◎格言3-14誠実であるのがいい(老子狂言)
『14○
誠実であるのがいい。
それは、平穏無事の安心を与えてくれる。』
(老子狂言/ダンテス・ダイジから引用)
以下【】内は上掲詩文から引用。
人生の早い時期から不条理を感じる生い立ちを選んで生まれて来た人は別だが、人は子供のうちは、平穏無事の安心があって愛が育っていくものだ。
また大人になってからも、平穏無事の安心がなければやっていけない時期もあるものだ。
だから【誠実であるのがいい】。
◎格言3-14誠実であるのがいい(老子狂言)
『14○
誠実であるのがいい。
それは、平穏無事の安心を与えてくれる。』
(老子狂言/ダンテス・ダイジから引用)
以下【】内は上掲詩文から引用。
人生の早い時期から不条理を感じる生い立ちを選んで生まれて来た人は別だが、人は子供のうちは、平穏無事の安心があって愛が育っていくものだ。
また大人になってからも、平穏無事の安心がなければやっていけない時期もあるものだ。
だから【誠実であるのがいい】。
◎格言3-13君はかくありたいというイメージ(老子狂言)
『13○
君はかくありたいというイメージ、あるいは様々なイメージや、主観的イメージでないビジョンさえも、
さらには見性さえも、
答えにはなり得ないことに気づく時がくるだろう。
だが、
この絶対不可思議な、
限りない「夢」と「真実」、
この生々化々千変万化この者を、
実現することは唯一絶対の不可能だ。
——君にとっては。』
(老子狂言/ダンテス・ダイジから引用)
以下【】内は上掲詩文から引用。
【主観的イメージでないビジョン】は、永遠不壊の霊界のビジョン、プラトンの言うイデア。具体的には、弥勒菩薩など。
【だが、
この絶対不可思議な、
限りない「夢」と「真実」、
この生々化々千変万化この者を、
実現することは唯一絶対の不可能だ。
——君にとっては。】
君にとっては、不可能だが、【この者】になりきれば、可能だ。
◎格言3-12見性においては(老子狂言)
『12○
見性においては、
あなたは、
限りない「何ものか」が、
あなたと一体不二であったことを体験する。
それは根源的な納得・充実・自由・歓喜・安心・生命力の爆発と称せられるものだろう。
私は、絶対無の光明とあらゆる多様多元の宇宙が、何もかもが私だったことを生きていたことを知った。
・・・そして、それも忘れ果てることだろう。』
(老子狂言/ダンテス・ダイジから引用)
以下【】内は上掲詩文から引用。
【見性においては、】【体験する】自分が残っている。
見性なのに、【それは根源的な納得・充実・自由・歓喜・安心・生命力の爆発と称せられるものだろう。】
と突っ込んだことを言っているが、
【体験する】自分が残っている。
◎格言3-10ただ一人の例外もなく(老子狂言)
『10○
ただ一人の例外もなく、
私達の心と名づけられているものの、内部には、
何かわからぬが、
全身全霊で求めている「何ものか」がある。
その「何ものか」は、
人生の最高の成功・栄光・調和・美・悦楽・至福・遊戯自在あるいは三昧の境地・エネルギーの充溢感をも超えている「何かなのだ」。
— もっとも、
これも、かみさまの一つの、たった一つの刹那。
絶対不動の光でない光 ―――
万物万象と一体となっている状態—
生も死もない慈愛・至福—
もはや、
今は、
これ以上語れない。
愛情さえも、
本当に深い深い信頼さえも、
一場の茶番になってしまうような—
「何ものかだ」。』
(老子狂言/ダンテス・ダイジから引用)
以下【】内は上掲詩文から引用。
人は、
【人生の最高の成功・栄光・調和・美・悦楽・至福・遊戯自在あるいは三昧の境地・エネルギーの充溢感】を求めるものだが、それが実現すれば面白いだろう。だが、その一歩先にある
【何かわからぬが、
全身全霊で求めている「何ものか」がある】から、この世に生まれてきているのではないか。
※想像を現実化する能力を手に入れればさぞ面白いだろうが、ダンテス・ダイジは、「そういうことが面白いということに留まっていれば、この世に生まれては来ない」という意味深なことを言っている。
【これも、かみさまの一つの、たった一つの刹那。】の中に須弥山もあらゆる時間も空間も封じ込まれている。これも隙間理論でいうところの隙間。
【「何ものかだ」】とは、
【絶対不動の光でない光 ―――
万物万象と一体となっている状態—
生も死もない慈愛・至福—
もはや、
今は、
これ以上語れない。】
ので、もはや体験とは言えない体験。
【絶対不動の光でない光】は、神あるいはタオから出る光。
◎格言3-9臨済禅師は(老子狂言)
『9○
臨済禅師は、
もし、もっと長く生きたならば、
老子のあり様に近くなっただろう。
が、
臨済君は臨済君だ。
彼は、完全な自由を生きた。
老子は老子だ。
彼は生き切り、生ききらず、
死に切り、死にきらない、
絶対即相対の完璧な体得者であり、
余りにもあたりまえなただの人。
そこで、超人普化はというと、
ここで、
狂僧か何か知らないが、狂僧普化は、
カンオケの中で死んだというわけだ・・・
普化!
