アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

ダンテス・ダイジの著作と断簡について

2022-10-10 10:34:10 | ダンテス・ダイジの風光

◎どうでもいい、には二つある

 

ダンテス・ダイジの著作は、「超宗派的冥想」、「メディテーション・トラベル・ガイド」、「ニルヴァーナのプロセスとテクニック」と「アメジスト・タブレット・プロローグ」だけである。

 

詩集「絶対無の戯れ」は遺稿をまとめたものであり、講話録としては、渡辺郁夫氏のまとめた4冊の「雨宮第慈講話録」(十三番目の冥想、素直になる、君がどうかい、最高に生きたい)がある。

 

この他に最近ネットに出てきたものに、

老子狂言

戯れに冥想を

などがある。

 

基本線は、「著作」は万人向けに読まれることを意識したものであって、それ以外については、ダンテスの係累(弟子、知り合い)向けに限定的に残された断簡であるということだと思う。

 

著作については、冥想道についても冥想体系全体と冥想への取り組みがある程度論理的に説かれているが、そのロジックは、ニルヴァーナの体現者としてニルヴァーナに日常から出てきているものであって、通常の社会人の常識から理解することが困難な部分が多々ある。

 

絶対無の戯れは、勿論珠玉の作品が集まっているが、彼の詩の中でも社会人がすんなり読めるようなのを集めた印象がある。

これに対して老子狂言などは、いわゆる通俗社会人や駆け出しの冥想修行者が読んでも理解不能なものがほとんどである。

 

 

例えば「どうでもいい」【老子狂言】から

「どうでもいい

 

どうでもいい、には二つある。

始めの、どうでもいい、は、

キマッテいない。

終りの、どうでもいい、は、

ステキだ。

 

そして、

初めも終りもないどうでもいい、は、

どうでもいいもどうでもいい!

 

みんな、

どうでもいいんだ。

みんな、

オレなんだ。」

(ダンテス・ダイジ/老子狂言から引用)

 

これなどは、表面的に意味が取れるだけに、あらゆる低級俗悪なパフォーマンスを惹き起こしえる危険な詩である。

 

私ならこの「どうでもいい」は、悟った者が言う「どうでもいい」は正しいが、悟っていない者が言う「どうでもいい」は嘘であると説明するだろう。

 

ダンテス・ダイジは1950年生まれだから存命していれば72歳。彼は次の転生でフロリダ沖に再浮上してくるネオ・アトランティス大陸に現れると予言したが、それまでの大峠・大転回はいまだ到来していない。はて、人間はそれに耐えられるほど成熟したのだろうか。

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ダンテス・ダイジの人類史観-6

2022-10-10 10:32:57 | ダンテス・ダイジの風光

◎人類史としてのまとめ

 

ダンテス・ダイジの断簡の一つ「戯れに冥想を」では、彼は7万年前に地球へやってきたとある。それは21世紀の人類にとって、あまり重要ではなく、肝心なところは、今から1万2千年前のアトランティス滅亡によって、当時の支配的宗教だったアトランティス密教が世界に散っていったこと。

 

そのアトランティス密教伝道チームは、エジプト、ギリシア、中米、北欧、日本などでそれぞれに神話、古伝承など、つまり旧約聖書、ゾーハル、北欧神話、エメラルド・タブレット、あるいはプラトンがアレクサンドリアの神官ソロンから聞いた伝承、古事記などを形成していった。

 

このことは、1万2千年後の現代において、アトランティス黄金期を上回る至福千年が始まることを予定して、かの時代から布石を打っていたということ。

 

アトランティス人は、感情・想像・記憶パワー全開の感情人であって、アトランティス時代は3期あって、初期、神を人が生きる黄金期、我欲に混乱する末期があった。現代人は知性人だが、まだ1万2千年前に予定されていた万人が神知る時代となってはいない。

 

アトランティスという比較的小さな大陸が沈没しただけで、感情人が知性人に切り替わるのか。そこは、アトランティス以外は、文明的にも劣っていたし、都市発展の規模も小規模だったのだろう。アトランティス滅亡後は、アトランティス密教の神髄も、アトランティス物質文明の精華も徐々に失われ、精神も物質も下降の一途をたどった。

