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「永遠の0(ゼロ)」

2011-03-06 | 海軍

日頃海軍や零戦に興味を持っている、などということをことさら吹聴していなくとも、何となく会話の端々で
そういう志向が相手に伝わる時があります。

そんなわけで、どうやらエリス中尉が海軍関係に一方ならぬ興味を持っているということを把握している知人が、
「××さん、ワタシ『永遠の0』読み始めたんですよ。
××さん(エリス中尉実名)が興味を持っているって聞いて、読んでみたくなって」
とおっしゃいます。次いで

「(当然)お読みになったんですよね?」と尋ねられて

「いや、まだ読んでなくて」という返事をしました。

ほどなく、
「年に一度、夏の休みには『慰霊のために』戦争関係の本を5冊(決めているそうです)読む」という方と話したときに

「今年読んだのは『永遠の0』からでしたね。読みました?」と、同じように聞かれたので、同じように答えました。

ふーむ、どうやらこの本は、いわゆる戦史とか戦記に特に興味を持っているわけではない人が
「とりあえず手にしてみる戦争関係の本」というポジションを獲得しているようですね。

それが何年か前は「大空のサムライ」であったと。
そう気がついたとき、ハタと膝を打つ気持ちだったのですが、このように周りの人が
「とりあえず手にしている」ベストセラー、とにかく一度読んでみることにしました。

しかし、読む前に一度「書評」「ネットでの感想」などの類を一度チェック。すると
「泣きたいときに読む本」
「泣ける本」
「嗚咽をこらえきれなかった」
「正座して読む本」等々。

どうも、戦記小説というより「余命一カ月の花嫁」のノリで読まれているのではないだろうかとうっすら嫌な予感。

読んでみました。
ふーむ、これは
「極上のお子様ランチ」、あるいは
「一流マンガ家の手による『漫画で読む日本史』」(世界史でも何でもいいんですが)
というものではないだろうか。


エリス中尉は、大尉と少佐ではどちらがえらいのか即答できなかった過去があるとはいえ、
今ではとりあえず一通りの、そして知らない人よりは知っているくらいの知識はあると自負しています。
(そういうのを自負というのか、って?まあまあ)
そういう人間の眼で見ると、この実際の戦史に架空の人物を絡ませ、
さらに実在のパイロットの名も登場するこの小説には、全く新しく知る部分はないといってもいいでしょう。

主人公の凄腕搭乗員を、5人の生存者がいろんな立場で語る、というこの手法自体は昔からあるものですが、
彼らが語る戦争中のあれこれ、そして出来事は、全て既存のノンフィクションから集められたものです。

勿論、このやり方はヘタをすると「人の著作紹介」で終わってしまう危険な手法なのですが、
百田氏が創作したストーリーのコアが、決してプアーでないため、その肉づけとして語られる
「ノンフィクション部分」は、実に「生きて」いると感じます。
そして、これは小説家ならではの手法で、集めてきた史実から、ズバリ、氏の主観で歴史を単純に語ってしまう、
ということを、実に軽やかにやってのけています。

ノンフィクションが事象を語るという使命の下に、その意味付けや結論などを読者の判断に任せるのに対し、
(勿論、著者の導きたい結論があってこそ、その語り口が方向づけられるのですが)
氏は、いとも簡単に登場する生き残り搭乗員らの口を借りて、集めた事象から一つの主観を導きだすのです。

一例としてあげると
「零戦の航続距離は長かった」
「技術力が優れていたのでそのような機体が実現した」
「この航路の長さゆえガダルカナル攻撃は可能であった」
「しかし、距離が長すぎて、パイロットは疲労が蓄積し、それゆえ次々と撃墜された」

このような事象を並べて感じることから、一挙に

「零戦の航続距離をあれほどまでに長くした技術者は、一体乗るのが生身の人間であることを
少しでも考えたことがあるのだろうか」
「あんな非人間的な飛行機ができなかったら、あれだけの搭乗員は死なずに済んだのではないだろうか」

という結論(坂井さんもこのように言っているそうですが)を出していて、
つまりこれはノンフィクションを読んで「考えさせる」部分に対する答をいきなり書いてしまっているわけだ、と。

お子様ランチと位置付けたゆえんです。

しかし、これがお子様ランチだから価値がないというのではありません。
おそらく「エリス中尉が興味を持っているものを読んでみたくなった」という知人や
「一年に一度慰霊のために何か読む」と決めているので読む知人のように、戦史や戦記に全く縁のない人間が、
まさに「とりあえず入門書として手に取ってみる」
という本としては、実に「よくできている」と言わざるを得ないのです。

エンターテインメントとして非常に上質の作りで、人によっては一日で読めてしまうくらい口当たりがよく、
そんな中で海戦の作戦ミスやら、零戦の性能やら、特攻を命じる上層部への批判やら、
普通は何冊もノンフィクション本や歴史本を読んで理解するようなことを「楽しく学習できてしまう」。

「漫画日本の歴史」と評するゆえんです。

それぞれ「一流マンガ家による」「一流シェフによる」とつけたのは、これが決して「子供騙しになっていない」
という意味であって、やはりベストセラーになるのには、それなりの価値があらばこそ、 
と言う世間一般の評価に則するものです。

それなりに知識のある人間にとっても、その知識がどのように料理されているかを見るのは楽しいものですし、
これは、詳しい人と詳しくない人のちょうど中間地点に位置して、お互いの世界への抜け穴になっている小説、
という気がします。


ところで、実はこのお子様ランチの「材料である野菜を丹精込めて作った農家」の立場の方が
「ウチの野菜を勝手に使って腕がいいと褒められている!虫取りをしたり、堆肥をやったり、丹精込めて作ったのに!
作ったシェフが腕を褒められるなんて割が合わん」
と言う向きがあるということについて。(ごく限られた意見ですが)

この「農家の方」の言っていることも心情的にはわからないでもありません。
しかし完成した野菜を使ってどのようなものを作ろうと、合法的、かつシェフの自由。
それはもうすでに農家からは出荷されてしまったわけですし。

巻末にずらりと参考にされたノンフィクションの本が書いてあるのですが、この小説を読み終わってそのおいしさに
「材料をつくっている農家や畜産業者に連絡を取ってみる」
人って、結構多いんじゃないかと思います。


ここから始まってもっと専門的に理解を深める第一歩としては、実に親切な「入門書」になっていて、
それ以上でもそれ以下でもなく、それなりの評価に値すると言えるのではないでしょうか。

ところでこの本で搭乗員の一人が「特高は狂信的なテロ行為だ」と言い放つ新聞記者を
「私はあなたの新聞社を全く信用していない」とばっさり切り捨てるシーンがあります。
これは、小説ならではの「ざま見ろ感」(カタルシス)で、個人的には最も快哉を叫んだ部分でした。