その日、ボストンにいました。
日本を発ってボストンに到着し一ヶ月目。
新しい生活の立ち上げに追われる日々が続いていたさなかのことです。
その朝、私はボストンの人気クラシックFM番組を聴くともなく流しっぱなしにしながら家事をしていました。
しばらくして、音楽専門のその番組で暫くの間まったく曲がかかっていないのに気付き、アナウンサーの様子に切迫したものを感じ不審に思ったそのときです。
UPSの配達が来ました。
一か月前船便で送った日本からの小包が届いたのです。
何箱か、もう角が取れて丸くなっている段ボール箱を運んできた黒人のUPS配達人は箱を置くなり
「重いなあ!これ、全部本なの?」
「そうかも・・・。ごめんなさい、重くって」
「ノープロブレム」
そのとき、配達人は一瞬黙ってラジオの放送を聴き真面目な顔になって、
「・・・大変なことになったな」
「・・これ、今気づいたんだけど、What's going on?(どうなってるの)」
尋ねたところ、
「ニューヨークでビルに飛行機が突っ込んだんだよ」
「ああ、そうだったの・・・」
「Sad news. Very very sad」
かれはそれだけ言うと帰っていきました。
当時我が家にはテレビは無く、みんなでニュースを見ているそのときに第二の飛行機がもう一方のビルに突っ込むというような映像を目にしていません。
しかし、2001年9月11日、アメリカに、とりわけテロにあったといわれる旅客機のひとつが出発したローガン空港の近くに住んでいたものとして、あの異様な何ヶ月かの空気を肌で感じる経験をしました。
部屋から見える空はいつもなら見えるはずのローガンに離着陸する機影のひとつもなく、不気味に静まり返っています。
そして、時おり、目の端に見たことのない速度で移動する機影を捕え、驚いて目を凝らすと、それはステルスかファルコンか・・・、空港上空を哨戒する軍用機が異様な角度で方角を変えながら編隊で飛んでいる姿でした。
そのとき、アメリカ中がおそらく息を飲み、静まりかえり、人々が声もたてずに同じ方向を注視していました。
それは、それから遡ること6年前の、あの地震を思い出させました。
エリス中尉は、阪神大震災のそのとき関西にいました。
あの、災害にあった者同士にしかわからない不思議な連帯感を何と言ったらいいのでしょうか。
そのとき、相身互いの痛手を労わりあい、慰め合い、隣人を愛することがごく自然なこととして、まるで大きな庇護の傘の下にいるような・・・。
あの頃、ボストンでも、異邦人であった我々にもはっきり感じられる、非常時ゆえの「不思議な連帯感」―あえて言うなら「愛」が、不気味な街の静けさの中、日を追うにつれて溢れだしてきたのです。
誰が言うともなく、道を行く車に星条旗がつけられ始めました。
家々に、7月4日にしか飾られない旗が翻り始め、道に面した白壁に大きく旗をペイントする人も現れ始めました。
地震災害と違い、今回のものは明らかに(とあえて今はいいます)国家に対する「テロリズム」です。
関西であの日、互いへの労わりあいとして表れた「愛」は、ここでは「愛国心」となったのも、当然の帰結であったでしょう。
町のカフェも前とは変っていました。
ボストンは古い地方都市なので、街の繁華街にあるコーヒーショップもニューヨークやサンフランシスコのようなせわしない雰囲気ではありません。
いつも、そこには地元の老人たちがのんびりおしゃべりとコーヒーを楽しんでいる様子が見られるのですが、9月11日からしばらくは、同じようにカフェに集い、同じように話をしているにもかかわらず、みな一様に手許の新聞を眺め、何故か声をひそめるように小さな声で深刻そうに眉根を寄せて会話を交わしているのでした。
1945年12月8日のボストンは、おそらくこうだったのかもしれない、と当時からほとんど変わらない街並みを持つ古い大学町の人々が「有事」にどう接しているかを見た私は想像してしまったものです。
ほどなくして、入れ替わるように大学を去っていく先輩留学者の家庭からテレビを譲り受け、初めて見た事故のニュース映像は、日本人である私には見るに堪えない映像から始まりました。
アメリカ艦隊に突入する神風特別攻撃隊。
程度の悪いアメリカのテレビ局が制作したものだと思えば仕方がないことなのかもしれませんが、「自爆」という一事を以て、テロリズムと戦闘行為をいっしょくたにすること自体、馬鹿げています。
愛国無罪、という言葉を連想するほどに、あの頃のアメリカは何かに対して突き進み、社会全体が酔ったような愛国の空気に支配されていました。
さて、ここで、一部の方には受け入れがたい話をしようと思います。
事故直後から、本当にあれは外国組織によるテロだったのか?という、主に遺族からの疑問が噴出していたのをご存知でしょうか。
倒れたビルには直前に莫大な保険が掛けられ、いくつかの企業は直前に「ビルを出ていき」、前日不可解な工事がビル内で行われ、その日ビル内の企業のフットオプションが激増していたのを。
飛行機が激突していないビルまで爆弾を仕掛けられたようにその日のうちに倒壊し、ペンタゴンにもショーシャンクスビルにも「飛行機も遺体もなかった」ことを。
あらゆる情報は統制され、事故現場であったことや、事故後の瓦礫の行方すらも秘匿され、科学的に「ありえない現象」について解明をしようとした何人もの学者は更迭。
さらに、その真実について探ろうとしたジャーナリストは、かなりの数が「モーテルで不自然な自殺」をしていることを皆さんはお聞きになったことがありますか?
