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横須賀米軍基地見学ツァー~「ペリリン&オグリンとヴェルニー」

2013-11-11 | 博物館・資料館・テーマパーク

おそらく読者のM24さんに教えていただかなくてはこんなこともあるとは
ついぞ知ることなかったであろう、この

「日米親善 ベース歴史ツァー」。

観光協会と米軍横須賀基地双方による、米軍基地への理解を深め、
ひいては日米同盟への理解とご協力を賜り、ついでにアメリカにも
親しみを持っていただこうと企画された見学ツァーです。

前回この申し込みのことを教えていただいたときには残念ながら
落選の涙をのんだわけですが、今回は当たりました!

後から聞いたところによると、このツァー人気のため当選倍率3倍。
激戦を勝ち抜いて(大げさだな)当選したわけですが、エリス中尉、
ベースツァーどころではない倍率と言われる音楽祭りのチケットも手に入り、
この秋はちょっとこの「くじ運」が非常によろしいんです。
年末ジャンボ宝くじでも買ってみようかしら。

さて、このベースツァー。
M24さんに詳細を教えていただき、さあ申し込もうとしたときに、
締め切り時間5分前であることに気がつきました。
息子やTOが行けるかどうかなど聞いている場合ではありません。
しかも、三人分の申し込みを入力している時間もありません。
あわてて自分一人の参加を申し込み送信を終えたのが1分前。

そのギリギリなのが功を奏したのか、はたまた一人参加のためスペースがあったのか。
いずれにせよ、しばらくしてから「当選」のお知らせを頂きました。 

岩国米軍基地もそうであるように、このツァーに参加できるのは
日本国籍を持つれっきとした日本人のみ。
パスポートの確認があるので「成りすまし」は許されません。
なぜならこの企画はあくまでも
「日本人にアメリカ軍への理解を深めてもらう」ためのものだからです。 

 当選の確認書にも、「当日の身分証明書は国籍の分かるものを。
免許証は不可」ということが明記されていました。

さて。そして迎えた当日。
わたしはヴェルニー公園の駐車場に車を停めて
集合時間までの時間、スターバックスで過ごすことにしました。



スターバックス数あれど、この港を臨む店舗ほど素敵な場所はこの辺にはありますまい。

行きませんでしたが、どうやら二回にはアウトドアテラス席もあるようですね。
もしかしたら喫煙者向きのスペースかもしれませんが。



目の前が港湾に漂うゴミのたまり場になっているのはすこしがっかりですが。
注文のときに店員が

「ご旅行ですか?」

と訪ねて来たのでツァー参加のことを言うと、

「いいですね!楽しんで来て下さい」

職業的なお愛想ではない、心がほわっと暖かくなるような口調で言い、
さらに横須賀駅への行き方を丁寧に(つっても道一本ですが)教えてくれました。
こういう何気ない触れ合いが一日のスタートをよりいっそう気持ちいいものにしてくれます。
スターバックス横須賀シーサイドヴィレッジ店のバリスタさん、ありがとうございました。



客の少なくない人々が米軍の関係者らしく、
雰囲気がまるでアメリカのスターバックス。
テーブルが広々と取ってあるので長居し易そうです。

朝ご飯がわりにサンドイッチとラテをお腹に入れて、出発。



横須賀にふさわしく公演のライトもベンチもレトロなデザイン。



第七艦隊の艦船と海自の潜水艦が同じドックに見ることが出来る、
これが横須賀軍港です。

ん?
我が海自潜水艦の上に人影発見。



おおっ!もしかしたら敬礼してますか?
以前教えていただいたところによると自衛艦旗の掲揚はもっと早い時間。
(このときは9時少し前だった) 
これは何をしているんでしょうね。



スターバックスの前にいた鳩。まるまると膨れてます。



もういっかい写真を撮ったときには向こうの潜水艦の上に一人いるだけでした。
腕章は当直の印でしょうか。

 

右手の艦番号423は、補給艦「ときわ」です。
定係港はここ横須賀です。
左に仲良く並んでいるのは、右が「おおなみ」であることがわかりましたが、
左は「たかなみ」ではないかと適当に推測してみる。

それにしてもこの外灯は美しいですね。
もしかしたら往時のデザインをそのまま使用しているのでしょうか。



護衛艦の浮かぶ軍港に面した公園。
いいなあ・・・。
将来横須賀に住むのもいいかもなあ。



何の違和感もなく潜水艦と米軍艦が公園の景色にマッチしています。 



いろんな種類のバラがまさに満開でした。
紫の色と重なり合った花びらが変わっているので一枚。
そういえば「紫のバラの人」なんてのもいましたね。



薔薇と潜水艦。
(という題で絵を描いてみたい)



何やら衛兵が立って番をするための検問のようなものが。
昔はこのキューポラのある塔の両側には壁があったようですね。
軍港ですから一般人は立ち入り禁止だったのでしょう。



軍港逸見門、とあります。



こちらには逸見上陸場、とあります。



この横に説明が立っているのですが、これに

「横須賀市指定市民文化遺産 逸見波止場衛門」
旧横須賀軍港逸見門の番兵詰め所。
左右二棟あり、左側には「逸見上陸場」右には「軍港逸見門」
と表示されている。
建築年代は明治末から大正初期と思われる。

