荒木俊士少佐(死後昇進)
海軍兵学校67期卒。
伊号10潜水艦乗組を経て鹿島空、四五二空、宿毛空、四五三空、三〇二空で分隊長。
昭和二〇年二月一六日、敵艦載機来襲の際厚木基地発進
厚木東方上空において敵戦闘機群を発見、二機撃墜せるも被弾のため戦死
靖国神社の二の鳥居を出たところの左側に、旧九段高校があります。
おそらくこの高校のものと思われる実に立派な天文台があるのです。
その昔、天文部が盛んだったこの高校で、荒木俊士という高校生が夢中で悠久の星空を眺めた、
それが、この九段の一角だったのでしょうか。
「我々は負けていない」という題で森岡寛大尉について書いたとき、厚木の三〇二空の隊写真を見つけました。
中央の折椅子に森岡大尉と並んで腰かけている大柄な荒木俊士大尉。
この、いかにも大らかで部下に慕われそうな豪快な感じのする隊長はこの後まもなく戦死します。
隊長としての荒木大尉は、やはり写真にも覗えるように
「ヌーボーとした風貌は海兵出にしては珍しいタイプで、枠の外にはみ出したような大らかさがあった」
「古武士のようなひょうひょうとした態度、その話しぶりはいつもユーモアがあり、優しい目はみなを惹きつけた」
という人物であったようです。
靖国神社の横に二〇〇九年に閉校してしまいましたが名門だった都立九段高校がありました。
荒木大尉はこの前身の市立一中出身で、朝夕靖国神社の前を低頭して通学したそうです。
兵学校の入学式には全国津々浦々からあらゆる階層のの中学生が集まって来るので当初は
「羽織はかまの国粋型もあれば背広スタイルの制服もあった」のですが、
九段の一中は当時珍しい背広スタイルの制服を採用していましたから、
この記述は入学式の際の荒木大尉の姿を指していたものでしょう。
現在六七期の合格者の集合写真が残されていますが、この中にスーツ姿は三人います。
荒木大尉はどこに行ってもリーダーを務めるタイプだったようですが、隊長になってその真価を発揮したようです。
「髭の荒木」として、甲板士官時代は下士官を震え上がらせました。
しかし、もともと天文学部で熱心に天体観測をしたり、ヴァイオリンを趣味で弾くなど、
「柔」の部分も持っていたようです。
この「飛行学生時代同室者をさんざん悩ませた」ヴァイオリンには隊長になってからは触れなくなり、
そのかわり僻地の航空隊(おそらく占守島、別飛沼基地にいた第452海軍航空隊のことと思われる)にいたときは、
士気高揚と娯楽のために入手困難だったレコードを私費を投じて買い集めることをしています。
指揮官には、技量もさることながらいかに人心を掌握するかという将器が何より必要なものであると思われますが、
この荒木大尉には、部下の心をひきつける人間的な魅力とともに、
そういった気遣いが自然にできる優しさが備わっていたようです。
厚木一豪勢な布団の置かれた私室には常に香が焚き込められていたのだそうですが、
これも剛でありながらその対極にある荒木大尉の雅の部分だったでしょうか。
博多空時代のこと。
隊内の酒保で買ったものは持ちだし厳禁と決まっているのに、
どうも隊の境の垣根のあたりに部下に菓子類を持って来させ、
外出許可が出て外に出てから垣根越しに受け取っている者がいるらしい、という噂が立ちました。
荒木中尉は衛兵司令であったので責任を感じ、同期の高木中尉と夜な夜な作戦会議を行います。
その結果、荒木中尉がずっと松の木によじ登って上から見張りをすることになり
首尾よく犯人を捕まえることに成功しました。
犯人は元教員の優秀な上飛曹で、かれはフィアンセとのデートのとき
一緒に食べるためにお菓子を持ちだしていたのでした。
相手が許嫁ということで大目に見たくとも、そこは立場上大目に見られない荒木中尉、
上飛曹を隊内に連れ帰りお説教をする一方、待っているはずの許嫁には高木中尉に
「急用ができてこられなくなった」
ということを伝えさせています。
さて、この荒木大尉が、死後も名隊長として部下から慕われ続けたのは、壮絶なその最後の姿ゆえでした。
昭和二〇年二月のその日、その最後の空中戦は基地の上空で行われたため、
列機を始め何人かがその最後を目撃しています。
彼らの証言を総合するとこのようになります。
「この日、雷電隊と同時に零夜戦隊も厚木基地を離陸した。
荒木大尉を一番機に、たった四機の夜間戦闘機零戦が、何百機いるかわからないグラマンに、
せめて一機でもと気負い立って離陸していった・・・・・」
「荒木大尉はグラマン十数機を発見した。
百m以上の優位から荒木大尉はそのグラマンの一番機に一撃を加えていった」
「三、四番機はすでに敵中に突入と同時にばらばらになっていた。
四機の零戦で突入するには、あまりに敵の数が多すぎたのだ。
それにしても、自分の後から射撃されながらも前の敵に食いついて離れない荒木大尉の攻撃法は
その性格を如実に表していた。
荒木大尉は前のグラマンを墜としたけれど、自分もまたやられて離脱、
その飛行機はふらふらしながら藤沢の不時着場へ機首を向けて不時着しようと試みたけれども、
ついに途中で墜落してしまった。
飛行機に残った無数の被弾の中の一発は、荒木大尉の頭に命中していた」
よく訓練され、技も肝も日本一、と自負する零戦隊の、
見る見る失われていく部下を一機でも救うために、荒木隊長は果敢に敵機の大群に挑んでいったのでした。
戦後数十年を経ても、当時の部下は荒木大尉の名指揮官ぶりを、そしてその最後を忘れ得ず語り続けたそうです。
「あのときの隊長は、立派だった」と。