アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

冥想道手帳 ダンテス・ダイジ-5

2023-02-08 03:33:13 | ダンテス・ダイジの風光

◎現象界即神界の遊戯三昧

 

冥想道手帳〔知的理解の冥想〕の続き

『[霊界]

 

ここには、どのような制約もなく、それぞれの仮現したルールにしたがって霊的イメージという現象宇宙の原型を作り出している。

ここには、天使も悪魔も、天国も地獄もある。

 

現象界のすべては、霊界の中にあるイデアが表現されたものであり、ここには、すべての現象宇宙の出来事が貯蔵されている。

心理的に言えば、集合的無意識に相当する。一切の超自然的現象や超能力が発現する場所である。

 

カルマ・輪廻転生・先祖霊・守護霊が作用する世界であり、人間の本質的個別性が死んでから帰る世界でもある。

 

分断された自我意識を形成する原動力になっている霊的境域を地獄と言い、宇宙的愛そのものなる神界からのヴァイヴレーションによって成り立っている霊的境域が天国と呼ばれる。

 

冥想は、冥想者を、最終的には神界の住人にせしめる。神のみが実在だからだ。

 

そして自己の神性を自覚した人間は、霊界の中に神的な霊的原型を形成し、それが、現象界即神界の遊戯三昧を実現することとなる。

般若心経の色即是空、空即是色ということである。「空」とは神界のことであって、 断じて空々寂の空ではない。

 

「空」あるいは「絶対無」とは、これを情的に表現すれば、「愛」そのもの、「自由」そのものにほかならない。』

(冥想道手帳 MEDITATION WAY MEMOダンティス・ダイジから引用)

 

ここは、結構思い切ったことが書いてある。霊界とは現実を構成していく元となる原型イデアだとか、空とは空々寂の空ではなく、ニルヴァーナの属性の一つである愛あるいは自由である、など。

 

霊界には、天使も悪魔も地獄も天国もあって、やがて現実に実現していく元のイデアの世界が霊界。プラトンのイデアとは、永遠不壊というイメージだが、その点には言及していない。永遠不壊は、七つの身体で言えば、第六身体アートマンだが、宇宙、世界、過去現在未来のすべてを含むアートマンにイデア界ありと見れば矛盾はないか?

ただし個別霊の世界は、コーザル体、メンタル体、アストラル体、エーテル体であり、ダンテス・ダイジの言うところの霊界とは、第六身体アートマン以下を総称しているようにも思う。

 

『カルマ・輪廻転生・先祖霊・守護霊が作用する世界であり、人間の本質的個別性が死んでから帰る世界でもある。』ここは、人間Aが輪廻転生すれば、人間Aとして再誕するのでなく、人間A`として再誕するという彼の見方において、人間の本質的個別性を仮に人間Aと見ているのだろうと思う。また人間の本質的個別性が帰って行く世界はチベット死者の書などによれば、神(原初の光)である。

 

さらにカルマ・輪廻転生・先祖霊・守護霊が作用する世界とは、コーザル体以下なのだろうが、そうであれば、それらに永遠不壊の属性はなく、この点でダンテス・ダイジはどういうつもりで霊界を定義したのかわからないところがある。

 

分断された自我意識はどこから来るかと言えば、えり好み、多様な価値観から来るものであるし、見ている自分が最後まで残るところから来るとも言える。事程左様に、地獄的でなく天国を志向するというのは、現代人の生活と意識からすると簡単なことではない。

 

一方宇宙的愛を実現しようとすれば、天国と地獄の結婚を経て大悟せねばならない。天国を生きるハードルは結構高い。

そして天国と地獄の結婚を経れば、最終的には人は神界の住人として生きる(諸悪莫作衆善奉行)。

 

『自己の神性を自覚した人間は、霊界の中に神的な霊的原型を形成し、それが、現象界即神界の遊戯三昧を実現する』とは、類似のことを言っている人が他になく、確かめるすべがない。ただ、人は悟りを開いて、悟りに生きるということを言っているようだぐらいのことしかわからない。

 

そして、現象界即神界の遊戯三昧とは、色即是空、空即是色と言ってのけているが、これは自分が悟って追体験せねばその感じはわからないのだろう。

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冥想道手帳 ダンテス・ダイジ-4

2023-02-07 03:51:12 | ダンテス・ダイジの風光

◎あらゆるものと一体である現象人間

 

冥想道手帳〔知的理解の冥想〕の続き

『[現象界]

 

生老病死苦・愛憎・快苦の人間自我が編み出した妄想世界である。顕在意識と潜在意識に相当する。

 

迷える君は、この仮象なる世界を唯一の現実と見て、時に、権力欲に酔い痴れ、時に、疲れ果てて不安におののく。

 

この宇宙では、いつも君は一人ぽっちだ。 君は、一人ぽっちの空虚さから逃げるために有意義な活動と称するようなことをしようとがんばり、そしてまた空虚さにある自分に気づく。

 

冥想体験は、君に現象世界の夢幻性を自覚させ、現象を越えたあたりまえの自分自身から、現象界を最高に素適な修行場兼戯れの場 へと変容せしめる。

 

君は一人ぽっちであると同時に、あらゆるものと一体である現象人間を生き始める。』

(冥想道手帳 MEDITATION WAY MEMOダンティス・ダイジから引用)

 

三つある宇宙とは、現象界、霊界、神界。それぞれの説明は、それぞれ独立した世界において悟りがあり得ることを示している。

 

現象界とは、生老病死苦・愛憎・快苦に翻弄される常識的な心理にある人間の生きる世界。

 

自分の願望、社会における自己実現を最優先に考えがちな自分は、うまく行っている時は、金や異性や権力の甘みに溺れ、うまくいかない時は、無駄なあがきを繰り返し疲れ果てて不安におののく。現象界を世界の唯一のものと考えれば、必ずそう思うものだ。

 

現象世界は、少々の天国的なものとほとんどの地獄的なものであると思い込んだ我々に、ここで、突然『冥想体験は、君に現象世界の夢幻性を自覚させ、現象を越えたあたりまえの自分自身から、現象界を最高に素適な修行場兼戯れの場 へと変容せしめる。』などとハッピーエンドを語る。

 