おまえのことだ!
すべてのことだ!
地水火風空無霊有のことだ!
あなた自身の夢・・・・
あなたのいない夢・・・・
カオス・不如意・不安恐怖・あらゆるエクスタシー・幸福・不幸・快楽・苦痛・
あなたもわたしもない。
何もかもない夢の極楽と中有と地獄の夢なのよ・・・・
至高無比の絶対満足の中に、
いいへ、それ自身の夢が戯れているのよ・・・・・・・
見よ!
是れは夢か絶対者か?
それとは何か??
是れ何者ぞ!?
おまえ自身の
あらゆるお前自身の、
気狂い遊戯。
「よくも、あきないもんだ・・・。」』
(老子狂言/ダンテス・ダイジから引用)
以下【】内は上掲詩文から引用。
最初は、禅僧臨済と老子という水平の悟りの体現者から入った。
臨済は、自由。老子は、死に切り、生き切らない。普化は、オフィシャル晩餐会のご馳走の並ぶテーブルを蹴り倒し、自分で棺桶に入って死んだ。
次に【あなたもわたしもない。
何もかもない夢の極楽と中有と地獄の夢】の戯れフェーズに入り、
次に
【是れ何者ぞ!?
おまえ自身の
あらゆるお前自身の、
気狂い遊戯。】
と全体を見渡し、終わりのないことに
【「よくも、あきないもんだ・・・。」】と率直に感想を述べる。
こういう詩のことを、生死出入自在とか、自由無碍とか言うのだろう。
◎格言3-8無意味な、あるいは大いなる意義あるルール(老子狂言)
『8○
無意味な、あるいは大いなる意義あるルールを、形式を問わず完うしつくすことが、
欲望のエネルギーである。
完全に充実する、完うしつくすとは何か?
もし、
そこにすこしも余計なものもなく、
ただただの流れが、
あなた無しのあなたを
限りない『それ』であるのならば、
『それ』はそれなのであり、
この意味で、
ルールを完うしつくし続けるだけならば、
そして、その具体的なあらゆる努力を、作為・情熱・倦怠・安心・不安・全智・恐怖などを抜きにしてなされるある状態を、カルマ・ヨーガと称する。』
(老子狂言/ダンテス・ダイジから引用)
以下【】内は上掲詩文から引用。
欲望のエネルギーの一つのスタイルは、【完全に充実する、完うしつくす】ということ。
【あなた無しのあなたを
限りない『それ』】のままに
【ルールを完うしつくし続けるだけならば、
そして、その具体的なあらゆる努力を、作為・情熱・倦怠・安心・不安・全智・恐怖などを抜きにしてなされるある状態を、カルマ・ヨーガと称する。】。
ダンテス・ダイジにとって、カルマ・ヨーガによって実際に覚醒した人物は、伊福部隆彦氏だった。
◎格言3-7壊れたラジオ(老子狂言)
『7○
壊れたラジオ・・・人間。
調和のとれているラジオ・・・人間。
いづれにせよ、
絶対的に条件づけられたラジオだ。
出口はない。
余りにも、あたりまえなことだが、
あらゆる立場の現象存在にとって、
出口はない。
あらゆる‘形’で固定された私たちには。』
(老子狂言/ダンテス・ダイジから引用)
以下【】内は上掲詩文から引用。
人間は、すべてのすべてである神と、みじめで情けなく無力な自分という人間を、二重に生きている。そのみじめで情けなく無力な自分を、【出口はない。】と云う。
人間の頭は、政府、マスコミ、学校、スマホ、隣人、あらゆる教育、言説、プロパガンダで9割以上占められている。これをマインド・コントロールあるいは洗脳と呼び、
【あらゆる‘形’で固定された私たち】とも
【壊れたラジオ・・・人間。
調和のとれているラジオ・・・人間】とも言う。
◎格言3-6いいと言うことと(老子狂言)
『6○
いいと言うことと
悪いと言うこととの
多様多元の世界。
マーヤー、多元宇宙。
それ以上、
何が必要か・・・?
