横浜の港の見える丘公園前港には今年八十歳になる氷川丸が係留されて余生を送っています。
防衛庁の資料室で「人事辞令」を見ていたら、氷川丸勤務を命ぜられた軍医士官などのものがあり、
あらためて氷川丸が戦時中の病院船であったことを思いだしました。
ラバウルの戦記にも負傷した将兵が氷川丸で帰ってきた、という記述を見たのも海軍に興味を持って以降のこと。
あらためてこの数奇な運命を持つ船を訪ねてみる気になりました。
「今日から春」とでも言いたくなるような穏やかな美しいある一日、横浜の係留地に彼女を訪ねました。
翩翻と翻る国際信号旗。
先日江田島土産に「国際信号旗一覧表」の柄の手ぬぐいを買ったので、さっそく何か意味があるのか、
調べてみました。上から
J(ジュリエット)・・・私は火災中で危険な貨物を積んでいる
G(ゴルフ)・・・・・・・私は水先人が欲しい
X(Xレイ)・・・・・・・実地を以て、私の信号に注意せよ
C(チャーリー)・・・・イエス
うーん、全く分かりません。もしかして適当に旗揚げてます?
二字信号(二枚で一つの意味を持つ信号)でもなさそうだし。
と、いつものように読者に丸投げしようとしてふと思いなおし、さらに調べてみました。
すると、これは「JGXC」で、氷川丸の無線呼び出し符号であることが判明。
実は氷川丸には昔一度来たことがあったのですが、そのときはこの旗の存在自体全く目に止めもしませんでした。
あの頃よりちょっぴり賢くなった気分です。それにしても、信号旗って美しいですね。
乗船には200円かかります。
そう言えば、一度来た時にリニューアル工事中で乗れなかったことがあったなあ。
おそらく開港150周年記念(大笑)に合わせてのことだと思うのですが、内部をミュージアムのように作り変え、
歴史を振り返る映画など見るスペースを新たに作っていました。
この映画が、実に良くてねえ・・・。
また、別に日を設けてお話しするつもりです。
今日は、豪華客船としての氷川丸についてです。
1930年、外国航路の豪華客船として就航した氷川丸。
規模は中程度で、決して傑出した船ではありません。
しかし、この氷川丸を有名にしたのは、その接客、サービスの優秀さと料理の美味しさ、
そして大戦を沈むことなく生き抜いた強運と逸話の多さでした。
シアトル、バンクーバー航路の船として同年氷川丸は処女航海に乗り出します。
HIKAWAMARUをアメリカ人は「ハイカワマル」と読み、それがそのまま向こうでの愛称になりました。
実にレトロな雰囲気が往時の華やいだ空気を思わせます。
1960年その最後の航海を終えここに係留された後、しばらくこの船は客室を稼働させていました。
そう、ユースホステルとして修学旅行生などに利用されていたのです。
氷川丸に寝泊まりなんて、さぞ思い出に残る修学旅行になったでしょうね。
因みに、おそらく彼らが寝泊まりしたであろう三等船室はこのようなもの。
一室に8つのベッドです。ここで修学旅行お約束の枕の投げ合いがあったわけ。
しかし、船ですからベッドも物凄く小さい。寝台列車みたいな感じです。
一等船室ですら大きなトランクなどとても置くようなスペースはなさそうでした。
ましてやこの狭い船室でシアトルまで行くのに、いったい三等船客、荷物はどうしていたんでしょう。
さて、この船には三笠宮様ご夫妻も宿泊されました。
チャーリーチャップリンや宮様がお泊りになった、貴賓室がこれ。
木馬は「一等船客のお子様」だけが利用できる託児所にその当時からあったもの。
ヨーロッパ製でしょう。なんだかまるで工芸品のような作りです。
わたしがこれをみていると、三歳くらいのお子様が
「おんまちゃん乗りたい―」
と駄々をこねてお母さんを困らせていました。
昔もね、一等船客の子供だけだったんだよ。これに乗れるのは。
さて、氷川丸の名前の由来は、埼玉県大宮市の「氷川神社」から取られています。
当時、船にはよくこのように神社の名前をつけたそうです。
姉妹船「日枝丸」「平安丸」いずれもそうで、三姉妹の頭文字はHで統一されました。
そして、この船はいまだに氷川様を神棚に祀っています。
階段上の丸いモチーフ、アールデコ調で統一された優美な船の飾りに溶け込んでいますが、
これは実は氷川神社の紋章なのだそうです。
地元の方、ご存知でした?