この冥想体験とは悟りであって、未悟の者の冥想修行で起きるいろいろな状況のことではない。

ただし一般に、禅では、

(a)現象世界の夢幻性の自覚と

(b)現象を越えたあたりまえの自分自身から、現象界を最高に素適な修行場兼戯れの場 への変容

が一度に起きるが、密教などクンダリーニ・ヨーガ系では、(a)(b)が徐々に起こるという違いがある。

 

『修行場兼戯れの場』という表現は、既に神が神を神しているという状況だが、そこに『修行場兼戯れの場』と言える見方もありえるということだろう。

 

ここで、大悟覚醒は成ったが、『君は一人ぽっちである』と透徹した孤独感があることを示し(世界が自分だから、世界には一人しかいないからか?)、『あらゆるものと一体である現象人間を生き始める』

と、世界が自分であるという逆転を語る。ここで現象人間の悟りに至る道筋を説いている。

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冥想道手帳 ダンテス・ダイジ-3

2023-02-06 03:12:37 | ダンテス・ダイジの風光

◎知的理解の冥想

 

冥想道手帳の続き

『〔知的理解の冥想〕

 

どういうわけか、君は、生きる苦しみ、病気の苦しみ・老衰する苦しみ、死ぬ苦しみを持つ人間であると自分のことを思い込んでいる。

 

夢にも見たことのない素適な宇宙に君は、 今いるのに。

今ここで、君の知性を全身全霊の情熱を こめてフル回転させてみればいい。君は、

人間知性の絶対的限界を知る。そして、その絶対的限界の恐怖の中で、君は、君が、もともとなかったことに気づくだろう。その時、君は、夢にも見たことのない素適な宇宙である自分自身になっている。

 

君自身は、愛そのものだ。始めも終りもありはしない。

 

君は死なねばならない。妄想である君が死んだところに素適極まりない宇宙が悟りを開く。もっとも、その時には開かれるような悟りなぞ、どこにもありはしない。

 

君こそが、愛そのもの、人間そのものとしてあるのだから。

 

冥想修行は、君を次の三つの宇宙を旅せしめる。宇宙が三つもあるものかといって大笑いする不死身の君には、この先を読む必要はあるまい。火星で酒でも飲んでいたらいい。』

(冥想道手帳 MEDITATION WAY MEMOダンティス・ダイジから引用)

 

人には、必ず生老病死があるものだと信じ、そのとおりに生きていることが多い。だが、全然そんなことはなく、目くるめく素適な宇宙に君は今いる、とショックを与える。

 

人間知性の絶対的限界の典型は、哲学の極みや禅の公案

代表的な公案に次の無字の公案がある。

『弟子が趙州禅師に「犬に仏性がありますか?」と質問をぶつけた。

趙州「無」。』

なぜそういう回答になるのかを何時間も何日も、知性を全身全霊の情熱をこめてフル回転させてみれば、人間知性の絶対的限界を知る。

その絶対的限界の恐怖の中で、自分が、もともとなかったことに気づく。本来の自己という、夢にも見たことのない素適な宇宙にいたことに気づくのだ。

 

それは、第六身体アートマンかもしれないし、人によってはその先の第七身体ニルヴァーナに届くかもしれない。

 

ここで唐突に『君自身は、愛そのものだ。』~『君こそが、愛そのもの、人間そのものとしてあるのだから。』と愛について語っている。

ここまでは、悟っていない人が知性によりどのように悟って行くかを実地に具体的に述べてくれているところであり、とても貴重な語りの部分。

ところが、悟りを開くのは宇宙であって自分ではない。自分が悟りを開くわけではない。(自分が宇宙となるという、体験とは言えない体験。)

 

最近非二元、ノンデュアリティを語る人が多いが、自分が死なない非二元、ノンデュアリティはあり得ない。自分の死を語らない非二元、ノンデュアリティは偽物。※自分の死とは自殺のことではない(念のため)。

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冥想道手帳 ダンテス・ダイジ-2

2023-02-05 03:19:58 | ダンテス・ダイジの風光

◎一宗一派の中に冥想がある時代は終わった

 

冥想道手帳の続き

『【理解】

 

〔猫も杓子も冥想道〕

冥想が特別な何かである時代は終った。冥想即人間こそあたりまえの人間の姿だ。

猫もシャクシも冥想を生きている。僕も君も冥想を生きている現在なのだから。

 

一宗一派の中に冥想がある時代は終わった。冥想の中にあらゆる流派があるのだ。

 

だから冥想道である。茶道、華道、武道、

香道などと同様に冥想道があるわけだ。

 

やがては、学校教育の中にも、体育の授業があるように冥想道の授業が行なわれることになろう。

 

宗派や教義やカリスマによる時代は終った。冥想道は、宗教でも信仰でもドクトリンやイデオロギーでもない。冥想道は、神なる人間のあるがままの営為である。

 

ある日、イエス・キリストが救世主の再臨なる使命をになって君達の前に現れる。

それまで馬鹿騒ぎをしていた君は、まったく無雑作にこのキリストに向って言うだろう。

「イエス君、そう深刻そうなかたいことを言うなよ。この世に救世主でないものなんか何一つないんだよ。」

 

それで、イエス・キリストは、君達の馬鹿騒ぎに加わって、ソーマ酒に舌づつみをうつことだろう。至福千年の一つの姿は、こんなものである。

 

釈迦という大嘘つきが世に出て来ては

世の人々を惑わするかな』

(冥想道手帳 MEDITATION WAY MEMOダンティス・ダイジから引用)

 

就職して間もない頃の自分にとって、冥想は大切なものだという感覚はほのかにあったが、『冥想即人間こそあたりまえの人間の姿だ。』と大上段に振りかぶられてそれを受け止めることができるほど、自分と世界の冥想を取り巻く歴史や経緯と生き方のことを承知していたわけではなく、冥想即人間に取り組めるほどの心理的な余裕も時間的な余裕もなかった。

 

これが、悟り即人間でなく、冥想即人間と言っているところが意味深長。

 

『猫もシャクシも冥想を生きている。』とは、来るべき至福千年においてのことだが、先行する現代において、自分も悟りを開けば、それを実感できるということが言外に隠されている。自分も悟れば、現代においても『猫もシャクシも冥想を生きている。』のだ。

