エミール・ガボリオ ライブラリ

名探偵ルコックを生んだ19世紀フランスの作家ガボリオの(主に)未邦訳作品をフランス語から翻訳。

2-XIII-6

2024-12-07 08:21:11 | 地獄の生活
「悔しいったらない!」と彼は叫んだ。「あんな風に服を滅茶苦茶にされて! 僕がどんな姿にされたかを見たら、子爵、君だって……。カラーはシャツから引きちぎられ、ネクタイはぐちゃぐちゃにされてぶら下がってた……。あいつが僕より力が強かったというだけのことさ、あの図体のデカい卑怯者めが!さもなきゃ、あんなことには……。けど、きっと思い知らせてやるからな……弱い者いじめをした報いはどんなものかを!明日になったら、二人の立会人が颯爽と彼の前に現れる! もし彼が償いを申し出るか、謝罪することを拒否すれば、往復びんただ。それもしこたま!それからステッキで殴る……。俺ってそういう男さ、この俺は……」
ド・コラルト氏にとって、このすばらしい計画が語られるのを、言葉を挟まず聞いているのはかなりの苦痛であったことは表情から明らかであった。
「一つだけ言っておくが」と、彼はついに遮って言った。「その尊敬を受けている紳士のことを話すときはもっと別の言葉を使った方が良い」
「へ? 何て? その男のこと、知ってるの?」
「ああ……マダム・ダルジュレの守護神といえばトリゴー男爵だから……」
ウィルキー氏はこの名前を聞いて飛び上がった。しかしそれは喜びのあまりだった。
「え? そうなの?」と彼は叫んだ。「それはめっちゃ興奮するなぁ! でもどうしてトリゴー男爵が出てくるのさ? あの大金持ちの賭け事好きだろ? ヴィル・レヴェック通りに凄い立派な屋敷があって、奥さんていうのが思いっきりお洒落で頭のいかれた人だよね。上流階級の尻軽女として誰でも知ってる……」
ド・コラルト子爵は不意にがばと身を起こし、顔色を変えてウィルキー氏を遮った。
「言っておくが」と彼はきっぱりとした口調で、一語一語強調しながら言った。「君の身の安全のために、トリゴー男爵夫人の名を口にするときは最大級の敬意を払え、いいな……」
ド・コラルト氏の口調には取り違えようのないほど明確なメッセージが込められており、彼がその脅しから実行に至る時間は相当短いであろうと目が言っていた。
男爵夫人が輝かしく君臨している上流社交界よりはずっと下の階層---品性というよりは資産という意味で---の中で生きてきたウィルキー氏は、彼の『憧れの友人』がかくも激しく男爵夫人を擁護するのは何故なのか、理解できなかった。ただ、そのことに固執したり、あるいは単に口にするだけでも、とんでもないしくじりになる、ということだけは理解した。
というわけで、彼は極めて屈託のない態度を取り繕って言った。
「じゃその御婦人のことは置いておいて、彼女の夫のことなんだが、そうだよ!僕を殴ったのはその男に違いないよ!12.7
コメント

2-XIII-5

2024-12-02 12:43:42 | 地獄の生活
「ところが、お前のやったことは何だ。まるで空から降って来た災難のように彼女めがけて突っ込んで行った。蜂の巣をつついたような騒ぎを舘中に巻き起こしただけでは飽き足らず……全く何を考えていたんだ! あんな愚かで、くだらない、恥ずかしい場面を演じるとは! まるで荷担ぎ人夫みたいな怒鳴り方をするもんだから、サロンまでお前の声が聞こえたぞ。これですべてがおじゃんになっていなかったとしたら、お前みたいなドアホにつく神もいるってことだ……」
さすがのウィルキーも、最初はすっかり気圧され、なにか意味不明の言い訳をぶつぶつ言い始めては語尾を呑み込んでしまうことしか出来なかった……。彼の知っているド・コラルト氏はいつも大理石のように冷静で丁寧な物腰だったため、その激昂ぶりが、ウィルキー自身の怒りを抑え、黙り込ませてしまった。
しかし終わりごろには、浴びせられる侮辱に憤然となった。
「言っときますがね、子爵、そいつは笑えませんね!」 と彼は怒鳴った。「あなた以外の人がそんな無礼なことを言ったら、僕はただじゃ置きませんよ」
ソファの上に殆ど寝そべるような姿勢を取ったド・コラルト氏は、じれったそうに細身のステッキの端でクッションを叩いた。そんな扱いを受けたことのないクッションからは埃がもうもうと立ち上がった。ウィルキー氏の脅し文句に彼は憐れむように肩をすくめた。
「結構だ!」と彼は厳しい口調で遮った。「強い態度に出るのは私以外の人間にしておくのだ、いいな! 事実をはっきりさせよう。母上との間に一体何があった?」
 「その前にして貰いたいことが……」
 「いい加減にしろ! 私が今晩ここに泊まっていくほどの暇人だとでも思っているのか? 母上とのやり取りを私に聞かせるんだ、手短に。但し、本当のことをだ」
ウィルキー氏の自慢の一つは、彼の言葉を借りると『サイコロのように角ばった』、つまり権力に屈しない鉄のように頑固な性格を持っているということだった。しかしド・コラルト氏は彼に対し、親方が徒弟に対するときのような圧倒的優位に立っていたので、ある種の、恐怖心に近い感情を吹き込むに至っていた。それに今、ウィルキーの混濁した頭に一条の理性の光が射し、子爵の言うことも尤もであり、自分は馬鹿者のような行動を取ったため窮地に立たされていることを認識した。そしてこの際、最も賢明なやり方はこの窮地から抜け出すため、自分より経験豊富な人間の意見を聞くことであろう、と思った。それで彼は文句を言うのを止め、マダム・ダルジュレとのやりとりについて『説明』をし始めた。
出だしは上々だった。なので、彼もさほど事実を曲げる必要もないほどだった。しかし、ある男が闖入してきて、彼の腕を掴み邪魔立てをしたというところに差し掛かると、彼の顔は真っ赤になった。怒りがぶり返したのだ。12.2
コメント

