3/20に、京都府与謝郡与謝野町にある加悦SL広場で展示中の旧京都市電 狭軌1形、旧東急サハ3100形、旧南海モハ1201形を撮りました。
1枚目は、駐車場の一角に展示されていた旧京都市電23号車(ただし、表記は5号車)です。
2枚目は、国道176号線の側から撮った23号車です。
背後の建物が木造駅舎で、展示中のキハ10-18も写っています。
3枚目は、カフェトレイン蒸気店に改造されていた旧東急サハ3104を駐車場側から撮りました。
カフェトレイン蒸気店は2018年9月に閉店されていました。
4枚目は、サハ3104と連結されている旧南海モハ1202です。
カフェトレイン蒸気店の客室として利用されていたと思われます。
5枚目の左側はサハ3104、右側はモハ1202で、野田川親水公園の側から撮りました。
京都市電 狭軌1形は、1895(明治28)年に日本初の営業用電車を走らせた京都電気鉄道が開業し、1961(昭和36)年に廃止された京都市電 北野線で使用されていました。
京都電気鉄道は1918(大正7)年に京都市に合併され、狭軌用の旅客車両133両も引き継がれました。
京都市電は標準軌で元々1形が存在したため、引き継がれた車両は車体番号にNを付けてN1~N133として区分されて狭軌1形となりました。
通称N電の愛称は、これに由来するようです。
市営化後は市営路線と重複する区間の整理され、狭軌路線の標準軌への拡幅が順次行われて、最終的に北野線だけが狭軌で残りました。
狭軌1形も順次、引退して最終的に28両が残り、1955(昭和30)年に1~28号に整理、改番されました。
1961(昭和36)年の北野線廃止により、1911(明治44)年に製造された23号車はオープンデッキスタイルに復元されて5号車と表記を変え、宝塚ファミリーランドに譲渡されました。
2003年に宝塚ファミリーランドが閉園され、加悦SL広場に再譲渡されていました。
旧東急サハ3100形は、1925(大正14)年に東京横浜電鉄(現在の東急 東横線)の開業時にデハ100形として製造されました。
竣工直後に目黒蒲田電鉄(後の東急 目蒲線)に譲渡され、当初は東京横浜電鉄の車両として使用されなかったそうです。
翌年に目黒蒲田電鉄で同型車が増備され、1927(昭和2)~1928(昭和3)年に東京横浜電鉄に再譲渡されています。
同社が合併を重ねる過程でモハ100形、モハ3100形に改称されています。
1957(昭和32)年に昇圧準備のため12両のモハ3100形の内、9両がサハ3100形に改造されました。
サハ3100形は、1966(昭和41)~1970(昭和45)年に東急から引退しました。
サハ3104は、1969(昭和44)年に加悦鉄道に譲渡され、当初は客車としてラッシュ時に牽引されて運用されました。
3年程で運用を外れ、1975(昭和50)年に側面を撤去するなど大改造を受け、休憩所として使用されてました。
1966(平成7)年の移転に伴い、加悦SL広場でカフェトレイン蒸気屋に改造されていました。
旧南海1201形は、1934(昭和9)年~1943(昭和18)年に車体長18m級の中型の汎用車として登場しました。
製造時期が長かったため途中で仕様の変更もありましたが、当時の新製車は側面の窓は2段上昇式でした。
しかし、戦災復旧車は1段下降窓の戦時形車体となって大きくスタイルが変更されました。
系列の出力強化型のモハ1551形、制御車クハ1901形への改造、モハ1201形への復帰など車両履歴もかなり複雑だったようです。
1971(昭和46)年の昇圧に伴い、モハ1201形とその系列車両は昇圧工事対象とならず引退し、一部は地方私鉄に譲渡されました。
一方、600Vのまま残ることとなった貴志川線(現在の和歌山鐡道)用にモハ1201形10両が転属しました。
1986(昭和61)~1987(昭和62)年にて車体整備工事が実施され、前照灯のシールドビーム化、車両番号を貫通扉部に取り付けるなどの外観も変わりました。
1995年には貴志川線近代化のために2270系と置き換えられて全車引退しました。
モハ1202は、1933(昭和8)年に製造され、1971(昭和46)年に貴志川線に移籍し、1995年に加悦SL広場に譲渡されました。
3月末で閉園した加悦SL広場に展示されていた車両の紹介を長々と続けていましたが、今回で終わります。
地方の展示施設としては多くの車両を保存し、文化財や動態保存車両を多く展示していた加悦SL広場の閉園は非常に残念です。