 

とかく宗教と言えば、やや狂気をまとった聖者がリードする宗教団体に加入して信仰活動するイメージを持ちがちだが、冥想道は、そうではない。『宗派や教義やカリスマによる時代は終った。冥想道は、宗教でも信仰でもドクトリンやイデオロギーでもない。』とは、「冥想により悟りを開いて神を生きる人々が生きることがそのまま宗教である」と言っているに過ぎない。

 

要するに万人が最低でも神を見たり、仏を見たり、本来の自己に出会ったりするという体験とはいえない体験を経ている人々の時代の様を、ここで描いている。未来予言風に書いていないのは、現代において一人でも多く悟りを開いた人を出したいからなのだろう。

 

最後のイエス・キリストが友人達と馬鹿騒ぎをするくだりは、救世主は事実友人として出現するだろうということ。イエス・キリストが弟子たちの足を洗った故事の伏線をここで回収するのである。

 

またダンテス・ダイジには、アトランティス末期の言行録の救世主入門という本もあるが、それも連想される。

 

文末の『釈迦という大嘘つきが世に出て来ては 世の人々を惑わするかな』の歌は、一休宗純の『釈迦といういたずら者が世に出でて おほくの人を迷わするかな』を意識したもの。

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冥想道手帳 ダンテス・ダイジ-1

2023-02-04 03:36:50 | ダンテス・ダイジの風光

◎あくせくするのをやめたほうがいい

 

『冥想道手帳 MEDITATION WAY MEMOダンティス・ダイジ』は、極く初期の弟子たちは持っていることがあるかもしれない、実践的冥想マニュアル。

 

私が最初に読んだときは、内容がぶっ飛び過ぎていて、あまり実際のメルクマールとしては使えないと思った。その後何年かに一度手に取ることはあったが、自分が大悟覚醒にそれほど近いとも思えなかったこともあり、内容についてあまり実際のこととして受け止めることはなかった。

 

冥想道手帳は、前半が理論の説明であって、後半が、呼吸法、マントラ、経文などの実践項目が列挙されていて、まさに冥想修行者が必携すべきメニューになっている。

 

ただし、理論編は、各人が見性、見仏、見神を経たいわゆる覚醒経験者であることを求めており、さらに地球以外での転生も想定内みたいな雰囲気のことも書かれてあって、いわゆる初心者用冥想マニュアルとして軽い気持ちで友人に紹介できるような内容のものではなかった。

 

最近七チャクラの意味についてまとめてみようとダンテス・ダイジ本を眺めていたら、冥想道手帳にその重要なヒントとなる内容があったことを発見した。たまたま冥想道手帳は、ネット未公開と思われるので、これを機会に紹介してみたい。

 

『冥想道手帳

 MEDITATION WAY MEMO

ダンティス・ダイジ

 

君の自分勝手な努力によって

絶対そのものに

到達しようとするなら

永遠の時間も短すぎる

誰れかが

絶対そのものに到達したためしはない

 

君の絶望そのものが

すでに君が

絶対そのものであることをしめしている

 

あくせくするのをやめたほうがいい

人間である君のすることなぞ

みんなガラクタばかりではないか

 

ダンティス・ポセイダン・アメンティー

アトランティス末期の説法より』

(冥想道手帳 MEDITATION WAY MEMOダンティス・ダイジから引用)

 

これは、前文にあたる部分。

悟りは、人が到達するようなものではないから、誰も絶対(悟り)に到達したような者はいないと述べる。

人は真剣な絶望により絶対(悟り)に到達する。

 

さて1万2千年前、突如大陸が沈降して滅んだアトランティス文明を受けて、この近代西欧文明が勃興し、興隆し、滅亡して、至福千年の時代を迎えるわけだが、アトランティス文明滅亡前夜に、かの地の伝道チームが世界に散って、アトランティスの神的文明の精華を伝えると同時に、現代に起こる近代西欧文明の終焉と新たな苦しみも悲しみも叫びもない時代の到来を神話や古伝承などの形で予言した。それを意図したアトランティスである。

ダンテス・ダイジは、アトランティス末期の中心的覚者の一人だった。

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ダンテス・ダイジの七転生を探る

2022-10-13 18:12:59 | ダンテス・ダイジの風光

◎レムリアの愛人ナツノからスタート

 

それが他の人にとって意味のあることとも思えないが、ダンテス・ダイジは、地球では七転生と見られる。

 

最初はアトランティス以前のレムリア時代の4万8千年前のムー大陸。肉体はケンタウロスの外形であって、ナツノという名の高級娼婦として生きた。彼女は、聖王トースの何人かいる愛人の一人であって、トースはなかなか戻って来てはくれなかったし、ナツノ自身も覚醒してはいなかった。

 

アトランティスは3期あるそうだが、最初のアトランティスでは、悟りを求める求道者として一回。

アトランティス末期では、アトランティス密教の奥殿アメンティの13番目の超人として一回。ダンテスはこの当時の名前。

この時最後はアトランティス沈没直前にエジプトに脱出する。ギリシアも訪問する。

 

インドでクリシュナとして一転生。クリシュナはインド神話やバガバッド・ギータなどに広く登場。

 

中国唐代に一転生かも。

 

そして20世紀日本に一転生。布教期間は10年程度。彼を知っている人もまだ存命。

 

最後は21世紀にフロリダのビミニ沖に再浮上するネオ・アトランティスに出現予告(没後20年以上たっているから予告なのかどうか)。

 

これで合計7回。

 

中国での転生については、彼は中国では如意という名を用いているから私がそう思っているだけかもしれない。

 

日本の古神道では野立彦と彼は呼ばれているが、20世紀以前に彼の日本での転生があったわけではない。野立彦は、霊界物語の三神系の重要な役回りで登場してくるものの20世紀以前に日本での転生はなかった。

野立彦とはNODATEであり言霊返しするとこれはDANTEに返るのでダンテスに連なる。

 

聖者には2系統あり、まじめで組織引き締めタイプと遊び戯れるタイプ。彼は後者であり、後者に属するのは、荘子、一休、空海(あれだけ超能力使いまくるのは戯れの極み)、OSHOバグワン(コミューンを作ったが、信者ファーストで指導したという感じでもなかったような印象を受ける)、そしてダンテス・ダイジなどがいる。

