ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

映画「ザ・ダイバー」Men of Honor 前編

2025-01-29 | 映画

「リトルロック」艦内の展示で、海軍御用達でもあった潜水スーツ、
Mk.5の存在とともに、アフリカ系の最初海軍潜水士の一人であり、
また、アフリカ系初のマスターダイバー資格保持者でもあった、

カール・マキシー・ブラシア上級曹長
MACPO Carl Maxie Brashear


を主人公として描いた映画、「Men of Honor」
邦題「ザ・ダイバー」のことを知り、取り上げることにしました。

ブラッシャー本人を演じるのがキューバ・グッディングJr.、
彼の上官として最初はその前に立ちはだかる潜水士にロバート・デ・ニーロ、
となれば、もうこれは当たりの予感しかありませんでしたが、
実際、文句なしによくできた映画だと思いました。
ブログのために観た映画としては、今までで最も楽しめたかもしれません。


1966年。
ニュースでは、地中海に衝突により墜落したB-52戦略爆撃機が、
海中に落下させた水素爆弾を海軍が回収することを告げていました。

この事故は、パロマレス米軍機墜落事故といい、
実際には4個の落下爆弾のうち2個は通常爆発(核爆発ではない)し、
2個が陸と海に一つづつ無事に?落下したのですが、
捜索の結果事故80日後に発見された爆弾が海軍によって回収されました。


作業中のサルベージ艦USS「ホイスト」甲板にアフリカ系の軍人がいます。



さて、ここはどこでしょうか。

各座席の前に一つづつアナログのミニテレビが取り付けられた、
なんとも贅沢な?この待合室に3人の海軍軍人がいました。



両脇をセーラー服の水兵に挟まれたこの男、ビリー・サンデー。
傷だらけでおまけに手錠をはめられています。
何かやらかして海軍裁判所に連れてこられたようです。

テレビ画面のアフリカ系軍人を見ると、男は、

"Ornery son of a bitch."
(癇癪持ちのクソ野郎が)

と毒づき、それを聞き咎めた水兵が、

「曹長(Chief)様は黒人好きらしいぞ」

と言ったとたん、いきなりキレて手錠で二人を殴り、

「チーフじゃない、マスターチーフと呼ばないと手首折るぞ」

「あんた降格されたじゃないか」


(手首を捻りあげながら)「どうでもいいわ!」

「うう・・すんません・・・マスターチーフ」

「よし」

なんという乱暴者。
しかし、サンデー軍曹は、画面を凝視しながら、

「カール・・・・」

とその名をつぶやきます。

マスターチーフ・ペティ・オフィサー(MACP)は、
等級E-9の下士官、最先任(最上級)上等兵曹のことです。

なぜ彼は階級降格され、しかも裁判にかけられようとしているのでしょうか。



ここから遡ること23年、1943年の、ここはケンタッキー。

つなぎのジーンズと、靴を履いたままの格好で池に飛び込み、
水底に沈んだ車を潜って遊ぶ、14歳の黒人少年がいました。

なぜ着のみ着のままで泳ぐのかは謎ですが、とにかくこれが
のちの海軍ダイバー、カール・ブラシアの少年時代です。


黒人の人権など全くなかったこの時代、彼の父もまた、
小作人として苦しい生活をしていました。



手伝うよ、という息子に、

「俺のようになるな」

という父親。


学校に通いながら父の手伝いをして成長したカールですが、
彼にはこの生活から抜け出すための一つの望みがありました。

海軍に入ることです。



カールも海軍入隊を果たし、故郷を離れる日が来ました。



休みになれば帰るというカールに、父は、
二度と戻ってくるな、そして戦えと声をかけます。
そして唯一の財産ともいうべきラジオを手渡しました。



当時入隊した黒人の配置は例外なく厨房か雑用係です。
カールの最初の任務もUSS「ホイスト」のコックでした。



南太平洋に展開していた「ホイスト」は、
ある日暑さしのぎに乗組員に遊泳許可を出していました。

戦争も終わったからこそできることですが、
ここにはサメはいないのかしら。


黒人兵も泳がせてもらえますが、週一度火曜のみとされていました。
白人兵たちがはしゃいでいるのを見ていたカール、やおらズボンを脱ぎ出し、
何人かの制止を振り切って甲板から海に飛び込みます。



それを見ていた「ハドソン」艦長プルマンと、副長のハンクス。
すぐに彼を止めるために人をやりますが、



カールは競泳に持ち込み、相手を負かしてしまいました。


黒人水兵や下士官はこっそり快哉を叫び、



白人下士官たちはその騒ぎを不快げに見ています。
その中に、ビリー・サンデー上級曹長がいました。



その晩、ブリッグス(艦内牢屋)に入れられたブラシアのもとに
なんとプルマン艦長がやってくるではないですか。
そして、



「船から落ちた水兵を救助する仕事があるから、貴様、それになれ」

泳ぎが抜群に上手く、肝っ玉が座っている、と艦長は見込んだのです。
それは同時に上等兵への昇進を意味していました。



次の日、事故が起こります。
「ハドソン」に郵便物を運んできたヘリ(シコルスキーのHSS-1?)が、
甲板に荷下ろし中、海に墜落したのです。


海上で炎を噴くヘリ。
すぐさま艦長からダイバーに救難指令がかかりました。


ダイバー投入後、引き揚げが始まりました。
はて、ヘリ墜落現場までどうやって往復したのかな。



ダイバー目線。
以前当ブログでご紹介したマーク5のヘルメットという設定ですが、
映画で使われたのは別のメーカーのそれらしく作ったものらしいです。


パイロットを揚収したのはビリー・サンデー上級曹長でした。

軍医がパイロットの生死を確かめ首を横に振ると、
サンデーはあと数分早かったら助かったのに、と吠えます。



しかも、この日の「ハドソン」に、続いて事故が起こってしまいます。
副機長の救出のために別のダイバーを投入しようとしていたところ、
ワイヤが切れ、ダイバーがスーツを付けたまま海に転落したのです。



そこで、減圧室に向かおうとしていたサンデーが戻ってきて、
今すぐ行けば、窒素が溜まる前に15分未満の間隔を空けて潜る
「バウンス・ダイブ」と同条件だから助けに行く、と服を脱ぎ出します。

ウェイトをつけて素潜りする気です。

バウンスダイブは250m以浅の水深で行われることが条件ですが、
正しく行ったところで潜水病は避けられないほど危険な方法です。


しかもここは深すぎる、と言っていますね。

ハンクス副長が危険を理由にそれに反対しますが、
この、最後まで主人公二人の「敵」になる悪役キャラ、
こんな事態に「最後にサーをつけろ」などと言い放つくらいですから
おそらく優秀だが鼻持ちならないエリート意識まみれのパワハラ気質。

ちなみに「サー」と呼ばれたがる?のは士官だけで、
CPOクラスはこう呼ばれることを何よりも嫌います。



副長の阻止を振り切って海に飛び込むサンデーを、
驚きと称賛の眼差しで見つめるブラシア。



サンデーの働きにより、同僚潜水士の命は助かりましたが、
その代償はあまりにも大きなものでした。

彼は完治不能の空気塞栓症(動脈中に生じた気泡によって
各器官への血液供給が妨げられる状態)つまり潜水病で、
もう二度と現場復帰はできないと医師から宣告されてしまいます。



病院内で荒れて大暴れするサンデー。

なお被害者たち

この時働いた乱暴狼藉その他色々の罪で、
サンデー上級曹長は3ヶ月停職ならびに教官任務に戻す措置を受けました。


当然だろ、みたいな顔をしてすましているハンクス副長。
イケメンの無駄遣い(デビッド・コンラッド)。



言い渡されたサンデーがここで敬礼するんだけど、
この敬礼・・どう見ても無茶苦茶陸軍式なんですがこれは。

デニーロが偉すぎて誰も注意できなかったか。


そうそう、このプルマン艦長の敬礼、これがまっこと正しく海軍式。

しかし残念ながら、基本海軍(海兵隊)では無帽の敬礼はしません。
陸軍と空軍は無帽でも敬礼をするため、海軍軍人は、
彼らと一緒の時には無礼にならぬよう相手に合わせるそうです。

それからそもそも、ここ、MPもいるちゃんとした軍事法廷で、
艦長が裁判長みたいに判決言い渡しして槌まで打ってるんですが、
これって艦長じゃなくて法務官の仕事よね。



裁判を傍聴していたブラシアは、皆が退出後、いきなり艦長に、
ダイバーになりたいから推薦してくれと直球で頼みます。

「三日前にキッチンから掌帆員にしたばかりだぞ」

「借りは返します。サー」


黒人は養成所に受け入れてもらえないだろう、無駄になると思うがな、
といいながらも、プルマン大佐はそれを引き受けます。

ケンタッキーの徴兵官もそうですが、入った後でどんな目に遭おうと、
入れる者にとって知ったこっちゃないからですねわかります。


嘆願書を書きまくってようやく潜水学校入学許可が出た時には、
すでに2年が経過していたってんだからびっくりだ。

そこで彼はニュージャージにやってきたのですが、ここからがもう大変。
サンデーMCPOが無視したせいで、門から中に入ることすらできません。



何時間か後通りがかって、田舎に帰れ!というサンデーに、

「私は海軍兵士です。
誇り高き海軍兵士は、ラバで畑を耕しません」


とさりげなく自分の出自を匂わせつつ断言するブラシア。

するとサンデーは、コーンパイプを持った自分の手をちらっと眺めます。
そこにはブラシアの父の掌にあったのと同じ、鋤を握ったタコの跡が・・・。

その後、上級曹長は彼に入門許可をぶっきらぼうに言い渡しました。


やっと門の中に入れたと思ったら、今度は先輩水兵たちから、
噛みタバコを真っ白いズボンに吐きかけられるという歓迎を受けます。



白人ばかりの潜水学校生はブラシアに敵意を顕にしてきました。

ブラシアの入舎をサンデー曹長が皆に通告すると、
一人が嫌悪感を隠さず「黒人と一緒はごめんです」といい放ち、


最初に声をかけてくれた吃音症の青年、スノウヒル一人を残し、
全員がバラックをゾロゾロと出て行ってしまいました。

マスターチーフは白人水兵のこの行動に対し何も注意しません。


このスノウヒル一人が、彼に対し「普通に」接してくれ、
しかも、宿舎を出ていく他の連中にも付き合いませんでした。
不思議に思ったブラシアが、

「君は行かないのか?」

と聞くと、

「いや。俺はウィスコンシンから来た」

「・・・?」



しかも、ブラシアのベッドの上部にはいきなりこんな紙が貼られていました。

「溺れさせてやるぞ ニガー」

この貼り紙の嫌がらせは、カール・ブラシアが実際に受けたものです。


その夜、ブラシアはサンデーに叩き起こされ、リンチを受けます。
水責めにしながらサンデーは、ヘイトをぶつけ、ついでに

「貴様ら黒人が安い賃金でも平気で働くせいで、
俺の親父は農場を追い出されて酒浸りで死んだ!」

と個人的な恨みを吐き散らかすのでした。
これが彼が黒人を毛嫌いする理由の一つだったのです。
しかしそんなことを言われてもだな。

ただ言えるのは、おそらく彼もまた、そんな暮らしから抜け出すために
海軍に入り、努力と才能でマスター・ダイバーにまで上り詰めたということ。



翌日、新兵は潜水訓練を見学することになりました。


胸当ての「マーク5」が強調されていますが、これは
この胸当ての部分だけが本物のマーク5が使われているからだそうです。


「”彼”は神のしもべだが、俺は神だ」

海軍のチーフという人種が自分を神だと思っている、というジョークは
当ブログでご紹介したことがありますが、こいつマジで言ってます。

「彼」とは、実在の人物で、エバンジェリストのビリー・サンデーという、
彼と同名のメジャーリーガーでかつKKKから献金を受けていた聖職者のこと。

サンデーという名前は、多分この黒人ヘイトで名高い人物から取られました。


この字幕では「特務曹長」となっていますが、特務曹長は准士官のことで、
正確にはサンデーはマスターチーフ「最上級上等兵曹」です。

アメリカ軍の階級を日本語で表すのは文字的には可能ですが、
口語では「マスターチーフ」というしかないので、これは間違いです。

さて、その神たるマスターチーフがターゲットにしたのは、
黒人に同情して一人バラックに残った、可哀想なスノウヒルでした。

身上書を調べた上でここにやってきたらしく、スノウヒルが
ウィスコンシン大学の水泳部のキャプテンで州大会に優勝したことや、
大学2年生で彼女を妊娠させて結婚したことまで皆の前で暴露し、
その後、錘を抱かせていきなり海に突き落とすという暴挙に及びました。

そして、彼がウェイトなしで浮いてくると、
訓練の停止を(まだ訓練に入っていないのに)命じたのです。

ブラシアに同情したばっかりに、こんな目に・・・・(-人-)


さて、ともかくその後、陸上での訓練が始まりました。
そちらは順調ですが、中学までしか学校に行っていないブラシア、
筆記試験がどうにも苦手です。



座学の教官はテストを返しながら、

「次の試験に不合格だったら退学になるぞ」

しかし、彼は同時に小さな声で、外で勉強することを勧めてきました。
周りの全てが敵ではないとブラシアが知った2度目の出来事でした。



そこで彼は週末の休暇に図書館に行き、そこで誰かに
一般教養科目を教えてもらおうとしました。

もちろん図書館ではそんなことはやっていないのですが、
彼はそこで司書として働きながら医学部に通っている女性、
ジョーに目をつけて、泣き落とし始め、あの手この手で頼み込み、
なんとか個人教授してもらう約束を取り付けることができたのです。



何日間かの特訓で、次の試験は76点という及第点を取りました。

試験を返しながら口の端でだけ微笑む教官。(いい人)
思わず安堵のため息をつくブラシアでした。



そして始まった実地訓練。
二人組で海底に沈んだ練習船の穴を塞いで引き上げるというものですが、
ブラシアの前のルーク&アイザート(どちらもいじめっ子)組が作業中、
練習船が海底を15メートル滑り落ちるというアクシデントが起きます。

直ちに浮上が命じられましたが、アイザートのホースが絡まって動けません。


救出に向かうため、マスターチーフは服を脱ぎだしますが、
ブラシアは潜水服をすでに着ている自分が行くと名乗り出ました。


アイザートを脱出させるためには、ホースを外して
ブラシアの持ってきたホースに付け替える作業を行いますが、
そのためには一旦送っている空気を止めなくてはなりません。

しかし作業中船が激しく動き出したため、恐怖に駆られたアイザートは、

「もうダイバーなんかやめるぅー!家に帰るぅー!」

とパニクり、怖くなったロークはバディを見捨てて逃げ出しました。



ブラシアはアイザートが意識を失う寸前に冷静にホースを繋ぐことに成功。
アイザートは息を取り戻し、ヘルメットの中でブラシアに微笑みました。


こちら、バディの必死の制止を振り切って一人浮上してきたローク。


マスターチーフは無言のまま心底軽蔑した顔でロークを睨みつけます。
これがブラシアだったら、瞬時にクビだったでしょう。


それどころか!

事故に際し、「命をかけてバディを救った」として、
叙勲されたのはブラシアではなく、逃げたそのロークだったのです。



そして「ダイバーなんかもう嫌だ」と叫んでいたアイザートは
その言葉通り、ロークの叙勲式の真っ最中に基地を出て行きます。


ロークが表彰されているのをわずかに侮蔑を浮かべて見ていた彼ですが、
ブラシアと目が合うと、彼にだけわかるように目で挨拶をしました。

それはブラシアだけにわかるアイザートからの感謝と共感でした。


それにしても、こんな表彰誰も得しないよね。
解散しても誰も彼に声かけないし、本人も全然嬉しくなさそう。



ある日カールは実家にかけた電話で父の死を知らされました。


波止場で泣き濡れる彼の前に現れたド派手な美女。

「グウェン・サンデーよ」

つまりあのビリー・サンデーの妻であると。

「それは残念です」(Sorry to hear that.)

それがいきなり彼女こんなことを言い出すじゃありませんか。

「彼はあなたを海軍から追い出すつもりよ。
このまま黙ってされるままになるつもり?
彼がその気ならあなたも何かするべきじゃない?」


本作でおそらく美女的彩りのために投入されたシャリーズ・セロン演じる
このサンデーの妻ですが、最後までその立ち位置がわかりません。

下士官の妻がなんだってこんな格好で夜ウロウロしてるのか。
潜水艦学校内での夫のパワハラの内容を知っているだけでなく、
会ったこともない黒人下士官の味方をするのか。



グウェンが夫のいる酒場にブラシアを伴って入っていくと、
ロークその他が色めき立ちますが、サンデー本人は余裕かましてきます。


かましついでに、愛用のコーンパイプの由来を話し始めます。
またか、みたいな顔をするグゥエン(笑)

曰く、
これはマッカーサー元帥の愛用していたもので、
レイテ湾では彼の下で戦った(はて、海軍なのに?)。
特攻隊が突撃した護衛空母「セント・ロー」に乗っていた彼は
機関室から水没した艦内を5階分泳いで抜け出し助かった。

そしてその時にマッカーサーの声が、

「サンデー、このちくしょうめ、4分間息なんて止められないだろう」

と聞こえたので、パイプを賭けるならやってみせると答えた。
機関室にいた6人も俺が助けた。

なんで「セント・ロー」でマッカーサーの声が聞こえた気がしたのか。
そもそも海軍軍人ならそこで聞こえる声はニミッツの方がよくないか?

と、これを見ている人のおそらく26%くらいの人が思うでしょうが、
おそらく監督は陸海軍の相剋についてはあまり関心のない人なのでしょう。



そして彼は勢いで店内に都合よく二つ吊られていた潜水マスクを使い、
息止め競争で俺に負けたら出ていけ、と勝負を強制します。



そして二人のヘルメットに水が注がれていくわけですが・・。



いや、あの、真剣な顔をしているところ申し訳ないんですが、
このヘルメットって、スーツの首部分に捩じ込んで固定するやつだよね?
下から水漏れるよね?こんな金魚鉢みたいに水溜まらないよね?
大体今どこからどうやって水注入してるの?


その時バーにジョーが入ってきました。
そういえばブラシア、ジョーを電話で呼び出してたんだね。

きっかけを作った張本人グウェンは見ていられずバーを脱出し、
ジョーもまた勝負を見届けず出て行きます。

おいおい、二人ともそこは最後まで見守ろう。



4分経つ前に勝負はつきました。
サンデーが鼻血を噴き出したため中止となったのです。



その時外ですごい音がしました。
なんと、グウェンが車を暴走させ、事故ったのです。



あっという間に回復して走り出てきたサンデーは妻を抱きしめ、

「帰ろう」

いやだからさっきから何やってんのこの二人。
ってか、この奥さん何がやりたかったの?



ジョーは、カールと一緒ではこれからもこんな思いをするかもしれないと
彼を拒否しますが、なぜか次の瞬間プロポーズを受け入れます。

なぜ危険なあなたなど見ていられないと言った直後、タクシー運転手に

「(追いかけてくる男が)結婚してくれるか知りたがってる」

と言われたくらいで考えを180度変えるのかよくわかりませんが、
まあまずはめでたしめでたしってことにしないと話が続かないのでしょう。

どちらにしても、この実話ベースの話に無理くり盛り込んだ女性
(特にシャリーズ・セロン)の描き方が雑で、表面的。
実に感興を削ぐというか、はっきり言って邪魔ですらあります。

大体、いつの間にブラシアとジョー、恋人同士になったんだよ。

デニーロ演じる架空のマスターチーフがあまりに無茶苦茶で凶暴なので、
そのバイオレンスな部分を緩和するために配した女性役かもしれないけど、
いずれにしても他にもっと時間を割くべきところがあったんじゃない?