1両での多くの車両が、他の施設で保存が継続されることを祈ります。
1枚目は、駐車場の一角に展示されていた旧京都市電23号車(ただし、表記は5号車)です。
2枚目は、国道176号線の側から撮った23号車です。
背後の建物が木造駅舎で、展示中のキハ10-18も写っています。
3枚目は、カフェトレイン蒸気店に改造されていた旧東急サハ3104を駐車場側から撮りました。
カフェトレイン蒸気店は2018年9月に閉店されていました。
4枚目は、サハ3104と連結されている旧南海モハ1202です。
カフェトレイン蒸気店の客室として利用されていたと思われます。
5枚目の左側はサハ3104、右側はモハ1202で、野田川親水公園の側から撮りました。
京都市電 狭軌1形は、1895(明治28)年に日本初の営業用電車を走らせた京都電気鉄道が開業し、1961(昭和36)年に廃止された京都市電 北野線で使用されていました。
京都電気鉄道は1918(大正7)年に京都市に合併され、狭軌用の旅客車両133両も引き継がれました。
京都市電は標準軌で元々1形が存在したため、引き継がれた車両は車体番号にNを付けてN1~N133として区分されて狭軌1形となりました。
通称N電の愛称は、これに由来するようです。
市営化後は市営路線と重複する区間の整理され、狭軌路線の標準軌への拡幅が順次行われて、最終的に北野線だけが狭軌で残りました。
狭軌1形も順次、引退して最終的に28両が残り、1955(昭和30)年に1~28号に整理、改番されました。
1961(昭和36)年の北野線廃止により、1911(明治44)年に製造された23号車はオープンデッキスタイルに復元されて5号車と表記を変え、宝塚ファミリーランドに譲渡されました。
2003年に宝塚ファミリーランドが閉園され、加悦SL広場に再譲渡されていました。
旧東急サハ3100形は、1925(大正14)年に東京横浜電鉄(現在の東急 東横線)の開業時にデハ100形として製造されました。
竣工直後に目黒蒲田電鉄(後の東急 目蒲線)に譲渡され、当初は東京横浜電鉄の車両として使用されなかったそうです。
翌年に目黒蒲田電鉄で同型車が増備され、1927(昭和2)~1928(昭和3)年に東京横浜電鉄に再譲渡されています。
同社が合併を重ねる過程でモハ100形、モハ3100形に改称されています。
1957(昭和32)年に昇圧準備のため12両のモハ3100形の内、9両がサハ3100形に改造されました。
サハ3100形は、1966(昭和41)~1970(昭和45)年に東急から引退しました。
サハ3104は、1969(昭和44)年に加悦鉄道に譲渡され、当初は客車としてラッシュ時に牽引されて運用されました。
3年程で運用を外れ、1975(昭和50)年に側面を撤去するなど大改造を受け、休憩所として使用されてました。
1966(平成7)年の移転に伴い、加悦SL広場でカフェトレイン蒸気屋に改造されていました。
旧南海1201形は、1934(昭和9)年~1943(昭和18)年に車体長18m級の中型の汎用車として登場しました。
製造時期が長かったため途中で仕様の変更もありましたが、当時の新製車は側面の窓は2段上昇式でした。
しかし、戦災復旧車は1段下降窓の戦時形車体となって大きくスタイルが変更されました。
系列の出力強化型のモハ1551形、制御車クハ1901形への改造、モハ1201形への復帰など車両履歴もかなり複雑だったようです。
1971(昭和46)年の昇圧に伴い、モハ1201形とその系列車両は昇圧工事対象とならず引退し、一部は地方私鉄に譲渡されました。
一方、600Vのまま残ることとなった貴志川線(現在の和歌山鐡道)用にモハ1201形10両が転属しました。
1986(昭和61)~1987(昭和62)年にて車体整備工事が実施され、前照灯のシールドビーム化、車両番号を貫通扉部に取り付けるなどの外観も変わりました。
1995年には貴志川線近代化のために2270系と置き換えられて全車引退しました。
モハ1202は、1933(昭和8)年に製造され、1971(昭和46)年に貴志川線に移籍し、1995年に加悦SL広場に譲渡されました。
3月末で閉園した加悦SL広場に展示されていた車両の紹介を長々と続けていましたが、今回で終わります。
地方の展示施設としては多くの車両を保存し、文化財や動態保存車両を多く展示していた加悦SL広場の閉園は非常に残念です。
1両での多くの車両が、他の施設で保存が継続されることを祈ります。