◎横超=選択本願・真実報土・即得往生
親鸞の愚禿鈔の冒頭『賢者の信を聞きて、愚禿が心を顕す。
賢者の信は、内は賢にして外は愚なり。
愚禿が心は、内は愚にして外は賢なり。』
愚禿は、親鸞のこと。賢者すなわち悟った人の信仰のありようを聞けば、自分のそれとの違いがはっきりして、自分の愚なることが明らかになる。親鸞がこれを書いた頃は、字面では悟ってないと広言しているわけだ。29歳で信心決定したが、そのピーク・エクスペリアンスは、過去のものになったから、殊更に愚禿と卑下しているのか。
大乗の中に頓教(すぐ悟る)と漸教(だんだん悟る)の二教あるが、念仏は頓教に分類される。
頓教には、二つの悟りに至る道があり、一つは竪超であり、即身成仏や即身是仏を目指すもの。いまひとつは横超であり、弥陀の本願を信じて死後たちどころに真実報土に往生すること。
弥陀の本願を信じて念仏を唱えれば、死後たちどころに浄土への往生が実現すると主張しているのだが、念仏を一生懸命となえても、必ずしも死を待って浄土に往生するわけでなく、人によっては、即身是仏というようなことも起きる。たとえば妙好人浅原才一などは、どうも既に仏に出会うという体験は通過してしまっている。
先入観なく見れば、念仏で到る悉地=マントラ・シッディはマントラ・シッディに留まるものではないというのが、不思議ではあるが、そのことは現代科学の解明手法では手に負えない。自分で察するしかないところがある。