「あなたは、
いつも、もっともっと欲しいのだ。」』
(老子狂言/ダンテス・ダイジから引用)
以下【】内は上掲詩文から引用。
【いいと言うことと
悪いと言うこととの
多様多元の世界。】
を眺めてみれば、どの人も大方、
【いつも、もっともっと欲しいのだ。】
だから現象世界のマーヤーは終わることはない。
人は、善を行い悪を行わないように生きるべきだが、
【いいと言うことと
悪いと言うこと】
は両方ある。
◎格言3-5思うにアジナー・チャクラは(老子狂言)
『5○
思うに、
アジナー・チャクラは、
相対即絶対のあらゆる
知覚体得にかかわる
ある種の
生理的位置である。』
(老子狂言/ダンテス・ダイジから引用)
以下【】内は上掲詩文から引用。
チャクラは、肉体、エーテル体、アストラル体、メンタル体の各ボディに分布し、肉体上のチャクラは検出できないと、ダンテス・ダイジは語っている。その上で、ここでは肉体上のアジナー・チャクラについて、ことさらに言及している。
【相対即絶対】とは、相対が色即是空空即是色で、絶対が色是色空是空なのだろう。
OSHOバグワンのアジナー・チャクラに関する見解を眺めると、太乙金華宗旨でもクンダリーニ・ヨーガでもタオあるいはニルヴァーナ直前の位置がアジナー・チャクラであって、そこで、陰陽のバランス、水火のバランス、男女のバランス、日月のバランスが成立しなければならないことを述べている。出口王仁三郎の変性女子、出口ナオの変性男子という言葉も、それを見せている。OSHOバグワンは、そのバランスをどう成立させるかの技法は述べず、原理原則を語っているわけだが、宗派によらず共通していることに気がつくだろう。
◎格言3-4すでに知っていると思いこんでいること(老子狂言)
『4○すでに知っていると思いこんでいることと、未知であることとには何の違いもない。』
(老子狂言/ダンテス・ダイジから引用)
これは、第七身体ニルヴァーナにいる場合の実感。第六身体アートマンではすべてを知っているが、第七身体ニルヴァーナでは、すべてが未知。
またこれは、直前の『格言3-3私のことも、私のまわりの出来事と称せられるものについても、本当には、あるいは、真実には、まったく知ることはできない。』の別の実感。
◎格言3-3至福でない至福は起こる(老子狂言)
『3○
私のことも、私のまわりの出来事と称せられるものについても、
本当には、
あるいは、
真実には、
まったく知ることはできない。
その
絶対は起こる。
その
至福でない至福は起こる
その確信ではない確信は起こる。
だが、
私は、
これが、
何であるかを、
知ることは決してない。』
(老子狂言/ダンテス・ダイジから引用)
以下【】内は上掲詩文から引用。
究極とは、絶対であり、至福であり、確信だが、体験する自分がいないので、
【これが、
何であるかを、
知ることは決してない。】。
だから十牛図第八は一円相であって、時になにもかもなしと表現される。
古神道では、神像を造らせず、釈迦も没後数百年は仏像がなかった。
◎格言3-2意味なく、価値なく、生きる時(老子狂言)
『2○
たとへ、あなたがどのような存在であろうと、完全に、
意味なく、価値なく
生きる時もある。
このあらゆる世界、
あるいは宇宙は、
夢なのだ。
時は、
絶対者の
あらわれの一つであり、
それは、
一つの法則である。
が、
法則には
例外というものがある。』
(老子狂言/ダンテス・ダイジから引用)
以下【】内は上掲詩文から引用。
生存のためには全身全霊をかけねばやっていけないこの厳しい時代。だからこそ
【完全に、
意味なく、価値なく
