くなった。本題に入ろう。張作霖爆殺事件は関東軍の河本大佐ではなく、ソ連の特務機関の犯行であるとの説をロシア人が主張している。当時のソ連政府はハザール系ユダヤ人独裁であり、国際金融資本の命令で実行されたと見て良いだろう。張作霖は日露戦争時代から日本軍と親密な関係にあり、日本が殺害することは日本に利益にならない。米西戦争の戦艦メーン号爆発事件、ベトナム戦争のトンキン湾事件、イラク戦争でのイラク核兵器開発との戦争理由など、国際金融資本は嘘の理由で敵国に対して戦争を仕掛けてきた、ことを忘れては成らない。恐らくこれは、日本軍と地元の軍閥が協力して国際金融資本に対抗しているという状況に対する攻撃であったのだと思われる。そして、この事件以後の日本は、表向きは国際金融資本の分割統治の戦略に嵌まって中国と対立している状況を装いつつ、裏では中国と親密に協力するという戦略に転じたのだと思われる。この日本の戦略を張作霖の息子の張学良が蒋介石に伝えたのが西安事件の真相ではないかと私は想像する。国共合作を通じてこの戦略は中国共産党にも流されたことだろう。
当時の蒋介石は日本との友好関係を維持しつつ、国際金融資本の思想である共産主義を奉じる中国共産党を殲滅することを目指し、実際に殲滅は間近であった。しかし、それでは蒋介石もまた張作霖の様に危険人物として国際金融資本に暗殺されるのが目に見えていた。従って、強大な敵である国際金融資本と正面から戦わず、表向きは国際金融資本の「国共合作させ、日本と中国国民党軍を戦わせて共倒れさせ、その後に中国共産党に共産革命を実現させる」という戦略通りに戦い、裏では日本と親密に情報を交換し協力していく様に張学良は蒋介石に進言したのだと想像する。
また、日本敗北後に蒋介石は日本との関係の深い南京国民政府からの投降者を弾圧するように見せかけて共産党政権に追いやり、その結果多くの親日派(その代表が江沢民)が中国共産党に入り込んだのだと想像する。1964年の中国の核兵器開発は実は多数の日本人技術者の支援によるものであるという説があるが、これは米国に対する核攻撃を行う能力をアジア人が保有することで国際金融資本がアジア人との戦争に勝てなくなったという画期的な事件であった。
現在も日本は中国との深刻な対立を演出している。しかしそれは恐らく米国人や国際金融資本を騙す目的であり、その裏では日本と中国は緊密に協力して戦ってきたのだと思われる。この協力関係は恐らく1840年の阿片戦争の時期から現在まで継続しているのだと思われる。そして、「敵を騙すにはまず味方から」という諺通り、両国の政治家は表向きは深刻な対立を演出し続けてきたのだと思われる。
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www.tku.ac.jp/kiyou/contents/economics/245/9_yamanaka.pdf
●満州国 - Wikipedia
満州はアイシン国(満洲語aisin gurun, 金国)創業の地として乾隆5年(1740年)に本格的に封禁され、漢人の移入は禁止され私墾田は焼き払われ流入民は移住させられていた(封禁政策)。旗人たちも首都北京に移住したため満州の地は「ほぼ空白地」[7]と化していた。19世紀前半には封禁政策は形骸化し、満州地域には無数の移民が流入しはじめた。chen[8]の試算によれば1851年に320万人の満州人口は1900年には1239万人に増加した[9]。1860年にはそれ以前には禁止されていた旗人以外の満州地域での土地の所有が部分的に開放され、清朝は漢人の移入を対露政策の一環として利用しはじめた(闖関東)。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%80%E5%B7%9E%E5%9B%BD
●白人国家の満州侵略計画 - かつて日本は美しかった
白人どもは満州を狙っていた。
昭和6年(1931年)9月18日の柳条湖事件をきっかけに満州事変が勃発しました。そして翌年、日本関東軍主導のもと満州国が建国されました。
国際連盟はリットン調査団を派遣します。そして出た結論は「満州国を認めない」というものでした。しかし、日本の権益は認められており、満州の民は支那の統治に反対する意向を示していたため、日本政府は連盟の勧告を受け入れても、満州は再び建国に向かうだろうと考えていました。
ところがリットン調査団の調査の裏で白人国家らが陰謀を張り巡らしていたのです。日本の外務省は嘱託の三浦幸介らの秘密機関に命じてリットン調査団を監視していました。昭和7年5月15日、調査団がは最終調査をおえて満州から引き揚げる1ヶ月前のこと、ソ連軍極東情報機関の長がハルビンのホテル「モデリン」でリットン卿と一時間会談し、アメリカのマッコイ中将と3時間会談していたことを突き止めました。ソ連は国際連盟にも加盟していないし、アメリカとも国交がありません。不審に思った三浦はソ連軍極東情報機関の長(アレクセーエフ・ボグダン・イワノフ大佐)を尾行します。
