◎老子狂言の老子
『老子
老子について何も知らない。
ただ
気楽な人だったなあと、
私は思う。
そうなってゆく、そのままの人。
そうなってゆく石ころ。
そうなっていく雨だれ。
ただ
素直にやわらかく、
豊かだったなあと、
私は思う。
イエスのように純真だが、
そのオトボケは、ソクラテスを楽々とノイローゼにさせるほどの俗物中の俗物。
もちろん、
老子とは個人の名前でもなく、
老子という本の名前でもない。
宇宙の名前だといったらよいのか?
無限の名前といったらいいのか?
否、否、三たび否!
老子が老子と名付けたらしい。
ありとあらゆるものそれ自身を、
誰かが仮りに
老子 と名づけたようだ。
それだからこそ、
老子はあたりまえな人間なのだ・・・』
(老子狂言/ダンテス・ダイジから引用)
『気楽な人』と『そのオトボケ』は、クンダリーニ・ヨーガに比し、ある程度の鈍感さが、水平の悟りにあることと関係がある。
タオの高みにある人は、その崇高な生き方を意気がってやや得意げに語ったりしないものだが、老子にはそういうところが見え隠れする。
柔弱な生き方を老子は自在にできていて、得意げである。気楽さが見える。
老子の中には、人間という視点が全くないものがあって、取り付く島もないものがあるが、それがややデリカシーに欠けた生の側から極めるということである。石ころのようだ。