と思いました。

続く。


「メン・オブ・オナー」海軍潜水士〜USS「リトルロック」展示

2025-01-26 | 博物館・資料館・テーマパーク

ミサイル巡洋艦「リトルロック」館内の展示物をご紹介しています。
ベトナム戦争関連展示が終わると、次のコーナーは潜水関係でした。


水中眼鏡を人類が使用するようになったのは13世紀と言われています。

古代ペルシャ人は水中で真珠を見つけるために
亀の甲羅を薄くスライスしたものをメガネとして開発しました。

それから数世紀後、人類が到達したのがここにある潜水スタイル。

この潜水用のスーツのことをcopper hat equipment(銅帽装備)
あるいはスタンダード・ダイビングドレスといいます。

銅製のヘルメット、分厚いキャンバス地の潜水服、手袋、
胴には錘を巻いており、ブーツはそれ自体が錘となるものです。

ダイバーであったジョンとチャールズ・ディーン(Deane)兄弟が、
19世紀ドイツの発明家、アウグスタス・ジーべ(Augusutas siebe)
に依頼してこのようなセットを最初に発明しました。

1873年の新聞より、ジーべデザインの潜水服

ここに展示されているのは1916年に開発されたMark 5ドレス
初めて海洋の深部で作業することを可能にしたもので、
20世紀初頭の技術の革新の結晶というべき発明品です。

1916年から1984年の長きにわたって米海軍で使用されただけでなく、
現在でも潮流の強い環境では商業・産業シーンで使用されています。

展示モデルは胸に漏斗状のものを抱えていますが、これは懐中電灯。

ヘルメットのハンドルにテープで貼り付けたもので、
夜間、視界の悪い濁った状態でもダイバーの作業場所を照らします。

そして、胴体に巻かれた浮力制御のためのウェイトベルトは革製。
ダイバーが呼吸して肺が膨らんだりスーツ内部が膨らんでも
浮き上がらないようにするものです。

ベルトには調整つ可能なハーネスと股間ストラップがついており、
鉛のブロックの総重量は84ポンド(38キロ)です。

着ているスーツはマークVドレスといい、キャンバスとゴムでできていて、
付属品を全て含めると約30ポンドの重さになります。

エアホース、ライフライン、通信ラインなどの臍帯は展示されていません。

そしてブーツ。

靴底は鉛、つま先に真鍮があしらわれていますが、
それ以外はなんと普通のキャンバス地でストラップは革紐です。

これって、水中で紐が解けても絶対自分で結べないよね。




マークVヘルメットには、ガラスポートが四つ開けられており、
顔の前面のガラス窓は外から開きます。
ガラスの破損を防ぐために、格子が各ポートごとにあしらわれています。



フェースプレートと左側面のポートの間に吐水コックが見えます。

ダイバーはこのコックを通じて口に水を吸い込み、
フェイスプレートの曇りを取るためにガラスに噴きかけます。

ポートを通して通信システムや調整排気バルブが装着されており、
排気バルブではヘルメット内の気圧コントロールすることができます。

供給酸素の仕組みはヘリウム/混合ガスになりますが、
このシステムが初めて実際に投入されたのは、1939年、
あの潜水艦USS「スクアーラス」SS192の引き揚げ作業でした。

潜水艦「スクアーラス」
USS Squalus (SS-192)


については、以前潜水艦「シルバーサイズ」シリーズで、
第3代艦長ジョン・ニコルス中佐が、少尉時代乗り組んで事故に遭遇し、
奇跡的に生還したというネタで取り上げたことがあります。

新艦長ジョン・ニコルス中佐の謎

1939年、「スクアーラス」は、試験潜航中、
致命的なバルブ不良に見舞われ、水深240フィートで静止し、
翌日行われた救出作戦で、33名が生還するということになりました。

このときは、最先端のレスキューチャンバー、
マッカン・レスキューチャンバーが投入されたとされますが、
ダイバーもまた最新鋭のダイビングスーツを着用しており、
それがこのタイプでした。




1837年創立で、第一次世界大戦中はMk.5を製造していた
ボストンの真鍮会社モース&サンMorse & Son Co.の銘が入った道具。

レバーとホースを出す穴があることから、
ダイビングスーツにホースを通じて空気か何かを送る機械だと思いますが、
現地に説明がなかったので正解はわかりません。


ガラスケースに納められた潜水グッズ。
かなり近代的なシェイプをしているのがわかりますが、

1970年のマイク・カーソン・マーク3・エアハット
(Mike Carson Mark 3 Air Hat)によく似たこのヘルメットは、
水深250フィートまでの商業ダイビングや、
サルベージダイビング用にデザインされた。
グラスファイバー製で、より快適なヘッドライナーと、
より信頼性の高い双方向通信システムが装備されている。

と説明がありました。
写真を見る限り、そのマイク・カーソンそっくりですが、
ノズルに入れられたメーカー名?はWhitbyとなっています。

そういう会社があるのかどうかはわかりませんが、カナダとイングランドに
ウィットビーという海(湖)沿いの街があることはわかりました。

おそらく博物館関係者も出どころがわからなかったのでしょう。


Diver Down Flag

1956年に海軍退役軍人のデンゼル・ドッカリーが考案し、
USダイバーズのテッド・ニクソンが普及させたこの旗は、
アメリカの多くの州、カナダ、その他のいくつかの国で、
ダイバーが潜水中に掲げて船舶に接近しないように警告するものです。

ダイバーが入水中にこの旗から一定の距離を保つことは
法律や規則で義務付けられています。


アメリカ海軍上級曹長、

カール・ブラッシャー(Carl Brashear)

は、アメリカ海軍のマスターダイバーという、
最高にして最難関の資格を保有した伝説のダイバーです。


ブラッシャーは1948年、ハリー・S・トルーマン大統領によって
軍隊の人種差別が廃止される4か月前にアメリカ海軍に入隊し、
海軍潜水・救助学校を卒業した最初のアフリカ系アメリカ人、
アメリカ海軍の最初のアフリカ系ダイバーの一人となりました。

潜水学校では寝台に

「今日はお前を溺れさせてやるぞ、ニガー!」
「ニガーのダイバーなんかいらない」

とメモを置かれるような差別を受けましたが、
心ある同僚に励まされ、17名の学年中16位で卒業します。

最初の任務は、損壊したはしけから、海中に落下した
約 16,000 発の弾薬を回収するというものでした。

その後も、ブルーエンジェルス機を含む機体の引き揚げ、
海から犠牲者の遺体を回収するなどの海軍における任務を負いました。

そして、アイゼンハワー大統領時代、ブラッシャーは
大統領のヨットを護衛する任務を与えられ、その際、
大統領直々より記念のナイフを贈呈されています。

上等兵曹に昇進した彼は主に爆破潜水に従事することになりました。

彼が真の伝説となったのは実はここからです。

1966年、パロマレス事件として知られる事故で、
B-52Gとストラトタンカー空中給油機が空中給油中衝突し、
核爆弾が海中に失われた際、ブラッシャーは弾頭捜索チームに加わりました。

その爆弾回収作業中、吊り上げケーブルが切れ、
海上で捜索作業をしていたUSS「ホイスト」の甲板上でパイプが揺れ動き、
咄嗟に仲間の体が当たらないように押し除けたブラッシャーは、
自分自身がケーブルの直撃を左足膝下に受けてしまいます。

すぐに病院に緊急搬送されましたが、
感染症と壊死のため最終的に左下肢を切断することになりました。

しかしながら、彼はその後も海軍に留まり、リハビリを受けて
最終的にアメリカ海軍の潜水士として再認定を受けます。

1970年に、アフリカ系アメリカ人初のマスターダイバーとなり
翌年マスターチーフボースンメイトの等級を獲得。

彼は、

「倒されることは罪ではない。倒れたままでいることが罪である」

「私は誰にも私の夢を奪わせない」

という言葉をモットーにしていました。

Men of Honor - Official® Trailer [HD]

彼をモデルにした映画、Men of Honor(ザ・ダイバー)では
主役をキューバ・グッディング・ジュニアが演じています。

当ブログ映画部は、次回この作品を取り上げますのでどうぞお楽しみに。


これは、同室に展示された一人の「ハードハット・ダイバー」の写真です。

C・ウォルター・シャロンというこのロチェスター出身のダイバーについて
検索してみましたが全く情報が拾えませんでした。

わかるのは、彼がわずか21歳の生涯を終えたということだけです。


ダイバーは橋梁やドックの建設、救助作業、船舶メンテナンス、
水中基礎の構築などの仕事になくてはなりませんが、
少しのミスが命取りになる大変危険な任務です。

近年ダイビングギアの開発は進み、安全性は格段に上がりましたが、
潜水障害が引き起こす関節痛、心臓麻痺などの危険は依然としてあります。

いつも命の危険と隣り合わせであることは昔と全く変わっていません。


続く。






セネカ陸軍基地の白い鹿〜USS「リトルロック」艦内展示

2025-01-23 | 博物館・資料館・テーマパーク

ミサイル巡洋艦「リトルロック」のセカンドデッキを、
艦尾から艦首に向かって歩いてきました。



今いるのは数字の18、オフィサーワードルームのところです。

■ 海軍新兵訓練所のあったサンプソン

冒頭は、1943年に撮影された、ニューヨーク州サンプソンにある
アメリカ海軍訓練ステーションの写真です。

時は第二次世界大戦真っ最中。

この頃、あらゆる兵科に加わる膨大な数の新兵調達のために、
アメリカ国内に迅速に設立された多くの軍事施設の一つでした。

1942年、海軍訓練所(USNTSサンプソン)として設立されました。
施設名はウィリアム・トーマス・サンプソン海軍少将にちなみます。



ところで。
「サンプソン」という名前になんだかものすごく聞き覚えがあると思ったら、
映画「バトルシップ」で我が「みょうこう」と共に
宇宙からの攻撃で撃沈されてしまったミサイル駆逐艦じゃないですか。

あの時も思ったけど、いくら創作物でも、
現役の軍艦を撃沈するなよ。縁起悪いとかいう言葉を知らんのか。

(余談ですが、今や『SHOGUN 将軍』で世界的な知名度を得た浅野忠信が、
この映画に出演し『みょうこう』の艦長として主人公と喧嘩していたことを
覚えているアメリカ人はいるかしら、とちょっと気になっています)

さて、写真の解説に戻りますが、この時海軍は、
ニューヨーク州セネカ湖の東側に2,600エーカーの施設を取得し、
270日を要して訓練所とともに1500床の病院も建設されました。

USNTSサンプソンの任務は、大量の海軍新兵の基礎訓練でした。

戦時中、この訓練所では411,000人以上の水兵が訓練を受けていますが、
そのほとんどはウェスタン・ニューヨーク地域の出身者でした。

写真は、この訓練所の典型的な卒業クラスの一つです。

終戦とともにUSNTSサンプソンは閉鎖され、
1946年に戦争資産管理局に引き渡されることになりました。

さて、今日の話題ですが、この軍使用地のその後の歴史についてです。

施設の大部分はニューヨーク州に引き継がれ、
2年制の州立ジュニア・コミュニティ・カレッジの設立を計画し、
ほとんどの建物がそのままキャンパスとして使用されていました。

米海軍病院は最終的にニューヨーク州に引き継がれ、
1947年にウィラード州立病院サンプソン別館と改名されています。


サンプソン・カレッジは1946年から約3年運営され、
7,500人の学生が入学し、そのうち950人が2年制の学位を取得しました。

1949年、旧海軍基地として同地は米国農務省に引き渡され、
農務省は建物を倉庫と穀物倉庫として使用していましたが、
ここが風光明媚な場所にあることから、ニューヨーク州は、
サンプソンに州立公園を作るために5万ドルを計上しました。

■セネカ陸軍基地

サンプソンに同施設が建設されたので、アメリカ陸軍は海軍基地に隣接した
セネカに陸軍基地を設立し、弾薬の貯蔵施設として利用していました。

ここだけの話、ここには1940年台からマンハッタン計画に関連して
放射性物質が保管され、戦後も色々と核兵器が貯蔵されていたそうで、
有名なスポック博士ら反核団体に乱入されたこともあるそうです。

スポック博士と言っても、スタートレックのあれじゃありません。
あちらは博士ではなく「ミスター」です。

ベンジャミン・スポック博士は、日本ではあまり知られていませんが、
なかなか過激な平和活動家だったことで有名なんですね。

「抱き癖がつくから泣いても赤ちゃんをむやみに抱くな」
「赤ん坊をうつ伏せに寝かせろ」
「粉ミルク・牛乳と母乳は同じ栄養」


とか、今にして思えば結構トンデモ理論の育児論を打ち立て、
晩年はマクロビオティックにハマりましたが、結局ガンで亡くなりました。

反戦活動自体はいいも悪いも間違っているとも思いませんが、
施設に乱入とかは・・・ちょっと不味かったんじゃないかな。



いきなりこんな写真が出てきて驚かれました?
これはセネカ名物、白い鹿です。

セネカには陸軍が基地を置いた頃から、どういうわけか
白いオジロジカが
現れるようになりました。

しかもこの色の原因はアルビノではなく、劣勢遺伝子の仕業だそうです。

その理由は、陸軍が補給基地を作ってから周囲にフェンスが建てられ、
劣勢遺伝子を持つ個体を含む鹿が隔離されるようになったことです。

隔離された鹿の群れの中で近親交配という状況が生まれ、
劣勢遺伝子がより発現
した、というのが研究者の出した結論だそうですが、
陸軍は兵士に鹿を撃つこと(ゲーム?)を禁じたため、
保護された状態で、現在は世界最大の白鹿の群れを形成しています。

これは禁じられる前は暇に任せて鹿を撃っていたってことでおK?

白鹿が多いと言っても、元々の群れはオリジナルの茶色なので、
群れの中には真っ白ではなく部分的に白い個体もいるそうです。

頭だけ茶色い鹿

その後、2000年に貯蔵所が閉鎖されたので、隔離と、
米陸軍による保護がなくなり、鹿たちの運命が危ぶまれていましたが、
2017年になって地元実業家が買取り、
「鹿の安息所公園」
ディア・ヘイブン(Haven)・パークLLC
として一般に向けてオープンすることになりました。

しかし(おそらくコロナの流行を受けて)2019年に閉鎖されてしまいます。

2020年に、アプリでセルフガイドしながら車で内部をめぐる、
というイマドキの公園として再オープンし、今はどうなっているかというと、
疫病の沈静化に伴い、バスツァーも再開されたようです。

Deer Haven Park HP

大人30ドル、子供7ドル50セント、所要時間90分。
オンライン予約のページを開いてみると、ツァーは4月からとあります。
オンタリオ湖の下に位置するセネカは冬場雪が積もっているからでしょう。

自分でアプリガイドをしながら廻るセルフガイドツァーは、
車一台につき35ドルで、一台には7名までが乗車できます。

■ サンプソン空軍基地

そして、戦後爆誕したアメリカ空軍ですが、朝鮮戦争が勃発すると、
旧海軍基地を基礎軍事訓練基地として使用することを思いつき、
1950年、訓練センターの設備の大部分を海軍から譲り受け、
改修に約600万ドルを費やし、サンプソン空軍基地と命名して
16,000人の空軍新兵の訓練を開始しています。


サンプソン空軍基地

かつてここを自然公園にしようと予算まで計上したニューヨーク州ですが、
空軍がサンプソン空軍基地を設立したため、計画はお流れになりました。

しかしその後、朝鮮戦争の終結と、それに次ぐ軍事予算の削減により、
航空訓練司令部は1956年、サンプソン基地の基礎訓練学校を廃止。

閉鎖されるまでに、30万人以上が基礎訓練を受けていました。
サンプソンの第3650軍事訓練飛行隊もそれに伴い廃止され、
その後1956年に、軍使用地としては最終的に閉鎖されました。

■結局公園になったサンプソン

2000年以降、施設の一部はサンプソン州立公園と呼ばれ、
市民のピクニックエリアに転用されています。

かつてここに州立公園を作りたがっていたニューヨーク州ですが、
軍が去ったあと、ようやく当初の計画を達成したというわけです。

サンプソン州立公園

しかし、サンプソンから軍が完全に撤退したわけではありません。

アメリカ海軍はここで海軍海中戦センター
Naval Undersea Warfare Center(NUWC)
のソナー試験施設を今でも運用しています。

基地跡には、海軍と空軍の施設を記念した小さな博物館があり、
施設敷地内には退役軍人墓地も設けられているのだとか。

■ ワードルームギャレー


さて、とってつけたように「リトルロック」展示続きです。

セカンドデッキ最前方には、ワードルームギャレーがあります。
ここは「リトルロック」勤務の士官のために、食事の準備をするところです。

ただし、艦長や将官クラスの食事は別で、専用のギャレーで用意されます。
ケロッグ謹製のライスクリスピーとコーンフレークスのダンボール有り。


軍艦では艦上でパンを焼きますので、粉を混ぜる機械は標準装備。
このメーカーであるトライアンフ・マニュファクチャリング・カンパニー
買収されて現在マグナ・ミキサーとしてベーカリー機器を製造しています。


かつてここで士官たちの舌を満足させてきたレシピブック。

手前にはデザートやケーキ、飲み物のレシピ、
後ろの方には魚料理、鶏料理、肉料理、サラダなどの文字が見えます。

一つだけ見えているレシピ名は、Fudge Loaf Cake100人分。

ファッジというのは、チョコレートファッジのことだと思うのですが、
おそらくこんな感じの甘〜〜〜〜いケーキだと思います。



そこには大きな冷蔵庫。

英語ではRefrigeratorですが、海軍での呼び方は”Refer"です。

なぜかというと、ここの冷蔵庫にそう書いてあるからなのですが、
・・どこを調べてもRefer=冷蔵庫という記述が出てこないんですよね。

Referで検索してみましたが、そもそもこれ「参照」って意味ですよね?
その代わり、Reefer(冷凍コンテナのこと)なら出てきました。


ところでわたしは、これまで、アメリカ人は冷蔵庫のことを
普通に「フリッジ」というものと思っていましたが、
案外省略せず「リフリッジレーター」と言うことが多いんだそうですね。

もちろんインフォーマルな会話では普通に「フリッジ」ですが、それは
おそらく日本人がレンジで加熱することを「チンする」と言うようなもので、
ほとんどの場合はちゃんと「リフリッジレーター」だそうです。

むしろ、フォーマルでも「フリッジ」という言葉を使うのはイギリスだとか。

ちなみに、言葉そのものが長いので、この略称は、
電気冷蔵庫が登場してすぐであろう1920年台からあったといいます。



さて、ここまできたら、もう一階下に続く階段が現れました。
ここを降りてみます。


続く。




ダメージコントロール制御の「XYZ」〜USS「リトルロック」展示

2025-01-19 | 軍艦

USS「リトルロック」のセカンドデッキを歩きながら見てきましたが、
そろそろ端に到達したようです。

ここで唐突に「PLAN OF THE DAY」、
本日の予定というのが掲示されていました。

但しこれは現役時代のものではなく、スカウトのためのものでした。

■スカウトの1日


1630 - スカウト到着、隊は展示棟(博物館に隣接)で集合。
隊長はミュージアムで会費の残金を支払い、
宿泊キャンプメンバー全員にリストバンドを受け取り、配布する。

1730 - 船尾のムービールーム、または
前方のオフィサーズワードルームの指定された場所に集合し、
オリエンテーションと安全に関するレクチャーを受ける。
食堂係は訓練中に選ばれる-夕食係5名、朝食係5名。

1830 - イブニング・ミール(チャウ)、モーション・シミュレーター、
展示棟(アーティファクト・ディスプレイ・ヤードも含む)、
ミュージアム(シップス・ストアを含む)がオープン。

1945 - 博物館(シップス・ストアを含む)、
展示棟(モーション・シミュレーターを含む)、工芸品展示ヤード閉鎖!
総員USS「リトルロック」に戻る!
注:上記はすべて朝8:00に再開されます。


1945 - チャウライン(食事配給)Tagged (Closed)終了。

2000 - スカウトや大人隊員を含むすべての野営隊員は
艦上にいなければなりません。

USS 「ザ・サリヴァンズ」のギャングウェイは警備されてます。
(『リトルロック』は「ザ・サリヴァンズ」甲板から乗艦する)

2015 - ムービーコール

2種類の異なる映画が、一つはムービールームで、
もう一つはオフィサーワードルームで上映されます。
ファーストクラスCPOメスではドキュメンタリーが上映されます。

2230 - TAPS
TAPS消灯、デッキでは静寂を保つこと。

0630 - Reveille(総員おこし)
ギアを寝台に移動し、就寝した場所を清掃(Square Away)します。
当直士官の点検を受けるとチャウに行くことができます。

当直士官の許可が出るまで列に並ばないこと!