さて、それでは一等船客のあなたはラウンジへどうぞ。
氷川丸についての本をこのために三冊読んだのですが、その中にこのピアノについて書いた部分がありました。
なんでも、脚を固定していたにもかかわらず、一度物凄い時化の時にひっくり返ってしまい、
脚の下にから杭を生やして床面に埋め込んだというのです。
このピアノは中が見られなかったので分かりませんでしたが、かなり年季が入っているようでした。
その脚を埋め込んだピアノがこれなのでしょうか。
病院船として就役していたときにもこのピアノは現役だったのでしょうか。
また項を別に病院船氷川丸について語ろうと思いますが、この、いたるところに優美な飾りを残し、
ゴージャスで平和な良き時代を体現したエレガントな船があのような修羅の海をくぐって来たということが、
何か全く信じられませんでした。
このピアノも八〇年の歴史の裡に様々な光景を見てきたのでしょうか。
タイタニック号がそうであったように、船でちゃんとした客扱いをされるのは一等船客。
一等と二等の間には一光年くらいの待遇の違いがありましたが、このラウンジを使用していけないのは、
どうやら三等船客だけだったようです。・・・・・ん?
あれ?英語と日本語の表記が違いますね。二等船客の立場は?
一等船客はこのように、ラウンジで楽しんだり、子供を預けてパーティをしたりと、思う存分船の旅を楽しむことができました。
携帯で見ている方のためにちょっと説明すると、円グラフのピンク部分が食事、グレイが睡眠。
なんだか食事ばっかりしてますよね。
することが無いので、散歩、ゴルフ、輪投げ、カードゲーム、ダンスなど。
今みたいにネットもないし、本もすぐに読んでしまって、退屈・・・。
そんな船客のために、船側はいろいろイベントを開催しました。
NOTICEと書かれた紙には「甲板でゲームをするからぜひ来てね」というお誘いが。
演目はスプーンレース、玉押し(?)パン喰い競争、外人だけが参加の「お箸でなんでもつかみましょうゲーム」
そして「豚の目」←何?
氷川丸のサービスは一級品だった、と冒頭に書きました。
初代船長の船員教育はまるで海軍並みの厳しさだったということです。
そこでついたあだ名がなんと「軍艦氷川丸」。
後に彼女が病院船として稼働したとき、南方で船上の宴会が行われました。
病院船になっても乗組んでいた豪華客船時代の船員は、士官の従兵のような仕事もしたのですが、
その気配りと訓練されたサービスは軍医士官たちを感激させたと言います。
その、世界のVIPをして感動せしめた船員の教育は、このような冊子にマニュアルが書かれていました。
中を少し紹介してありましたが、身だしなみの徹底は勿論、船客の話題に交わって一緒に笑ったりは持ってのほか、
一日でお客様の味の好みを覚えよ、などという項目もありました。
氷川丸の乗船名簿にはチャーリーチャップリン、ロックフェラーなど、錚々たるVIPがいましたが、
柔道の生みの親、講道館の加納治五郎はこの船で生涯を終えています。
オリンピックを東京に招致することに成功した加納は1938年IOCに参加後氷川丸に乗船しました。
その直後に病に倒れた加納は、横浜到着の二日前、「オリンピックはどうなった」の一言を最後に永眠。
しかし、その二カ月後のオリンピックの返上を知らずに逝ったのは加納にとって幸せなことだったかもしれません。
次回は「豪華グルメ客船氷川丸」です。お楽しみに。