生きる時もある。】
法則の例外についてダンテス・ダイジは、ときどきほのめかしている。
錬金術師は、何千回と同じレシピで黄金変成実験を繰り返すが、例外的に本物の黄金ができることがある。
虚空蔵菩薩求聞持法では、虚空蔵菩薩のマントラを百万遍唱えれば、成就すると言われるが、本当に成就することがあるらしい。
禅僧南嶽は、瓦を磨いて鏡にすることで悟りを開こうとした。それを見て馬祖が「瓦を磨いても、鏡などできないでしょう。」と問うた。
南嶽、「それならば、坐禅してどうして仏になれようか?」と返されて、馬祖は何も言えなかった。
例外とは、ジャンプ・アウトすなわち垂直方向の超脱だと思う。水平方向にいくら飛んでも何もエポックメーキングなことは起こらない。生成AIは、水平方向の運動である。
◎格言3-1坐禅とは(老子狂言)
※格言3の原文には、小見出しも番号もなく○だけだが、分量が多いので、便宜的に番号と小見出しを振る。
『1○坐禅とは、
いかなる状況、
あるいは、いかなる世界においても、
生き生きと、
やすらかに充実している、
あるいは、たくましく充実している、
絶対それ自体を、いくたびも体験し、
そして、
死のその最後の瞬間まで、
その充実を生き尽くすことにある。』
(老子狂言/ダンテス・ダイジから引用)
以下【】内は上掲詩文から引用。
これは、水平の悟り、生の側から極めるということを短文で表現したもの。十牛図第十入鄽垂手(にってんすいしゅ)でわかったような気分になるかもしれないが、ここまで書いてもらわないと実際のところは想像しにくいのではないか。
【絶対それ自体を、いくたびも体験し】
これは、伊福部隆彦氏は、カルマ・ヨーガで悟り、只管打坐で悟った。江戸期の禅僧白隠は、大悟何回小悟何回と数え上げたが、そのように絶対それ自体を、何度も体験するということがあるのだろう。
道元は、身心脱落(大悟)は一回のようだが、複数回あったのだろうか。
普通の人は、一生に一回で充分ではある。
◎どこまで行ってもきりがない・・・(老子狂言)
『どこまで行ってもきりがない・・・
あなたと言ったら
すでに
わたしが含まれていた
地獄と思ったら
もうそこには
天国が花開いている
思うがままに生きるのだ
思わないままに生きているのだ
快楽と苦痛とは
果てしのない戯れを戯れている
この神秘のカオスのただ中には
永遠に答えなぞない
私はどこにも行き着きはしない
どこに到達する必要もない
ニルヴァーナとマーヤーの
交合歓喜は続き続ける
これが至福だとも知らずに
これがやすらぎと生命力だとも知らずに
あなたが何をしたところで
あなたにわかるものなぞ
一つとしてない
死がわからないと同じように
わたしの言葉もわかりはしない
わたしは
小麦色の肢体が好きだ
太陽と輝くエメラルドの海が好きだ
ニルヴァーナを愛し
マーヤーを愛している
どこまで行ってもきりがない・・・』
(老子狂言/ダンテス・ダイジから引用)
以下【】内は上掲詩から引用。
ここには、既に自分個人が神人合一した時の実感がならんでいる。
あなたとわたし、地獄と天国、快楽と苦痛、それを
【思うがままに生きるのだ
思わないままに生きているのだ】。
今ここを生きるということは、そういう実感を生きるということだが、どうだろうか。
だからといっても、何でも好きなわけではなく、
【わたしは
小麦色の肢体が好きだ
太陽と輝くエメラルドの海が好きだ】。
これは水平の悟りが好きだということ。
今ここが、至福でやすらぎと生命力だが、あなたがある限り、
【あなたが何をしたところで
あなたにわかるものなぞ
一つとしてない】。