イワノフ大佐はハルビンから一人で牡丹江をへて、ウラジオストクに向かう専用列車の最後尾に乗車したので三浦らはこの大佐をおそって所持していたカバンを奪い、中身を確認したところ密約である協約草案が見つかりました。それは国際連盟の総会で日本がリットン報告書を受け入れた場合の密約でした。
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ARA密約(アングロ・ルッソー・アメリカーナの略)
1.日本が満州に持つ特殊権益は認めるが、駐兵権は国際共同管理委員会の決定による制限を受ける。
2.国際共同管理委員会に委ねられる地域の一般行政は、次の諸国が行う。
奉天省:アメリカ合衆国
吉林省:グレート・ブリテン連合王国(イギリス)
黒龍江省:ソビエト社会主義共和国連邦
熱河省:フランス共和国、ドイツ共和国、イタリー王国
この協約の内容および協約の内容は一切公表せず、秘密を厳守する。
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さらにアメリカとソ連の付属秘密議定書もあり、黒龍江省はソ連が独立させ、その後アメリカに譲り、その見返りに借款の供与と信用状取引に関する一切の便宜、関税の最恵国待遇を約束するというものもあったのです。白人国家らが満州を分割してぶんどろうとしていたのです。特にアメリカは満州に目をつけており、鉄道王といわれたハリマンはこの密約に関係している可能性があります。またこの背後にはフリーメーソン系のイルミナティという結社がおり、謀略を企てたといわれています。
三浦は外務省に報告しようとした矢先、関東軍の憲兵に挙動不審者として捕らえられました。ARA密約を知った関東軍は驚きますが、満州の主導権を持ちたい関東軍は切り札としてこの事実を秘匿し、三浦を監禁しました。
昭和8年2月14日、国際連盟はリットン調査報告にもどづく勧告書を発表しました。日本政府は受け入れの方針で総会の開催を待っていました。そこへ満州国執政顧問の板垣征四郎少将がとつぜん外務省を訪れ、ARA密約の写しを手渡し、国際連盟からの脱退を迫ったのです。そして日本政府は協議を行い、ジュネーブにいる松岡洋右に連盟脱退を伝えました。
参考文献
光人社「騙しの交渉術」杉山徹宗(著)
成甲書房「ユダヤは日本に何をしたか」渡部悌治(著)
http://d.hatena.ne.jp/jjtaro_maru/20111005/1317817247
http://blog.goo.ne.jp/princeofwales1941/e/ca9429a4259de5698653088eb79ac52a
●アパグループ アップルタウン: 特別対談| ドミトリー・プロホロフ氏 | 1928年の張作霖の爆殺事件はソ連の特務機関の犯行だ
張作霖爆殺事件は関東軍の河本大佐ではなく、ソ連の特務機関の犯行であるとの記述が世界的ベストセラー「マオ―誰も知らなかった毛沢東」に引用され、一躍名が知られるようになったドミトリー・プロホロフ氏。氏が拠点として活動するロシアのサンクトペテルブルクを訪ね、新説を提唱するに至った過程と、当時のソ連と中国の状況など、事件のバックグラウンドをお聞きしました。
ソ連工作員の指導の下、日本人が爆弾を仕掛けた
元谷 今日は対談に応じていただいて、ありがとうございます。私がプロホロフさんにお会いしたいと思ったのは、2005年にユン・チアンさんが書いた『マオ―誰も知らなかった毛沢東』という本が日本で出版され、中に1928年の張作霖爆殺がソ連特務機関の犯行だという記述があり、その出典がプロホロフさんの著書『GRU帝国』となっていたからです。
プロホロフ よろしくお願いします。実は、張作霖の件は『GRU帝国』には書いていないのです。2002年頃、軍の新聞に初めて張作霖爆殺事件に関する記事を書き、その後2004年に出版した『KGB ソビエト諜報部の特殊作戦』という本の中で、張作霖を殺したのは誰かという一節を書いたのです。
元谷 これがその『KGB ソビエト諜報部の特殊作戦』という本なのですね。ロシアでは何部売れましたか?
プロホロフ 合計で55,000部売れました。
元谷 ロシア以外でも出版されたのですか?
プロホロフ 私や共著者のアレクサンドル・コルパキヂも知らなかったのですが、ドイツで出版されたと聞いたことがあります。それ以外はわかりません。
元谷 本の内容としては、どのようなことが書かれているのでしょう?
プロホロフ ロシア以外で行われた、KGBが関与した事件について書いています。張作霖の事件はその一つです。張作霖のプロフィールに加え、なぜソ連が彼を暗殺しようと考えたか、1928年6月の爆殺とその2年前にあった暗殺未遂事件について記述しています。
元谷 未遂事件があったのは知りませんでした。2回にわたってソ連が張作霖を殺そうと思った理由は、何なのでしょうか?