0730 - 朝食(モーニング・チャウ)
食事係は0725にギャレーに出頭すること。

0830-セルフガイドツアー
コメントシートに記入しメスデッキにあるボックスに投函してください。

そのあとは好きなだけパークをお楽しみください。

公園は1000時に一般開放されます。
個人的な装備はすべて、1000より前に車までお持ち帰りください。


注:パークは1000に開園します。

持ち物はそれまでに車に積んでおいてください。


■ ダメコン制御の分類




一瞥して、一般人にはなんのこっちゃという文章ですが、
おそらく海上自衛隊の方ならよくご存知のはず。

ここからは、軍艦のドアなどに必ず見られる閉鎖マークについてです。
海自の護衛艦でも必ず目にする、XYZなどの意味を解説しています。

日本語では「艦内閉鎖標識」、英語でいうところの
「ダメージコントロールフィッティング」についての分類です。
調べたところ、これは万国共通らしく、日本と同じでした。

準備の重要条件

1. コンディションXRAY


- 安全な港と海軍施設にのみ設置される
XRAY(X)のマークがあるレバーは、
航海、停泊時でも常に閉鎖・停止

2. コンディションYOKE 


通常の平時の入港・航行状態
XRAY(X)・YOKE(Y)と記されたレバーは、
実際に使用されている時以外は、常時閉鎖されている
開いているときは、D.C.閉鎖日誌にそのように記すこと

3. コンディションZEBRA 


平時の緊急作戦および戦時の戦闘状況に設定される
XRAY(X)YOKE(Y)ZEBRA(Z)と書かれたレバーはすべて閉鎖されており、
D.C.セントラルから許可を得た場合のみ開けることができる。

4. XRAY (X) 

平時・戦時を問わず、点検、清掃、修理、補給品の受け渡しなど、
開放が必要な期間を除いて常に閉鎖する全てののドア、金具、バルブを含む

一般的に「X」は、人が区画内にいる場合や金具を使用している場合に
開けてよいドアや金具を指し、
それ以外の場合は閉めておくべきとされる。

例:
倉庫および二重底のドアおよび通風カバー、

空気試験接続部、音響板、弾薬庫への入口、爆発室、締切り、
ピークタンクおよび油水タンク、すべてのマンホール。

5. クラスYOKE (Y) 

艦内警戒閉鎖発令時に閉鎖・停止
クラス「Y」には、クラス「X」以外のすべてのドア、
付属品、またはバルブが含まれる。
これらは、船舶の安全、作業の遂行、または
乗組員の快適性に影響を与えることなく、
作業時間終了後に閉じればよいとされる。

例:
日常的に使用される区画、操舵室、作業場、
頻繁に使用されるが夜間には一般的に使用されないすべての区画、
タンク、通路のドアおよび付属品に使用される。

6. ゼブラ(Z) 
戦闘配置につく通路などで警戒配置中は開放
船の運用、居住性、アクセスのために通常開いており、
戦闘時や非常時には閉鎖される。


船舶の運航のために昼夜を問わず必ず開いているべきドア、

付属品、バルブ、換気カバーが含まれるが、
作業中または緊急時には閉じなければならない。

例:
 居住区画や戦闘配置へのアクセスドア、居住区画の換気ダクトカバー、

消火用配水管の切り取り部分、機械室への入口、
総員配置前に閉めることができないドア、弾薬庫の換気、
巡航条件下で船舶を運用するために換気が必要な居住区画、
作業場、その他の類似区画の換気カバー、
衛生および居住条件に必要な最低限の空気口、
および戦闘用ポートに適用されます。

7. WILLIAM (W) 
いかなる場合でも開放・運転
(近くで火災発生し被害を減らす必要がある時、
または総員離艦時に閉鎖・停止可)

作戦行動中に必ず開けなければならないドア、バルブ、付属品に使用。
これらは、局所的な緊急事態を除いて開けたままにしておくべきであり、
特にクラス「W」の火室換気用開口部は決して閉めてはいけない

Wクラスのドア、ハッチ、およびスキッドは、
船舶の運航や武装に悪影響を及ぼさない場合、
一時的に閉鎖することができる。 
メインデッキより下では、一般配置時に「W」ドアには
必ず当直を配置しなければならない。
 水線下の「W」ドアおよびハッチは最小限に抑えなければならない。

例:
弾薬ホイストのある区画とコンベアのある区画の間のドア、

エンジンルームに空気を供給する送風機モーター、
エンジンルームからの排気筒ハッチ、
船の戦闘に迅速なアクセスが必要なバルブ、
弾薬ホイストなどがある区画への入口、 弾薬庫の排水コック、
またはボイラー停止弁のリーチロッドがある区画への入口、
修理班用の装甲甲板を通る1つまたは2つのハッチ、
上部構造物の気密化が不可能な部分にあるドアおよびハッチ、
乗組員が常駐する区画にある排水バルブ、
機械室および機銃への冷却水を制御する消火栓バルブ。


以下は、弾薬の移送や重要なシステムの作動を可能にするため、

特別な権限なしに開けることができるレバーである
使用していない時には閉める

1. 

サークルXRAY


サークルヨーク


サークルゼブラ

閉鎖されていても限られた場合に限り艦長の許可を得て開放
コンディションゼブラの間、食料の分配、衛生設備へのアクセス、
戦闘ステーションやその他の重要なエリアの換気を可能にするため、
指揮官の権限のもとに開くことが許可される。

開放された場合は、必要に応じて直ちに閉鎖できるようにしておく。


BLACK D ZEBRA(ブラック・D・ゼブラ) 

灯火管制時、夜間、艦内を暗くするために閉鎖される。

CIRCLE WILLIAM (W) 


CBR防御発令時に閉鎖・停止
- ZEBRA状態中は通常開いているが、
NBC(核、生物、化学兵器)攻撃があった場合は閉じることがある。

続く。

ベッシーとロキシー〜ベシカ・レイシェ博士 女流飛行家列伝

2025-01-16 | 飛行家列伝

スミソニアン博物館の黎明期の女流飛行家のコーナーを見ていて、
この写真が目に止まったことから、彼女を紹介する気になりました。

■ 女性による史上初単独飛行達成者


Bessica Faith Medler Raiche M.D.

写真うつりがどうというより、この雑な切り抜きのせいで
女性である被写体の気持ちにならずとも、残念すぎる肖像です。
ネックレスをしていなかったら男性と思ったかもしれません。

どうせならこちらの写真を使って欲しかった

添えられた説明を読んでみましょう。

ベシカ・レイシェは、この時代の女性には珍しい2つのキャリアを追求した。
1910年、彼女は夫と一緒に作った飛行機で単独飛行した。
それ以来、彼女は医学の学位を取得し、開業医となった。

1910年当時、アメリカでは(というか世界でも)、
当時登場した飛行機に乗る女性はもちろんのこと、
医学博士も少なかったということがわかります。

(我が日本ではもう少し早い時期に楠本イネ、吉岡弥生、
そして同時期には荻野吟子などが女医として活躍している)

ますます興味が出て、彼女を飛行家列伝で取り上げることにしたのですが、
まず、Raiche をどう発音するのかわからず、YouTubeを検索してみました。

ところが、三本見つかった動画の発音が皆違います。

Women's History Month - Bessica Raiche
この動画はレイチ、もう一つの公開できない動画はリシェと言っています。

Throwback Thursday - Rockford's Aviation History
こちらは、研究者?がテレビの番組でインタビューを受けているもので、
この人の、レイヒという発音はもしかしたら正しいのかもしれません。

しかし、この人が飛行家として活躍していた1910〜1920年ごろは、
サイレント映画の時代で、音声のあるニュース映像がなかったため、
今となっては「レイヒ」だったかどうかも確かめることはできません。

Raicheがフランス系の名前であるということなら、可能性としては
フランス発音で「レシェ」が一番近いのではないでしょうか。

ですので、本稿では中をとって?レイシェとします。


まず、 THIS DAY IN AVIATION という航空版「今日は何の日」サイトには、
1910年9月16日、として次のように紹介されています。

1910年9月6日: 
ベシカ・フェイス・カーティス・メドラー・レイシェ医学博士は、
何の訓練も受けていなかったが、夫のフランソワ・C・レイシェとともに
ニューヨーク州ミネオラの自宅で製作した飛行機で単独飛行に成功した。

そして、これは「女性が単独飛行した史上初」であるというのです。

今まで何人もの女流飛行家を紹介してきた当ブログですが、
どの飛行家たちも、何らかの形で功績を上げてきたからこそ名前が残るので、
果たして誰が何の「史上初」なのかわからなくなっていました。

ところが、名前の読み方も世間的に確定していないらしいこの飛行家が、
「史上初の女性」とされていることを知り、正直驚きました。

記憶を辿る限り、女性で初めて操縦をしたのは、
ざーますメガネのお嬢様飛行家、ブランシュ・スコットだったのでは?
と思い、あらためて自分のログを読んでみたのですが、

ブランシュ・スコット〜空飛ぶトムボーイ

彼女がカーティスに操縦を習ったことは分かりましたが、
意外と「史上初」のタイトルではなかったことが確認できました。
(超音速の飛行機に乗った最初の女性という記録はありましたが)

この「今日は何の日」の記事では、その辺の経緯もちゃんと記してあります。

レイシェが単独飛行を行う2週間前の1910年9月2日、
ブランシュ・スチュアート・スコットも、
グレン・ハモンド・カーティスの指導を受けながら、
飛行機で単独飛行に成功している。


スコットは飛行機とその操縦に慣れるためにタキシングの練習をしていた。
カーティスは、飛行機のスロットルに細工をして、
離陸するのに十分なほどスロットルが進まないようにしていたが、
折から吹いた突風のせいで、飛行機は意図せず離陸してしまい、
このことによってブランシュ・スコットはアメリカ人女性として
初めて単独で飛行機を操縦したと考えられている。


なんと、レイシェの2週間前にスコットが飛行成功していたんです。

しかしですね。
おそらくカーティスの、

「お預かりした大事な(金持ちの依頼主の)令嬢に何かあっては大変だから」

という配慮からスロットルにストッパーをかけていたことで、
つまりその飛行は「意図的なのものではなく、つまり偶然」とみなされ、
アメリカ航空学会はこれを正規の記録として認めませんでした。

そしてベシカ・レイシェを初の「意図的な女性の単独飛行者」としました。

「自分の意思で、飛ぼうと思って飛んだ」

ということが、カーティスの名前や超富豪のパパの力より優先されたのは、
当時のアメリカの組織が今ほど堕落していなかったということでしょうか。



同協会が彼女に授与したダイヤモンド入りの(翼の真ん中)金メダルには、

「The First Woman Aviator in America(アメリカ初の女性飛行家)」

と刻まれています。
(冒頭絵でレイシェが右手に持っている一つがそれです)

■ 夫婦で飛行機を制作


ベシカ・メドラーを一言で表すなら「多才な女性」に尽きます。
まず、当時の女性としては珍しい医学博士ということはお伝えしましたね。

1900年、ベシカは25歳でタフツ大学医学部に入学し、3年後に卒業。
ニューヨークの小児病院に勤務した後、開業しています。

1904年、ニューハンプシャーで開業していたとき、彼女は
フランス移民の息子、弁護士のフランソワ・レイシェ博士と結婚しています。

彼らの間には一女が生まれました。

医師という職業以外に、彼女は言語学者であり、芸術家でもありました。
そちらはプロではありませんでしたが、タフツ大学に入学する前、
フランスに留学して、そこで絵画と言語学を学んだのです。

これからわかるのは、彼女の実家が半端なく裕福で、
かつ女性も教育を積むべきと考える知的な層だったということです。

ブランシェ・スコットも資産家のお嬢様でしたが、まあ要するに、
女性(に限らず)飛行機に乗るなんてのは、本人のやる気以前に
経済的なバックアップがないと何も始まらなかったんですね。

彼女が飛行機の世界に興味を持ったのは、フランスで
オーヴィル・ライトのライト・フライヤーの実演を見たからでした。
史実としてのそれは1908年8月8日のことです。

この時期、彼女は医師として順風満帆に仕事をしていたので、
おそらく夫の故郷であるフランスに、旅行か何かで訪れていたのでしょう。

ライト・フライヤーの飛行を見た彼女は、ぜひ飛行機で空を飛んでみたい、
と思うわけですが、驚くのは、それを「飛行機づくり」から始めたことでした。

■ 自作飛行機

その後、アメリカに戻った彼女は、夫婦で飛行機を作り始めました。

ライトの設計図を使いましたが(どうやって手に入れたんだろう)
オリジナルの重いキャンバス地のカバーの代わりに、竹と絹で重量を減らし、
家にあるグランドピアノを分解してピアノ線を利用するなどして、
全ての部品を家の中で完成させ、外に持ち出して組み立てました。



複葉機の全長は28フィート6インチ(8.687メートル)、
翼幅は33フィート(10.058メートル)。
C.M.クラウトが製作した約30馬力のエンジンを搭載していました。

そして、1910年9月16日、ニューヨーク州ヘンプステッド・プレインズで、
レイシュは自家製飛行機に乗り、単独飛行を成功させました。

この日、彼女は5回の飛行に挑戦し、最後の飛行は1.6キロを記録しました。
着地したとき窪地で飛行機が傾き、機体から放り出されましたが、
彼女は無傷で、飛行機もわずかに損傷しただけですみました。

このとき夫のフランソワでなく彼女が操縦したのは、
ただ単に彼女の方が体重が軽かったからですが、
このことで彼女はアメリカ航空協会に認定された、
アメリカ初の女性による単独飛行機飛行のタイトルを得たのです。

その後夫婦はフランス・アメリカ飛行機会社を設立し、
さらに数機の飛行機を製造したのですが、1925年に離婚しています。

■「ベッシー&ロクシー」の像



ところで、冒頭のレイシェ博士の肖像、気になりませんでしたか?
なぜ犬を左手に乗せているの?って。

これは、レイシェ夫妻が最初に飛行機を飛ばした、
ニューヨーク州ミネオラのロングアイランド駅に建てられた、
他ならぬベシカ・メドラー・レイシェ博士のブロンズ像をもとに、
当ブログ絵画部が実物のように書き起こしたものです。

ミネオラが飛行の歴史に重要な役割を果たした、ということから、
レイシェ博士が選ばれたのは納得なのですが、それではこの犬は?


1901年(これはレイシェ博士がまだボストンで勉強していた頃です)
ロングアイランド鉄道のガーデンシティ駅に、
ロキシー(Roxie)という名の子犬が迷い込んできました。

子犬はいつのまにか駅に住み着いて、列車に乗り込んだり、降りたり、
その間乗務員や乗客にかわいがられるようになり、十分に餌を与えられて
いつのまにかLIRR(ロングアイランド鉄道)のマスコットになりました。

犬は、いつでも車両に乗り降り自由、どこに座ってもよろしい、
という「公式パス」を与えられていた上、
ガーデンシティの駅長の「養子」となって、駅舎で寝泊まりしていました。



これはイラストなのですが、セオドア・ルーズベルト大統領の右にいるのは、
他でもないこのロキシーくんで、有名犬となった彼はなんと、
大統領専用車で保養地のあるオイスターべイを訪れ、
「夏のホワイトハウス」と呼ばれる、サガモア・ヒルの
大統領の自宅を訪問するという栄誉を得るまで出世しています。


1903年、電車犬になってロキシーがずっとつけていたタグ。

「俺ロングアイランド鉄道犬のロキシーだけど、お前どこ犬よ?」

と刻まれています。(なぜ他の犬にマウントをとっているのかは謎)
冒頭イラストでレイシェ博士が持っているもう一つのメダルがこれです。

そんなロキシーが亡くなったのは1914年のことでした。
14歳というのは、犬としてはまあまあ長生きでしょうか。

以下、彼の死を報じる新聞記事です。

6月12日-
ロングアイランド鉄道の犬、ロキシーはもういない。

ロングアイランド全域で知られ、何年もの間、
ロングアイランド鉄道の列車で毎日のように乗車していた犬は、
昨日午後遅く、ジャマイカのヴァンウィック通り76番地にある獣医師、
W・L・ジョンソン博士の自宅で、
1年以上続いた長引く病気の末に息を引き取った。


ロキシーは水腫を患っており、
冬の間、獣医師によって手厚く看護されていた。

14歳の犬、ロキシーはおそらくロングアイランドで最も有名な犬だった。
何年もの間、彼はファンから贈られた首輪をつけていた。

松の箱に入れられたロキシーは、今朝、
ロングアイランド鉄道の高張力部門総監督である
A・G・スラックの自動車で最後の走行をした。

ロキシーの遺体は、スラック氏と鉄道の電灯部門の主任である
C・F・ヤングに付き添われてリトアニア州メリックに運ばれ、
ロキシーの親友であったミス・エルシー・ヘスの家の前に埋葬された。

石切り職人が墓を示す小さな石碑を寄贈することを約束しており、
これには適切な碑文が刻まれる。


ロキシーを偲ぶ花輪は、鉄道会社の従業員やその他の人々から贈られたもので、
今日、墓の上に置かれる予定である。



その後、彼のストーリーは
「マイルズ・オブ・スマイルズ」という絵本にもなっています。

ところで、この絵本のロキシーの柄が本当なら、
わたしの解釈(ブチ白犬)は大いに間違っていたことになりますが・・
まあいいや。

というわけで、レイシェ博士は犬とは何の関係もないことがわかりましたね。

ブロンズ像「ベッシー&ロキシー」は、ロングアイランド鉄道の依頼で、
ドナルド・リプスキーというアーティストが製作しました。

何かこの駅に象徴的な存在の像を作る話になったとき、飛行家か犬か、
どちらも捨て難いので、一緒にしてしまおう、となったのだと思うのですが、
いくら何でも女性が犬を高く片手で掲げ持つデザインは・・・。

と思ったのはきっとわたしだけではないでしょう。
(にも関わらずその絵を描いてしまうのはおそらくわたしだけでしょう)

しかし、いずれにしても、2023年に完成したばかりというこの像は、
ミネオラ駅の広場で目にした者の興味をそそらずにいられません。

飛行服の女性、そして彼女が捧げ持つ犬。

多くの人が、自分のデバイスでその由縁を即座に調べ、
そして同時にこの地方にゆかりの深い二つの大きな存在について知るのです。

「実際には交わることのなかった二つの道が、
ミネオラと20世紀初頭の交通機関という共通点によって一緒になった」

作者はこのブロンズ像についてこのように説明しています。


さて、ドクター・ベシカ・レイシェの最後についても述べておきます。
1912年、彼女はカリフォルニア州ニューポートビーチに移転し、
そこで生涯開業していました。

産科と婦人科を専門とし、患者からの評判も大変良かったそうで、
オレンジ郡医師会の会長も務めるほど医師として実績もあったようです。

1932年4月9日、ニューポート・バルボア島の自宅で死去、享年56歳。
死因は心臓病の合併症によるものでした。

彼女は今、カリフォルニア州サンタアナの墓地に眠っています。




アイゼンハワー「鉄の十字架」演説とTHE NAVY WAY

2025-01-13 | 歴史


USS「リトルロック」艦内の博物館展示を見ながら歩いています。
前回の従軍牧師コーナーから、士官区画までの間の壁に、
パウチされた二つの引用文が展示されていました。