 

ユクテスワの説く地球人類の2万4千年周期説では、前回の頂点の時期は紀元前11500年。(それから13500年後が現代。)これから1万2千年間、人間精神は下降を続けた。現代は最も神から遠ざかった時代からわずか1200年ほどを経過したポジションにある。前回の頂点の時期は、微妙にアトランティスの黄金期を示唆する。

 

かくして、人間精神が感情人の残滓を払拭し、知性人としてこの21世紀に神が人とともに生きる新たな千年王国建設の方向性が定まったのが、紀元前3120年。

 

紀元前3120年は、古代エジプトの第一王朝で上エジプトのナルメル王が下エジプトを征服しエジプトを統一した頃。ここから、神の現存を確認しきれぬもやもやした中有的な5千年が始まった。

 

人類は、最終的にその知性で物質文明、火力エネルギー主体の文明を極め、知性人としての成熟を20世紀末までに図る。

 

知性の成熟の先には、自我の死の自覚、それは自分だけでなく、家族も死に、街も死に、海も死に、空も死に、地球も死に、宇宙が死ぬということだが、それが起こって初めて本当の愛に出会う。

 

肉体が死んでもまず自我は死なない。だからチベット死者の書のようなものがある。

 

『知性ゆえに誰もかれも死の安らぎを願っている』とは、死なくして本当の愛を知ることはできないということ。本当の愛とは、大慈大悲。本当に悲しいこと、悲しみの極みが愛の極み。

 

人間は、欲望をエンジンとして、文明という回し車を回転させている。その回転により、感情人は、知性人に進化し、21世紀にアトランティス文明をはるかに上回る規模の地上天国を実現させようとしている。

 

欲望のゲーム、喜怒哀楽のゲームは常に満足と苦悩の間を往復し、決して終わることがないがゆえにそのゲームは既に終わっている。

 

『現在の地球ロゴスは、まだ人間に固定観念と抑圧と

を必要とする階梯にあるからである。』

(戯れに冥想を/ダンテス・ダイジから引用)

 

ほとんどの現代人は、固定観念と抑圧をなくすることから冥想修行を始めなければならない。現代社会というのは、固定観念と抑圧そのものだが、そういう環境、出生直前にそういう子宮を選んできたのが自分自身だということも、死ぬものとて何一つない未知なる国に生きるには重要なファクターだと思う。

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ダンテス・ダイジの人類史観-5

2022-10-10 10:31:14 | ダンテス・ダイジの風光

◎パーフェクト・チェンジング・モメント

 

ダンテス・ダイジの老子狂言の続き。

『どうやら、欲念相続としての現代人類は、知性理性を「知恵」にまで進化させ、全人的統合を果たさねばならぬらしい。それも、いかなるルールも方法も保証もなしで・・・

 

 私は私に直面しよう、知性を英知に変容せしめる何ものかを。

 あなたはあなたに直面しよう、理性を知恵に変容せしめるサムシングを。

 

 なぜなら

 欲望の遊戯に終わりはないだろうから

 なぜなら

 マーヤのゲームに果てはないだろうから』

(ダンテス・ダイジ/老子狂言から引用)

 

欲念相続は、正念相続からの造語なのだろう。あらゆる欲望を繰り返し持ち続けるという意味、欲望の遊戯。

 

『知性を英知に変容せしめる何ものか』、『理性を知恵に変容せしめるサムシング』の何ものかも、サムシングも、それを語った途端に嘘になるから言わない、言えない。

 

ここでは、自分自身に直面するアプローチで説明する。やれ楽をして金を得たい、素敵な異性と知り合いたい、うまくやりたい。やれ努力はせずに名誉も地位も引き寄せたい、志望校に合格したい、精神も肉体も健康になりたい、云々。人はそうした夢の途上で、自分自身に直面せざるを得ない。

 

なぜならば、人は、一つの願望、欲望、夢が成就すれば、必ず次のそれを作り出して、それを無限に繰り返すものだからだ。そしてその夢追いは、必ず終わる時期がある。それを精神的成熟ともいう。それは、今生かもしれないし、来世かもしれない。だが時代全体は待ったなしのカウントダウンに入っている。

