◎輪廻転生の実態-3
◎ジェイド・タブレット-10-13
◎垂直上昇への仕掛け-13
◎マーヤなる記憶の解体と再構成
更にOSHOバグワンの説明は続く。
『たいていの人は思いださない。ひとりの人間の記憶システムを、まるごと引き継ぐ人は少ないからだ。あちこちのものを、断片的に引き継ぐ人は多い。そうした断片の集まりが、あなたの「みじめさのシステム』を形成している。この地球上で死んだあらゆる人たちは、みじめさのなかで死んだ。
ほんのわずかな人たちだけが、よろこびのなかで死んだ。ほんのわずかの人たちだけが、無心(ノーマインド)を領解して死んだ。
そういう人たちは足跡を残さない。記憶という重荷を他人に背負わせることはない。そういう人たちはただ、宇宙のなかに散っていく。そういう人たちには、マインドがない。記憶システムがない。すでに、瞑想のなかでそれを溶かしつくしている。光明を得た人がけっして再誕しないのはそのためだ。
ところが、光明を得ていない人たちは、死ぬたびに、みじめさのあらゆるパターンを放出する。富が富を呼ぶように、みじめさはみじめさを呼ぶ。あなたがみじめにしているなら、何マイルも向こうのみじめさがあなたに引き寄せられてくる。あなたはうってつけの媒体だというわけだ。
これはラジオの電波のように、目でとらえるのはとてもむずかしい現象だ。ラジオの電波はあなたの周囲をとりまいているのだが、あなたにはそれが聞こえない。受信のための適切な装置があれば、すぐにもそれが聞こえるのだが。ラジオがなくとも、電波はあなたのまわりを飛び回っている。
輪廻というものはない。それでもみじめさは輪廻する。無数の人々の痛みがあなたの周囲を飛び回っていて、みじめになりたがっている人を捜している。至福にあふれる人は、足跡を残さない。目覚めた人は、空に飛び立つ鳥のように死んでゆく。なんの痕跡も道筋も残さない。空は空っぽのままだ。
至福はなんの痕跡も残さずに動いてゆく。あなたがたが覚者たちの遺産を相続することがないのはそのためだ。彼らはただ消えてゆく。ところが、ありとあらゆる馬鹿で愚鈍な人たちは、記憶の輪廻をくりかえし、それは日々に濃厚になってゆく」
「あなた自身の欲望と願望に対して、とても意識的になりなさい。それらはあなたの知らないうちに、すでに、あなたのとるであろう新しい形態の種を作りつつあるのだから」』
(『The Zen manifesto』』(和尚と過ごしたダイアモンドの日々/マ・プレム・シュンニョ/和尚エンタープライズジャパンP424-425から引用)
マンツーマンあるいはワン・パーソン トゥ ワン・パーソンの輪廻転生を否定して、なおかつ輪廻転生の真実のメカニズムに、これほどまで踏み込んで来た説明は、有史以来なかったのではないか。
この説明で語られる記憶とは、思い出とか思いという淡い泡沫のような心理上の一欠片のことではなく、日々積み重ねてきた善行悪行の集積であるところのカルマのことである。
一人の人間の記憶システムを別の一人の人間が丸ごと引き継ぐことが稀であるとは、マンツーマンでの輪廻転生は希少ということである。
チベット死者の書を見ると、あたかもある一人のカルマが別の肉体に乗り移り転生していくような印象を受けるものだ。しかしOSHOバグワンは、それは誤解であって、そんな形式での転生はレアものだとする。
われわれのみじめさのシステムのことを無明=マーヤと呼ぶ。マーヤが、一人の死者から多くのマーヤなる生きる人々に伝播し、マーヤを部分的に受け継いだ人は、亡くなるに際してそのマーヤをバラバラに放出し、マーヤが乗り移りやすいメディアとしての複数の人物にひきとってもらう。
これが輪廻転生の実相なのだ。OSHOバグワンは記憶の輪廻と呼んでいるが、そこで言う記憶とは、心理現象としての記憶のことではなく、現象を生成していくカルマとしての動因、モチベーションのことである。
西洋では、古くから記憶術という言葉で表された、観想でもって現実を構成していく技術が知られていた。
地球の人口は70億に達したが、かつては全世界で2億人くらいの時代もあったらしい。さすれば、差し引き68億の人間の魂はどこから来たのだろうか。あの世での転生インターバルを数千年間隔の超長期にすれば辻褄はあうが、長すぎやしないか。
つまりマンツーマン輪廻転生を認める立場からすれば、大半の現代人の直前の転生が、数千年前の新石器時代であるというシナリオは、過去世記憶を論じる立場からすると、その魂の文明社会での生活経験がないためにその転生体験は面白味を欠くだろうってこと。
それでは先祖供養って何、家族って何、生誕する子宮を選んで転生してくるところの自分って何、などと無数の疑問が出て来るのも仕方のないことだ。
しかしOSHOバグワンの話の力点は、あくまで覚醒の方にある。