 

ダンテス・ダイジは、自らの立ち位置を、ニルバーナの化身であり、全体性の至上の天国と極悪の地獄を自由自在に戯れるものと位置づけ、自分は神と悪魔とを止揚した「人間」だとする。

 

こういうことを言うと一般にはおどろおどろしい印象を与えるばかりでメリットは少ないし、かつまたこれが何を意味しているかを理解できる人間は、極めて少ない。

 

そしてダンテス・ダイジは、『すべてのものが、「愛」の流れの中で調和している世界こそ黄金文明である』と愛を中心に据えるが、あまりにも現代の諸相は愛から遠ざかってしまった。

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ダンテス・ダイジの教えの全貌-4

2022-10-11 06:58:29 | ダンテス・ダイジの風光

◎古神道

 

ダンテス・ダイジと古神道の関わりと言えば、出口王仁三郎だが、あまり見えにくい。彼は、大本教の短期セミナーに参加し、立替立直しを学び、鎮魂帰神も学んだことがあるらしい。

 

霊界物語に三神系という主要神の系図があるが、その中の野立彦神こそダンテスであるという説明も自らしている。古神道の言霊では、返しというのがあり、NODATEはDANTEに返るのだろうか。

 

彼の冥想道手帳に次のものが入っている。

1.天の数歌

 「一 二 三 四 五 六 七 八 九 十 百 千 万」

(読み:ひと ふた み よ いつ むゆ なな や ここの たり もも ち よろづ )

天の数歌を唱えれば、あの世もこの世もまとめて修祓できる。

 

2.われもなく現世(うつしよ)もなくただ一人神の御前(みまえ)に平伏(ひれふ)しをろがむ

(出口王仁三郎/大本の道 第6章 祭─惟神の大道に所載)

 

3.大本宣伝歌

 「朝日は照るとも曇るとも

月は満つとも欠くるとも

たとへ大地が沈むとも

まがつの神がすさぶとも

誠の力は世を救う

 

三千世界の梅の花

一度に開く神ののり

開いて散りて実を結ぶ

月日と土の恩を知れ

 

この世を救う生神(いきがみ)は

高天原(たかあまはら)に神集(かむつど)う

 

神がおもてに現われて

善と悪とを立て別(わけ)る

 

この世を創(つく)りし神直日(かむなほひ)

心も広き大直日(おほなほひ)

ただ何事も人の世は

直日に見直せ聞直せ

身のあやまちは宣(の)り直せ。

 

ああかんながらかんながら

たまちさちはえましませよ」

 

世界全体の立替立直しが発生し、誠の力により、善なる者だけが次のみろくの世に残っていくことを宣伝している。

 

4.冥想道手帳ではないが、「われは空行く鳥なれや」の歌を大変気に入っていて、揮毫などしていた。

この歌は、出口王仁三郎が高熊山の一週間修行で大悟した際に詠んだ歌。まるでダンテス・ダイジ自身が出口王仁三郎になったかのような心酔ぶりである。

『我は空行く鳥なれや

○○○○○○○○○○(原文のママ)

遥に高き雲に乗り

下界の人が種々(くさぐさ)の

喜怒哀楽に囚はれて

身振足振りする様を

我を忘れて眺むなり

 

実げに面白の人の世や

されどもあまり興に乗り

地上に落つる事もがな

み神よ我れと倶(とも)にあれ』

 

ダンテス・ダイジは、出口王仁三郎の古神道とのかかわりについてあまり言及していないかに見えるが、本田親徳、出口王仁三郎と続く日本近代の神業に密接にかかわっていたことは疑いもないと思われる。

 

だが、弟子たちに大本教に入信せよなどと指示した例は聞かない。その辺は、大本教との関わりについては距離を置いていた印象がある。

 

私も最近でこそ、出口王仁三郎の事績や大本教の歴史や概要についていささか承知しているが、1970年代においては、ネットもなく、さほど情報を集めることもできなかった。

 

ただしダンテス・ダイジが、殊更に日本に出現し、かつ出口王仁三郎に大いに関心を寄せ、その鎮魂帰神の技と生き様に大いに感銘を受けていたことは、はっきりしている。ダンテス・ダイジは、社会性、特に政治方面には関わりは薄かったが、古神道に係る部分は例外的に霊的に関与していたと見るべきだろうと思う。ここはご神業であるがゆえに隠されている部分ではある。

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ダンテス・ダイジの教えの全貌-3

2022-10-11 06:57:25 | ダンテス・ダイジの風光

◎ソーマ・ヨーガ

 

求道者は、いつの時代も悟り薬を求める。何のために?

生きる苦悩と死の恐怖を超え、無上の歓喜を求めるために。

 

ダンテス・ダイジは、高弟の一人に対して、『死とは、水を張ったバケツから腕を引き抜くようなものだ。』と語ったそうだ。

 

薬物ジャングルの探検者ティモシー・リアリーが妙なことを書いている。ケタミンによって引き起こされる臨死体験に際して、『それを経験する者が誰もいないのに、宇宙の全情報が通り抜ける』のだそうだ。これは、例の『体験とは言えない体験』の別の表現である。

 

『ケタミンが引き起こす遊体離脱体験はしばしば浮遊感を伴い、トンネルを通り抜けている感じに近いという。またどんなに高用量のサイケデリック・ドラッグも自我の喪失感では、ケタミン投与にかなわない。それを経験する者が誰もいないのに、宇宙の全情報がどうやって通り抜けていくのか、それをR.U.シリアスは不思議に思ったという。ケタミン体験において死はとてもリアルだ。この世界と次の世界との間の薄い膜を肌で感じることができ、しかもそれは恐ろしくない。他のサイケデリック・ドラッグでの死で体験するようなパニック感が、ケタミンの場合には皆無だ。ケタミン体験の最中は、置き去りにしてきた世界のことがほとんど気にならない。』

(死をデザインする/ティモシー・リアリー/河出書房新社P220から引用)

 

このケタミン体験では、肉体に戻れない不安など毛ほどもないことが示される。水を張ったバケツから腕を引き抜くとは、そういう感じなのだろうか。

 