 

ダンテス・ダイジの老子狂言には、サムシングという別の詩もある。ここでは、サムシングそのものがストレートに語られているが、それは、多くの人が想像しているサムシングではないだろう。夢も時間もない、だが、「あらゆる」であり、何もかもなし。

 

『サムシング

 

人は、

その夢の途上で倒れる。

ただ、

夢も時間もない、

あらゆる絶対体験—

パーフェクト・チェンジング・モメント—

あらゆるかたちでの、

エクスタシーのサムシングのサムシング。』

(ダンテス・ダイジ/老子狂言から引用)

 

そのサムシングをゲットするには、いかなるルールも方法も保証もない。だが、その全人的統合にトライする時節がやって来たのだ。

 

※全人的統合:原人間(アントロポス、アダム・カドモン)、伊都能売(いづのめ)のイメージ。

※ルールも方法も保証もない:特定の宗派も特定の冥想法の限定もなく、大悟覚醒に必ず至ることができるという保証もなく。

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ダンテス・ダイジの人類史観-4

2022-10-10 10:30:57 | ダンテス・ダイジの風光

◎知性ゆえに誰もかれも死の安らぎを願っている

 

ダンテス・ダイジの老子狂言の続き。

『現代西洋商工業都市文明の私達人類は、知性を中心として人間性の統合を果たさなければならない。ウサンクサイ、まやかしのオカルティズムや、単純な自然回帰という退行的願望や、センチメンタルな意味での愛情や友情やカウンター・カルチャーに逃げ込むことなぞできはしないのだ。

 

だからこう言える。二〇世紀末の現代人は、その知性ゆえに誰もかれも死の安らぎを願っているのだと。これは決して異論ではない。花が花としての限界に来たとき、実が出てこざるをえない。それは、花にとっての絶体絶命の闇である以外になく、実にとっては新しい未知なる光明への第一歩なのだ。

 

もっとも、知性・理性・自我の虚無ゆえに肉体的な意味で死んだとしても、そこに本当の安らぎなぞありはしない。それは、肉体的に死んでみたら納得できることだろう。』

(ダンテス・ダイジの老子狂言から引用)

 

知性の時代は自己実現の臍のマニピュラ・チャクラの時代であって、自我の死を経ないと愛のアナハタ・チャクラに進むことができない。これは、神秘生理学的な視点だが、わかったようで何もわかっていない説明である。

 

『知性ゆえに誰もかれも死の安らぎを願っている』とは、死なくして本当の愛を知ることはできないということ。本当の愛とは、大慈大悲。本当に悲しいこと、悲しみの極みが愛の極み。

 

死によって本当の愛を知ると説くが、彼は死に方そのものを問題にしている。知性の限界を試すとして、知性・理性・自我の虚無ゆえに自殺しても本当の愛には届かない。

 

ここで言っているのは、単なる病死、自殺、天変地異・核戦争などでの大量死などの肉体の死ではなく、自我の死のことである。

 

そのことを確認したければ、実際に死んでみたらよいと、彼はダメを押している。クンダリーニ・ヨーガは死の技術と言われるが、肉体死の技術ではなく、自我の死の技術なのだろう。

 

まことにこの辺は、世間的には、大いに誤解や批判を生む言説となり得るが、イエスだって、釈迦だって、「自分勝手な自我」の死を説いていることに変わりはない。ダンテス・ダイジの説明の仕方が、あまりにもストレートなだけである。

 

チベット死者の書では、耳元で死に方を囁くのだが、その根本となっている原理を率直に説明しているだけなのだ。我々は、二〇世紀末を越え、二一世紀の現代人として、進歩して見せねばならぬ。

今こそ、絶体絶命の闇。それを越えて行くのだ。

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ダンテス・ダイジの人類史観-3

2022-10-10 10:29:49 | ダンテス・ダイジの風光

◎死ぬものとて何一つない未知なる国をわれは歩きぬ

 