まず一つが、アイゼンハワー大統領の演説の一部です。

■ アイゼンハワーの演説「平和へのチャンス」



アイゼンハワー大統領が1953年4月16日、アメリカ新聞編集者協会で

「鉄の十字架演説」としても知られる演説を行いました。

軍人であるにもかかわらず(軍人だから、とも言えますが)
軍事費増大に強く反対する主張でアイゼンハワーが大統領選に勝利したとき、
朝鮮戦争は膠着状態のままでしたし、そんなとき、
ちょうどソ連が原子爆弾を完成させたというニュースは、
ソ連に対する強行姿勢と軍事力の増大に国内を傾かせていました。

その時、絶対的指導者ヨシフ・スターリンが死去しました。

このことはソ連に「パワー・バキューム」(権力の空白)を生みましたが、
言い換えれば、これは新体勢との和解のチャンスでもあるわけです。

そのことをアイゼンハワーは演説の中で、

すべての人々にとって公正な平和が実現する可能性」

と冒頭で述べています。



まず、第二次世界大戦後の米ソの姿が語られます。

「第二次世界大戦が終戦した時、我々は彼らと戦勝を祝い、
平和の時代を築く展望を共有した仲だったのに、
あっという間にお互いは別の道を選んで袂を分かった」


そして、大国が軍拡を恣に推し進めた結果、現在の人類はあたかも

「鉄の十字架に吊るされている」

状態にあると続きます。
冒頭写真で抜粋されているのはその有名な一節です。

「製造される銃、進水する軍艦、発射されるロケット弾。
これらは極論すれば、飢えているのに食べ物を与えられていない人々、
寒さに震えているのに衣服がない人々からの窃盗で成り立っています。

世界の軍拡のためには金銭だけが費やされるわけではありません。
それは労働者の汗、科学者の才能、子供たちの希望が費やされます。

例えば、最新式の重爆撃機1機のコストは、
近代的なのレンガ造りの学校一つの建造費に相当します。
人口 6 万人の町に電力を供給できる発電所2基分です。
設備の整った立派な病院が二つできます。
コンクリートの高速道路約50マイル分です。
戦闘機一機は小麦50万ブッシェルと同額です。
駆逐艦一隻の費用は、8千人が住める新築住宅に相当します。

繰り返しますが、これは本当の意味の生き方とは全くいえません。
戦争の脅威の雲の下で、人類は鉄の十字架に吊るされているのです。」

そしてアイクは、果敢にもこのようなことを提案します。

ソ連は戦後好き勝手に軍拡して第三次世界大戦の脅威となりつつあるが、
(ツッコミ:戦後軍拡してきたのはアメリカも同じなんだが)
ちょうどスターリンが死に、一つの時代が終わったことだし、
ソ連もこの際?自由世界とのすり合わせによって平和を探求してほしい、
アメリカはそれを手助けするために一肌脱ぐから、ね?

それにはどうすればいいかというと、つまり「軍縮条約」です。
米ソで話し合いをして軍事拡張競争をトーンダウンさせましょう、
そのためには以下のことを決めましょう、と彼は続けます。

1. 国際比率による武力の制限
2. 軍事目的の戦略物資の総生産量の制限
3. 原子力の平和利用、核兵器の禁止、原子力の国際管理
4. 破壊力を持つ兵器の制限または禁止
5. 国連による査察制度を含む適切な保障措置によって以上を施行

要はかつてのワシントン・ロンドン軍縮条約と同じことをしようと。

しかし、ソ連がおとなしく交渉のテーブルにつくわけないし、
奇跡的にそれが実現したとしても、互いの利益をめぐって対立したとき、
かつての日本ではないですが、椅子を蹴立てて帰ってしまい、
交渉決裂、ならば戦争だ、とならない保証はどこにもありません。

アイクは、ジョン・レノンいうところのドリーマーだったのでしょうか。

軍縮することで節約できたら、それを世界援助および復興基金に充て、
未開発地域の支援、公正な世界貿易の推進を行い、
誰も苦しまない平和で豊かな世界が構築できる、として、

そして、それは必ず実現できるはずである、なぜなら
我が国のみならずロシアや中国の国民も含め、
すべての国民が平和を渇望しているはずだから。

神が人間を創造したのは、大地と自らの労働の成果を
破壊するためではなく、
楽しむためであるはずだから。

と、このように演説を終えました。


しかし、現実は過酷でした。


アイゼンハワー政権下では実際には冷戦が深刻化していき、
政治的な圧力によって軍事費は増大して行かざるを得なくなるのです。
そして1961年の退任演説では、ついに

「軍産複合体の腐敗した影響に対して国家は警戒すべき」


という言葉を残して政界から去りました。

ちなみにこの、

「軍産複合体」

Military–industrial complex=MIC

という造語を作り出したのは他でもないアイゼンハワーであり、
軍に武器、装備、サービスを供給する防衛産業との関係をいいます。

アイクの退任演説についても述べておきます。

Eisenhower's Warning about the Military-Industrial Complex

平和維持に不可欠な要素は、抑止力のための即応軍事力であり、
巨大な軍事組織と大規模な軍需産業の結合、発展は自然な流れだった。
しかし、政治の側は軍産複合体による不当な影響力の獲得を警戒すべきである。

この組み合わせが我々の自由や民主的なプロセスに危険を及ぼしてはならない。
警戒心と知識を持って適切にそれらを制御されなくてはならない。


この演説はその後のベトナム戦争への流れに対する警告となりましたが、
それが実際にはどうなったかは後世の知るところです。

■ THE NAVY WAY



海軍のやり方

私たちは長い間、わずかなもので多くのことを成し遂げてきて、
何もなくても何でもできることを証明したのです。

つまり、海軍は、非常に少ない、限られた資源でなんでもやってきたので、
今ではそれが当たり前になっている、というわけです。

ただし、この言い回しはアメリカ六軍全てに応用されております。
そのように評価された元祖はマッカーサー(陸軍)だそうですが、
他は以下の通り。

空軍のやり方(空中空輸)

ラングレーから飛び立つ給油機は、1950 年代初頭に建造されたもので、
給油高度、給油速度にも限界があり、また、老朽化の問題もあるが、
「私たちは長い間、わずかなもので多くのことを成し遂げてきたので、
今では何もなくても何でもできる」をモットーにしている。

海兵隊のやり方

ベトナム戦争に従軍した多くの海兵隊員はこう思っている。
「海兵隊員は長い間、わずかなもので多くのことを成し遂げてきたので、
今では何も持たずに何でもできる」
加えて、平和のために戦う者にとって、生命と自由は、
守られた者には分からない味わいを持つ。

沿岸警備隊のやり方

沿岸警備隊員は、少ない資源でより多くのことを為すよう求められている。
なので、いずれ誰か”何もなくても全て成し遂げよ”と言い出すだろう、
というのが冗談になっているが、必ずしも冗談に思えないのが辛いところ。

海軍のやり方(パイロット)

海軍の「配達人」、プロペラ付きの旧式の飛行機で
今も世界中を飛び回っている VR21 飛行隊のパイロットはこう言う。
「私たちは長い間、ほんの少しの物で多くのことを成し遂げてきたので、
今では何もなくてもほとんど何でもできるのです」

続く。

海軍牧師団〜「リトルロック」艦内展示

2025-01-10 | 海軍

バッファローネイバルパークの「リトルロック」内部に設けられた
海軍関連展示を順にご紹介しています。



一目で従軍牧師の部屋だとわかるこのドア。

Knock and it shall be opened unto you
ノックせよ、さらば開かれん

という既視感のある言葉が十字架と共に書かれています。
これはマタイ福音書の第7章にある

Ask, and it shall be given you; seek, and ye shall find; 
knock, and it shall be opened unto you:
求めよ、さらば与えられん。
求めよ、さらば見いだし、叩け、さらば開かれん:

「求めよ、そうすれば与えられるであろう。
捜せ、そうすれば見出すであろう。
そして叩けば門は開くであろう」


という有名な文言です。


以下の展示を行ったバッファロー&エリー郡海軍&サービスマンズ・パークに
贈られた、カソリック・チャリティーズ コミュニティ・サービス賞の盾。

カソリック教会の団体が、海軍従軍牧師隊の活動を知らしめる
この展示に感謝をしたという印だと思われます。


■ ネイビー・チャプレンのステートルーム(執務室)

ネイビー・チャプレンとは、海軍内の宗教指導者であり、
同時に基本コミッションド・オフィサー(士官)の階級を持ちます。

聖職者が士官でなければならない理由についてですが、
立場上、軍隊の階級が下の者から説教(宗教の方の)を受けたり、
告解を受けたりというのは、少々都合が悪いからだと思われます。

一般に、チャプレンを乗せるのは一定以上の大型艦とされますが、
わたしはどこかの駆逐艦見学で牧師の執務室を見たことがあります。

今からご紹介する執務室は、この艦の上級士官の典型的な個室と同様です。
チャプレンが士官でなければならない理由はここにもあります。



この部分だけ見ると、広めの普通の士官個室と変わりません。
アメリカ海軍の士官帽子も見えます。


タイプライターがありますね。
チャプレンも日々の日報を上げることが必須だったのかもしれません。


部屋の右半分には「聖職者セット」が並びます。

ロザリオ以外でみなさまのあまりご存じないかもしれないものを説明すると、
右と左に一本ずつある薬のボトルのようなものは、

聖餐葡萄酒注入器

といい、聖餐式に使用します。

イエス・キリストが最後の晩餐で行ったように、教会の皆で
パン(イエスの身体)と葡萄酒(イエスの血)を分け合い、
人類の罪を負って十字架にかけられたイエスに感謝を捧げるのが聖餐式。

注入器は、小さなコップに少しずつ葡萄酒を注ぐためのものです。

そして、キリストの肉たるパンですが、平たいピタみたいなのとか、
十字の刻まれたカルカンせんべいみたいなのが使用されます。

ロザリオの前にある高杯(小さな優勝カップ?)状のものは、

洗礼器

キリスト教に帰依する印として行われる洗礼ですが、
いずれも水を体につけるのが基本で、やり方は宗派により様々、
頭に水滴を落とす「滴礼」手や容器を用いて頭に水を注ぐ「灌水礼」、
全身を水に浸す「浸礼」などがあります。

ここにある洗礼器は、頭に水滴を落とすための道具です。
軍艦に乗ってから、艦上で洗礼を受ける人がいるのかという気もしますが、
やはり牧師としてはちゃんと道具を揃えておくものなのかもしれません。


こちらにも牧師用グッズが並んでいます。

右奥は香炉で、カトリック教では使用されることもあります。
教会で使用されるのは振り香炉であることが多いですが、
軍艦のスペースの関係から置き香炉が用いられていたのかもしれません。

香炉を使用する際、同時に鳴らす?鈴が手前に見えます。

礼拝に香(乳香)を使うことを「炉儀」(ろぎ)といい、
香炉から立ち昇る煙を祈りが天に届くことに掛けた儀式です。



■ アメリカ海軍の牧師隊組織



牧師隊の最高位は少将(上位)です。

写真は2024年現在海軍牧師長(Navy Chief of Chaplains)である、
グレゴリー・トッド少将で、海兵隊、予備士官の牧師長は、
同じ少将でも給与等級/NATO階級が一つ下の下位少将となります。

海軍牧師の任務は、海軍と海兵隊員のための朝の祈り、日曜礼拝、
そして海上で洗礼などを通じて彼らを支援することです。

具体的には、

さまざまな場面で礼拝を行う
結婚式、葬儀、洗礼などの宗教儀式や式典を行う
指導を求める個人に助言する(悩み相談?)
日曜学校や青少年グループなどの宗教教育プログラムを監督する
入院患者やその家族を訪問し、精神的な指導やケアを提供する
宗教教育プログラムを実施する一般指導者を養成する
宗教行事、リトリート、会議への参加を促進する
指揮官に、士気、倫理、精神的な幸福についてアドバイスする

という任務責任を負います。

時には臨終の秘跡に立ち会い、告解を受け、
空母の甲板から礼拝を行うということももちろんあります。

「リトルロック」で紹介されているのはカトリック教ですが、
実際は、アメリカ海軍牧師団に所属する牧師はキリスト教のみならず、
ユダヤ教、イスラム教、仏教と100を超える宗教の信者に対応しています。

【海軍牧師のための教育機関】

それでは、海軍で牧師職を目指すにはどうしたらいいでしょうか。

それは、まずロードアイランド州ニューポートにある士官養成学校に通って、
任官してから改めて牧師学校で7週間のコースを受けることです。

7週間とはまた微妙に短いような気がしますが、そもそも
このコースに参加しようという人に全くの「素人」はいないでしょう。
ある程度の素養のある(或いはすでに牧師職)がほとんどのはず。

そのため海軍牧師の資格を得ること自体はそう難しくなさそうですが、
アメリカの教育機関の常として、入るのは簡単でも出るのは難しく、
適当にやっていれば卒業できるということはまずありません。

コースを終了しても、その宗教団体の教会からの承認も必要となります。

そして、ここからが問題なのですが、
競争が激しいので、よほど優秀でないと昇進も難しいとのこと。

そんな環境で少将にまで上り詰める人というのはどんな人材なんでしょうね。

ちなみに、牧師は海軍士官学校を卒業するわけではないので、
認定された4年制大学等教育機関から学士号を持っていることが条件です。
つまり全員が予備士官という立場になります。

そして海軍では、予備役牧師のパートタイムも募集していますが、
予備隊に登録するためには、やはり士官であることが条件となります。

その後、勤務年数と同期からの選抜によって、士官の階級が付与されます。

【宗教の自由と軍での運用】

アメリカ軍最初の仏教チャプレンとなったジャネット・シン中尉

軍内部から上がってくる牧師に対しての苦情とは、強制的な祈り、強制、
そして福音派キリスト教の推進に政府の資金を使用していることなどです。

また、軍隊にはキリスト教徒だけがいるわけではないのはもちろんですが、
なんなら無神論者だって一定数いるわけで、
彼らの一部は、軍隊における政教分離を訴えています。

かと思えば、軍事協会の中のある無神論者と自由思想家たちは、
牧師のサービス対象を自分たちにも拡大することを求めているそうです。

軍のお金で雇われている牧師のサービスを、無神論者という理由で
自分たちが受けられないのは不公平だ、とでも言いたいんでしょうか。

従軍牧師にそのような義務があるかについては議論の余地がありますね。
牧師の教育機関ではそのような対象に対する任務は訓練されていませんし、
牧師本人も正直無神論者などにまで責任を負えないと考えるでしょう。

彼らの主張にの中には、

「非信者を牧師に任命せよ」

というのもあるそうで・・・全くどうせいっちゅうねんという感じです。
これも、DEI(多様性、公平性、包括性:diversity, equity, and inclusion)
的主張の一種なんでしょうかね?

そもそも、宗教家を軍の公的な「戦闘員」とすることが合憲かどうかは、
アメリカにおいてもしばしば議論の対象となっています。

1974年、ハーバード大学の法学部生2人が、
軍の牧師を非戦闘員のボランティアまたは請負業者に置き換えるべき
と主張して訴訟を起こしたことがありました。

彼らの主張は、

「軍の牧師制度は、エキュメニズム(キリスト教統一運動)を推進し、
軍事と宗教の機能の融合を図り、支出を管理することで、
国教条項の2つの要件である中立性と非干渉性に違反している」


つまり、簡単にいうと

「政教分離に反する」

という主張でしたが、このとき裁判所は訴えを退け、その理由として、

憲法修正第1条の宗教の自由と政教分離条項は別の問題

と説明しています。

ただし、このとき裁判所は、軍の牧師はガイドラインを確立し、

「軍人個々の権利と信念に配慮すること
「布教活動や宗教行事への強制的な参加を避けること」

を申し渡したという一面もあります。

あとは、ある従軍牧師中尉が、ホワイトハウス前の抗議活動に、
軍隊の制服を着て参加したことで軍を戒告・罰金処分に課された件、
海軍の17人の福音派プロテスタント牧師が、
海軍の昇進方式が典礼派協会牧師に平等なポスト割り当てをした結果、
「非典礼派」プロテスタント牧師の代表性が低くなっているとして
訴訟となった(判決は敗訴)例があります。

それから、先ほどのDEIに関連するイシューとして、LGBTQの権利と、
同性愛を罪と考える教義の宗教との齟齬
というのもあります。

同性愛を不健全と考える牧師が軍に存在することに対する異論です。


■ 公務中死亡した従軍牧師

最後に、第一次世界大戦以降、任務中に死亡(戦闘中および非戦闘中)
した従軍牧師の数を上げてみましょう。

第一次世界大戦: 23名

第二次世界大戦: 182名

朝鮮戦争:13名

ベトナム戦争:15名

イラク戦争・アフガニスタン戦争: 1 名


第二次世界大戦は最も多くの従軍牧師の命が失われましたが、
その中には、Uボートに撃沈された油槽船「ドーチェスター」に乗っており、
自らの救命胴衣を兵たちに分け与えて船に残り亡くなった、

フォー・チャプレン(四人の聖職者)

が含まれます。

彼らは4名とも当時ハーバードに存在した陸軍牧師学校の卒業生です。
また、彼らのうちのアレクサンダー・グード牧師は、
ジョンズ・ホプキンス大学で博士号まで取得した人物ですが、
彼の宗教はカトリックではなく、ユダヤ教だったそうです。

沈没の際、4人のチャプレンは、他の兵士が救命ボートに乗るのを支援し、
皆を落ち着かせ、救命胴衣が尽きると自分たちの分を渡しました。

魚雷攻撃を受けたのはニューファウンドランド島海域で、
水温2度の海中では救命胴衣を着ていても低体温症で生き残れませんでした。

生存者の証言によると、沈没の最後の瞬間、4人は腕を組んで賛美歌を歌い、
皆の無事のための祈りを捧げていたということです。

死後彼らには軍からパープルハート章と殊勲十字章が授与され、
名誉勲章の授与も検討されたのですが、彼らは非戦闘員であり、
敵との戦闘に参加していなかったため、不適格とされました。

その代わりに、名誉勲章と同等の勲章である
「Four Chaplains' Medal」が新設され、
四人はその最初の、そして最後の叙勲者となりました。

この勲章は、史上唯一彼ら四人だけが受賞したということになります。

続く。


オフィサーズ・アイランド〜USS「リトルロック」

2025-01-07 | 軍艦

タロスミサイル巡洋艦「リトルロック」艦内探訪、
メインデッキの艦内博物館のスペースを抜けると、士官区画です。
博物館の区画は、CPOと兵員用の区画となっていました。



まず登場したのが「オフィサーズ・メス」。

テーブルは床に固定されているので、おそらく現役当時の姿のままでしょう。
兵のためのメスとは違い、床のタイルからして特別感が漂います。


今まで歩いてきたのはセカンドデッキという、上甲板の下階ですが、
ここでも士官区画は艦の前方に位置しており、
特に艦長の執務室は(ついでに従軍牧師のオフィスも)
この際前方にあることがお分かりいただけるかと思います。
(Chip Chapin というのはおそらくタイプミス)

プライベートラウンジは右舷、ギャレーは左舷にあります。


メスにはオフィサーズ・ラウンジ、士官用ラウンジも含まれます。
床は相変わらず市松に配したPタイルで、ちゃんとしたソファもあります。

説明によるとこのスペース「は」エアコンが装備されていたそうです。
(ちょっと待て、下士官兵用区画にはなかったのか?