と、最後の一文以外は見れば誰にでもわかるようなことが欠かれています。
つまり、詳しいことは何も分かっていないってことなんですね。



集合は横須賀駅。
横須賀駅集合、と知ったときに「降り口もろくに指定しないなんて、わかるのかしら」
と思ったのですが、全くその心配は必要ありませんでした。
横須賀という地名の有名な割に、こぢんまりとしたローカルな雰囲気の駅舎です。

もともとこの駅は、軍港に貨物や人員を輸送するために開業したという経緯があり、
80年までは貨物線も稼働していたのだそうです。
ターミナルというわけではないので必要最小限の大きさなのかな。

駅舎そのものは関東大震災で倒壊し建て直したそうで、その原型のままなので、
未だにこの駅は階段がなく「バリアフリー」です。

さて、心配することもなくツァーのデスクにたどり着き(笑)、
10人単位のグループを一人のボランティアが案内して、ここから米軍基地までの道を
横須賀観光をしながら進んで行くという仕組みです。

ちなみにわたしのグループは全員がカップルや女子二人で、
一人参加はわたしだけでした。 (´・ω・`) 



スカレーってなんすかれー。


海軍の町とか米軍基地の町、と大声で言えないせいか、横須賀市としては

「海軍」→「海軍カレー」→「カレーの町」

というマイルドなキャッチフレーズ偽装を行うことにしたようです。
でも、もともと海軍がなければカレーが横須賀名物なんぞになってないでしょ?
素直に「海軍カレーの町」って言っちゃえよ。

・・・とこのように「この種の逃げ腰姿勢」にたいしていつも手厳しいエリス中尉ですが、
その話はさておいて、(後からもう一回この手の話をしなくてはならないので)
横須賀のカレーなので「スカレー」。

この眉毛カモメは知る人ぞ知る(わたしも去年の防大祭のときに知ったばかりですが)、
ご当地カレーのキャラクター・スカレー君です。(たぶん)
おずおずと困ったような顔でカレーを勧める様子が実に控えめで好感が持てます。

このスカレーくんも海軍所属のセーラー服を着ているのだった。



小さいので待ち合わせの場所としては最適ですね。
駅舎の向こうにはトンネルが見えていますが、これも明治から使われているもの。



9人が時間通りに揃ったのでツァー開始。横須賀駅からすぐのところに
建物の陰に挟まれる形である塀の説明。



昔は一般人が立ち入ることができないように塀で厳密に軍港への立ち入りを禁じていたのです。



このような古い構造物を見ると、わたしはこの塀が長く連なっていて、
その入り口から出入りする海軍軍人たちの姿を瞬時に彷彿としてしまいます。



ここでの説明は、軍港が海自と米軍の共同使用されていることや、
真ん中の島が爆薬や魚雷の調整をするため「危険な島」であること、
まあ、わたしにとっては周知のことばかりでした。

係留はいつも同じところにされるらしく、前に軍港巡りをしたときに
ここに同じように艦ナンバー54の「カーティス・ウィルバー」が留められていました。



この公演はヴェルニー公園といいます。

慶応元年(1865)「より強い海軍」を目指してここに横須賀製鉄所が建設されます。
協力を申し出たフランス公使とフランス艦隊司令長官から紹介された

フランソワ・レオンス・ヴェルニー(1837~1903)

という若干27歳の優秀な青年が指揮を執り、 これを全て完成させました。
ここにはその資料が展示されているとのこと。



ヴェルニーが手がけたのはこういった港湾の機能全てといってもよく、





この向こうのドライドック(船を入れてから水を排出する仕組みを持ったドック)
は第1ドライドックといい、1867年、日本で最初に作られたものです。
多少手を加えて現在でも現役で使用されているというからすごいですね。



いつもここに海自の潜水艦が二隻留められているのも同じ。

可笑しいと思ったのは、こうやって対岸からは写真が撮り放題なのに、
米軍基地の中に入ってからは

「潜水艦の写真は機密保持のため撮らないで下さい」

なんて言われるんですよ。
といっても、そんなに近くに行けるわけでもないし、望遠レンズを使えば
周りにうろうろしている隊員たちもばっちり対岸から撮れるのに。

ちなみにわたしはそれを言われたときにはもうすでに何枚か撮った後でした(笑)
もちろんここでアップはしませんけどね。



いつも舷門で見張りをしていなくてはいけないんですね。
セーラー服が見張りの隊員でしょうか。

 

以前「どうして米軍側のドックに海自の潜水艦だけが係留してあるのか」
という疑問についてお話ししたことがあります。
結局答えは出ないままだったのですが、このときふと、このボランティアの方に