プロホロフ 当時の中国の権力者は、共産党を支持するものと、張作霖のように反対するものに分かれていました。張はロシアの反革命軍である白軍の支援をしていました。さらに東清鉄道を巡って、張とソ連は決定的に対立していたのです。
元谷 そういう背景があったのですね。当時の特務機関の活動を、プロホロフさんはどうやって知ることができたのですか?
プロホロフ 歴史の本や当時の新聞などの記事、その他資料を読み込んだり、他のジャーナリストと情報を交換したりして、調べていきました。 歴史家のヴォルコゴノフ氏の本の中で、ナウム・エイチンゴンという諜報員が張作霖事件に関係があったという記述を見つけたのが、私の研究の出発点です。
元谷 先にソ連の関与を指摘した人がいたのですね。
プロホロフ そうです。1926年9月の張作霖暗殺未遂事件は、クリストフォル・サルヌインというラトビア人のソ連の工作員が、ブラコロフという実行者を使って、奉天の張作霖の宮殿で彼を爆殺する計画でした。これは中国当局に発見されて失敗します。1928年の爆殺も実行の指揮をしたのは、サルヌインだと考えられます。 どうも彼と繋がっている人間が、日本軍の中にいたようです。
元谷 関東軍の中にソ連の特務機関の手先がいたということですか?
プロホロフ サルヌインだけではなく、他のソ連の工作員のエージェントも関東軍に入り込んでいました。これは事実です。
元谷 サルヌインは最初から日本軍の仕業にみせかけるために、日本人の実行者を使ったということでしょうか?
プロホロフ そうです。日本軍に属していたエージェントが、サルヌインの指令を受けて、爆弾を仕掛けたと考えられます。
元谷 先ほど名前がでたナウム・エイチンゴンという諜報員は、トロツキー暗殺を指揮したことで知られています。彼とサルヌインは、共同して爆殺に関与したのですか?
プロホロフ モスクワの命令で、別々に関与したと思われます。所属していた組織も異なりました。サルヌインは軍の特務機関であるGRUの所属だったのですが、エイチンゴンは政治的な特務機関であるKGBに属していました。1924~29年のみ、この2つの機関が一緒に活動したことはありましたが、この2人に関係があったかどうかはわかりません。
元谷 1927年に、張作霖は満州への共産主義の侵入を防ぐために、自分の軍隊を使って、ソ連の大使館員らを拘束しています。暗殺はこれに対する報復だったのではないでしょうか?
プロホロフ それも理由の一つでしょう。
東京裁判では強要されて多くの証人が偽証している
元谷 イヴァン・ヴィナロフという人をご存知ですか?
プロホロフ はい、知っています。彼もサルヌインの部下の一人です。
元谷 ヴィナロフは、張作霖爆殺時に隣の車両に乗っていたという話があるのですが。
プロホロフ それは初耳です。ヴィナロフの調査もかなり行ったのですが、彼が張作霖の事件に関与しているという資料はありませんでした。ヴィナロフはもともとブルガリア人で、事件当時中国にいたのは、確かなのですが。
元谷 彼は後に『秘密戦の戦士』という自伝をブルガリアで出版しているのですが、その中には張作霖の隣の車両に乗っていて、事件直後に撮影したという写真が掲載されています。1920年に上海でゾルゲに会ったとも書いています。
プロホロフ 本のことも、ゾルゲのことも、初めて聞きます。ヴィナロフはサルヌインの一番大切な部下でしたから、爆殺しようとする人間の隣の車両に乗せるかどうか・・・。
元谷 爆弾がどこに仕掛けられていたかに関しても、いろいろな説がありますね。貨車の天蓋が破れた写真が残っていますが、それから考えると、爆発は明らかに車内で起こったはずです。しかし定説では、立体交差の上側の線路の橋脚に爆弾が仕掛けられたとされています。プロホロフさんは、どこに爆弾があったと思いますか?車内か、橋脚か、それとも線路の上だったのか?
プロホロフ 私は爆弾の専門家ではないので・・・。しかしヴィナロフが隣の車両にいたという話が本当であれば、彼の安全を考えると、爆弾は車内にあったと考えるべきでしょう。
元谷 動いている列車の一両だけを外から狙って爆破するのは、大変難しい。全部の車両を吹っ飛ばすのなら、例えば金正日を狙って北朝鮮の龍川駅で起こった爆発のように、800 トンものTNT(高性能爆薬)を使ってなら実行可能でしょう。しかし張作霖爆殺のように、わずか300キロの黄色火薬ではそこまでの爆発は期待できません。橋脚に仕掛けたとすると、確実性が非常に低い手段をとったことになります。また線路の下で爆発したのであれば、車両は脱線しているはず。これらを考えると、私も車内に爆弾があったというのが、一番理に適っていると思います。
プロホロフ そうですね。
元谷 事件の直後ですが、イギリスの陸軍情報部極東課が本国に、「ソ連の工作だ」という報告をしたともいわれています。日本政府が「関東軍の仕業」と発表したので、改めて再調査をしたそうですが、それでも結論は「ソ連の工作」で変わらなかったというのですが・・・。
プロホロフ 英語の資料は手に入らないので、その話の詳細は知りません。
元谷 ソ連では日本の犯行と考えられていたのですか?
