中編の日にいただいたコメント欄を読んでいただければわかりますが、なんと、羽鳥の正しい読み方は「はとり」ではなく「うとう」なのだそうです。
(Kさん、階級の間違いについてもご指摘ありがとうございました)
これって・・・・・・
だって、もしフレッド・サイトウがインタビューして坂井さんの口から「ウトウ」って聴いたのなら、間違えるはずはないじゃないですか。
まさか、サイトウ氏が「羽鳥」と書いたのをマーチン・ケイデンが「ハトリ」と読み間違えた、ということはありえませんよね。
コメントを下さった方によると、「印刷か編集の段階で」ハトリになったということですが、つまり、フレッドは坂井さんから「ウトウ」と自分の列機の名を聞いたのではなく
「そのときの列機」を、台南空のメンバー表か何か(漢字ふりがな無しの)に求めた、ってことになりますよね。
このインタビューは、まさに「あらすじだけ」で、細かいところはその時点で見ることのできた資料とつきあわされて書かれた、ということですか?
「当てにならないことばかりだが、坂井さんの口から聞いたはずだから、たぶんこれははとり」
と、鬼の首を取ったように予想してしまったんですが、これすら正しくなかったとは・・・。
orz ←昨日もこのマーク使ったような
というわけで、はからずもSAMURAI!創作度の予想以上の高さを実証してしまう結果になりましたが、気を取り直して後編まいります。
<前回までのあらすじ>
日本で再会した坂井と西澤。
お互いの無事を喜び合う二人だったが、西澤の口から笹井中尉、太田敏夫、羽鳥と米川らラバウルの戦友の死を聴かされ、ショックを受ける坂井。
一方、時系列が混乱した作品のせいで、これからラバウルに再進出するはずだというのに明日にはフィリピンに行かされそうな西澤(笑)
さて、二人の運命は・・・?!
私は茫然とした。
西澤は私の言葉を待って沈黙している。
そんなことが起こりうるのか?どうやって彼らが全員死んでしまうというんだ?
四人の私の戦友たち。
彼らは私が横須賀海軍病院でなすすべもなく横たわっている間に殺されてしまった。
そのとき私は何故彼らの戦死を今まで知らされなかったのかを知った。
西澤や中島司令は私の目の手術が行われるときにそれを私に報せるにしのびなかったのだ。
彼らの顔が私の脳裏をよぎる。
モレスビー上空で宙返りをしたときコクピットから笑いかけた太田。
空戦中いつも私の機の尾翼にぴったりとついて、いつも私の機を見守り撃墜から守ってくれた米川と羽鳥。
笹井中尉、かれも・・・・彼らは・・・死んだのだ。
私は声を出してすすり泣いた。恥も外聞もなく、子供のように。
それを止めることもできなかった。私の躰はどうしようもなく打ちのめされた。
ここで注目すべきは列機に対する坂井の言葉です。
ガダル上空で負傷したとき、坂井はサザーランドに追いかけられている米川、羽鳥(うとう)を掃射によって助け、そのあとサザーランドをドッグファイトに持ちこむわけですが、その両者に対し
"always alert to protect me, to keep from being killed."
という表現をしています。
「尊敬する軍人スレ 君の尊敬する日本軍人を理由付きであげよ」
というインターネットのスレッドで
「坂井三郎 僚機喪失ゼロの偉業はすごい」
というものがあれば
「坂井三郎は自分を守ってくれた偉大な列機に感謝すべき」
というコメントも付いていました。
私も「俺の愛する列機来い」の日に、「列機に守られたという一面もあるのでは」と書きましたが、ここでの坂井さんは自分が守られたことだけを列機に感謝しています。
作者のマーティン・ケイデンは航空記者出身の作家で、戦闘隊における列機と隊長機の関係と言うものを熟知しているはずですから、もしかしたら坂井さんがインタビューで言わなかったことも想像で付けくわえたのかもしれません。
いや、今となっては確実にそうだと思います。
しかし―これは私見ですが、このころの坂井さんには自分を唯一無二の最強撃墜王などという意識はなかったのではないでしょうか。
自分で言ったことではないにしろ、やはりここに書かれているように自分の命あるのも列機のおかげだと思っていたのではないでしょうか。
「僚機喪失ゼロ」は結果であって、それを当初謳い文句にしたのは、本人ではなく「撃墜王」などといって元搭乗員に冠を被せたがる世間ではなかったでしょうか。
そして後年、世間と噂と時代の波の中で、実際坂井さんがどのように思っていたかはいつのまにか彼方に押しやられてしまったという一面もあるのでは、そして坂井さんもいつのまにかその「撃墜王坂井三郎」に自分を押しこめるようになりきるしかなかったのでは、と・・・・。
大変失礼な言い方になるかもしれませんが、坂井さんこそあの戦争にその一生を戦後も蹂躙され続けた犠牲者だったように思えます。
さて、目の前で坂井が泣くのを見た西澤、動転してとんでもないことを言い出します。
西澤は私の手をつかみ、やめてくれと言った。
「三郎、お願いだ!」かれは哀願した。
「頼むから泣かんでくれ!」
私はかれを見上げた。
「俺は呪われてるんだ!」わたしはかれの言葉に息を詰まらせた。
「俺は笹井中尉や太田がやられるのを見ていない!