士官用区画であるワードルームの修復のために使用された
多くの物品や資材に資金を提供し、また寄贈したのは、
ベテランや関係者の組織、USS「リトルロック」アソシエーションです。

大変充実したホームページを運用しています。



手前に見えている模型の船は、USS「コンステレーション」です。
手前の紹介文を翻訳しておきます。

USS CONSTELLATIONはスループ・オブ・ウォーで、
アメリカ海軍が設計・建造した最後の帆船である。

1797年9月に建造され、1853年に解体されたフリゲート、
USS「コンステレーション」から少量の資材を引き揚げ、
1854年に建造された。

単甲板の 「スループ 」であるにもかかわらず、
フリゲート艦の同型艦よりも大きく、
より強力な砲弾発射砲を装備している。

このスループは1854年8月24日に進水し、
1855年7月28日にチャールズ・H・ベル大尉を指揮官として就役した。
1954年に退役するまで、1世紀近くにわたって活躍した。
現在は博物館船として保存されている。

コンステレーションは全長199フィート。
最も幅の広いところで43フィートのビームを持つ。
最大喫水は21フィート(満載排水量1,400トン時)。
乗組員は士官21名、下士官265名。
当初のコンステレーションは、16門の8インチ砲と
4門の32ポンド砲を主砲甲板に搭載していた。
スパー甲板には一対の追撃砲が搭載され、
艦首には30ポンド砲パロット・ライフルが、
艦尾には20ポンド砲パロット・ライフルが配置された。
また、3門の12ポンド榴弾砲も搭載していた。

1860年以前は、地中海とカリブ海、そして「アフリカ艦隊」で活躍。
アメリカ南北戦争では、多くの任務に就いた。
戦後は、アメリカ海軍士官候補生の訓練に従事し、
地域作戦を支援するためヨーロッパ各地に派遣された。
1914年、コンステレーションは、米国国歌、
「星条旗」作詞100周年を記念する式典に参加。
1926年5月15日、フィラデルフィアに曳航され、
USSオリンピアと並んで係留された。
それから1926年7月4日、独立宣言調印150周年記念式典に参加した。

式典の後、メンテナンスのためフィラデルフィアで乾ドックに入れられ、
11月にニューポートに曳航された。
最終的に1955年2月4日に退役し、ボルチモアに曳航され、
8月15日に海軍登録から抹消された。
修復作業が完了した後、1961年7月4日、ボルチモアの
コンステレーション・デッキ(メリーランド州)に永久停泊した。

1963年5月23日に国定歴史建造物に指定され、
1966年10月15日に国家歴史登録財に指定された。

彼女は、アメリカ南北戦争から現存する最後の無傷の海軍艦艇である。


この模型ですが、細部までこだわった力作でした。
よく見ると、その時代の格好をした乗組員が、船首に一人、
船長らしい帽子を被った人が中央マストに一人、船尾にも一人います。

帆船は帆船というだけあって、帆を張るためのリグが
縦横無尽に張り巡らされていますが、全て正しく再現されており、
サービスのためにサイドの砲は全てハッチを開けた臨戦態勢となっています。


部屋に設られたテーブルには、かつてのオフィサー使用のグッズ各種。
コーヒーカップには海軍のマークが金で刻まれています。

タイプライターはスミス-コロナ(Smith-Corona)社製。
電動式ではないので、インクリボンさえ購入できれば今でも使えます。

スミス・コロナ社はかつては名の知られたタイプライター、
および計算機メーカーでしたが、1980年代中盤以降、
ワードプロセッサ台頭の波を受け業績が悪化するという困難を経て、
現在は製品カテゴリーを熱転写関連商品に絞り経営しています。



「Glad Rags to Rich」(ボロから富豪へ)

という衝撃的なタイトルのついた歌手のシェールが表紙の雑誌。
調べたところ、1975年発行のTIMESです。

この当時彼女は28〜9歳、成功を手にし初めてタイムズの表紙を飾りました。

「ボロから富豪へ」という言葉は、シャーリー・テンプル主演で有名な
映画の題名ですが、文字通り貧乏から金持ちになった主人公と同じく、
彼女は幼少期は大変貧しい家庭に育っています。

なんでも理由は母親が何度も離婚と再婚を繰り返していたためとか。



このシャンパンのボトル、ジッポーライター、タバコは、
オバマ大統領からの寄贈、と一応はなっていますが、本人からではなく、
オバマが大統領時代バッファローを訪問したとき、
なぜかシークレットサービスから寄贈されたものだそうです。

そういえば、バッファローで名前だけは有名だけど固くて辛くて、
まあ要は激まずだったバッファローウィング屋に、
オバマが来た時のの写真が得意げに掲げられていたなあ。

ただただ辛くて、衣が岩のように硬いバッファローウィングを、
老舗というだけで有り難がって食べてるアメリカ人ってもしかしてあほ?

とまで思わせてくれたあの店、オバマもきっと「まずっ」とか思ったと思う。

ちなみにタバコの箱らしいのにはオバマのサイン入り。
あまり有難くはないけど「恩賜の煙草」というところですか。

っていうか、オバマってタバコ吸わないよね?


ゲームなどがやりかけで置いてある(灰皿もあり)テーブル、
周りには油彩の絵がいくつか飾ってあります。



「リトルロック」の鑑番号4が見えるこの右側の絵ですが、
これは彼女がイタリアの地中海沿いの港ガエタに停泊していた時の姿で、
1959年から3年間「リトルロック」に乗り組んでいたある乗員、
(RDSN Seaman, Radarman Striker)が描き、寄贈したものです。



「リトルロック」に陶器を提供したバッファロー・ポッタリー・カンパニー
1901年、ニューヨーク州バッファローに設立されました。

1875年設立のラーキン・ソープ・コンフィ社から派生した会社です。
創業者は親戚同士で、なぜ陶器を石鹸会社が扱うようになったかというと、
陶器を売ったら洗剤も売れるよね、ということだった模様。

現在会社はオネイダ有限会社の一部として存続し、
アメリカ軍のレストランやクラブなどの食器を請け負っています。

展示されているのは、1944年の就役から1976年の退役まで、
USSL「リトルロック」で使用された陶磁器のごく一部であり、
バッファローの人々や産業界が常に示してきた、
アメリカ軍への全面的な支援を象徴するものとされています。

アメリカの深川製磁みたいなものでしょうか。



こちらは士官用食器です。

ご存知のように、海軍艦船上では、陶磁器も銀の食器も、
士官の日常の食事に使われるものでした。

そしてここの説明にもあるように、これは、アメリカ海軍における、
将校と下士官兵の間の生活全般における多くの大きな差異の一つです。


ここはオフィサーズ・パントリー

士官用のワードルームで供される食事を用意するところです。
デザートやスナック、コーヒーがいつでも用意されていました。
コーヒーカップは暖かいコーヒーのために常に温められていたそうです。

そして常に給仕の兵がスタンバイして、彼らにサービスを行いました。




冒頭のスケッチですが、
「アメリカの自由の防人三世代」
というタイトルで描かれた、バッファローのある一族の肖像です。

Krestos一族は、ここバッファローで、三代にわたり、
国防に携わる軍人を輩出してきました。

右下の人はメイン州バース(Bath)の造船監督官だった
ディーン・M・クレストス少佐であろうかと思われます。

また、左側の船は日本軍の潜水艦に撃沈されたUSS「インディアナポリス」
右側はミサイル駆逐艦USS「ファラガット」DDG-99です。

いずれもクレトス家の誰かが乗り組んだ艦ということですが、
「インディアナポリス」に乗っていたクレトス水兵は、
撃沈された時乗っていたとして、無事生還されたのでしょうか。


続く。

令和7年度年初め映画タイトルギャラリー〜日米リクルート映画

2025-01-04 | 映画


たった今知ったばかりのニュースに驚かされたので、
本題とは離れますが、英語版の記事を挙げておきます。

USスチールCEO、売却阻止のバイデン氏の「恥ずべき」行動を激しく非難

USスチールの社長兼最高経営責任者(CEO)は金曜午後の声明で、
同社が日本企業の日本製鉄に買収されるのを阻止するという
バイデン大統領の決定は「恥ずべきこと」であり「腐敗している」と述べた。

「バイデン大統領の今日の行動は恥ずべき腐敗だ。
彼は組合員と疎遠な組合長に政治的報復を行い、
わが社の将来、労働者、そして国家の安全保障に損害を与えた」

とデビッド・バリット氏はソーシャルプラットフォームXに投稿し、大統領は
全米鉄鋼労働組合のデビッド・マッコール会長に恩義があると主張した。

「バイデン氏は、経済と国家安全保障の重要な同盟国である日本を侮辱し、
米国の競争力を危険にさらした。
北京の中国共産党指導者たちは小躍りしている。
そしてバイデン氏は、事実を知るために
我々と会うことさえ拒否しながら、これらすべてを行った」

と同氏は付け加えた。
この取引は対米外国投資委員会によって1年以上検討されており、
委員らは米国の鉄鋼業界に影響を及ぼす大規模な変化の
潜在的なリスクと利益を検討してきた。

バイデン氏は、国家安全保障上のリスクと国際競争力への打撃を
決定要因として挙げ、この合意を阻止すると発表した。

「米国の国益のために戦いを主導し続けるためには、
米国の鉄鋼生産能力の大部分を占める大手米国企業が必要だ」


とバイデン氏は述べた。 

「行政府の国家安全保障と貿易の専門家委員会が決定したように、この買収は
アメリカ最大の鉄鋼メーカーの一つを外国の支配下に置くことになり、
国家安全保障と重要なサプライチェーンにリスクをもたらすだろう。
だから、私はこの取引を阻止するために行動を起こしているのです。」

トランプ次期大統領も、労働団体からの強い支持を得て
同様の発言を称賛しながら、この合意に反対する姿勢を示している。

しかし、バリット氏は、この決定は鉄鋼労働産業における米国の将来を妨げ、
長年の進歩を後退させるだろうと述べた。
USスチールの従業員のグループもこの取引を支持している。

「我々の従業員と地域社会は、より良い待遇を受けるに値する。
アメリカにとって最善の条件を得る方法を知っており、
それを実現するために懸命に働く大統領が必要だった」

とバリット氏は書いた。 

「誤解しないでください。
この投資はUSスチール、当社の従業員、地域社会、
そして国家にとって素晴らしい未来を保証するものです。
私たちはバイデン大統領の政治的腐敗と戦うつもりです。」

なんと売却に反対していたのは政府であり、
企業側はそれを進めたがっていたのですね。知らんかった。
なおこの新聞記事で労働者たちが持っているプラカードには

「We want Nippon Steel's investment」

と書いてありました。


さて、本題に戻ります。

平成6年度の映画ログより、タイトルイラストを振り返る企画、
年を跨いで三日目となりました。

最終日は、日米双方の隊員勧誘を目的とした宣伝映画です。

■ 嵐を突っ切るジェット機

前編

この映画の存在については全く知らなかったのですが、
知人のKさんが航空自衛隊の基地を訪問し、そこで撮った写真の中に、
空自の協力で制作された昭和の映画のポスターがあったわけです。

自衛隊を描いた、あるいは自衛官が主人公である映画は、
昭和期には宣伝目的でそこそこ制作されていたようですが、
DVD化されている作品はあまりないため、ネットで検索しても
なかなかヒットしないので、この情報は大変ありがたかったです。

その中で現在なんらかの方法で視聴できる唯一の映画がこれでした。

空自のパイロットを主人公としたこの映画は、源田實が空幕長に就任し、
その肝入りでアクロバット飛行チーム、「ブルーインパルス」が
正式に発足した、まさにその翌年の1961年に公開されています。

時期的に見て、これはもう間違いなく、ブルーインパルス発足と同時に
広報を目的とした映画の企画が始まっていたものでしょう。

当時イカすヤングスターだったマイトガイこと小林旭を主人公に、
ブルーインパルスの宣伝とパイロットへの憧れを育てようとしたようです。

しかし、現代の視点でこれを見ると、色々と疑問を感じます。
まず、主人公演じる自衛官像について。

当時の若者が「イカす」と思うような人物像は、
例えば石原慎太郎が描き、弟の石原裕次郎が主人公を演じた
「太陽の季節」から派生した太陽族のように、裕福な家庭に育ち、無軌道で、

「健康な無知と無倫理の戦後派」
(太陽の季節の宣伝文句)

つまり、その時代のアンファン・テリブル=アウトローに属するような
「不良」であったとすれば、この主人公、榊は、
自衛隊で素行の悪さから叱責を受け、それが原因で左遷され、
私生活では車をかっ飛ばしてジャズをやり、何かというと暴力を振るう、
という不良ぶりを遺憾無く発揮する人物なのですが、
そもそもそんな人物が自衛官というのはどうなのか。


後半

そしてこの映画の失策その2は、
主人公とその兄が立ち向かう敵が「第三国人」だったことです。

戦後のドサクサに麻薬を売買して儲けていた第三国人、
劉にヤバい商売の片棒を担がされていた榊の兄(元海軍パイロット)。

兄の犯罪に気づいた榊は、劉を追っていた刑事が
沖縄に逃げようとする劉を捕まえるため、自衛隊に出動要請
したのを受けて、
最初はF-86で、それもダメならT-33に乗り換えて劉を追います。

そもそも、一介の警察官が自衛隊の出動を電話で要請できるなんて、
並行世界の日本かよとこの映画を見たおそらく全員が思うでしょう。

わたしは思うのですが、もし自衛隊がこの映画でジェット機を宣伝して、
自衛隊への関心を深め、あわよくば入隊者の増加につなげたいのなら、
まず、チンケな密売人との戦いではなく、自衛隊の出動要件である、
治安出動や災害派遣、警護出動を満たすアクシデントを据えるべきでした。

感想の最後に、

「よくこんな映画に自衛隊が協力を許したな」

と書いたのですが、それはあくまでも半世紀後の常識によるもので、
1950年台の自衛隊は今とは全く採用基準、そして構成人員、
その他もろもろが今とは全くちがっていたことを考えなくてはいけません。

今では考えられませんが、名前さえ書ければ入隊できた時代もあるのです。
盛場でウロウロしている若者に、「ニイちゃんいい身体してるね」
と声をかける自衛隊の勧誘員がいたというのも伝説などではありません。

有名な「昭和の自衛官」

映画はこの時代(ヤンキー出現期)より遥かに昔であり、
そういう意味では、自衛隊に入隊しようとする若者の層もピンキリで、
それこそキリの方にはとんでもないのも紛れていたはずです。

もしかしたら、こんな映画でも「アキラの兄ぃイカス!」とシビレて、
パイロットになってジェットぶっちぎっちゃる!
と自衛隊に入隊する人もちょっとくらいいたかもしれない。

アメリカで「トップガン」を上映した映画館に窓口を設置しておいたら、
そこから海軍への入隊を申し込んだ人がたくさんいたという話もあったし。

■ HERE COME THE WAVES
(ウェーブスがやってくる)


アメリカの戦争コメディ(戦争中にコメディを作ってしまうアメリカ)
ばかりを集めた直輸入版のCDに収録されていた映画です。

日本では公開されなかった作品なので、邦題は直訳しましたが、
もし公開されていたら、その時はどんなタイトルになっていたでしょうか。
想像してみます。

例1:「海軍の美人双子」

この作品の前にご紹介した陸軍WAC勧誘映画、

「Keep Your Powder Dry」(常に備えあり)

が、「陸軍の美人トリオ」になったことから類推してみました。

例2:「海軍女子がきた!」

〇〇女子、という言い方はちょっと今風ですがどうでしょう。
まあ、いずれにしても日本では「WAVES」という言葉は使わないでしょう。
何度かこのブログでもお話ししているように、海上自衛隊では
女性隊員のことを、語尾の印象が良くない「ウェーブス」ではなく、
「ウェーブ」と呼んでいるので、万が一この言葉を採用しても、

例3:「ウェーブがやってきた!」

になるはずです。

本作は英語字幕がなく、シノプシスも見つからず、
要するに翻訳の助けになるものが何もなかったので、
全ての理解を聞き取りで行いましたが、正直なところ、
一部どうしても聞き取れなかったセリフもあったりして苦労しました。

さて、「嵐を突っ切るジェット機」は、入隊希望者を増やすために
設定すべき「憧れられる主人公」「憧れられるシチュエーション」
をすっかり見誤ったとわたしは厳しく断罪しましたが、
戦時中のアメリカにおける女性軍人のリクルートを目的とした当映画は、
当時アイドル&カリスマ的人気があった歌手、ビング・クロスビーが
海軍に入隊してウェーブスと恋に落ちるという展開で、
海軍への憧れを実に軟派な方向から憧れを煽ってきています。

これはアメリカ人にとっては大変効果的だったと思われます。

日本と違ってアメリカの戦争映画は必ず男女の恋愛を取り上げますし、
軍公式のリクルート映画などでも、それは例外ではなく、
はっきりと「女の子にモテるよ」などという直接的な文言で
航空隊への参加を誘ってくるような作りとなっていました。

愛国心とか公徳心、公に殉じる覚悟とかはもちろん誰の建前にもありますが、
人間誰しも自分の人生を良く生きたいというのが古今東西本音にあります。

陸軍の「常に備えあり」にしても、この「ワックがやってきた」にしても、
そこでは軍隊での生活を女性のライフステージの一つとして提案し、
そこではちょっとワクワクした非日常な出来事が起こるかも?
それは素敵な男性との出会いかもしれないし、
一生付き合える仲間との出会いかもしれない、という具合です。

軍隊に参加することは、多少は厳しいこともありますが、
決して自分を殺したり、我慢をしたりすることはないんですよ、
それに、国のために働くのはこれだけ格好良くて尊敬されます、
と、まあ現在のリクルートとはあまり違いのない角度からのアプローチです。


本編のイラストは、白黒映画だったこともあって、
「陸軍の美人トリオ」と同じ、アメコミ風に仕上げてみました。

また今年も、皆様があまり観る機会のない、
このような日本未公開の作品も頑張って取り上げていきたいと思いますので、
どうかお付き合いください。




令和7年度 年初め映画タイトルギャラリー

2025-01-01 | 映画


皆さま、明けましておめでとうございます。
本年度も淡々と、主に海軍関係のことや見たものについて発信していきます。
よろしければどうかお付き合いください。

さて、年末に戦時中に制作された日米の国策映画を取り上げましたが、
そこで年が明けてしまったので、掲載順ではなく、
なんとなく絵面が正月向きの「聯合艦隊司令長官 山本五十六」
のタイトルイラストで新年をスタートしたいと思います。

■ 聯合艦隊司令長官 山本五十六

本作品は、元ページでも説明したように、
東宝映画が毎年終戦記念日と同時に公開する「8/15シリーズ」の一つです。

確かに、夏になると必ず戦争大作がリリースされていた時期がありましたが、
それでは東宝の8/15シリーズとは結局なんだったのかというと、

「日本のいちばん長い日」(1967) 監督:岡本喜八 
「連合艦隊指令長官 山本五十六」(1968) 監督:丸山誠治 
「日本海大海戦」(日露戦争)(1969) 監督:丸山誠治 
「激動の昭和史 軍閥」(1970) 監督:堀川弘通 
「激動の昭和史 沖縄決戦」(1971) 監督:岡本喜八 
「海軍特別年少兵」(1972) 監督:今井正

「聯合艦隊」(1981) 監督:松林宗恵
「零戦燃ゆ」(1984)監督:舛田利雄

毎年季節の風物詩的に夏にリリースされた作品は6作。

戦後懐古的に語られることの多かった戦争映画も、ある時期から
極端に左傾化していった朝日新聞を筆頭とする言論に叩かれるようになって、
反戦・自虐の思想に配慮するようになるのですが、このシリーズも
「激動の昭和史 軍閥」辺りでその傾向が見えてきて、
(内容は竹槍事件いう言論事件が中心)「沖縄決戦」は言わずもがな、
「海軍特別年少兵」で子供を戦争に駆り出した軍と政府への非難、と、
とにかく日本が悪うございました的な反戦反日一色になっていきます。