プロホロフ そうです。そして東京裁判でも、日本人の実行者や命令者の証言があり、関東軍犯行説が定説化していったのです。しかし東京裁判でも、ニュールンベルグ裁判でも、ソ連は自国の国益のために、日本人を含む多くの証人に偽証をさせているのです。これらの裁判の証言を信用してはいけません。
元谷 東京裁判において張作霖爆殺は、河本大佐の指示によって行われたとされました。しかし裁判当時中国の太原収容所に収監されていた河本本人を、中国は出廷させていません。彼が本当に指示を出しているのなら、裁判で証言させた方が中国側に有利なはずです。この対応からも、私は謀略戦の匂いを感じます。
ソ連特務機関関与の証拠が残っている可能性がある
元谷 ところでいろいろな調査の結果、この張作霖の事件はソ連特務機関の犯行という結論に達したということだと思うのですが、何か決定的な物証はあったのでしょうか?特務機関は工作にあたって、文書を残さないという話を聞いたことがあるのですが・・・。
プロホロフ 張作霖の事件への特務機関の関与を直接示すような書類などは、発見されていません。未遂事件を含め、さまざまな状況から、私はそれを確信したのです。もちろん資料が存在するケースもあります。例えば1925年にブルガリアで行われた工作の書類は、コミンテルンの古文書保管所で発見されました。工作員も何かを報告しなければ、お金を得ることができません。ですから、紙の形で工作の証拠が残っているケースは多いと思います。
元谷 では、張作霖爆殺関連の証拠も、どこかに残っている可能性があるのでしょうか?
プロホロフ そうですね。あるとしたら、ロシア大統領の古文書保管所でしょうか。私に研究のきっかけを与えたヴォルコゴノフ氏であれば、何か知っていたでしょうが、もう亡くなってしまいました。
元谷 プロホロフさんが出した結論については、私もまったく同意見なのですが、日本でソ連特務機関犯行説を主張する場合には、例えば書類が残っているとか、誰かが証言をしたとか、そういった証拠があれば、納得させやすいのですが・・・。
プロホロフ ただいえることは、私が新聞や本で主張したこの説に対して、「間違っている」と反論をした人は一人もいないのです。
元谷 なるほど。反論ではなく、脅かされるなど、危険を感じたことはありませんか?
プロホロフ ないですね。もっと激しいことを書いたことがあります。プーチンの友人が、工場から国家財産を盗んでいるというストーリーです。
元谷 大丈夫だったのですか?
プロホロフ 雑誌に記事を出すことができなくなりました。5年間、ペンネームを使って、今のロシアに関する記事をいろいろと書いていたのです。しかし編集者に「もう限界」といわれまして・・・。
元谷 本や雑誌に書いたことは、100%正しいと思っていますか?
プロホロフ 100%正しいかどうかはわかりませんが、自分の中で疑問あれば、そんなことは絶対に書きません。
元谷 なるほど。ところで、『マオ―誰も知らなかった毛沢東』の作者であるユン・チアン氏からは、何か連絡があったのですか?
プロホロフ 何もありませんでした。
元谷 『マオ・・・』に引用されたことで、多くの人がプロホロフさんとその著書を知ることになりました。日本をはじめ、世界中から取材がたくさんあったかと思うのですが、産経新聞の内藤モスクワ支局長の取材は、どんな感じだったのでしょうか?
プロホロフ 張作霖の部分についての取材は、内藤さんからだけでした。あとブルガリアとオーストリアから、私の本のそれぞれの国に関する部分について、取材を受けました。この3つがすべてですね。内藤さんとのお話は、今日のように張作霖事件に関する私の見解についてがほとんどでした。
元谷 プロホロフさんが非常に大事な指摘をされているのに、日本からの取材がそれ一つというのは、私にはとても不思議なことに思えます。張作霖の爆殺後、息子の張学良は1936年の西安事件で蒋介石を監禁、この事件がその後の第二次国共合作による抗日戦へと繋がっていきます。張学良のバックにソ連がいたという説があるのですが。
プロホロフ 私の知っている限り、張作霖の息子とソ連は関係がありません。
元谷 では、中国共産党の毛沢東の画策によって、日本は中国との戦線を拡大させていったということですね。ソ連も特務機関を使って、日本を中国からアメリカ、イギリスとの戦いに向かうようにし、シベリア方面の安全確保を図ったのではないでしょうか。日米開戦時にチャーチルが「これで戦争に勝った」と喜んだ話は有名ですが、ソ連も同じようにうれしかったでしょう。
プロホロフ そうかもしれません。ただ、東から西への大規模な軍の移動というのは、ありませんでした。強兵で知られていた極東のソ連軍は、配備されたままでした。
元谷 東側の脅威が少なくなって、対ドイツ戦に専念、勝利を掴んだということは推測できます。
プロホロフ そうですね。
張作霖事件の解明によって旧来の歴史観を変えていく
元谷 私の知っているプロホロフさんの著作は、『GRU帝国』、『KGB ソビエト諜報部の特殊作戦』、『ロシアの対外諜報』です。しかしプロホロフさんの本は、まったく日本では出版されていません。これまでに何冊本を書いたのですか?