2-XIII-4

2024-11-27 13:20:51 | 地獄の生活
それで彼は立ち上がり、用心のためにランプを持ち、扉を開けに行った。こんな夜更けのこの時間に彼を訪ねてくるのは、コスタール氏でなければド・セルピオン子爵、あるいは二人揃ってであろう。
『俺が探しているってことをどこかで聞いたんだろうな、気の良い奴らだから』と彼は思いながら小走りに門を開けに行った。
違っていた。訪問者は二人のどちらでもなく、フェルナン・ド・コラルトその人であった。彼は怪しまれぬようにマダム・ダルジュレのサロンに最後まで残り、そこを出るとその足でド・ヴァロルセイ侯爵邸に向かい、侯爵と打ち合わせをした後、ようやく自由の身になったと考えて、ここまでやって来たのだった。しかし誰かが自分の後をつけてきており、この瞬間も外で見張りを続けているとは夢にも思わなかった。パスカル・フェライユールとマルグリット嬢の味方についている、身分は低いが決して侮れぬ敵、あのヴィクトール・シュパンである。
ウィルキー氏にとってコラルト氏は長い間自分のお手本として憧れていた友であり、その忠告に乗ったことを今や彼は『へま』と呼んでいたわけだが、その当人が表れたのを見て大いに驚き、危うくランプを取り落すところだった。次いで、怒りがどっとこみ上げてきた。
「ああ、君か!」彼はぶっきらぼうに叫んだ。「ちょうど良いところへ来たもんだな!」
しかしド・コラルト氏の方でも相当神経が昂っていたので、ウィルキーの応対が奇妙なことに気がつかなかった。彼はウィルキー氏の腕を乱暴に掴むと、足で蹴って扉を閉め、サロンまで彼を後ろ向きに押し込んだ。そしてサロンに入るや、高圧的な声で短く叫んだ。
「そうだ、私だ!お前は昨日から気でも狂ったか、それとも馬鹿なのか、それを確かめに来た」
「おいおい、子爵!」
「お前の振る舞いをそれ以外にどう言い表せばいいのか、どうしても分からないんだ! いいか! 選りによってマダム・ダルジュレが百五十人もの客を迎えるその日、その時間に、お前は彼女に会いに行った。何ということだ!」
「ああ、それはつまり、こういうことさ……俺って人間は、人に偉そうにされるのが我慢ならないのさ。彼女の家へは既に二度行ったよ。そのたびに門前払いを喰わされた……」
「何度でも行くべきだったんだ、十回でも、百回でも、千回でも。その方がずっとましだ。あんな風に愚の骨頂を晒すよりは……」
「ちょ、ちょっと、その言い方はないだろ……」
「俺はお前に何と忠告した? 慎重に、これ以上ないほど慎重にやれ、と言っただろう。そして冷静に、節度を心得よと言った筈だ。あくまでも優しく、感情濃やかに、相手の心を溶かすようにしろ、そして涙だ、たっぷりの涙を浴びせるんだ、と……」
「ま、そうかもしれないけど……」11.27
コメント