ダンテス・ダイジは、アトランティス大陸沈没後の紀元前九千年頃、彼は呪術師にして賢者ということで、当時のエジプトの年若き王子ネメシス四世の家庭教師であった。その日、ダンテス・ダイジは、ギリシア地方を、ネメシス四世とともに旅に出ていた。そしてアトランティス滅亡直前に流行した次の歌を口ずさむ。

 

『死ぬものとて

 何一つない

 未知なる国を

 われは歩きぬ----

 

確かに私は、この国に生まれた。しかも私は、この国のものすべてが、何もかもが凍りついた見知らぬ獄舎となるのを見た。

 私が地獄なのだ

 それに間ちがいない。

 宇宙が地獄なのだ

 それに間ちがいない。

 

 私は宇宙の

 トラワレ人で

 頼るものなぞ

 何一つとてない。 

 

しかも私は生きている。一つの小っさな火が一つの夢を、一つの地獄を一つの天国をもたらす

。一つのサクランもだ!

 

一つの小さな煙の名は、ウミトと呼ばれることもある。

私はこれを呪術師ドン・ファン・マトゥスの霊から授かった。まるで専売公社の自動販売機から、セブンスターを買うほどの努力によってだ。』

【戯れに冥想を/ダンテス・ダイジから引用】

 

この一節は老子狂言からではないが、この光景は現代日本とシンクロする。

 

『死ぬものとて 何一つない 未知なる国』とは、神秘そのものである、生死、男女、陰陽などあらゆる区別差別を超えた『有』なる第六身体。

 

ダンテス・ダイジは、近代西洋文明崩壊前夜の日本という国に住んでいる。それにシンクロして、このアトランティス文明が崩壊する直前に若者達の間ではやった歌をくちづさむ。

 

さらに、この国がSNSなどネット、TV、監視カメラ、生体認証などでの行動、思想、信教、言論のコントロールにより、社会全体が一つの獄舎になろうとする光景を見た。出口王仁三郎も同様のシーンを幻視している。

 

そして、アトランティス大陸が沈没したあとのダンティスのギリシアでの一場面を回想してリフレインしている。

 

『死ぬものとて

 何一つない

 未知なる国を

 われは歩きぬ---

 確かに私は、今、この日本という国に住んでいる。そして、このアトランティス文明が崩壊する直前に若者達の間ではやった歌をくちづさむ。

 そして、この国が一つの獄舎になろうとする光景を見た。

そして、アトランティス大陸が沈没したあとのダンティスのギリシアでの一場面を回想している。

 

確かに私はニルヴァーナに安息した存在として日々を生きている。

ダンティスもソムルス酒(エジプト・ギリシヤ方面では、ソーマラスはソムルスと呼ばれていた。)の酔いの中で同じ歌を歌った。

 

  われ神自身

  時々おもえり

  ニルヴァーナこそ

  サクラン

  ではないのかと---』

【戯れに冥想を/ダンテス・ダイジから引用】

 

サクランとは錯乱の音である。しかしサクランとは、ヤキ・インディアンのドン・ファン・マトゥスの呪術におけるこの世の戯れの始まりである煙であるウミトであり、古事記に見えるこの世の始まりの煙みたいな葦牙であり、ユダヤ教なら黒い炎であり、霊界物語の最も重要とされる天祥地瑞巻での神々の不倫のことである。

 

死ぬものとて何一つない未知なる国こそ覚者の日常であり、そういう日常がない自称覚者は偽ものである。日々是好日とはそういう日常。

 

神とともに生きる時代への方向性の基礎を固めた紀元前9千年頃。

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ダンテス・ダイジの人類史観-2

2022-10-10 10:28:32 | ダンテス・ダイジの風光

◎シリウスからエジプトへ

 

ダンテス・ダイジの老子狂言の続き。

『現代西洋文明の合理的理性から見た仮説としての人間観から人間進化を位置づけてみよう。

そうするとレムリア人種は、意欲人間、アトランテス人種は、感情人間、現代西洋人種は、知性人間ということになろう。現代西洋人種とは、地理上の西洋・東洋を意味するのではなく、紀元前3120年以後の人類全体のことである。』

 