プロホロフ 12冊です。
元谷 共著者であるアレクサンドル・コルパキヂさんとは、どういう役割分担なのでしょうか?
プロホロフ 私の役割は書くこと。アレクサンドルは出版社との関係を築いたり、大切な金銭関係のやり取りを担当していました。
元谷 そういう関係なのですね。私は今、「真の近現代史観」を広める活動を行っています。今日本で教えられたり、報道されたりしている歴史は、真実ではありません。その結果、国民は自国に誇りと自信が持てず、中国などに謝罪外交を繰り返しているのです。昨年、「真の近現代史観」の懸賞論文を募集したところ、航空幕僚長の田母神さんが『日本は侵略国家であったのか』という論文で応募し最優秀賞を獲得、大変話題になりました。田母神さんの論文にも、『マオ・・・』からプロホロフさんの張作霖の爆殺は日本軍の仕業ではないという説が引用されています。このことは日本人にとって、非常に重要な指摘なのです。それなのに、日本からの取材が一件というのを聞いて、がっかりしました。プロホロフさんは、この無関心さをどう思いますか?
プロホロフ 日本でもロシアでも同じですが、どの国も認められた歴史を修正することに興味が薄いですね。国の安定を損なう感覚があるからでしょう。私も東京裁判の結果を見直すことに、何か意味があるとは思えません。
元谷 日本は東京裁判史観に苦しんでいるのです。「日本が侵略戦争を始めた」という嘘の歴史を 基に、中国や韓国、アメリカが日本をいまだに貶めているのです。
プロホロフ 第二次世界大戦を日本が始めたということではないでしょう?あの大戦は、ヨーロッパで始まったものです。
元谷 もちろんそうですが、アジアでの第二次世界大戦の端緒となったのは日中戦争であり、その発端が張作霖の爆殺だとみなされてきたのです。これが日本軍ではなくソ連の特務機関の仕業だとなれば、日本が中国大陸を侵略しようとしたというこれまでの定説がその根拠を欠き、大きく揺らぐことになるのです。
プロホロフ そういう意義があるのですね。よくわかります。
元谷 プロホロフさんは本当によく調べられていて、その努力に敬意を表します。できれば、調査を続けられて、日本向けに日本に関する事件だけをまとめた本を書いてもらえないでしょうか?出版権を買って、翻訳して日本で本として出したいと思うのです。また、その本の中に、張作霖爆殺がソ連特務機関の犯行であることを示す具体的な証拠が入っていると、なお良いのですが・・・。
プロホロフ わかりました。さらにいろいろと調べてみます。ただ執筆のみに集中しても、半年ぐらい時間がかかると思います。
元谷 よろしくお願いします。また日本にもぜひ一度来てください。日本の歴史家とディベートする機会があれば、また何か得るものがあるのではないでしょうか?
プロホロフ いろいろ情報交換ができそうですね。
元谷 プロホロフさんの今後の執筆活動に期待しています。今日はありがとうございました。
プロホロフ ありがとうございました。
ドミトリー・プロホロフ氏
11961年レニングラード(現在のサンクトペテルブルグ)生まれ。ソ連国立ゲルツェン記念名称教育大学歴史学部卒業。旧ソ連、ロシアの特務機関に関する著作を多数執筆。著書に『GRU帝国』『KGB ソビエト諜報部の特殊作戦』『ロシアの対外諜報』などがある。
http://megalodon.jp/2010-0107-2038-44/www.apa.co.jp/appletown/pdf/taidan/0912taidan.html
●張作霖爆殺事件ソ連特務機関犯行説 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%B5%E4%BD%9C%E9%9C%96%E7%88%86%E6%AE%BA%E4%BA%8B%E4%BB%B6%E3%82%BD%E9%80%A3%E7%89%B9%E5%8B%99%E6%A9%9F%E9%96%A2%E7%8A%AF%E8%A1%8C%E8%AA%AC
●西安事件 - Wikipedia
西安事件(せいあんじけん)は、1936年(民国25年)12月12日に中華民国西安で起きた、張学良・楊虎城らによる蒋介石拉致監禁事件。中国では西安事変と呼ばれる。事件収束に至る真相の詳細はいまだ不明だが、この事件によって、その後の共同抗日と国共合作が促されたとされる。
背景[編集]