2-XIII-3

2024-11-23 08:24:29 | 地獄の生活
そんなウィルキー氏が自身の収支対照表のことを考えて冷や汗を流すとすれば、それは彼が手中にしたと思ったのに、手からスルリと抜け落ちてしまった莫大な相続財産の為であった。ド・シャルース伯爵の遺産と強欲な彼の間に脅威として冷笑的に立ちはだかるのは彼の父の存在であった。彼が会ったこともない父親。マダム・ダルジュレが身震いすることなしには、その名を口にすることも出来ない男……。
その男は手強い敵に違いない。元船乗りのアメリカ人であり、賭博場その他のいかがわしい溜まり場を闊歩する遊び人であるその男は、もう二十年以上も前から自分が誑し込んだ女から得られる財産を虎視眈々と狙っているのだ……。
現在の自分の状況を吟味すると、ウィルキー氏は激しい不安に襲われた。自分は一体どうなるのだろう……? マダム・ダルジュレが今後、自分にびた一文もくれないだろうということは確かであった。彼女にはもうその力がないであろう、ということぐらいは彼にも分かった。
もしもド・シャルース伯爵の遺産のほんの一部でも受け取ることが出来るとして、そのこと自体かなり望み薄ではあるが、そのためには長い間待たされることになるだろう……確かにありそうなことだ。その間、自分はどうやって生きて行けばいいのか? どうやって食っていく?
彼は痛切に苦しみを感じたので、目に涙が滲んできた。自分の行為を思い、殆ど嘆きたい気持ちになっていた……。そう、このとき彼は自分の過去を悔いる境地に達していた。自分の運命を苦々しく思って不平を言っていた年月を……。
確かに大金持ちとは言えなかったが、少なくとも何にも不自由はしなかった。三か月毎にかなりな額のお小遣いがきちんと送られてきたし、何か大金が必要なときには、謹厳なパターソン氏がいた。パターソン氏は言いなりというわけではなかったが、取り付く島のないほど厳しくもなかった。
あの頃は良かった、と彼は思わずにいられなかった。ああ、自分が恵まれていたということにちゃんと気づけていたら! 仲間内では一番羽振りの良い男の一人だった自分。ちやほやされて光り輝いていたのに。愛され、称賛され、持ち上げられて……。それにあの『ナントの火消し号』、あれには大いなる愛情を注いでいたのに!
ところが今の自分に残されているものと言えば? 何もない。あるものと言えば、迷い、将来への不安、あらゆる種類の不確かさ、そして恐怖だ!
「何たるへま!」と彼は繰り返していた。「何というしくじりをやっちまったんだ! ああもう一度やり直せたらなぁ! あのド・コラルト子爵の奴、悪魔に喰われちまえばいいんだ……」
絶望の中で、彼が憤懣をぶつける相手はかの子爵であった。あいつの所為だ、と彼は相手を呪った。この恩知らずの怒りが爆発し最高潮に達していたとき、門のベルを鳴らす音が突然、荒々しく響いた。召使の部屋は屋根裏にあり、アパルトマンに居るのは彼一人だった。11.23
コメント

2-XIII-2

2024-11-18 14:54:23 | 地獄の生活
新聞というものが共同洗濯場のようになった今の時代にあっては、これぞ悪名を広めるためのもってこいの場だ。誰もが汚れたシャツを洗いに来ては宣伝という偉大な太陽のもとに晒す、つまり何千もの読者に知って貰うことを夢見るのである。
ウィルキー氏の脳裏にはすでに有名人になった自分自身の姿が浮かんでいた。人々の口の端に上ることで自分に箔が着き、歩くたびに人が自分のことを噂しあうその声が聞こえるようだった。『ほら、あの青年だよ、見てごらん……あの有名な事件の中心人物だよ……』
そして彼は、二人の介添え人がフィガロ紙に掲載をするよう求めるであろう記事について、同じようにセンセーショナルな二つの書き出しのうちどちらが良いか、頭の中で転がして決めかねていた。『特筆すべき世紀の決闘……』か『昨日、世間を大いに騒がせた事件の後、不可避の事態が生じ……』
残念ながら彼はコスタール氏ともド・セルピオン子爵とも出会わなかった。奇妙にも、二人の姿は大通りのカフェで夜の九時から深夜一時まで行われるどのパーティでも見ることができなかった。そこは黄色い髪を結った粋な女性たちを伴い、フランスの男たちが若さの盛りを見せびらかす場所なのであるが。
この不都合はウィルキー氏を残念がらせるものではあったが、彼のその日の『冒険』により、ちょっとした特典も得られた。彼が足を踏み入れた店ではどこでも、いつも身ぎれいにしている彼が乱れた服装をしているのを見て誰もが驚いて目を見張った……。
「どこへ行ってきたんです?」と皆が聞いた。「一体何があったんだ?」
それに対して、彼は秘密めかして答えた。
「ああ、その話はやめてくれ……ちょっと驚くようなことがあってね。このことが世間に知られなければいいんだが……。そうなったら俺は困ったことになっちまう……」
そうこうするうちカフェは一軒また一軒と閉店して行き、騒音も静かになって外を歩く人の数も少なくなった。ウィルキー氏は無念だったが家に帰ろうと決心した。帰宅して門を閉め、部屋着に着替えた後、ようやく彼はその日の出来事を頭の中できちんと整理しようとした。やや手前勝手なやり方で……。
彼が不安に思い、頭を悩ませたのは、後に残してきた母親であるマダム・ダルジュレの状態についてではなかった。彼女は自身の生き甲斐である息子に殴られ、今のこの瞬間にも死にかけているかもしれないのに。この哀れな母親が息子への盲目的な母性愛のためにした驚くべき犠牲についてでもなかった。更に言えば、彼が長い間湯水のように浪費してきた金がどこから来たものであるか、についてでもなかった。ウィルキー氏はそんなしみったれた考えに煩わされる男ではなかった。そんなものは巷の取るに足りない、時代遅れの人間の考えることだ。彼はそんな軟な男ではなかった。『ああ、そうとも、間違いなく!』 豪胆で『時流に乗っている』男なのだ。11.18
コメント