こういった反戦思想が悪いというのではありませんが、
誰にとってもこの手の映画は単純にエンタメとして「面白くない」し、
映像作品としての完成度も高いとは言えないものがほとんど。

事実、この3作品は、少なくとも「山本五十六」ほどヒットはしていません。

これで懲りたのか、東宝の戦争映画シリーズは一旦途切れたのですが、
1981年、戦争映画の原点に立ち返った作品「聯合艦隊」で息を吹き返します。

「聯合艦隊」の制作が決定した直後、製作補の高井英幸は、
資料を探しに立ち寄った本屋で偶然遭遇した当時の東宝社長松岡功に、

「過去の戦争映画で、真珠湾攻撃やミッドウェー海戦、
山本五十六の戦死などドラマチックなエピソードはすべて描かれてしまった。

だからといって、今回、それ以外の秘話や
裏面史を探し出そうなどと考えないように。
秘話は一部の観客しか興味を持たない。

既に描かれてきたエピソードが最もドラマチックなんです。
だからこそ映画の素材として早く取り上げられたんです。
それ以上のもの探してもないんです。
今回も、これまで描かれたエピソードを照れずに使って下さい」

と言われ、真珠湾攻撃から沖縄特攻までを盛り込んだ作品、
「聯合艦隊」を作り上げ、ヒットにつなげました。

ちなみに松岡社長はあの松岡修造のパパです。

「真珠湾」

本作タイトルの絵は、作中登場人物とそのモデルとなった
実在の軍人の写真を並べるということをしてみました。

実在人物を扱う映画として、多少なりとも雰囲気が似ていると、
観ていて非常に納得感があるものですが、
1日目の「真珠湾」で一番似ているのは草鹿龍之介の安部徹だと思います。

本文でも縷々述べたように、三船敏郎の山本五十六は、特別枠で、
「造形は似全く似ていないがこの俳優しか考えられない」で賞に決定。


本作は、山本五十六が起案した真珠湾攻撃から、
「海軍甲事件」によって戦死を遂げるまでが描かれますから、
真珠湾の次のステージはミッドウェー海戦となります。

この頃の戦争映画によく顔を出していた加山雄三が出演しています。

ついでに、東宝は8/15シリーズに遡り、

太平洋の鷲・日本聯合艦隊は斯く戦えり(1953)監督・本田猪四郎
ハワイ・ミッドウェイ大海空戦・太平洋の嵐(1960)監督:松林宗恵
太平洋の翼(1963)監督:松林宗恵

これら「太平洋シリーズ三部作」を制作しています。
このシリーズは、戦後空幕長になった源田實の「海軍航空隊始末記」を元に、
戦闘機部隊の戦いを描く戦争映画シリーズで、これらは間違いなく
当時子供アニメまで波及した「零戦ブーム」を受けています。

加山雄三はこの中の「太平洋の翼」で戦争ものに初出演し、その後、
「青島要塞爆撃命令」「戦場にながれる歌」、そして、
8/15シリーズには「海軍特別年少兵」を除いて前作出演を果たしました。

本作で加山雄三は、真珠湾攻撃で「赤城」攻撃隊長だった
「爆撃の神様」こと村田重治大佐、そしてミッドウェー海戦における
「飛龍」攻撃隊で「ヨークタウン」の艦橋に激突自爆した、
友永丈一少佐二人をモデルに創作された伊集院大尉を演じています。

「ガダルカナル」

舞台がガダルカナルに転じると、画面が急にカーキっぽくなり、
設定上陸軍軍人多めになってきます。

特にこの日の扉絵で描いた人々は瓜二つの生き写しとしか言いようのない
佐々木孝丸演じる今村均を除いては、誰も全く似ていませんが、


畑俊六陸軍大臣を演じた今福正雄と、



大本営報道部長だった平出英夫と加東大介

この二組は思わず膝を叩いてしまうほど似ていました。
但しわたくし、畑陸軍大臣が出ていた場面は全く思い出せません。

ガダルカナルでは、輸送をめぐる陸海軍の相剋や、
壮烈なネズミ輸送の現場、そして海軍が引き受けた
ヘンダーソン基地艦砲射撃などが描かれます。

「ブーゲンビル」

この映画を掲載するにあたって、最終回を「ブーゲンビル」としたのは
そこが山本五十六の終焉の地であったからですが、この最終回では、
聯合艦隊の残照というべき勝利となった南太平洋海戦が、詰まるところ
ガダルカナル陸軍の支援に帰結しなかった、という皮肉な史実が語られます。

そして全ての山本五十六を描いた映画のシーンと同じく、
本作も、輸送機の座席に軍刀を脚の間に保ったまま、
泰然として彼岸に向かう聯合艦隊司令長官の最後の姿が描かれます。

■ Uボート基地爆破作戦
THE DAY WILL DAWN


1942年、イギリス映画をご紹介しました。

邦題「Uボート基地爆破作戦」
本題「夜明けの日」、
アメリカ公開時タイトル「ジ・アヴェンジャーズ」


何も知らない人は、この三つのタイトルが
同じ映画のものであるとはまず思わないでしょう。

もちろん、どれが一番本作にふさわしいかというと、本題である
「The Day Will Dawn」
です。
日米のそれは、タイトルだけでなんとか客を呼ぼうという、
商業的な媚びが透けて見え、本質からは離れています。

このタイトルは、映画の最後で字幕により紹介されるチャーチルの演説、

”今、ナチスのくびきの下にひれ伏している12の有名な古代国家では、
あらゆる階級と信条の人民大衆が解放の時を待っている。
その時は必ず訪れ、その荘厳な鐘の音は、
夜が過ぎ、夜明けが来たことを告げるだろう。
(The night is past and that the dawn has come.)


から取られていることから、その評価は妥当と考えます。

当作品の舞台設定はノルウェー侵攻作戦を経て、
連合国のフランス侵攻に対し、ドイツ軍が統治に至ったノルウェーという、
映画作品としては大変レアな設定です。

イギリスからノルウェーのドイツ侵攻について取材するため、
誰でもいいや的に派遣された競馬記事専門のメトカーフという記者が、
ノルウェーで漁船で操業する父と娘に出会い、娘と愛し合ううち、
いつの間にか英国とナチスとの戦いに巻き込まれていきます。

何よりわたしが驚いたのが、残存しているフィルムからは、
彼がなぜかドイツ軍艦に拉致され、解放され、フランスに行って
シェルブールで英国の撤退作戦に参加する、
という一連のシーンがごっそり欠落していたということです。

なぜこんな重要なシーンがカットされていたのか全く理由がわかりませんが、
映画解説サイトではちゃんとこの部分にも言及しているので、
DVD化するときにフィルムが物理的に欠損していたのかもしれません。

見どころがあるとすれば、それは第二次世界大戦下のノルウェーという
特にハリウッドではまず取り上げられないシチュエーションであることと、
イギリスの名女優、デボラ・カーの美貌が拝めることくらいでしょうか。

メトカーフはドイツ軍艦に拉致された後、なぜかイギリス海軍諜報部に、
ノルウェーのUボート基地を探し出す作戦の民間人スパイとして
(全く本人の同意なしで)パラシュートで現地に放り込まれます。

彼の働きでイギリス軍はドイツ潜水艦基地を爆破するのに成功しますが、
その後、彼を待っていたのは、容赦ないドイツ軍の報復処刑でした。

作戦に協力したデボラ・カー演じるノルウェー娘や村人と共に、
彼が銃殺刑に処せられようとした寸前で、間一髪イギリス海軍がやってきます。


当作品は戦時中に制作されたイギリスのプロパガンダ映画ですので、
そもそも中立であるべきノルウェーを狙っていたのはドイツだけでなく、
英側だって戦略上侵攻しようとしていた(仏にかまけている間取られた)
という視点はごっそりと(このフィルムのように)抜け落ちています。

年末にお話ししたプロパガンダ映画の要件を紐解くまでもなく、
そこには当然「我が方イギリスの側の正義」しかないわけです。

いずれにしても「プロパガンダ映画に名作なし」の典型みたいな作品でした。


ところで蛇足ながら、この映画の前半の絵は、人間ドックの待ち時間を利用して
iPadで検査の合間を埋めるようにして仕上げたせいで、
これを見るとドックを行った病院と待ち時間の様子を思い出してしまいます。

実は音楽の演奏も同じで、ある箇所をさらっているときに考えたことが、
意識下でプリンティングされてしまい、そこにくると
そのプリンティングされた映像や出来事、イメージが、
何回演奏してもふっと浮かんでくる現象があるのですが、
絵を描くという作業にも同じようなことが起こるんだなあと実感しました。

ちなみに”プリンティング”される事象は、人の顔だったり、
ブログ制作で取り扱ったシーンだったり、もっと他愛のないことだったり。
自分では内容やプリンティングそのものをコントロールできません。

この現象、楽器をやる人ならおそらく皆わかってくれますよね。

続く。

令和6年度 歳忘れ映画タイトルギャラリー〜日米国策映画を考える

2024-12-29 | 映画


早いもので、令和6年ももう終わろうとしています。
今年も恒例の映画タイトルギャラリーをやります。

今日は、令和6年度に掲載した日米のプロパガンダ映画について。

■「愛機南へ飛ぶ」
2023年の年末に掲載した国策映画です。

この映画を制作したのは、その名も「映画配給社」という、
戦時国策映画を制作するために1942年に作られた御用映画会社でした。

政府は1942年2月にすべての娯楽映画の制作を禁止する
「映画統制令」を作ったため、既存の映画会社のスタッフは、
徴兵されるか、志願して戦争に行くか、あるいは
国内で国策映画を作るかのどれかしか道がなくなりました。

監督は、当時松竹に在籍していた早撮りのできる佐々木康が務め、
陸軍の全面協力によって当時国民的ヒットを果たしました。

娯楽映画がなくなって、他に観るものがなくみんなが観た、
という非常にわかりやすいヒットの理由があったとはいえ、
国家予算が費やされていることもあり、決して駄作ではありません。



国策映画の目的はまず戦意発揚と戦争遂行への理解を深めることですが、
本作の場合、これに「航空兵」「偵察」の増員という目的が加わります。

主人公の青年は、外国航路の船員だった父が客死したため、
自分は航空士官となることを目指すのですが、配属先は偵察。

従来映画に取り上げられやすい海軍の船乗りや戦闘機、
爆撃機乗りという配置と比べると比較的地味です。

しかし、この映画で取り上げることで、おそらく陸軍は、
地味だが重要な偵察任務の重要性とその魅力を伝え、
希望者を増やそうと計画したのだろうと思われます。

本作は当時の映画館の慣例に従い、単体ではなく、
東宝映画の「決戦の大空へ」と同時に上映されました。

松竹と東宝作品の二本立ては本来ならばあり得ない組み合わせですが、
それは当時の配給会社が「映画配給社」しか存在しなかったからです。

既存の映画制作会社は統廃合されたわけではなく、
「映画配給社」が企画したものを各社で個別に制作し、
それを一括して配給していたので、こういうことも起こり得たのでした。

映画配給社が陸海軍のバランスをとったのか、
「決戦」は海軍後援映画で、予科練の航空兵を描いた作品でした。

こちらも出演者に人気絶頂だった原節子、高田稔、
練習生に木村功というなかなか豪華な陣容となっており、
特筆すべきは、この映画からあの「若鷲の歌」が生まれたことでしょう。


映画に戻りますが、本作では主人公が陸軍予科士官学校に入るという設定で、
朝霞にあった陸軍予科士官学校の様子を見ることができます。

予科士官学校のあった場所は現在陸上自衛隊朝霞駐屯地になっています。

そして、埼玉県の所沢にあった、陸軍航空士官学校の訓練の様子、
現在航空自衛隊入間基地となった修武台の内部を見ることもでき、
歴史的に貴重な映像資料としても後世に伝えるべき作品です。

そして、この映画では、当時霧ヶ峰で訓練していた
女子航空員のグライダー滑走の貴重な映像を見ることができます。


前半が主人公の立志と錬成、そして陸軍士官学校卒業までで、
後半は日米開戦、主人公が台湾に出征するところから描かれます。

映画にはフィルムが欠損している部分が多々あり、それはほとんどが
主人公の母の働く航空機工場における「銃後の人々」の様子なので無問題。

映画のクライマックスで、主人公は偵察任務の際、
ガソリンの残量が少ないのを覚悟で任務を遂行し、無人島に不時着。
しかし爆撃部隊は彼らの偵察によって大戦果を挙げます。

生還した主人公は褒賞として(たぶん)帰郷を許され、
母親と二人水入らずの(最後になるかもしれない)旅行を終えて、
また南へと飛行機が飛ぶ(戦地に帰っていく)ところで映画は終わります。



この作品が宣伝映画としてなかなかよく出来ていると思うのは、
青少年、父母層、働く若い女性と、各層について満遍なく描写し、
全方向からの共感を得られやすくしてあるという点でしょう。

ただ生真面目で説教臭く、理想化されすぎた人々の描写など、
プロパガンダ映画ならではの致命傷はあるものの、
当時の映画人たちが、娯楽映画の制作を禁じられ、
軍の各種縛りという制限下における創作活動においても、
彼らの状況でプロとしてやり遂げた一つの仕事といった感じです。

【「若鷲の歌」と「索敵行」】


「愛機」の挿入歌「索敵行」がヒットしたと前回書きましたが、
そうは言っても、1年間のレコード売り上げは6万5千枚止まりでした。

これに対し、同時上映された「決戦の大空に」の挿入歌、
「若い血潮の予科練の」で有名な「若鷲の歌」
全く同じ時期に発売され、1年間の売り上げは23万3000と海軍圧勝でした。

「若鷲の歌」の作曲者、大作曲家古関裕而は、戦後、
土浦航空隊跡地である自衛隊武器学校に「若鷲の歌の碑」が建造された際、
その式典の席でこんなことを述べています。

「この歌に刺激され、発奮され、大空に国難に殉じようと
何万という青少年が予科練に志願したという話を聞き、
更に祖国のために身を捧げられたことを聞き、
いたく責任を感じ、只、英霊の冥福を祈るのみである

自分の優れた歌曲が多くの若者を戦地に追いやったと言うのでしょうか。

しかし、肝心の作詞を手がけた西条八十はというと、
戦争中従軍文士として大陸に渡り、日本文学報国会の会員として
まあ言うたら全面的に戦争協力を行なっていたわけですが、
戦後は歌謡界の重鎮としてさらなる創作活動を行い、
戦争中の活動については反省どころか特に言及もしていないようです。

古関裕而はきっと誠実で良心的な人物だったのでしょう。
しかし「死に追いやった責任を感じる」は、
芸術家としていうべきではなかったとわたしは思います。



■ 海兵隊魂とともに Salute to the Marines




意識したわけではありませんが、カラーの扉絵を描こうとして
カラー作品を選んだところ、日本の国策映画の次は、
アメリカの国策映画を紹介することになってしまいました。

主人公にウォレス・ビーリーという当時落ち目の俳優、
(しかも落ち目になった理由が因果応報自業自得としか言えない人格破綻者)
加えて、いわゆる出演者に有名どころが一人もいないという、
こちらはハリウッドにしては思いっきり低予算映画。

だらしなく太った海兵隊曹長という設定もさることながら、
いくら国策映画だからと言って、その主人公が日本人を何度も何度も
口汚くイエローモンキー、ジャップと罵る映画というのは、
プロパガンダとわかっていても決して愉快なものではありませんでした。

たとえわたしが日本人でなかったとしても、それは同じ。

「FBI vs ナチス」や「Uボート基地爆破作戦」における
ドイツ人&ドイツ軍の描き方が単純に不快なのと同じことです。

本作は、開戦直後からフィリピン陥落までの頃、つまり、
アメリカが日本相手に何かと苦戦していた頃に制作されたもので、
退役した海兵隊軍曹が悪の日本軍相手に戦いを挑み、
最終的には敗れて死んでいくというストーリーです。


【プロパガンダ映画とは】

戦時プロパガンダ映画というのは、国民の戦争協力を得るため、
特定の思想、世論、意識、行動へと誘導する意思のもとに制作されます。

かつてアメリカ合衆国に戦時中のみ存在した、
宣伝分析研究所(Institute for Propaganda Analysis)
の分析によると、プロパガンダの手法の一つに、

ネーム・コーリング(名指し=罵詈雑言)


というものがありますが、それは、個人または集団に対し、侮辱的、
卑下的なレッテルを貼り、攻撃対象をネガティブなイメージと結びつけ、
「恐怖に訴える論証」(Appeal to fear)を用いて、
観衆に恐怖、不安、疑念と先入観を植え付けることを目的とします。

「海兵隊に敬礼」(原題直訳)というこの作品の主人公は、
粗野で二言目には罵詈雑言を吐き散らし、隙あらば大ボラを吹いて
自分を大きく見せるような海兵隊曹長ですが、不思議なことに
酔って暴れて憲兵に収監されようが、不名誉除隊にもならず、
全ての狼藉は「微笑ましいエピソード」として大目に見られます。

しかも彼の周りには、美人の妻と父親に似ても似つかない娘を始めとして、
妻の所属する「平和同好会」のメンバーも、教会に集う隣人たちも、
全てが善良で、口汚く敵を罵る役目は、主人公ただ一人に任されています。

(しかも、彼が下士官なのに、妻の兄は士官であり、
娘は司令の姪としてイケメン士官二人を両天秤にかけているなど、
主人公の生息するコミュニティには階級的にもあり得ない事象が多々)

それに対比する意味で登場するのが、市民に溶け込んでいると思われた
日系のラジオ局オーナーと、ドイツ系の薬屋です。

彼らは日本軍の侵攻と同時に正体を表して武器を取って暴れ出し、
善良な隣人を傷つけ始めますが、このような描写や、
民間船に偽装して兵隊を密かに運んでいた日本軍の描写は、
ネーム・コーリングで言う、「恐怖や嫌悪を煽る目的」によるものです。

イギリスの政治家、アーサー・ポンソンピーによると、
戦争プロパガンダの10の主張とは以下のとおり。

1.我々は戦争をしたくはない
2.しかし敵側が一方的に戦争を望んだ
3.敵(の指導者)は悪魔のような人間だ
4.我々は領土や覇権のためではなく偉大な使命(大義)のために戦う
5.我々も誤って犠牲を出すことがあるが、敵はわざと残虐行為に及ぶ
6.敵は卑劣な兵器や戦略を用いている
7.我々の受けた被害は小さく、敵に与えた被害は甚大(大本営発表)
8.芸術家や知識人も、正義の戦いを支持している
9.我々の大義は、神聖(崇高)なものである(聖戦論)
10.この正義に疑問を投げかける者は、裏切り者(売国奴、非国民)である

このうち、本作に見られるプロパガンダは赤字が顕著です。

そこであらためて、「愛機南へ飛ぶ」と日本の国策映画の傾向はというと、
敵を貶めたり悪魔化するような表現はあまり用いられず、
ただ戦いに臨む軍人を理想化、英雄化し、周りの人物の覚悟を美化し、
上の主張で言うと9番の聖戦論を拡大したものであると考えられます。