1934年1月8日に欧州旅行から帰国した東北軍(zh)首領の張学良はドイツ・イタリアの民衆が心を合わせて指導者を擁護しながら復興を遂げていることに感銘を受け、帰国するやいなや「われわれも領袖を擁護しなければならない」と語り、中央の蒋介石支持を明らかにした[1]。まもなく、張学良は蒋介石から河南省、湖北省、安徽省の剿共副総司令に任命され共産党軍の長征による北上を阻止する任務についたが[1]、1935年9月には指揮下の第67軍の第110師団が壊滅的損害を被り師団長・参謀長を失った[2]。1935年10月には西北剿共副総司令に任命され西安に司令部を進めたが、指揮下の第57軍の第109師団の師団長が捕虜になるなど損害を出し続けていた[1][2]。このような状況に置かれていた張学良は楊虎城に剿共が嫌になったと打ち明け、1936年に入ると共産軍との接触を始めた[3]。1936年4月9日、張学良の働きかけによって周恩来・張学良会談が延安で開かれた[4]。
西安の地方軍閥である楊虎城(第17路軍総指揮)は、中央軍・共産軍どちらの進出も望んでおらず、共産軍と相互不可侵協定を結んでおり、西安に進出した張学良に司令部を提供することもなく、蒋介石の剿共作戦に批判的であった[2]。
共産軍は中国政府軍の剿共戦により21万人から7万人まで勢力を弱め[5]、陝西省・甘粛省の2省に追い詰められていた。このため、蒋介石は共産軍を殲滅する最後の軍議を西安で開き、20個師団と100機を超える航空機を投入して2週間から1月間以内に8年間にわたる剿共戦を終わらせようとしていた。蒋介石は将軍たちに「剿匪の完全成功まで、いまや最後の5分間の段階にきている。各自はこの機会を逃すことなく、勇敢迅速に行動してほしい」と繰り返し命令していた[6]。
日本との間には、1936年9月23日に上海共同租界内で日本人水兵射殺事件が前年度の中山水兵射殺事件の解決をみる前に再び引き起こされ[7][8]、9月24日に蒋介石は臨戦態勢をとるよう軍政部長等に命令を下す状況に陥っていた[8]。10月1日、ナチス・ドイツから派遣されているファルケンハウゼン将軍によって立案された上海・漢口租界の日本軍への奇襲攻撃作戦が蒋介石に伝達された[9]。10月5日、蒋介石と川越大使との会談が行われ、蒋介石は日中友好を力説した[10]。
1936年10月、国民政府行政院長(首相)蒋介石は、紅軍(中国共産党軍)の根拠地に対する総攻撃を命じたが、共産党と接触していた張学良と楊虎城は共産党への攻撃を控えていた[11]。このため、蒋介石は攻撃を督促するために12月4日には西安を訪れていた[11]。
コミンテルンによる指令[編集]スターリンによる国際共産党は、事件以前から中国共産党に対して、蒋介石と日本軍を戦わせて両者を共倒れさせることにより、中国の共産革命を成功に導くよう、指令を与えていた[12]。
事件[編集]拉致[編集]1936年12月11日午後10時、張学良は親衛隊第二旅長唐君堯、騎兵第六師長白鳳翅、親衛隊第二営長孫銘九に抗日のための蒋介石連行計画を打ち明け、翌日の作戦計画の取り決めがなされた[13]。12月12日午前1時、張学良は緊急幹部会議を行いその他の幹部にも作戦実施を告げた[13]。
12月12日午前5時、西安からトラックに分乗した拉致実行部隊(張学良の親衛隊第2営第7連120名)が出発した[14]。西安では楊虎城の第17路軍が陝西省政府、憲兵隊、警察、保安隊、飛行場、蒋介石配下の将軍等が宿泊する西安賓館を襲撃した[14]。第17路軍は憲兵団長揚鎮亜を射殺し、西安賓館の将軍等を一箇所に集めて監禁するとともに脱出を試みた邵元沖元立法院院長代理を射殺した[15][14]。蒋介石が滞在している華清池(zh)から500mに位置する臨潼県城には第105師師長劉多茎と親衛隊第二旅長唐君堯が到着し、拉致実行部隊(張学良の親衛隊第2営第7連120名)の到着を待った[14]。
午前6時25分、蒋介石拉致実行部隊(張学良の親衛隊第2営第7連120名[14]。)が華清池(zh)の五間廰表門で守備についていた憲兵の誰何に応答することなくトラックで侵入を図ろうとしたため、憲兵が威嚇射撃を行うと、トラックから実行部隊が降り立ち憲兵と銃撃戦となった[16][17]。降り立った実行部隊たちは塀を乗り越えて門内に侵入した[18]。銃声を受けて異変を察知した特務員蒋堯祥は侍衛官竺培基の指示を受け調べに向かったところ実行部隊に銃撃され応戦中に左胸を打ち抜かれながらも変を叫んで知らせた[18]。蒋介石は侍衛官竺培基から避難するよう伝えられると、竺培基、特務員施文彪、従兵蒋孝鎮の4名で塀を乗り越えて脱出した[18]。一行は裏山の標高790mの斯家山の頂上付近まで退避したが、途中警護の者達は次々と銃弾に倒れ[19]、蒋介石は一人岩間に身を潜めた[20]。午前7時30分には警備隊は制圧され護衛侍従長銭大鈞、侍従室第3組長蒋孝先など20名、実行部隊は17名の死傷者を出した[19]。実行部隊は捕らえた憲兵の一人に拳銃を突きつけて尋問するとともに2千元を渡し蒋介石の情報を提供をすれば釈放すると条件を出したため、憲兵は蒋介石が裏山に逃げたことを自白した[21]。蒋介石の発見に2万元の懸賞金がかけられ、午前9時には発見された[20]。捕らえられた蒋介石は西安に連行された。