ヤキ・インディアンのドン・ファン・マトゥスに師事したカルロス・カスタネダは、ソーマ・ヨーガ(薬物冥想)を長年探求したが、そのほとんどの年月は、本番ともいうべき“飛び込む”時節までに、自分の関わってきたすべての人に別れを告げるなど、自分の準備に費やされた。

 

西洋錬金術書に“近道”というような表現が出てくることがある。近道として、ソーマ、向精神性薬物を一定量摂取さえすれば悟れるかといえば、決してそんなことはない。まず準備ができているかどうかが問われる。

 

富士山登山でも、八合目まではなんということはないが、それ以上になると低酸素により高山病を感じ、かなりの人が登山路にうずくまっていることに似る(田中陽希のTV番組グレートトラバース富士山)。

 

ソーマ・ヨーガと言えば、古代インドのベーダの昔から伝承され、その価値の奇天烈性は、漁師のおしっことして与えられたりすることで象徴される。

 

また準備が完全にできていなければ、似非サマディーなる見神見仏にとどまる。自分が死んではいないのだ。

 

1960年代から70年代にかけ、薬物規制のゆるかったカリフォルニアとメキシコを舞台に描かれた長編小説のカルロス・カスタネダのシリーズは、1980年代から90年代には日本でもよく読まれた。

 

どんな冥想でもそうだが、正しいグルのいないソーマ・ヨーガは危険である。クンダリーニ・ヨーガが危険とされるのと同様に。

 

ダンテス・ダイジのソーマ・ヨーガでは、常にドン・ファン・マトゥスが意識されていたのだろう。カルロス・カスタネダへの言及は多い。

只管打坐も含めたラージャ・ヨーガでは、常に先入観を壊す、先入観を排除するという修行も行われる。ソーマ・ヨーガでは、そこを飛び越えるがゆえに、それに耐えられるかどうかというポイントは常にある。

 

今の時代は、うつ病の蔓延により、向精神薬がどのようなものか実体験している人が多いが、治療の方向性は、社会人として適応させることに向かっているので、そもそもソーマ・ヨーガとは方向が異なる。

 

それでもアヤワスカにまともにチャレンジした藤本みどりのような人もいるので、危険をはらむトラップ付超特急のようなメソッドとしてソーマ・ヨーガはあり続ける。

 

そうやって成功せず討ち死にした無数の人もいることは、カルロス・カスタネダのシリーズに記載されているし、クンダリーニ・ヨーギ本山博が霊界で目撃したような人々の中にもいたのだろう。

 

道教の魏伯陽も弟子の準備ができているかどうかを確認するために毒薬をあおった。

 

ソーマは逃げないが、まずは自分の準備ができる時節を待たねばならない。だが時節が待ってくれるかどうかは、一生一回きりしかない我々にとっては心もとないものである。

 

ダンテス・ダイジのメディテーション・トラベル・ガイドには何篇かのソーマ・ヨーガをテーマにした詩があるが、その一部。

『素直であればいい

混乱や恐怖や不可解な中でも 

ただ素直であるしかない

天国だろうと地獄だろうと 

俺はあるがままでいるしかない

 

ドラッグ・ソーマの神は 

時にトリップ者を 

トリップの袋小路に誘い込む

 

それはトリップ者が 

耐えられるぎりぎりのトリックだ

 

そしてこの耐え難い 

トリックパズルを 

解くやり方は

 

素直であること 

それのみである

 

恐れるな

恐れにどんな根拠もない

 

今こそ 

君はすべてのすべてを見る 

君がすべてのすべてだ』

(メディテーション・トラベル・ガイド/ダンテス・ダイジ/ソーマ・パイロットの言葉から引用)

 

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ダンテス・ダイジの教えの全貌-2

2022-10-11 06:56:41 | ダンテス・ダイジの風光

◎まず否定はせず肯定するのが常だった

 

ダンテス・ダイジの著書『ニルヴァーナのプロセスとテクニック』に四つの章があり、マントラ禅、丹田禅、クンダリーニ・ヨーガ、只管打坐と四つの章が並んでいるので、たいていの人は、この四つの門が彼のメインの教えなのだろうと勘違いをする。

 

だが彼の裏主著というべき『老子狂言』では、老子という只管打坐系の覚者を看板に掲げてはいるが、悟ったままに遊ぶ、あるいは醒めたままで狂言するの如き、およそ社会性とは全く無縁の自分の運命を自由自在に生きる覚者の姿が次々と描かれている。

 

ダンテス・ダイジの弟子たちには、マントラ禅、丹田禅、クンダリーニ・ヨーガ、只管打坐をメインに修行した者たちが多いのだろうが、彼自身のエピソードを追ってみると、出口王仁三郎の古神道とヤキ・インディアンのドン・ファン・マトゥスのソーマ・ヨーガの影響も見え隠れする。

 

ダンテス・ダイジの基本姿勢は、誰か有名宗教家や他人の修行法について、まず否定はせず肯定するのが常だった。『それでも、いつかは窮極に至ることはできる』などと云って・・・・。真言立川流とか、宗教ではないが国家を邪境化する共産主義には否定的だったが、それは例外的である。

 

つまり彼は、その修行法が間違っていようが、彼の目からは誤った修行法に打ち込んでいる人も既に神であり、またそんな修行者も何生か後には大悟するという遠大なサイクルの下にそう言っているのだろうと想像される。

 

だがそういう姿勢は、邪教を世にはびこらせることを妨げないということにもつながっていく。ダンテスの悪影響としてそのことを自ら一章を割いて説明しているのだが、そのことですら、わかる人にはわかる類のことである。

 

かくして現代は、経済的利益と便利を求める罠に完全にはまったがゆえに、このcovid-19の先の視界に世界全面戦争が見え隠れすることになり、恐惶をきたしている人も増えつつある。ダンテスの悪影響なくば、次の至福千年の開花の全面性は完璧を期せなかったか。それは、あなたのせいではなく、ダンテスの悪影響のせいか。

 

『悟りのテクニシャン

 

私は宇宙のカラクリを

見抜くテクニシャン。

 

すべての道術家がそうであるように

私はこのテクニックに、

すべてをかけているつもりだ。

 