ここでそれについて詳しく語ることはしませんが、私たちが信じ込まされている「アメリカに対するテロ」などという単純な図式ではとても解明できないさまざまなファクトがそこにはあるのです。
(もし興味があったら、「ルース・チェンジ」というこの事件への疑問を呈した映像を検索してみてください。ニューヨーク在住のアメリカ人によって製作されたものですが、かれは著作権を放棄し、『真実』を広めるため、この映像をダウンロードし広めて欲しいと公言しています)
かつて国益確保と対外脅威への牽制から日本との戦争を望み、真珠湾攻撃を「起こさせた」あるいは「起こるのを待っていた」という過去を持つアメリカにとって、この「WAR(冒頭画像)=侵攻への口実」如何に歓迎すべきことだったか。
そう、「自らその事実をつくりあげたといっても誰も驚かないくらいに」。
その年の終わり、まだ事故の傷生々しい2001年の暮れ。
ブッシュ大統領はこう述べています。
「2001年は私にとって最高の年になった」
これは何を意味するとお思いですか?
日本を発ってボストンに到着し一ヶ月目。
新しい生活の立ち上げに追われる日々が続いていたさなかのことです。
その朝、私はボストンの人気クラシックFM番組を聴くともなく流しっぱなしにしながら家事をしていました。
しばらくして、音楽専門のその番組で暫くの間まったく曲がかかっていないのに気付き、アナウンサーの様子に切迫したものを感じ不審に思ったそのときです。
UPSの配達が来ました。
一か月前船便で送った日本からの小包が届いたのです。
何箱か、もう角が取れて丸くなっている段ボール箱を運んできた黒人のUPS配達人は箱を置くなり
「重いなあ!これ、全部本なの?」
「そうかも・・・。ごめんなさい、重くって」
「ノープロブレム」
そのとき、配達人は一瞬黙ってラジオの放送を聴き真面目な顔になって、
「・・・大変なことになったな」
「・・これ、今気づいたんだけど、What's going on?(どうなってるの)」
尋ねたところ、
「ニューヨークでビルに飛行機が突っ込んだんだよ」
「ああ、そうだったの・・・」
「Sad news. Very very sad」
かれはそれだけ言うと帰っていきました。
当時我が家にはテレビは無く、みんなでニュースを見ているそのときに第二の飛行機がもう一方のビルに突っ込むというような映像を目にしていません。
しかし、2001年9月11日、アメリカに、とりわけテロにあったといわれる旅客機のひとつが出発したローガン空港の近くに住んでいたものとして、あの異様な何ヶ月かの空気を肌で感じる経験をしました。
部屋から見える空はいつもなら見えるはずのローガンに離着陸する機影のひとつもなく、不気味に静まり返っています。
そして、時おり、目の端に見たことのない速度で移動する機影を捕え、驚いて目を凝らすと、それはステルスかファルコンか・・・、空港上空を哨戒する軍用機が異様な角度で方角を変えながら編隊で飛んでいる姿でした。
そのとき、アメリカ中がおそらく息を飲み、静まりかえり、人々が声もたてずに同じ方向を注視していました。
それは、それから遡ること6年前の、あの地震を思い出させました。
エリス中尉は、阪神大震災のそのとき関西にいました。
あの、災害にあった者同士にしかわからない不思議な連帯感を何と言ったらいいのでしょうか。
そのとき、相身互いの痛手を労わりあい、慰め合い、隣人を愛することがごく自然なこととして、まるで大きな庇護の傘の下にいるような・・・。
あの頃、ボストンでも、異邦人であった我々にもはっきり感じられる、非常時ゆえの「不思議な連帯感」―あえて言うなら「愛」が、不気味な街の静けさの中、日を追うにつれて溢れだしてきたのです。
誰が言うともなく、道を行く車に星条旗がつけられ始めました。