略奪[編集]その間、楊虎城の第17路軍によって陝西省政府、保安隊、警察、銀行、西安賓館、西安駅、農村合作事処、民家などで略奪が行われた[21]。西安駅では中央軍の兵糧が略奪され将兵たちによって転売された[21]。西安賓館では書類以外全てが略奪の対象となり、宿泊していたアメリカ人女性記者はメガネから下着にいたるまで奪われた[21]。張学良の銀行である東北辺業銀行では制止に入った西北剿共総司令部員張式維が射殺された[21]。
午後8時になると甘粛省蘭州では東北軍第51軍が中央軍第8師、第24師留守処、綏靖公署、公安総局、中央銀行、農民銀行、郵便局などを襲撃し掠奪を行った[22]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%AE%89%E4%BA%8B%E4%BB%B6
●日本の鳩山元首相が日清戦争を語る、「日本は反省しなければならない」―華字紙|中国情報の日本語メディア―XINHUA.JP - 2014年08月21日
中国・環球網は20日、「日本の鳩山元首相が日清戦争を語る、『日本は反省しなければならない』」と題した記事を掲載した。
20日付の華字紙・日本新華僑報(電子版)によると、鳩山由紀夫元首相は「甲午戦争(日本名:日清戦争)120周年という節目の今年、日本が最も考えなければならないのは、いかにして過去を反省するかということだ」と語った。
甲午戦争(日清戦争)120周年という特別な年にあたる今年、日本メディアが中日情勢について「日清戦争の開戦前に似ている」と報じたり、「中国脅威論」を振りかざしたりして、日本の国民までもが「もう1度、中国との戦争が勃発するかもしれない」と思うようになっている。
これについて、鳩山氏はこう語った。1880年~90年代は欧米列強の植民地政策が蔓延し、欧米を手本としていた日本もこれに倣い、海外に進軍した。当時の清朝時代の中国は不安定で、日本にとっては「手を下す絶好のチャンス」。こうして日清戦争が勃発した。だが、他国を侵略して自らの植民地とするこのようなやり方が間違っていることは明らかで、絶対にしてはならないことだ。
日中両国の過去の歴史は絶対に抹消してはならず、両国の未来の関係において、再び侵略があってはならない。武力は両国人民の相互理解のためにならず、われわれは対話によって平和な局面を作り出すべきである。今、最もやるべきことは互いに協力して対話の環境を作り出し、各方面の協力を強化すること。「価値観の違い」や「中国脅威論」などは対話を拒否する理由にはならない。
http://www.xinhua.jp/socioeconomy/economic_exchange/392875/
【私のコメント】
日本が大東亜戦争に突入した謎は日本の生命線とされた満州にある。満州は日本のみならずアジア全体にとっても生命線だったからだ。
ARA密約(アングロ・ルッソー・アメリカーナの略)は、国際金融資本が満州を植民地化することを狙っていたことを示す。当時の満州は人口4億人の中国本土と異なり人口は3000万人程度と少なく、更に満州は白人にとって過ごしやすい冬期冷涼な気候であった。満州に白人移民を導入することで南アフリカの様に白人国家を建設し、そこを根拠地として中国本土や中央アジアを植民地化することを彼らは狙っていたと見る。中央アジア支配の目的は、それによって国際金融資本はユーラシア大陸沿岸部の湿潤地帯(特に残る中国とロシア)を海洋と内陸乾燥地帯の両方から挟み撃ちして完全支配することが可能になるからだ。
インドや東南アジアを植民地化し、ロシアもある程度コントロールするようになった国際金融資本は地球全体を支配する事を狙い、最後に残った未支配地域である中国や中央アジアの植民地化を計画した。ただ、中国は遠隔地にあり、人口が非常に多く、満州族の団結が強いため分裂も期待できない。中央アジアは更に遠く補給が困難である。阿片戦争や太平天国の乱である程度中国を弱体化させることこそできたが、本格的に植民地化するには中国の近くに根拠地が必要であった。その最大の候補が満州であり、その満州を支配するには満州から伸びる朝鮮半島とその先の日本列島が軍事基地兼傭兵調達場所として必要だったのだ。もし中国本土を直接海から支配するのが目的であれば、より中国本土に近い台湾を占領することが必要不可欠であるが、実際には国際金融資本は台湾には関心を示さずにペリー来航で日本を事実上乗っ取ってきた。