「どうして米軍側に海自の潜水艦があるのかご存知ですか?」

と何気なく聴いてみました。答えは

「米軍基地に海自の潜水艦基地があるからです」

でした。orz
・・・・いやまあそうなんですけどね。


わたしもこの中年女性がそれを知っていると思ったわけではありませんが、
それ以前におそらく質問の意味が分からなかったんだろうな。



先ほどの衛門を軍港側から見た図。



バラの展示場としてあちらこちらに変わった種類のバラが見られます。
バラは世話が大変だと聴きましたが、これもボランティアが行っているんでしょうか。



ピンクと白のグラデーションが美しいバラ。



ヴェルニーさんの像。
日本政府はこの27歳の青年に現在の価値にして年俸1億を支払いました。
しかし、この人物の働きはそれに見合う、いやそれ以上であったと評価され、
未だにこの地にその功績をたたえるためのゆかりが残されています。

 

11年も日本に滞在していたんですね。
この彫像は帰国前のもののようです。



日本に来る前、ヴェルニーは中国でやはり同じように港湾建設の仕事に携わってきました。

しかし、帰国後のヴェルニーは健康状態もさることながら、
フランス海軍内での求職にあまり芳しい結果は出せなかったようです。
つまり、日本の恩人もフランスに帰ればただの人。

本国ではあまりその実績を評価されなかったということでしょうか。

しかし、日本では彼は日仏友好の象徴として、日本近代化の恩人として、
彼の名はここ横須賀に残されています。
今でも1865年11月15日に行われた横須賀製鉄所の鍬入れ式にちなみ、
11月中旬の土曜日には「ヴェルニー・小栗祭典」が行われています。


その「小栗」ですが。

 

小栗上野介忠順(おぐりこうずけのすけただまさ)

日本初の遣米使節をつとめ、外国奉行や勘定奉行など、
徳川末期の要職を歴任した後、フランスの支援のもと横須賀製鉄所建設を推進した人物です。

司馬遼太郎は「明治の父」とも称しています。
ヴェルニーを任命したのもこの人物で、製鉄所の建造は、彼の思うところの
「強い海軍」「世界に通用する海軍」に急務だと考えたのでした。

なお、日本で最初のホテルである「築地ホテル館」を作ったのも小栗で、
火災で焼失するまでの4年間の寿命だったそうですが、これは当時の錦絵にも描かれ、
連日物見客を集める話題のスポットとなっていたようです。

このときに小栗が建築を命じたのが清水組(現在の清水建設)二代目の清水嘉助でした。

あと、英語の「company」を「商社」と訳したのも小栗だと言われています。

つまり、司馬の言う「明治の父」そのままの多くの実績を残しているのですが、
その割に知名度が低く、「偉人」として語り継がれなかったことの原因は、
何と言っても彼の最後が「官軍によって処刑された」というものだったからでしょう。

その理由は、徳川慶喜の大政奉還後も徹底抗戦と、新政府軍に対する攻撃を唱えたからで、
それをもって役職御免の上追われる立場となった小栗は、米国への亡命のすすめを断り、
故郷の上野国(現在の群馬県)に隠棲しているところを捕らえられ、
裁判もなくその日のうちに河原で家臣三人とともに斬首されました。



そのとき、その河原にあった(であろう)石がここに記念石として飾られています。
ただし、これがここに送られたのはこの公園が整備された昭和28年のことです。

横須賀でのみヴェルニーや製鉄所の功績ゆえ有名な小栗。
この日観光客が持っていた紙バッグに、

ペリリン&オグリン

こんなキャラクターを見つけたんですけど・・・・。
決して一般的な「ゆるキャラ」ではないけど、元々のペリー、小栗のシリアスから見ると
かなり「ゆるい」ので、これも「微妙ゆるキャラ」認定してもいいかな。

しかしペリリンの方はともかく、小栗ってこういうノリで語ってもいいのか?

いやまあ、確かに日本の近代化に尽くした人物として、
もっともっと日本人が名前を知っていなくてはならないとは思いますが、
非業の最後を遂げた人物を「ゆる」扱いはさすがにいかがなものか・・・。


しかし。

この観光協会のページを見ればおわかりのように、
このキャラクターを考案したのはなんとその名も「小栗かずまた氏」。
小栗忠順の直系の子孫であらせられるお方です。

なら仕方ないね。
って何が仕方ないのかわかりませんが、まあ少なくとも子孫公認ってことだ。


小栗は処刑されるいまわの際に「何か言い残すことは」と聴かれたのに対しにっこり笑って


「私自身には何もないが、母と妻と息子の許婚を逃がした。
どうかこれら婦女子にはぜひ寛典を願いたい」

と言い遺しました。

彼の死後かつての家臣のもとで世間から身を隠していた小栗の家族は、
親族であった大隈重信に引き取られ、その後婿養子を取って御家再興を果たしています。
その子孫が、平成の現代にその小栗を「(微)ゆるキャラ」として蘇らせたというわけです。


それにしても小栗以上にこの製鉄所については大きな力となったヴェルニーの立場は? 

ここはもう一歩踏み込んで

「ペリリン、オグリン、ヴェルニたんの開国発展トリオ」

としてキャラの追加再構成をお願いしたいところです。 


続く。
ちなみに米軍基地の入り口にたどり着くのは3エントリ後の予定です。

 
"You ain't heard nothin' yet!"