そして 

すべての答え——

私自身の愛と全智全能とを 

いくたびか知り

そして、それと合一した。 

 

が、

私は何も知らない。

尾骶骨が痛むように···』

(老子狂言/ダンテス・ダイジから引用)

 

ダンテスの悪影響とは、最後の

『が、

私は何も知らない。

尾骶骨が痛むように··』

のところですね。

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ダンテス・ダイジの教えの全貌-1

2022-10-11 06:55:44 | ダンテス・ダイジの風光

◎原典救世主入門の位置

 

ダンテス・ダイジが存命であれば、72歳。当時20代だった弟子たちも老いた。何千人かいた彼の知己の中で弟子とされるのは、その極く一部なのだろうが、それは布教の時期別に4グループに分かれているとされる。

 

彼は、その人一人の時、所、位に応じた教えというのを徹底していたがゆえに、彼の教えの全容は、そのすべてを知ることがない限りわからない、ということになる。

 

ダンテス・ダイジは、他心通、宿命通を用いて相談者の境遇と未来と過去を見抜き(相談者の守護霊がオレに報告しにくる、などと説明していた)、すこぶる親身に相談者にアドバイスをしていた。それは、布教などというものではなく、本当に親切な人生相談のようなものであった。

 

一方で、禅者には、一瞬の隙をも見せず峻厳に応対し、クンダリーニ・ヨーギに対しては、慈母のような優しい応対であった。

 

ダンテス・ダイジは、文章を残すことに相当に心胆を砕いていたが、主著なるものがあるわけではない。彼の存命中の著作は、私家版の超宗派的冥想など何種かあるが、商業ベースでは、ニルヴァーナのプロセスとテクニックだけ。

 

原典救世主入門は、リチャード・バックの小説に断片が掲載されていたのを、出所はアトランティス時代のダンテスの教えだったとして、全章を復刻してみせたもの。ただ、感情人間であっただろうアトランティス人に向けて書かれたものであって、全体に現代人にとっては、やや大時代な部分があるかも知れない。なぜなら現代人は、彼と友人として出会っているからである。1万二千年前のアトランティス当時は、主導的宗教グループ、アメンティの一員対大衆というベースで原典救世主入門が書かれたのだが、今は、知性の発達により原典救世主入門に書いてあることなどいわば常識として闊歩する人間が多いのである。

 

だが理屈でわかっていても、それを生き切るのはなかなか大変なことである。

 

すべての人間が、何のために生きるかが、自分につきつけられた公案となって久しいが、それに沿って愚直に素直に、あるいは肩ひじ張らずにやれている人に出会うことはとても稀かと思いきや、最近意外にその愛と自由の断片を持っている人が多いことに気づかされてもいる。このあらゆるマインド・コントロールの嵐でサクラン(錯乱)した時代であってすら。

 

それが、日本教の懐の深さでもあり、それがダンテス・ダイジが20世紀に日本を舞台に選んだ理由でもあるのだろう。

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ダンテス・ダイジの著作と断簡について

2022-10-10 10:34:10 | ダンテス・ダイジの風光

◎どうでもいいには、二つある

 

ダンテス・ダイジの著作は、「超宗派的冥想」、「メディテーション・トラベル・ガイド」、「ニルヴァーナのプロセスとテクニック」と「アメジスト・タブレット・プロローグ」だけである。

 

詩集「絶対無の戯れ」は遺稿をまとめたものであり、講話録としては、渡辺郁夫氏のまとめた4冊の「雨宮第慈講話録」(十三番目の冥想、素直になる、君がどうかい、最高に生きたい)がある。

 

この他に最近ネットに出てきたものに、

老子狂言

戯れに冥想を

などがある。

 

基本線は、「著作」は万人向けに読まれることを意識したものであって、それ以外については、ダンテスの係累(弟子、知り合い)向けに限定的に残された断簡であるということだと思う。

 

著作については、冥想道についても冥想体系全体と冥想への取り組みがある程度論理的に説かれているが、そのロジックは、ニルヴァーナの体現者としてニルヴァーナに日常から出てきているものであって、通常の社会人の常識から理解することが困難な部分が多々ある。

 

絶対無の戯れは、勿論珠玉の作品が集まっているが、彼の詩の中でも社会人がすんなり読めるようなのを集めた印象がある。

これに対して老子狂言などは、いわゆる通俗社会人や駆け出しの冥想修行者が読んでも理解不能なものがほとんどである。

 

 

例えば「どうでもいい」【老子狂言】から

「どうでもいい

 

どうでもいいには、二つある。

初めのどうでもいい、は、

キマッテいない。

終りの、どうでもいい、は、

ステキだ。

そして、

初めも終りもないどうでもいい、は、

どうでもいいもどうでもいい!

みんな、

どうでもいいんだ。

みんな、

オレなんだ。」

 

これなどは、表面的に意味が取れるだけに、あらゆる低級俗悪なパフォーマンスを惹き起こしえる危険な詩である。

 

私ならこの「どうでもいい」は、悟った者が言う「どうでもいい」は正しいが、悟っていない者が言う「どうでもいい」は嘘であると説明するだろう。

 

ダンテス・ダイジは1950年生まれだから存命していれば72歳。彼は次の転生でフロリダ沖に再浮上してくるネオ・アトランティス大陸に現れると予言したが、それまでの大峠・大転回はいまだ到来していない。はて、人間はそれに耐えられるほど成熟したのだろうか。

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ダンテス・ダイジの人類史観-6

2022-10-10 10:32:57 | ダンテス・ダイジの風光

◎人類史としてのまとめ

 

ダンテス・ダイジの断簡の一つ「戯れに冥想を」では、彼は7万年前に地球へやってきたとある。それは21世紀の人類にとって、あまり重要ではなく、肝心なところは、今から1万2千年前のアトランティス滅亡によって、当時の支配的宗教だったアトランティス密教が世界に散っていったこと。

 

そのアトランティス密教伝道チームは、エジプト、ギリシア、中米、北欧、日本などでそれぞれに神話、古伝承など、つまり旧約聖書、ゾーハル、北欧神話、エメラルド・タブレット、あるいはプラトンがアレクサンドリアの神官ソロンから聞いた伝承、古事記などを形成していった。