日清戦争・日露戦争は国際金融資本の命令によって日本が傭兵として戦わされたものであり、日本が戦った清とロシアはともに日本が国際金融資本の支配から逃れるための貴重な味方であった。明治天皇は日清戦争や日露戦争に本音では反対であったとされるがその理由はここにある。鳩山首相が「日本は日清戦争を反省すべき」という理由もこれである。日清戦争と日露戦争は表向きは日本が勝ったとされるが実際には日本は中露と同様に敗北したのであり、勝ったのは国際金融資本である。そして、国際金融資本が満州を植民地化するために日露戦争後の1905年に米国鉄道王のハリマンを通じて南満州鉄道の共同経営を持ちかけてきた時に小村寿太郎がそれを断った時に日本は事実上大東亜戦争に突入したのだ。第二次世界大戦では正義は日本やドイツなどの枢軸国にあった。中露両国は日独と戦い勝利したがこれは貴重な味方を倒してしまったのであり、最悪の敗北というのが真相である。中露両国は第二次大戦について、日独に謝罪する必要があるのだ。
前置きが長くなった。本題に入ろう。張作霖爆殺事件は関東軍の河本大佐ではなく、ソ連の特務機関の犯行であるとの説をロシア人が主張している。当時のソ連政府はハザール系ユダヤ人独裁であり、国際金融資本の命令で実行されたと見て良いだろう。張作霖は日露戦争時代から日本軍と親密な関係にあり、日本が殺害することは日本に利益にならない。米西戦争の戦艦メーン号爆発事件、ベトナム戦争のトンキン湾事件、イラク戦争でのイラク核兵器開発との戦争理由など、国際金融資本は嘘の理由で敵国に対して戦争を仕掛けてきた、ことを忘れては成らない。恐らくこれは、日本軍と地元の軍閥が協力して国際金融資本に対抗しているという状況に対する攻撃であったのだと思われる。そして、この事件以後の日本は、表向きは国際金融資本の分割統治の戦略に嵌まって中国と対立している状況を装いつつ、裏では中国と親密に協力するという戦略に転じたのだと思われる。この日本の戦略を張作霖の息子の張学良が蒋介石に伝えたのが西安事件の真相ではないかと私は想像する。国共合作を通じてこの戦略は中国共産党にも流されたことだろう。
当時の蒋介石は日本との友好関係を維持しつつ、国際金融資本の思想である共産主義を奉じる中国共産党を殲滅することを目指し、実際に殲滅は間近であった。しかし、それでは蒋介石もまた張作霖の様に危険人物として国際金融資本に暗殺されるのが目に見えていた。従って、強大な敵である国際金融資本と正面から戦わず、表向きは国際金融資本の「国共合作させ、日本と中国国民党軍を戦わせて共倒れさせ、その後に中国共産党に共産革命を実現させる」という戦略通りに戦い、裏では日本と親密に情報を交換し協力していく様に張学良は蒋介石に進言したのだと想像する。
また、日本敗北後に蒋介石は日本との関係の深い南京国民政府からの投降者を弾圧するように見せかけて共産党政権に追いやり、その結果多くの親日派(その代表が江沢民)が中国共産党に入り込んだのだと想像する。1964年の中国の核兵器開発は実は多数の日本人技術者の支援によるものであるという説があるが、これは米国に対する核攻撃を行う能力をアジア人が保有することで国際金融資本がアジア人との戦争に勝てなくなったという画期的な事件であった。
現在も日本は中国との深刻な対立を演出している。しかしそれは恐らく米国人や国際金融資本を騙す目的であり、その裏では日本と中国は緊密に協力して戦ってきたのだと思われる。この協力関係は恐らく1840年の阿片戦争の時期から現在まで継続しているのだと思われる。そして、「敵を騙すにはまず味方から」という諺通り、両国の政治家は表向きは深刻な対立を演出し続けてきたのだと思われる。
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以前、張作霖爆殺事件を証拠を握る方が山形県に在住しており、その写真などが山形の地方TVで放映されたことがありました。
また、小生の同級生の祖父が盧溝橋事件で銃撃を受けて負傷復員してきた方であり、いかにこの事件が疑惑と謀略に満ちた事件であったかを聴いております。
やはり、張作霖爆殺は、ロシアの仕業でしたか・・・・。
中国でも、日中関係を切り裂いたのはソビエトと朝鮮人過激派という意識が強いそうです。
何としても、日本の超大国化と中国人民を味方に引き入れること、満州ユダヤ共和国の実現、そして、朝鮮半島統一と韓国消滅を早急に進めていかなければなりませんね。
今後とも、宜しくお願い致します。
雇い主は誰かである。
オランダ=オラニエ公=オレンジ公=橘氏
皇太子夫妻のよくいく場所はオランダ
小和田雅子の家紋は橘紋
コレをぶっ壊すのは、生半可な覚悟では無理だよ。