ストーリーは、主人公夫妻が死後に海兵隊から勲章を与えられ、
その叙勲式で娘がいきなり海兵隊軍曹になるところで終了します。

まあこれはなんだ、美人の女優さんに海兵隊の素敵な軍服を着せて、
あわよくば女子の入隊も見込めないかってことだったんだろうなあ。


最後に、本作を不快に耐えて取り上げて良かったと思ったことは、
なんと言っても、このシーンです。



1980年度作品「ファイナル・カウントダウン」で登場した「零戦」シーンが
実は1943年作品のこの映画から流用されていたと知った時の驚き。

おそらくこんなとんでもない事実に最初に気づいたのは、
世界広しと言えども、わたしだけではないかとすら思えました。

「ファイナル・カウントダウン」のスタッフは、
この映画のあまりに無名なことから、流用がバレないと思ってたんだろな。

ところがわたしのミスは、英語のある映画サイトで、この映画の日本機は
ヴィンディケーター Vought SB2U Vindicatorであると書いてあったのを
検証せず鵜呑みにして、本文でヴィンディケーター連呼したことです。

ただちにこれテキサンじゃね?と皆様に間違いをご指摘をいただきました。
うむ、確かにテキサンと言われて見れば、テキサンの形をしておるわ。

しかし、この間違いのおかげで、「ヴィンディケーター」が
当時のパイロットにめっっぽう評判が悪く、「バイブレーター」とか、
特に「ウィンド・インディケーター」(風向指示器)なんていう
誰がうまいこと言えと的なあだ名がついていたことを知ったので、
これは転んでもタダでは起きないってやつか?と自分を慰めています。


続く。


「戦艦のように戦った駆逐艦」サミュエル・B・ロバーツ〜「リトルロック」展示

2024-12-26 | 軍艦

「リトルロック」艦内の展示、駆逐艦水兵協会シリーズより、
今日はまずサマール沖で日本海軍と戦った、ある駆逐艦についてのお話です。

■ In Footsteps of Brave Men
勇者たちの足跡

1986年4月、「オリバー・ハザード・ペリー」級ミサイルフリゲート艦、


「サミュエル・B・ロバーツ」
USS Samuel B. Roberts (FFG-58)

が就役しました。



上の記事に添えられた写真の左端が就役時の「サミーB」です。

このフリゲート艦は、第二次世界大戦中、
ガダルカナル島で孤立した海兵隊員を救助した功績により、
死後海軍十字章を受章した海軍水兵、

サミュエル・ブッカー・ロバーツ・ジュニア
Samuel B. Roberts jr.(1921-1942)

にちなんで命名された3隻目の艦です。
ちなみに一代目は、

USS Samuel B. Roberts (DE-413)

二代目は、「ギアリング」型駆逐艦、


USS Samuel B. Roberts (DD-823)

それでは、その横の2隻との関係は何でしょうか。

■サマール沖海戦

まず、真ん中の艦番号52は、同級の

USS「カー」Carr (FFG-52) 

1944年10月25日のサマール島沖海戦に参加した
USS 「サミュエル・B・ロバーツ」で後部砲の配置だった三等砲手、
ポール・ヘンリー・カーの戦功を称えて建造されたフリゲート艦です。

そして、325の艦は、やはり同級の17番艦、

USS 「コープランド」Copeland (FFG-25)

この名前は、やはり「サミュエル・B・ロバーツ」艦長だった、
ロバート・W・コープランド中将(最終)にちなみます。

コープランド

このときカー水兵は戦死し、コープランド艦長は救出されています。
それでは「サミーB」は帝国海軍とどのような戦いをしたのでしょうか。

「ジョン・C・バトラー」級駆逐艦護衛艦である
SS「サミュエル・B・ロバーツ」(DE-413)は、
サマール沖海戦で日本海軍によって撃沈されました。

サマール沖開戦は、1944年10月のレイテ沖海戦の一部で
同艦はタスクユニット77.4.3(「タフィ3」)の一員として
少数の駆逐艦、護衛駆逐艦とともに護衛空母を守っていました。

そして、サマール島沖で重武装した日本の戦艦、巡洋艦、
駆逐艦からなる栗田艦隊と対峙することになります。

10月25日の夜明け直後。

陸軍の攻撃を航空支援していたタフィ3がサマール島東岸沖を航行中、
栗田健男中将の指揮下にある23隻の日本海軍の機動部隊
(センターフォース)が水平線上に現れ、攻撃を加えてきました。

状況を見たコープランド艦長は、乗組員に向かってこう艦内放送します。

「この圧倒的不利な戦いにおいて、おそらく生き残ることは不可能だ。
我々は、やれる限りやって損害を相手に与える

駆逐艦の煙幕に隠れて、発見されず突進した「サミーB」が
2.5海里(4.6km)まで艦隊に迫ったとき、砲弾がマストに命中し、
それが魚雷発射装置を詰まらせましたが、すぐさま修復。

「鳥海」に2.0海里の距離まで潜り込み(射程放線より低い)魚雷発射。

この時見張りは少なくとも1本の魚雷が命中したと報告していましたが、
実際には「鳥海」に魚雷は命中していません。
(但し同じ英語のWikiでも、『カー』の項では艦尾に命中とされている)

そのとき重巡洋艦「筑摩」が現れ、米空母に向かって幅射撃を行ったため、
コープランド艦長はそちらに進路を変更し、砲撃を命令しました。

このとき艦長は、

「魚雷を発射する。
効果があるかは疑問だが、我々は任務を遂行する」

と放送しました。

このとき「筑摩」は空母と「サミーB」の間に位置していました。
「サミーB」は小型で高速の相手に対して難しい攻撃を強いられます。

この後35分間、「サミーB」の艦砲は5インチ弾全弾、600発以上を発射し、
「筑摩」と交戦を行いますが、すぐに「筑摩」だけでなく、
「大和」「長門」「榛名」からの砲撃をも受けることになります。

8時51分、巡洋艦の砲弾が「命中し、ボイラーの1つが損傷。
「金剛」が0900に「サミーB」の機関に決定的な打撃を与えました。
そしてついに0935、総員退艦の命令が下されます。

「サミーB」はその30分後に沈没し、乗組員90名が死亡。
コープランド艦長含む乗組員120名の生存者は、救助されるまでの50時間、
3つの救命いかだにしがみついていました。


ポール・カー3等砲手

このとき「サミーB」で砲架52、後部5インチ砲を担当していたのは
ポール・H・カー3等砲手(21歳)でした。

砲架52は、攻撃を受けて爆発するまでの35分間で、
貯蔵されていた325発の弾丸をほぼすべて発射していました。

52を担当していたカーは爆発を受けて倒れ、
腸に重傷を負って瀕死の状態で発見されましたが、
そのとき彼は手に最後の弾丸を抱いたままで、
破壊された砲に最後の砲弾を手で装填しようと繰り返し試みていました。
そして、救助に来た者に弾丸を装填するのを手伝ってくれと懇願しました。

そして「サミュエル・B・ロバーツ」が日本帝国海軍の砲撃で沈没する直前、
カーは砲塔の横で息を引き取りました。

彼には死後銀星章が授与され、誘導ミサイルフリゲート艦に名を遺しました。



■ メトカーフ3世中将の演説


「軍隊、特に海軍ほど伝統が重要な職業はない」

これはグレナダ侵攻で指揮を執ったメトカーフ3世中将の演説です。
「サミュエル・B・ロバーツ」に見られる水兵、特にカーの勇敢な戦い、
自らを犠牲にして戦ったヒロイズムについて以下のように述べています。


「タイコンデロガ」「ヨークタウン」「ヴァンセンヌ」・・。

これらの独立戦争における戦いの名が、現在は
アメリカ海軍のイージス艦の名前となっていることが表すように、
伝統を受け継ぐもの、それが海軍でもある。

伝統にまつわるもう一つの重要な出来事は、今年4月12日に行われる
USS「サミュエル・B・ロバーツ」(FFG 58)の就役である。

この日、3隻の水上戦士は、1944年10月25日のレイテ湾制圧戦における
サマール沖海戦のように、再び足並みを揃えることになる。

その歴史的な日に、LCDRロバート・W・コープランドは
USS「サミュエル・B・ロバーツ」(DE413)を率いて、
数でも火力でも圧倒的に勝る敵との戦いに臨んだ。

「ロバーツ」には、オクラホマ州出身、19歳の3等砲手、
ポール・ヘンリー・カーも同乗していた。
戦闘に勝利し、レイテ湾への上陸を確実にしたのは、
コープランドLCDRの優れたリーダーシップ、勇気、専門知識、
そしてカー下士官の並外れた勇気と活躍によるものだった。

しかし、その代償は大きかった。
下士官カー兵曹と多くの乗組員は生き残れなかった。
 
「サミー B.」は沈没したが、その前に彼女は
「戦艦のように戦った護衛駆逐艦」という賞賛を獲得したのである。

この艦、艦長、そしてインスピレーションを与えてくれた乗組員が、
USS「 コープランド」 (FFG 25)、USS「カー」(FFG 52)、
USS「サミュエル B. ロバーツ」FFG 30
として艦隊に戻ることになる。

これは今日の海上戦士にとって何を意味するか?
これら戦闘フリゲート艦とイージス巡洋艦との関係は何だろうか?

非常に簡単に言うと、それは地上の戦士と過去、
つまり戦闘と革命の伝統とのつながりなのである。

イージスの新たな戦術を模索する際には、
アイデアの革命を起こさなければならない。
「古いやり方」にだけ埋め込まれた慣習をやめなければならない。
しかし同時に、戦いの伝統は維持しなければならない。

今日地上の戦士は、過去の戦いに斃れた人々の英雄的行為と闘志を忘れず、
また先を見据えて新たな革命が近づいていることを認識しなければならぬ。
卓越した戦闘の伝統を築くことは我々の責任である。

そうすることで我々は世界で最も偉大な海軍であり続ける保証がされる。



海軍作戦部長 J・メトカーフ3世アメリカ海軍中将

このような感動的な演説を紹介した後に残念速報ですが、
このメトカーフ3世中将ったら、そのグレナダ侵攻作戦後、
補佐官数名とともに、捕獲したソ連製のAK-47を国内に持ち込み、
ノーフォークの海軍基地で乗っていた機からそれら24丁と弾倉が押収され、

逮捕?されるという不祥事を起こしています。

軍規則と米国関税法のどちらにも違反していたからです。

しかし、ロナルド・レーガン大統領が介入したこともあって、
メトカーフは海軍から警告を受けただけですみ、しかもその後、
海軍作戦部副参謀長に任命されるなど、全く昇進にも影響なしでした。

ただし、この特別扱いが適応されたのはメトカーフだけで、
一緒に同じことをした下士官6名と下級将校1名
(うち2人は海兵隊員、5人は第82空挺師団の兵士)は全員降格、
しかも不名誉除隊となり、少なくとも1年の懲役刑を受けています。

本人にはどうしようもなかったのかもしれませんが、それを差し置いても
そうと聞くと、このご立派な演説の有り難みもあまりなくなりますね。

同じことをやっておいて、というか一番階級が上の彼が責任者なのに、
彼だけが無傷どころか出世して、部下を見捨てた?ことには違いありません。

■ 「サミュエル・B・ロバーツ」

最後にサマール沖での「サミーB」と、三代目「サミーB」の因縁の話を。

1988年、「サミュエル・B・ロバーツ」はイラン・イラク戦争のとき、
クウェートのタンカーを保護する作戦に参加しました。

補給艦と合流するとき、見張りが付近に機雷を発見し、
艦長のポール・リン中佐は、艦が機雷原に入ったことを確認すると、
乗組員を戦闘配置に送り、艦底の乗組員を甲板に上げました。

艦はエンジンを逆転させて機雷原から後退しましたが、
係留されていたイランの接触機雷に接触し、その爆発は
竜骨を破壊し、左舷に穴をあけ、2つの区画に 2,000トンの水が浸水し、
大火災が発生したため、5分間とはいえ停電に見舞われ、
消火活動もままならない状態になりました。

必死のダメコンで艦は一応安定しましたが、乗組員10人が重傷を負い、
4人が重度の火傷を負い、リン艦長も機雷の衝撃波で左足を骨折しました。

上層部から艦を失う可能性について尋ねられたリン艦長は、
我々は決して艦を放棄しない、という答えの最後に、

これに勝る栄誉はない」

と付け加えました。

「サミュエル・B・ロバーツ」(DE-413)の艦長、
コープランド少佐が、サマール沖戦闘後の報告書に記した、

「これらの人々と共に任務に就いたこと以上に名誉なことはない」

という言葉をこの時に引用したのです。


アメリカ海軍士官学校の同窓会ホールには、レイテ湾海戦で

「戦艦のように戦った護衛駆逐艦」

という名声を得た「サミュエル・B・ロバーツ」と、
その乗員を顕彰するコンコースが存在します。


続く。


護衛駆逐艦セイラーアソシエイション〜USS「リトルロック」艦内展示

2024-12-23 | 軍艦
 
バッファローネイバルパークに係留展示されている
巡洋艦「リトルロック」艦内の展示物をご紹介しています。




「デストロイヤー・エスコート・セイラーズ・アソシエイション」
Destroyer Escort Sairors Association

「駆逐護衛艦水兵協会」(直訳)バッファロー支部のマークです。
ここからは、DEタイプ駆逐艦とその乗員に関係するものが展示されています。



で、最初に冒頭写真の士官のマネキンが登場するのですが、
その靴の近くには、
「ボトムポリッシング キット」=靴磨きセット
があります。

古今東西、軍人は靴を磨き上げるのがデフォになっていますが、
その関係で、欧米の靴墨には、「ミリタリー」という商品名が多いです。

グリフィンというメーカーは、この缶の文字から見ても
おそらくフランス語圏の会社だと思うのですが、
アメリカの国旗、無茶苦茶怒ってる曹長、所々英語というのが
靴磨き=アメリカ軍のイメージで商品を売っていることがわかります。

また、マネキンが着ている制服の寄贈者は、名札によると

Harry G. Engster大尉

この名前で検索すると、同氏の訃報とお葬式の告知が出てきました。
アメリカ人名を検索すると、有名人以外はこの死亡告知がよくヒットします。


obituaryは訃報という意味です。

アメリカでは、故人の生前の業績と遺族についての情報、
そしてどこでお葬式が行われるかの情報をオンラインで検索でき、
そのページに辿り着いた人が「オンライン献花」することもできます。

遺族が見たとき、どんな人が故人に弔意を示したかわかります。

その情報によると、エングスター氏は、

ハリー・G・エングスター
1920年11月4日~2011年11月16日

91歳、ウォーレン在住、2011年11月16日水曜日、自宅で安らかに死去。

ウォーレン・G・ハーディング高校とヤングスタウン・ステート大学を卒業し
第二次世界大戦中は米海軍大尉を務め、海軍予備役中佐として退役した。

引退前はパッカー・トーマス社の公認会計士であり、
狩猟、ボート、テニス、ゴルフを楽しみ、
毎年子どもたちのためにサンタクロースを演じていた。
彼は第一長老派教会の会員であり、長老と助祭を務めた。


第一長老派協会はプロテスタントの教派です。

なお、同氏のお葬式の際の献金は、退役軍人に盲導犬を提供する
「4 Paws 4 Patriots 」プログラムの資金となることが記されています。


■ シルバースタイン中尉



士官のマネキンと反対側にあるのがセーラー服の人形。
足元には映画でお馴染み、水兵用のダッフルバッグと脚絆などが見えます。

おそらく右下のUSS「シルバースタイン」乗員だったベテランの寄贈です。

1944年に就役した「ジョン・C・バトラー」級護衛艦、
「シルバースタイン」の命名由来は、
USS「シムズ」DD-409の機関長であり、珊瑚海海戦で戦死した
マックス・シルバースタイン中尉です。


シルバースタイン兵学校時代

1942年5月7日、珊瑚海海戦で、「ネオショー」の護衛だった「シムズ」は
日本軍の航空攻撃によって7発の直撃弾を受け、
急降下爆撃の攻撃により爆発炎上して沈没しました。

駆逐艦「シムズ」の機関長だった彼は、最初の直撃で意識を失うも、回復し、

「冷静にボイラーの固定、安定性を保つための上部の重りの投棄、
沈没を防ぐための修理の準備を指示しました。」
(生存者談)

その後、「シムズ」の機関室では250キロ爆弾が2発爆発し、
その数分以内に艦体は中央部で座屈し、波間に沈むと同時に大爆発しました。
そのときの爆発で船の残骸は海面から数メートル跳ね上がったそうです。

そして、シルバースタイン中尉の名前は
「バトラー」級護衛護衛艦「シルバースタイン」に遺されました。

■ 護衛駆逐艦「シルバースタイン」

さて、その「シルバースタイン」は1944年7月14日に就役しました。

太平洋に投入されてエニウェトク、グアム、ウルシーで行動し、
4月に予定された沖縄侵攻に向かう軍艦を護衛するうち終戦を迎えます。

終戦を受けてすぐさま不活性化され退役し予備役となっていましたが、
朝鮮戦争で再活性化されて横須賀に向かいました。

キャプテンと砲塔から顔をだす砲員二人 朝鮮戦争中、元山にて

このとき元山(ウォンサン)では同港の敵陣地の砲撃も行っています。
その任務のあとは室蘭に向かい、横須賀を母港にしていました。

「シルバースタイン」にとって最大の事故は、1958年5月29日、
ハワイで、潜水艦
USS「スティックルバック」(SS-415)と衝突
したことです。

事故状況が非常にわかりやすい衝突
潜水艦は沈まないように頑張って浮上モードにしている?