 

このことは、1万2千年後の現代において、アトランティス黄金期を上回る至福千年が始まることを予定して、かの時代から布石を打っていたということ。

 

アトランティス人は、感情・想像・記憶パワー全開の感情人であって、アトランティス時代は3期あって、初期、神を人が生きる黄金期、我欲に混乱する末期があった。現代人は知性人だが、まだ1万2千年前に予定されていた万人が神知る時代となってはいない。

 

アトランティスという比較的小さな大陸が沈没しただけで、感情人が知性人に切り替わるのか。そこは、アトランティス以外は、文明的にも劣っていたし、都市発展の規模も小規模だったのだろう。アトランティス滅亡後は、アトランティス密教の神髄も、アトランティス物質文明の精華も徐々に失われ、精神も物質も下降の一途をたどった。

 

ユクテスワの説く地球人類の2万4千年周期説では、前回の頂点の時期は紀元前11500年。(それから13500年後が現代。)これから1万2千年間、人間精神は下降を続けた。現代は最も神から遠ざかった時代からわずか1200年ほどを経過したポジションにある。前回の頂点の時期は、微妙にアトランティスの黄金期を示唆する。

 

かくして、人間精神が感情人の残滓を払拭し、知性人としてこの21世紀に神が人とともに生きる新たな千年王国建設の方向性が定まったのが、紀元前3120年。

 

紀元前3120年は、古代エジプトの第一王朝で上エジプトのナルメル王が下エジプトを征服しエジプトを統一した頃。ここから、神の現存を確認しきれぬもやもやした中有的な5千年が始まった。

 

人類は、最終的にその知性で物質文明、火力エネルギー主体の文明を極め、知性人としての成熟を20世紀末までに図る。

 

知性の成熟の先には、自我の死の自覚、それは自分だけでなく、家族も死に、街も死に、海も死に、空も死に、地球も死に、宇宙が死ぬということだが、それが起こって初めて本当の愛に出会う。

 

肉体が死んでもまず自我は死なない。だからチベット死者の書のようなものがある。

 

『知性ゆえに誰もかれも死の安らぎを願っている』とは、死なくして本当の愛を知ることはできないということ。本当の愛とは、大慈大悲。本当に悲しいこと、悲しみの極みが愛の極み。

 

人間は、欲望をエンジンとして、文明という回し車を回転させている。その回転により、感情人は、知性人に進化し、21世紀にアトランティス文明をはるかに上回る規模の地上天国を実現させようとしている。

 

欲望のゲーム、喜怒哀楽のゲームは常に満足と苦悩の間を往復し、決して終わることがないがゆえにそのゲームは既に終わっている。

 

『現在の地球ロゴスは、まだ人間に固定観念と抑圧と

を必要とする階梯にあるからである。』

(戯れに冥想を/ダンテス・ダイジから引用)

 

ほとんどの現代人は、固定観念と抑圧をなくすることから冥想修行を始めなければならない。現代社会というのは、固定観念と抑圧そのものだが、そういう環境、出生直前にそういう子宮を選んできたのが自分自身だということも、死ぬものとて何一つない未知なる国に生きるには重要なファクターだと思う。

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ダンテス・ダイジの人類史観-5

2022-10-10 10:31:14 | ダンテス・ダイジの風光

◎パーフェクト・チェンジング・モメント

 

ダンテス・ダイジの老子狂言の続き。

『どうやら、欲念相続としての現代人類は、知性理性を「知恵」にまで進化させ、全人的統合を果たさねばならぬらしい。それも、いかなるルールも方法も保証もなしで・・・

 

 私は私に直面しよう、知性を英知に変容せしめる何ものかを。

 あなたはあなたに直面しよう、理性を知恵に変容せしめるサムシングを。

 

 なぜなら

 欲望の遊戯に終わりはないだろうから

 なぜなら

 マーヤのゲームに果てはないだろうから』

(ダンテス・ダイジ/老子狂言から引用)

 

欲念相続は、正念相続からの造語なのだろう。あらゆる欲望を繰り返し持ち続けるという意味、欲望の遊戯。

 

『知性を英知に変容せしめる何ものか』、『理性を知恵に変容せしめるサムシング』の何ものかも、サムシングも、それを語った途端に嘘になるから言わない、言えない。

 

ここでは、自分自身に直面するアプローチで説明する。やれ楽をして金を得たい、素敵な異性と知り合いたい、うまくやりたい。やれ努力はせずに名誉も地位も引き寄せたい、志望校に合格したい、精神も肉体も健康になりたい、云々。人はそうした夢の途上で、自分自身に直面せざるを得ない。

 

なぜならば、人は、一つの願望、欲望、夢が成就すれば、必ず次のそれを作り出して、それを無限に繰り返すものだからだ。そしてその夢追いは、必ず終わる時期がある。それを精神的成熟ともいう。それは、今生かもしれないし、来世かもしれない。だが時代全体は待ったなしのカウントダウンに入っている。

 

ダンテス・ダイジの老子狂言には、サムシングという別の詩もある。ここでは、サムシングそのものがストレートに語られているが、それは、多くの人が想像しているサムシングではないだろう。夢も時間もない、だが、「あらゆる」であり、何もかもなし。

 

『サムシング

 

人は、

その夢の途上で倒れる。

ただ、

夢も時間もない、

あらゆる絶対体験—

パーフェクト・チェンジング・モメント—

あらゆるかたちでの、

エクスタシーのサムシングのサムシング。』

(ダンテス・ダイジ/老子狂言から引用)

 

そのサムシングをゲットするには、いかなるルールも方法も保証もない。だが、その全人的統合にトライする時節がやって来たのだ。

 

※全人的統合:原人間(アントロポス、アダム・カドモン)、伊都能売(いづのめ)のイメージ。

※ルールも方法も保証もない:特定の宗派も特定の冥想法の限定もなく、大悟覚醒に必ず至ることができるという保証もなく。

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ダンテス・ダイジの人類史観-4

2022-10-10 10:30:57 | ダンテス・ダイジの風光

◎知性ゆえに誰もかれも死の安らぎを願っている

 