ダンテス・ダイジの断簡を読んでいると、レムリアとは明示していないが、大聖者メルキゼデクの悲劇的最期が追憶の一節として登場し、またダンテス・ダイジが人馬合体の姿のケンタウロスであったことも出てくる。当時は、人間の肉体、あり方自体が現代人の想像もつかぬ有様だったのではないか。

 

その延長線上に、彼自身の故郷であるらしいアルファ・ケンタウリ(地球から最も近い恒星、距離4.3光年)の少女と、シリウスから銀色に輝く空飛ぶ円盤で地球に降り立った彼の姿が見え隠れする。シリウスは、犬星というやや傾(かぶ)いた、或いは照れたような表現で、漠然と言及されている。

 

レムリア人の客観的な手がかりはないが、その上で彼はレムリア人を意欲人と規定、アトランティス人を感情人、現代人を知性人と見る。知情意を完備した姿が人間の完成形なのだ。

 

紀元前3120年は、古代エジプトの第一王朝で上エジプトのナルメル王が下エジプトを征服しエジプトを統一した頃。勿論この年代は、地政学的な意義を語っているのではなく、中有的な時代、神の現存を確認しきれぬもやもやした5千年の始まりであって、最終的にその知性で物質文明、火力エネルギー主体の文明を極め、社会と人間において上面だけに神がいる5千年をもって知性人としての成熟を図る。

最終段階たる現代では、アトランティス末期同様に人類絶滅兵器を使用できるようになるが、人類が絶滅を回避できるかどうかは、神のみぞ知る。

 

この5千年は、闇を無視し光を珍重するアポロン的時代。あるいは、生のポジティブ面だけを強調し、死を隠す時代。死の極みは愛の極みに近いがゆえに、死の見えない時代は、愛なき時代でもある。

 

紀元前3120年において、現代の方向性を定めたと唱えるダンテス・ダイジは、それに先行して紀元前九千年頃エジプトに出現して、以降の足がかりを築いている。

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ダンテス・ダイジの人類史観-1

2022-10-10 10:27:45 | ダンテス・ダイジの風光

◎説明不能の部分-いまや文明は終わった

 

ダンテス・ダイジの老子狂言から。

以下の部分は、全体として彼の歴史観を端的に示した数少ない部分である。ダンテス・ダイジは、この文明を中有タイプの文明と評価している。天国でもなく地獄でもなく不分明だが、天国と地獄の結婚の先へも行けない、と。

 

『○

 

感情とそれからにじみ出す想像力は、欲望として以外にありえぬ個生命—人間にとって実に巨大な力を与えていた。

アトランティス文明の黄金時代は、人類の感情・想像・記憶を司るアストラル・パワーの開花の時だといってよい。

自我意識、合理的理性が未だ発達していないアトランティス人種は、合理的科学法則とはまったく異質の多くの夢を実現することができた。しかし、人類の進化は、そこでとどまることをゆるさない。あらゆる個生命は、欲念を原動力として流動転変せざるを得ないからである。欲念相続には、完全満足なる到達点はあり得ないことは言うまでもないだろう。

 

欲望は欲望を滅尽させるために欲望としてある。欲望は、充足と苦悩というゲームの作り手なのだ。』

(ダンテス・ダイジの老子狂言から引用)

 

アトランティスは3期あり、その黄金時代は、神の宮アメンティにトオス以下神人がおわしまして、神政一致の政治をとっていた。アトランティスは、最初から黄金時代であったわけでもなく、また最終盤は、黄金の輝きを失った我欲の時代となり、全島沈没の憂き目を見ることになった。それをいち早く、予感した人々は、エジプト、ギリシア、中米、北欧、日本などに避難していった。

 

感情人の時代だったアトランティスは、感情・想像・記憶を司るアストラル・パワーを十全に活用し、自我意識、合理的理性が発達していないにもかかわらず、文明都市を作り上げた。最後にはピラミッドを建設し、そこに文明の精華を封印したなどと言われるのは、現代科学からみても驚異と言えよう。

 

だが、欲望のゲーム、喜怒哀楽のゲームは常に満足と苦悩の間を往復し、決して終わることがないがゆえにそのゲームは既に終わっている。

ここは、アトランティス時代限定ではなく、現代も同様の部分。

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