この写真を見てもなんとなくわかりますが、事故後しばらく
潜水艦の方は浮いていたため、乗組員82名全員は無事救出されました。

あわよくば潜水艦も助けたかったはずですが、それは叶わず、
その後、潜水艦は二度と浮上しない最後の潜航を行ったということです。

■ USS「アール・V・ジョンソン」


USS「アール・V・ジョンソン」乗組員だったバッファロー出身者の、
現役時代&ベテランとしての思い出アルバム。

USS Earl V. Jhonson(DE-702)は、
「ヨークタウン」偵察飛行隊の一員で、予備士官アール・ジョンソン中尉が、
太平洋における日本空軍との交戦中、戦死したことを受けて建造されました。

1944年に就役した同駆逐艦は、第二次世界大戦中はニューギニア、
レイテ、ウルシーなどに展開し、中でも8月4日には、
日本の潜水艦との3時間に及ぶ死闘を繰り広げたりしています。
終戦後すぐに退役しました。

■ USS「イングランド」

USS England(DE-635)

1943年就役した護衛駆逐艦で、太平洋に展開しました。



艦名由来となったジョン・イングランド少尉(享年20)は、
真珠湾攻撃の時に「オクラホマ」で戦死しました。

カリフォルニアの裕福な街パサデナ生まれで、
高校時代は演劇青年だった彼は、予備士官に任官し、
「オクラホマ」の無線室に配備されました。

1941年12月7日、その日彼は本来なら休暇だったのですが、
新婚の妻と生後3週間の娘が訪ねてくる予定に合わせて休むため、
同僚と勤務を交代して無線室に勤務していました。

午前7時、真珠湾を攻撃してきた日本軍の主標的は「オクラホマ」で、
最初に落とされた3発の魚雷に壊滅的な破壊を受けます。

イングランド少尉は総員退艦の命令にもかかわらず、
艦内と無線室に3回戻って、3人の乗員を救出しました。
そして4人目を救出するため艦内に戻り、そのまま助かりませんでした。

「イングランドの仇」

と題された、対潜用深度魚雷を撃ち込みまくっているこの絵。
ここでいう「リベンジ」が何を意味するのかはもうお分かりですね。
「イングランド」がイングランドの仇を取っているの図。

「イングランド」は12日の間に6隻の潜水艦を撃沈し、
対潜水艦戦史上類を見ない成績を挙げた駆逐艦として有名です。

1945年5月、日本の急降下爆撃機の攻撃によってダメージを受け、
修理中に戦争が終わってしまったので、あっさり廃艦処分となりました。

ちなみに、「オクラホマ」で戦死したのは429名で、
当時はそのほとんど(388人)が身元不明者のまま埋葬されました。

そのとき、海から引き揚げて身元確認せず埋葬してしまったこともあり、
後に行ったDNA鑑定によると、ひとつの棺の中に、
少なくとも95人分の遺体が混じっていたということです。

2007年になって「オクラホマ」の乗員の埋葬遺体は全て発掘されましたが、
2019年の段階で身元特定されたのは236名であり、152体は不明のまま、
そして当時から今日まで行方不明で全く手掛かりがない乗組員は267名です。

イングランド少尉の身元はミトコンドリアDNAの検査で明らかになり、
彼は両親の墓の隣に軍の栄誉をもって再埋葬されました。

■ USS「ホーエル」



「ホーエル」 (USS Hoel, DD-533) は、「フレッチャー」級駆逐艦で、
命名由来は南北戦争中戦功を挙げたウィリアム・R・ホーエル中佐です。

1943年7月に就役し、11月にはマキンの戦いに参加。
そこで日本潜水艦が撃沈した「リスカム・ベイ」の生存者救助を行いました。

1944年10月25日、レイテ湾で栗田健男中将率いる第二遊撃部隊が
対空射撃をしながら接近してきて、「ホーエル」の艦隊は3分以内に
戦艦4隻、重巡6隻、軽巡2隻及び11隻の駆逐艦からの猛攻に曝されました。

「ジープ空母」と「ブリキ缶」からなる小艦隊は南に逃走。
「ホーエル」ら護衛艦は、煙幕を張って「ベビー空母」を
栗田艦隊から覆い隠そうと、無我夢中で駆けずり回りました。

しかし、戦力差は圧倒的でした。

もはやこれまでと、艦長は反転して栗田艦隊に立ち向かうよう命じ、
「ホーエル」は即座に戦艦「金剛」と重巡「羽黒」に向かって突き進みます。

「金剛」の36cm砲の射程内を突き進みながら攻撃を続けた「ホーエル」は、
その結果「羽黒」から猛攻を浴び、マーク37射撃指揮装置、
機関室、艦橋、レーダー、操舵装置など、40発の命中弾を受けて、
(その中の一つは『大和』からものだったという話もあり)
総員退艦の末、横転し、多くの乗員とともに沈没していきました。

このとき、駆逐艦「磯風」が、沈没寸前の「ホーエル」に接近し、
機銃員が「ホーエル」の生存者に照準を合わせたそうですが、
艦長前田實穂中佐が攻撃中止を命じてやめたという話が残されています。

前田艦長の命令は、おそらく艦が沈むことが確実なので、
これ以上の攻撃は無駄という合理的な考えからだったのかもしれませんが、
このときの乗組員は、海上の日本兵を容赦無く射殺していた米軍に対し、
絶好の仇を取るチャンスを潰され、忸怩たる思いだったと語っています。


■ 戦争は終わった


日本の降伏を報じる「ザ・スターズ・アンド・ストライプス」号外



そして、前にも説明した「セイラーの像」のポスターです。

「駆逐艦水兵協会」の展示、もう少し続けます。

続く。


公式には「紛争」だったベトナム戦争〜USS「リトルロック」ベトナムルーム

2024-12-20 | 歴史

「ベトナムルーム」を終わったつもりでしたが、あと一回続けます。
USS「リトルロック」艦内を利用した展示室、
「ベトナムルーム」の展示から、主に戦死者の遺品を中心に紹介します。

■ 戦死したフットボール選手



ベトナムルームのケース内に、こんなコーナーがありました。
陸軍のアメリカンフットボール選手で、プロチームでも活躍した、



ジェームズ・ロバート(ボブ)・カルス
James Robert Kalsu(1945−1970)


の着用した帽子が展示されています。

アメリカ史上、ベトナム戦争で戦死した二人のプロフットボール選手
(もう一人はクリーブランド・クラウンズのドン・スタインブルンナー)
のうちの一人でした。

その後、2004年にアフガニスタンで、陸軍レンジャー部隊の軍曹、



パトリック・ダニエル・ティルマンJr.
Patrick Daniel Tillman Jr. 1976-2004

が戦死するまで、史上最後の戦没プロフットボール選手とされていました。

オクラホマ大学でフットボール選手として活躍したカルスは、
バッファロー・ビルズに指名され、プロ選手となりました。

ベトナム戦争が始まると、予備役将校訓練課程(ROTC)だったカルスは、
1968年のシーズンが終了していたこともあり、少尉として陸軍に入隊し、
第101空挺師団の一員として1969年南ベトナムに着任しました。

そして1970年7月21日、駐留していた彼の部隊は
敵の82ミリ迫撃砲の攻撃を受け、彼はその砲撃で亡くなりました。

彼が、ベトナムの丘の上に位置する駐屯地で
妻からの手紙を読んでいるときに攻撃が始まりました。

迫撃砲が直撃したとき、彼は今日が彼女の出産予定日であることを知らせる
その手紙を持ったままだったといいます。


この攻撃でキャンプに撃ち込まれた砲弾はおよそ600発と言われ、
そのうちの1発がカルスの後頭部に炸裂したのでした。

彼の妻は予定日きっかり(つまり彼の戦死した日)に自宅で産気付き、
第二子であるジェームス・ロバート・カルスJr.を出産しましたが、
二日後、夫が息子の誕生日に戦死したという通知を受け取りました。。


カルスの遺族(右側息子:父の生まれ変わりかというくらい瓜二つ)

戦死時のカルスの階級は中尉。
空挺バッジの他にブロンズスター、パープルハート勲章を授与しています。


あとは誰のものかはわからないベトナム土産の数々が飾ってありました。
左のはベトナム獅子舞の頭でしょうか。

ベトナムでは、テト(旧正月)が明けた仕事始めや、
あるいは店開きなどの際に獅子舞を行う風習があります。
(テトというと、『テト攻勢』を思い出しますね)

獅子舞は中国発祥でアジア全域に伝播していますが、
いずれの国でも正月を祝うために舞うという共通点があります。


手前のアオザイには英語で「Ao Dai」と説明があります。
あとはほとんど土産店で売っているようなものです。

■ POWブレスレット


円筒形のアクリルに被されたブレスレットが並べられたケース。

各ブレスレットにはベトナム戦争中に捕虜/行方不明とされた
23人のニューヨーク州西部の軍人の名前が刻まれています。

このケースは博物館が独自に製作したもの。
行方不明者全員がアメリカの土を踏み、
ブレスレットが全て取り外される日までこのまま保管されます。


POW/MIA BRACELETA Prisoner Of War Bracelet 
(またはPOW/MIA Bracelet)は、ベトナム戦争中に捕虜となった
アメリカ軍人の名前、階級、行方不明となった日付が刻まれた、
メッキまたは銅製の記念ブレスレットのことです。



このブレスレットは、1970年5月、カリフォルニアの学生グループ
「ヴォイス・イン・バイタル・アメリカ」(VIVA)が、
ベトナム戦争で捕虜となったアメリカ人を忘れてはならない、
という意図のもとに作られたのがきっかけになりました。

このブレスレットは現在も販売されており、
収益は、捕虜/行方不明者の家族に寄付されています。

フロリダ州タラハシーにあるブレスレット記念碑

ブレスレットをつけていた人たち、そして今もつけている人たちは、
ブレスレットに名前が記された兵士、あるいはその遺骨が
アメリカに帰還するまで、ブレスレットをつけ続けることを誓っています。

1970年から1976年の間に、およそ500万個が配布されました。



アメリカに来たことがある人は、おそらく一度はどこかで見る
POW/ MIAフラッグの意匠です。

You are not Forgotten
(あなたたちは忘れられていない)

という捕虜・行方不明者へのメッセージが書かれています。
そしてこのような作者不明の詩も。

私は捕虜だ

第一次世界大戦中に生まれた
以来、すべての戦争に参加してきた
兵士になったとき、捕虜になるつもりはなかった
- 上官に命じられたから仕事をしただけだ

凍え、熱され、空腹で、拷問され、こきつかわれ、虐待され、殴られた
生きて帰るためにできることをした

捕虜として経験したことは、誰も理解できない
捕虜になり、行方不明者の名簿に名前が載せられる
これ以上悪いことがあるだろうか

MIAを忘れさせないで
彼らを見捨てないで
彼らは兄弟なのだ
彼らは帰還を叫び求めているのだ



ベトナムルームの展示を見終わったと思ったら、
そこに、この展示全体についての説明がありました。

・・・・・わたしはもしかして逆から見学していたのか?

この展示品には、ベトナム帰還兵から寄贈された記念品が含まれています。

展示の目的は、この史上最も評価されなかった戦争に従軍した、
多くの人々の勇気と犠牲を思い起こさせることです。

ベトナム戦争で58,300人の軍人が全力を尽くしましたが、
その中にはラオスとカンボジアで亡くなった軍人も含まれています。

「史上最も評価されなかった」

というのは、「most unpopular war」が原文です。
「最も人気のない」と訳してもまあ間違いではない気がしますが、
じゃ逆に聞くけど、「人気のある戦争」って何?

そして、わたしはここから先に心底驚きました。

米国議会が実際にはこれを「公式戦争」 と宣言していないため、
公式には「紛争」と呼ばれていますが、軍にとってその違いはありません。


そ、そうだったの〜〜?
アメリカ的にはベトナム戦争は「War」でなく「conflict」だったってこと?

でも、ベトナム戦争のことを「ベトナム紛争」って呼ぶ人なんて、
古今東西公人民間人問わず存在しませんよね?

これって、宣言しなかったというより、し忘れただけじゃないか?
っていうか、必要以上にだらだらやっている間になんで決議しなかったのか。

気を取り直して続き。

ベトナム戦争は1955 年に「始まり」、1975年にサイゴン
(現在はホー チミン市と呼ばれる)の陥落で終わりました。

この戦争では、南ベトナムの民間人19万5,000人から43万人、
北ベトナムの民間人5万人から 6万5,000人、
さらに、少なくとも4万人のカンボジアの民間人、
約110万人の共産主義北ベトナム軍とベトコン軍が殺害されたとされ、
未だに1600 名以上の兵士が戦闘中行方不明(MIA)に、
720〜840名の米軍兵士が捕虜になったまま(POW)となっています。



WNY VIETNAM VETERAN'S MONUMENT
ベトナム帰還兵記念碑

これは前回バッファローを訪れた時、写真を撮って紹介した記念碑です。





WNYとは「ウェスタンニューヨーク」のことで、
つまりここバッファローも含まれるニューヨーク州東部出身の
ベトナム戦争ベテランの名前が記された記念碑となります。

で、このお知らせが何かというと、

修復プロジェクト

30年の歳月を経て、改装が必要です。

究極の犠牲を払った私たちの英雄を讃えるために、
活気を取り戻すためにご協力をお願いします。
税控除の対象となる寄付は、
Western New York Veteran's Housing Coalition, Inc.にお願いします。
小切手の宛先は:Vietnam Monument Restoration Fundです。

どこがどう不具合で修復が必要なのか、
少なくとも近くで写真を撮ったわたしにはわかりませんでしたが、
寄付を募って資金集めをしなければならない事情があるようです。


最後に、このコーナーを締めくくるのは
ウッドロー・ウィルソン第28代アメリカ合衆国大統領の言葉です。

ウィルソン大統領は初めて「国旗を公式に記念する日」として、
1777年に議会が「星条旗を採択した」6月14日に制定を行いました。

これを受けて6月14日、海岸から海岸までの大通りに国旗がはためき、
マーチングバンドは「星条旗よ永遠なれ」や「ディキシー」を演奏し、
議員は町の広場で演説を行われ、しばらくはそういうこともありましたが、
今日では、6月14日の演説やパレードはほとんど見られません。

たとえ6月14日に大通りに国旗が並んでいるのを見ても、多くの人は
「7月4日にしては早すぎる」「何の日だろう」と思うでしょう。

それどころか、もし昨今議員が愛国的な演説をこういう場で行えば、
下手すると罵声を浴びせられたりしかねないご時世でもあります。
(それもこれもアメリカが昨今陥っている分断化の影響ですが、
トランプ大統領復活で多少は空気も変わってくるかもしれません)

それはともかく、ウィルソン大統領は、記念日制定に際して
以下のような演説を行い、それがここに書かれています。

我々が称え、その下で奉仕するこの旗は、
我々の団結、力、国家としての思想と目的の象徴である。

この旗は、我々が世代から世代へと与えてきた以外の何ものでもない。
その選択は我々に委ねられている。

平和であろうと戦争であろうと、
その選択を実行する軍勢の上に堂々と静かに翻っている。

そして、たとえ沈黙していようとも、
それは我々に語りかけてくるのである。

なお、オールド・グローリーとはアメリカ合衆国の国旗の愛称です。

続く。



ブルーノーズ〜ミサイル巡洋艦「リトルロック」の勲章

2024-12-17 | 博物館・資料館・テーマパーク

USS「リトルロック」艦内展示をご紹介しています。
ベトナム戦争記念関係を終わり、今日は「リトルロック」の歴史に触れます。

■ USS「オクラホマ・シティ」艦内図


と言いながら、USS「オクラホマ・シティ」の図が登場しました。

「オクラホマシティ」は「リトルロック」と同じ船体設計に基づいており、
姉妹艦のように似た区画化がされていました。

図を見てわかるように(というか軍艦はどのタイプもそうなのですが)
迷路のように入り組んだスペースに作業室、居住スペース、貯蔵室が位置し、
そのため無期限に自らを維持し、防御し、推進することができます。

以下、色分けされた区画の役割です。

 Ship Control Spaces (船舶制御機関)

■ Weapons Spaces(武器)

Engineering Spaces(エンジン)

Rader And Radio Spaces(レーダー・ラジオ)

 Living Quaters(居住区画)

 Work Spaces

 Offices(オフィス)

 Supply Stoage(倉庫)

この横にあった、「船の構造」という文を見てみます。
当たり前すぎることがきちんと書かれています。

【船の構造】

リトル・ロックのような12,000トンを超える積載量を誇る船を見るとき、
その船の大部分が上よりも水中にあることを理解するのは難しい。

また、この船が何千トンもの鋼鉄で造られ、
その鋼鉄の厚さが6インチもあるにもかかわらず、船が浮いているのは、
周りの水よりも軽いからと考えることもなかなか難しい。

船は基本的に中空の鉄の箱であり、橋の箱桁と同じように作られている。
家を建てるのと同じように、それは梁と板で構成する。

まず、船の骨となるキールが船体の中央に縦に敷かれる。

次に、キールに対して直角に横方向のフレームが肋骨のように配置される。

縦方向の骨組みは船首から船尾まで長く続き、
横方向の骨組みをつなぎ合わせる。

船は、横から横へ、船首から船尾へと走る隔壁
(壁)によって区画されている。

船の側面、船底、上甲板は鋼板で覆われる。

船の一番上の甲板はメイン・デッキと呼ばれ、
メイン・デッキの上にあるコニング・タワーなどは上部構造物と呼ばれる。


船は水雷や魚雷などの水中爆発に対して、二重底、
あるいは「リトルロック」のようなクリーブランド級巡洋艦の場合は
ブリスターボイドとともに「三重底」になっている。

voidとは、void space: 船内の利用されていない空間部分のこと。
他の荷物を引き出すためなどの理由で荷物を 積むことができない空所。

空船腹(=void space); 死角 (射撃できない地域)ともいいます。

ブリスター(blister)は「水膨れ」の意味で、船のブリスターといえば、
塗装に出てくる水膨れ状態のものであるらしいのですが、
ここでは構造の状態を指しているようなので、
そのように見える部分(バルバス構造のような)のことでしょうか。

ちょっと自信がありません。

三重底は、船の片側からもう片側まで、
3つの小さな区画が連なって構成されていることをいう。

これらの区画の1つ以上が損傷することになっても、
浸水は船全体に及ぶことはなく、比較的狭い範囲にとどめられる。

もし魚雷が爆発し、そのうちのいくつかが損傷することがあっても、
ダメージは船の外側の部分に限られ、
保持隔壁を貫通して重要な部分に及ぶことはない。

■ ブルーノーズ勲章



これは、「リトルロック」が授与された「ブルーノーズ・オーダー」です。
はて、「青鼻の勲章」とは何ぞ。

有名な「赤道まつり」は、船が赤道を越えたときの記念のお祝いですが、
それに倣い、船が北極圏に到達した時も、それを寿ぐ行事が行われます。

そして、北極圏内に到達したメンバーは自動的に友愛会に入会するのですが、
その友愛会の名前が「ブルーノーズ・オーダー」なのです。

北極圏は、地球の地図を示す5つの主要な「緯度圏」の1つです。
これは、赤道の北66度33分44インチ (または66.5622 度)を走る緯線です。

1946 年11月30日、 USS「リトルロック」は、CL -92として初めての、
そして1965年9月25日、CLG-4として北極圏に2度目の到達を果たし、
このとき乗務していた乗員すべての人々は、北極越えの式典に参加し、
永遠に「ブルーノーズ」の友愛会員資格を得ることになりました。

なおこの1度目の証明書には、以下のように記されています。

 ウィリス・ジェームズ R. S1が乗務する
USS「リトルロック」 (CA-92) は
西暦1946年11月30日に北極圏を横断し、
ホッキョクグマの北の領域に達したことを証明します


この儀式は伝統に則り、「ブルーノーズ」と呼ばれるのは資格者だけです。
ちなみに、海軍には他に次のようなフラタニティ(友愛会)があります。

「シェルバック」Shellback
赤道通過

「赤鼻勲章」Order of the Red Nose
南極圏横断

「黄金の龍勲章」Order of the Golden Dragon
日付変更線通過

「溝の勲章」Order of the Ditch
パナマ運河通過

「サファリ・トゥ・スエズ」Safari to Suez
スエズ運河通過

「ゴールデン・シェルバック」Golden Shellback
赤道と国際日付変更線が交差する地点を通過

「エメラルド・シェルバック」Emerald Shellback
「ロイヤル・ダイヤモンド・シェルバック」Royal Diamond Shellback

西アフリカ沖0度(赤道と主子午線が交差する地点)を通過

「マゼラン勲章」Order of Magellan
(船で)地球一周

「湖水勲章」Order of the Lakes
五大湖すべてを航海


ちなみに、USS「リトルロック」は北極圏を横断したことを記念して、
艦首は青く塗られており、桟橋からそれを確かめることができます。


ノーズって、これ(フェアリード?)のことだったんですね。
言われるまで、全く色が青いのに気づきませんでした。

■ アメリカ海軍讃歌
”永遠の父よ、救いたもう強きものよ”



            アメリカ海軍の公式賛歌が展示されていました。

それぞれの聖句は、三位一体の主がその被造物に対する主権者であり、
人がそれに完全に依存していることを表しています。

永遠の父よ、救い給う強き者よ
その腕は荒れ狂う波を縛り、
大海の深みにその定められた限界を守らせ給う

救い主よ,その声を水は聞き
汝の言葉に,荒れ狂う水を静めた
泡立つ深海の上を歩まれた方
その荒れ狂う中にあって、静かに眠っておられた
我らが汝に叫ぶ時、聞け
大海の危機にある者たちのために

最も聖なる御霊は
暗黒の荒れ狂う水の上に
その怒りの騒動を止めさせ
荒れ狂う混乱に平和を与えた
海上の危機のために

父よ、地と海の王よ
この船を汝に捧ぐ
汝を信じ、謹んで祈る
天より我ら船乗りの叫びを聞け
高みよりこの船を見守り給え!

そして、やがてその航路が行われる時われは汝に祈る
凡ての魂を受け継ぐ者よ
一人の命も失われぬように
天より我ら船乗りの叫びを聞け
そして、永遠の命を天から与えたまえ!



The US Navy Hymn

続く。