ダンテス・ダイジの老子狂言の続き。

『現代西洋商工業都市文明の私達人類は、知性を中心として人間性の統合を果たさなければならない。ウサンクサイ、まやかしのオカルティズムや、単純な自然回帰という退行的願望や、センチメンタルな意味での愛情や友情やカウンター・カルチャーに逃げ込むことなぞできはしないのだ。

 

だからこう言える。二〇世紀末の現代人は、その知性ゆえに誰もかれも死の安らぎを願っているのだと。これは決して異論ではない。花が花としての限界に来たとき、実が出てこざるをえない。それは、花にとっての絶体絶命の闇である以外になく、実にとっては新しい未知なる光明への第一歩なのだ。

 

もっとも、知性・理性・自我の虚無ゆえに肉体的な意味で死んだとしても、そこに本当の安らぎなぞありはしない。それは、肉体的に死んでみたら納得できることだろう。』

(ダンテス・ダイジの老子狂言から引用)

 

知性の時代は自己実現の臍のマニピュラ・チャクラの時代であって、自我の死を経ないと愛のアナハタ・チャクラに進むことができない。これは、神秘生理学的な視点だが、わかったようで何もわかっていない説明である。

 

『知性ゆえに誰もかれも死の安らぎを願っている』とは、死なくして本当の愛を知ることはできないということ。本当の愛とは、大慈大悲。本当に悲しいこと、悲しみの極みが愛の極み。

 

死によって本当の愛を知ると説くが、彼は死に方そのものを問題にしている。知性の限界を試すとして、知性・理性・自我の虚無ゆえに自殺しても本当の愛には届かない。

 

ここで言っているのは、単なる病死、自殺、天変地異・核戦争などでの大量死などの肉体の死ではなく、自我の死のことである。

 

そのことを確認したければ、実際に死んでみたらよいと、彼はダメを押している。クンダリーニ・ヨーガは死の技術と言われるが、肉体死の技術ではなく、自我の死の技術なのだろう。

 

まことにこの辺は、世間的には、大いに誤解や批判を生む言説となり得るが、イエスだって、釈迦だって、「自分勝手な自我」の死を説いていることに変わりはない。ダンテス・ダイジの説明の仕方が、あまりにもストレートなだけである。

 

チベット死者の書では、耳元で死に方を囁くのだが、その根本となっている原理を率直に説明しているだけなのだ。我々は、二〇世紀末を越え、二一世紀の現代人として、進歩して見せねばならぬ。

今こそ、絶体絶命の闇。それを越えて行くのだ。

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ダンテス・ダイジの人類史観-3

2022-10-10 10:29:49 | ダンテス・ダイジの風光

◎死ぬものとて何一つない未知なる国をわれは歩きぬ

 

ダンテス・ダイジは、アトランティス大陸沈没後の紀元前九千年頃、彼は呪術師にして賢者ということで、当時のエジプトの年若き王子ネメシス四世の家庭教師であった。その日、ダンテス・ダイジは、ギリシア地方を、ネメシス四世とともに旅に出ていた。そしてアトランティス滅亡直前に流行した次の歌を口ずさむ。

 

『死ぬものとて

 何一つない

 未知なる国を

 われは歩きぬ----

 

確かに私は、この国に生まれた。しかも私は、この国のものすべてが、何もかもが凍りついた見知らぬ獄舎となるのを見た。

 私が地獄なのだ

 それに間ちがいない。

 宇宙が地獄なのだ

 それに間ちがいない。

 

 私は宇宙の

 トラワレ人で

 頼るものなぞ

 何一つとてない。 

 

しかも私は生きている。一つの小っさな火が一つの夢を、一つの地獄を一つの天国をもたらす

。一つのサクランもだ!

 

一つの小さな煙の名は、ウミトと呼ばれることもある。

私はこれを呪術師ドン・ファン・マトゥスの霊から授かった。まるで専売公社の自動販売機から、セブンスターを買うほどの努力によってだ。』

【戯れに冥想を/ダンテス・ダイジから引用】

 

この一節は老子狂言からではないが、この光景は現代日本とシンクロする。

 

『死ぬものとて 何一つない 未知なる国』とは、神秘そのものである、生死、男女、陰陽などあらゆる区別差別を超えた『有』なる第六身体。

 

ダンテス・ダイジは、近代西洋文明崩壊前夜の日本という国に住んでいる。それにシンクロして、このアトランティス文明が崩壊する直前に若者達の間ではやった歌をくちづさむ。

 

さらに、この国がSNSなどネット、TV、監視カメラ、生体認証などでの行動、思想、信教、言論のコントロールにより、社会全体が一つの獄舎になろうとする光景を見た。出口王仁三郎も同様のシーンを幻視している。

 

そして、アトランティス大陸が沈没したあとのダンティスのギリシアでの一場面を回想してリフレインしている。

 

『死ぬものとて

 何一つない

 未知なる国を

 われは歩きぬ---

 確かに私は、今、この日本という国に住んでいる。そして、このアトランティス文明が崩壊する直前に若者達の間ではやった歌をくちづさむ。

 そして、この国が一つの獄舎になろうとする光景を見た。

そして、アトランティス大陸が沈没したあとのダンティスのギリシアでの一場面を回想している。

 

確かに私はニルヴァーナに安息した存在として日々を生きている。

ダンティスもソムルス酒(エジプト・ギリシヤ方面では、ソーマラスはソムルスと呼ばれていた。)の酔いの中で同じ歌を歌った。

 

  われ神自身

  時々おもえり

  ニルヴァーナこそ

  サクラン

  ではないのかと---』

【戯れに冥想を/ダンテス・ダイジから引用】

 

サクランとは錯乱の音である。しかしサクランとは、ヤキ・インディアンのドン・ファン・マトゥスの呪術におけるこの世の戯れの始まりである煙であるウミトであり、古事記に見えるこの世の始まりの煙みたいな葦牙であり、ユダヤ教なら黒い炎であり、霊界物語の最も重要とされる天祥地瑞巻での神々の不倫のことである。

 

死ぬものとて何一つない未知なる国こそ覚者の日常であり、そういう日常がない自称覚者は偽ものである。日々是好日とはそういう日常。

 

神とともに生きる時代への方向性の基礎を固めた紀元前9千年頃。

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