来年、山口祐一郎さんの本格的復帰作となる「エリザベス」での役が、ロジャー・アスカムです。
でも、そのロジャー、堀北真希ちゃんの「9日間の女王」では、主人公ジェーン・グレイの家庭教師兼ストーリー・テラーとして上川隆也さんが演じます。
エリザベスもジェーンも、ヘンリー8世の6番目の妻、キャサリン・パーのもとに引き取られて教育を受けていた時代があって、そこで同じ家庭教師に就いていたという理解でいいのかな?
堀北真希ちゃん演じるジェーン・グレイって、ドラローシュの「ジェーン・グレイの処刑」のジェーン・グレイです。
あのぞっとするような絵。
中野京子さんの「怖い絵」でも取り上げられていますが、夏目漱石の「倫敦塔」の中でも、幻想的に描かれています。
(中野さんの記述は、漱石を参考にされているのかな?)
気味が悪くなったから通り過ぎて先へ抜ける。銃眼のある角を出ると滅茶苦茶に書き綴つづられた、模様だか文字だか分らない中に、正しき画で、小ちいさく「ジェーン」と書いてある。余は覚えずその前に立留まった。英国の歴史を読んだものでジェーン・グレーの名を知らぬ者はあるまい。またその薄命と無残の最後に同情の涙を濺そそがぬ者はあるまい。ジェーンは義父と所天の野心のために十八年の春秋を罪なくして惜気もなく刑場に売った。蹂躙じられたる薔薇の蕊しべより消え難き香かの遠く立ちて、今に至るまで史を繙く者をゆかしがらせる。希臘語を解しプレートーを読んで一代の碩学アスカムをして舌を捲かしめたる逸事は、この詩趣ある人物を想見するの好材料として何人の脳裏にも保存せらるるであろう。余はジェーンの名の前に立留ったぎり動かない。動かないと云うよりむしろ動けない。空想の幕はすでにあいている。
アスカムの名前も、ここにちゃんと書いてありました。
興味がないと、つい、読み飛ばしてしまうところです。
この後の漱石の幻視は、ドラローシュの絵をもとにしているのがよくわかります。
気がついて見ると真中に若い女が坐っている、右の端はじには男が立っているようだ。両方共どこかで見たようだなと考えるうち、瞬くまにズッと近づいて余から五六間先ではたと停とまる。男は前に穴倉の裏で歌をうたっていた、眼の凹んだ煤色をした、背の低い奴だ。磨ぎすました斧を左手に突いて腰に八寸ほどの短刀をぶら下げて身構えて立っている。余は覚えずギョッとする。女は白き手巾ハンケチで目隠しをして両の手で首を載のせる台を探すような風情に見える。首を載せる台は日本の薪割台ぐらいの大きさで前に鉄の環が着いている。台の前部に藁が散らしてあるのは流れる血を防ぐ要慎と見えた。背後の壁にもたれて二三人の女が泣き崩くずれている、侍女ででもあろうか。白い毛裏を折り返した法衣を裾長く引く坊さんが、うつ向いて女の手を台の方角へ導いてやる。女は雪のごとく白い服を着けて、肩にあまる金色の髪を時々雲のように揺ゆらす。ふとその顔を見ると驚いた。眼こそ見えね、眉の形、細き面、なよやかなる頸の辺あたりに至いたるまで、先刻見た女そのままである。思わず馳寄ろうとしたが足が縮んで一歩も前へ出る事が出来ぬ。女はようやく首斬り台を探り当てて両の手をかける。唇がむずむずと動く。最前男の子にダッドレーの紋章を説明した時と寸分違わぬ。やがて首を少し傾けて「わが夫ギルドフォード・ダッドレーはすでに神の国に行ってか」と聞く。肩を揺り越した一握の髪が軽くうねりを打つ。坊さんは「知り申さぬ」と答えて「まだ真の道に入りたもう心はなきか」と問う。女屹として「まこととは吾と吾夫の信ずる道をこそ言え。御身達の道は迷いの道、誤りの道よ」と返す。坊さんは何にも言わずにいる。女はやや落ちついた調子で「吾夫が先なら追いつこう、後ならば誘うて行こう。正しき神の国に、正しき道を踏んで行こう」と云い終って落つるがごとく首を台の上に投げかける。眼の凹んだ、煤色の、背の低い首斬り役が重た気げに斧をエイと取り直す。余の洋袴の膝に二三点の血が迸ると思ったら、すべての光景が忽然と消え失うせた。
ちょっと長い引用でしたが、漱石の描写力って、やっぱりすごいなあと思います。
眼の前に、情景がうかんできませんか?
イギリスに行くなら、漱石の「倫敦塔」は絶対読んでおきたい本ですよね。
さて、この壮絶な物語を舞台にするとなると、「マリー・アントワネット」ばりの悲惨さになりそう。
イギリスのこのあたりの歴史って、本当に血まみれだから、帝劇の「エリザベス」も結構しんどくなりそうですよね。
チケット取るかどうか、悩みます。
ちなみに、ジェーン・グレイの夫の弟が、ロバート・ダドリー。
「エリザベス」では、育三郎君が演じるエリザベスの恋人。
反逆者の弟を恋人にするんだ。
「リチャード三世」とか、「ヘンリー六世」の時も苦労しましたが、イギリスの歴史ってどうなっているのか、やっぱり、理解できません。
ケイト・ブランシェットの「エリザベス」を見直して、予習してみようかな?