彼らがいなくなったことすら知らなかったんだ。
戦友なのに!
三郎、俺たちの親友たちなのに、俺は彼らがやられるのに何もできなかった!
俺は悪魔の私生児に違いない」
かれは憤怒をあらわにした。
「かれらが死んでいく間敵機は俺の周りを飛んでただけだ!」
「悪魔の私生児」はないだろう、と思いましたが、あえてこの英語版の感じを出すためにそのまま訳しました。
それにしても西澤さん・・・。
そこまで責任感を感じなくても。
というのは、前回も言ったように、彼らが戦死したとき、あなた一緒に出撃してないんですから・・・。(爆)
笹井中尉(8月26日)羽鳥二飛曹(9月13日)戦死の頃、西澤廣義はなんとマラリアで伏せっていました。
復帰し、ようやく行動調書に西澤廣義の名前が見えるのが9月27日以降。
(因みに台南空行動調書には西澤ではなく、西沢と書かれています。本当はどちらだったのでしょうか)
しかし、太田敏夫戦死の10月21日は出撃せず。
米川二飛曹に至っては、戦死ではなく盲腸炎での病死です。
ちなみに10月21日の台南空行動調書には太田敏夫飛曹長(最終)の欄には「グラマンfc1機撃墜 行方不明」とだけ記されています。
士官パイロットである隊長機の大野竹好中尉はそれを目撃しなかったということで、おそらく太田飛曹長の戦死認定はかなり遅れたものと思われます。
なお、このときに「行方不明」であり未確認であった太田敏夫については、戦後アメリカ側の資料から撃墜した人物の名前も明らかになっているそうです。
しかし、笹井醇一中尉を撃墜したというカール准将もそうですが、その名前を明らかにすることについては、果たしていかがなものかと思います。
戦争という状況の中で誰が誰を撃墜したということを明らかにするのが果たして「史実の確保」という大義名分を以てしても必要なことなのか・・・・。
陸戦で「誰それは何々兵曹に射殺された」と語り伝えることがはたして歴史なのか、と考えてみると自ずと答は出るように思うのですが。
話がそれました。
小説(でいいですね?)に戻ります。
西澤が、ことが起こったとき一緒にいなかったという意味で「守れなかった」というのは間違いではありませんが、それにしても、当時毎日のように戦友が亡くなっていく当時の戦況の中でこんなに戦友の戦死に逆上するというのも何か違和感があります。
あちこちで見る当時の搭乗員気質によると、彼らは戦友の死についても、自分自身の生死についてさえ恬淡としてまた無関心を装っていたもののようです。
坂井さんが笹井中尉の死に号泣した、というのは事実でしょうが、少なくとも西澤飛曹長(当時)はここまで取りみださなかったことは確かで、ここでの表現は平和な時代の価値観で書かれたものならではです。
さて、この章は次のように締めくくられます。
かれはもう一度腰を下ろした。
「いや、違う。それは違う。俺にできることなんてなかったんだ。
敵の飛行機がただ多すぎたんだ。そう、多すぎただけなんだ」
かれの声は消えいるようだった。
我々は長い間、お互いを見つめながら黙って座っていた。
それ以上何を言うことがあっただろう?
何と感動的な終わり方でしょうか。
エリス中尉思わず翻訳しながら涙ぐんでしまいました。
冒頭画像は二人が豊橋で再会した時の有名な写真です。
西澤はダンディに微笑んでおり、少なくともここに描かれたような愁嘆場などなかったことが見ただけでわかります。
しかし、坂井さんはこころなしか厳しい表情です。
あらかじめ知っていたとはいえ、西澤廣義から笹井中尉や戦友の最後についてさらに詳しいことを聞かされた後の表情ではなかったでしょうか。