家々に、7月4日にしか飾られない旗が翻り始め、道に面した白壁に大きく旗をペイントする人も現れ始めました。
地震災害と違い、今回のものは明らかに(とあえて今はいいます)国家に対する「テロリズム」です。
関西であの日、互いへの労わりあいとして表れた「愛」は、ここでは「愛国心」となったのも、当然の帰結であったでしょう。
町のカフェも前とは変っていました。
ボストンは古い地方都市なので、街の繁華街にあるコーヒーショップもニューヨークやサンフランシスコのようなせわしない雰囲気ではありません。
いつも、そこには地元の老人たちがのんびりおしゃべりとコーヒーを楽しんでいる様子が見られるのですが、9月11日からしばらくは、同じようにカフェに集い、同じように話をしているにもかかわらず、みな一様に手許の新聞を眺め、何故か声をひそめるように小さな声で深刻そうに眉根を寄せて会話を交わしているのでした。
1945年12月8日のボストンは、おそらくこうだったのかもしれない、と当時からほとんど変わらない街並みを持つ古い大学町の人々が「有事」にどう接しているかを見た私は想像してしまったものです。
ほどなくして、入れ替わるように大学を去っていく先輩留学者の家庭からテレビを譲り受け、初めて見た事故のニュース映像は、日本人である私には見るに堪えない映像から始まりました。
アメリカ艦隊に突入する神風特別攻撃隊。
程度の悪いアメリカのテレビ局が制作したものだと思えば仕方がないことなのかもしれませんが、「自爆」という一事を以て、テロリズムと戦闘行為をいっしょくたにすること自体、馬鹿げています。
愛国無罪、という言葉を連想するほどに、あの頃のアメリカは何かに対して突き進み、社会全体が酔ったような愛国の空気に支配されていました。
さて、ここで、一部の方には受け入れがたい話をしようと思います。
事故直後から、本当にあれは外国組織によるテロだったのか?という、主に遺族からの疑問が噴出していたのをご存知でしょうか。
倒れたビルには直前に莫大な保険が掛けられ、いくつかの企業は直前に「ビルを出ていき」、前日不可解な工事がビル内で行われ、その日ビル内の企業のフットオプションが激増していたのを。
飛行機が激突していないビルまで爆弾を仕掛けられたようにその日のうちに倒壊し、ペンタゴンにもショーシャンクスビルにも「飛行機も遺体もなかった」ことを。
あらゆる情報は統制され、事故現場であったことや、事故後の瓦礫の行方すらも秘匿され、科学的に「ありえない現象」について解明をしようとした何人もの学者は更迭。
さらに、その真実について探ろうとしたジャーナリストは、かなりの数が「モーテルで不自然な自殺」をしていることを皆さんはお聞きになったことがありますか?
ここでそれについて詳しく語ることはしませんが、私たちが信じ込まされている「アメリカに対するテロ」などという単純な図式ではとても解明できないさまざまなファクトがそこにはあるのです。
(もし興味があったら、「ルース・チェンジ」というこの事件への疑問を呈した映像を検索してみてください。ニューヨーク在住のアメリカ人によって製作されたものですが、かれは著作権を放棄し、『真実』を広めるため、この映像をダウンロードし広めて欲しいと公言しています)
かつて国益確保と対外脅威への牽制から日本との戦争を望み、真珠湾攻撃を「起こさせた」あるいは「起こるのを待っていた」という過去を持つアメリカにとって、この「WAR(冒頭画像)=侵攻への口実」如何に歓迎すべきことだったか。
そう、「自らその事実をつくりあげたといっても誰も驚かないくらいに」。
その年の終わり、まだ事故の傷生々しい2001年の暮れ。
ブッシュ大統領はこう述べています。
「2001年は私にとって最高の年になった」
これは何を意味するとお思いですか?