でも、そのロジャー、堀北真希ちゃんの「9日間の女王」では、主人公ジェーン・グレイの家庭教師兼ストーリー・テラーとして上川隆也さんが演じます。
エリザベスもジェーンも、ヘンリー8世の6番目の妻、キャサリン・パーのもとに引き取られて教育を受けていた時代があって、そこで同じ家庭教師に就いていたという理解でいいのかな?
堀北真希ちゃん演じるジェーン・グレイって、ドラローシュの「ジェーン・グレイの処刑」のジェーン・グレイです。
あのぞっとするような絵。
中野京子さんの「怖い絵」でも取り上げられていますが、夏目漱石の「倫敦塔」の中でも、幻想的に描かれています。
(中野さんの記述は、漱石を参考にされているのかな?)
気味が悪くなったから通り過ぎて先へ抜ける。銃眼のある角を出ると滅茶苦茶に書き綴つづられた、模様だか文字だか分らない中に、正しき画で、小ちいさく「ジェーン」と書いてある。余は覚えずその前に立留まった。英国の歴史を読んだものでジェーン・グレーの名を知らぬ者はあるまい。またその薄命と無残の最後に同情の涙を濺そそがぬ者はあるまい。ジェーンは義父と所天の野心のために十八年の春秋を罪なくして惜気もなく刑場に売った。蹂躙じられたる薔薇の蕊しべより消え難き香かの遠く立ちて、今に至るまで史を繙く者をゆかしがらせる。希臘語を解しプレートーを読んで一代の碩学アスカムをして舌を捲かしめたる逸事は、この詩趣ある人物を想見するの好材料として何人の脳裏にも保存せらるるであろう。余はジェーンの名の前に立留ったぎり動かない。動かないと云うよりむしろ動けない。空想の幕はすでにあいている。
アスカムの名前も、ここにちゃんと書いてありました。
興味がないと、つい、読み飛ばしてしまうところです。
この後の漱石の幻視は、ドラローシュの絵をもとにしているのがよくわかります。
気がついて見ると真中に若い女が坐っている、右の端はじには男が立っているようだ。両方共どこかで見たようだなと考えるうち、瞬くまにズッと近づいて余から五六間先ではたと停とまる。男は前に穴倉の裏で歌をうたっていた、眼の凹んだ煤色をした、背の低い奴だ。磨ぎすました斧を左手に突いて腰に八寸ほどの短刀をぶら下げて身構えて立っている。余は覚えずギョッとする。女は白き手巾ハンケチで目隠しをして両の手で首を載のせる台を探すような風情に見える。首を載せる台は日本の薪割台ぐらいの大きさで前に鉄の環が着いている。台の前部に藁が散らしてあるのは流れる血を防ぐ要慎と見えた。背後の壁にもたれて二三人の女が泣き崩くずれている、侍女ででもあろうか。白い毛裏を折り返した法衣を裾長く引く坊さんが、うつ向いて女の手を台の方角へ導いてやる。女は雪のごとく白い服を着けて、肩にあまる金色の髪を時々雲のように揺ゆらす。ふとその顔を見ると驚いた。眼こそ見えね、眉の形、細き面、なよやかなる頸の辺あたりに至いたるまで、先刻見た女そのままである。思わず馳寄ろうとしたが足が縮んで一歩も前へ出る事が出来ぬ。女はようやく首斬り台を探り当てて両の手をかける。唇がむずむずと動く。最前男の子にダッドレーの紋章を説明した時と寸分違わぬ。やがて首を少し傾けて「わが夫ギルドフォード・ダッドレーはすでに神の国に行ってか」と聞く。肩を揺り越した一握の髪が軽くうねりを打つ。坊さんは「知り申さぬ」と答えて「まだ真の道に入りたもう心はなきか」と問う。女屹として「まこととは吾と吾夫の信ずる道をこそ言え。御身達の道は迷いの道、誤りの道よ」と返す。坊さんは何にも言わずにいる。女はやや落ちついた調子で「吾夫が先なら追いつこう、後ならば誘うて行こう。正しき神の国に、正しき道を踏んで行こう」と云い終って落つるがごとく首を台の上に投げかける。眼の凹んだ、煤色の、背の低い首斬り役が重た気げに斧をエイと取り直す。余の洋袴の膝に二三点の血が迸ると思ったら、すべての光景が忽然と消え失うせた。
ちょっと長い引用でしたが、漱石の描写力って、やっぱりすごいなあと思います。
眼の前に、情景がうかんできませんか?
イギリスに行くなら、漱石の「倫敦塔」は絶対読んでおきたい本ですよね。
さて、この壮絶な物語を舞台にするとなると、「マリー・アントワネット」ばりの悲惨さになりそう。
イギリスのこのあたりの歴史って、本当に血まみれだから、帝劇の「エリザベス」も結構しんどくなりそうですよね。
チケット取るかどうか、悩みます。
ちなみに、ジェーン・グレイの夫の弟が、ロバート・ダドリー。
「エリザベス」では、育三郎君が演じるエリザベスの恋人。
反逆者の弟を恋人にするんだ。
「リチャード三世」とか、「ヘンリー六世」の時も苦労しましたが、イギリスの歴史ってどうなっているのか、やっぱり、理解できません。
ケイト・ブランシェットの「エリザベス」を見直して、予習してみようかな?