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自衛隊儀礼歌「海のさきもり」と元海軍大尉「江島鷹夫」

2014-03-30 | 音楽

つい先日。
わたしはまたもや「オで始まってマで終わる県」に行っておりました。
天候、またも雨。

全国でも三番目に降水量の少ないはずのこの県にしてこの高確率。
特に雨女というわけでもないのにこうもタイミングよく雨が降ると、
この県とわたしとの相性の問題かと思ってしまうわけですが、
だからといって雨が降って運が悪かった、とはわたしは思っておりません。

今回の訪岡でお会いした一人、Hさんはわたしを「ふゆづき」の引渡式、および
自衛艦旗授与式に参加させてくれた恩人というべき方です。
別の場所(わたしが本来いるべきだった三階級下の席)で式を観覧していたのですが、
この日の会合で式典のことを熱く語りだしました。

「あの、雨の中ねえ、自衛官たちが式の始まるまでの間の1時間半、
身動きもせずにじっと立ってねえ。
あれだけ濡れて気の毒は気の毒やったけど、実に感動しましたなあ」

この方はこういう感性といい、日本の国防や政治、国際関係、そして
教育のあり方や自衛隊に対する考え方、全てをわたしとほとんど同じ座標に身を置く方で、
一旦こんな二人が話しだすと、話が盛り上がって留まるところを知らないという仲なのですが、
やはり豪雨がドラマティックな演出ともなったあの出航には、同じような感動を持たれたようでした。

この話がでたのは、わたしたちが岡山市内のある小料理屋の一室で、
元陸上幕僚長と栄転する元幕僚長副官を少人数で囲む宴席を持っているときでした。

「ほら、この写真見てください。この濡れ方!」

H氏が自分のスマートフォンで皆に見せたのは式典の間起立する自衛隊員たち。
そのときに出席していなかった人々はそれを見て口々に驚きの声を上げます。
さらにH氏は続けて熱く語りました。

「それでね、自衛艦旗を受け取るときに、演奏されるのがね、
『海のさきもり』ちう曲なんですよ。
もう僕はあの曲が流れて来たとたん涙が出てきましてねえ」

わたしが「ふゆづき」の写真を用いた「海のさきもり」のYouTube投稿をして
三日後のことです。

「Mさん、このCD、よかったらどうぞお持ち下さい。
『海のさきもり』が収録されています」

Hさんが元陸幕長に鞄から出して献呈したそのCDを見ると・・・

わたしが持っているのと同じものでした。

コメント欄でcoralさまが教えてくれた、あれです。
そして、そのときそれを見たとたんわたしは全てを思い出したのです。
このCDはH社の社歌をブラスバンドのために編曲する仕事をした頃、
他ならぬHさんに貰ったものだったのでした。
そういえば・・・・・。


わたしがいろんな意味で変な汗をかきつつ、記憶をまさぐっていると、
H氏、わたしの方を振り向いて、

「このCD、差し上げましたよね?」
「は、はあ、戴きました。
実は今回の引渡式の写真をYouTubeに投稿したんですが、
『海のさきもり』を戴いたCDから使わせていただきまして・・・」


あれ、でもなんだか変だぞ。
なんでHさんにわたしこのCDを貰ったんだっけ。
Hさんは元陸幕長に説明していわく、


「実はこの曲を作詞したのが、うちの(H社の)亡くなった番頭さんでしてね」


そ・・・・・そうだったっ・・・・!!


「うちの番頭さんの作詞した曲が入っているので聴いてください」


と言って、Hさんはこの舞鶴音楽隊のCD、

歴史的日本海軍軍歌集」~海軍軍歌から海上自衛隊隊歌まで~

を下さったのでした。
実は帰ってから一度だけ聴いたけど、全体的に流して聴いただけで、
どれが番頭さんの作品かはほとんど意識しないまま、ちゃんと聴かねばと思いながらも
エントリ制作やそのための資料収集の忙しさに紛れて、すっかり忘れてたんだった。 


そしてその約2ヶ月後のことになりますが、
わたしは、ちょうどH社の仕事をしていた頃ご縁ができた海上自衛隊幹部氏から、
まさに偶然なのですが、「海のさきもり」の楽譜を添付ファイルで戴いたのです。

そのときの説明で

「自衛艦旗の授与と返納の際使われる曲で、歌詞もあるが、
海自の隊員でもそれを知るものは少ない」

と知り、このこととこの歌についてをいつか記事にしたいなどと考えたのです。

その曲が、Hさんの言っていた「番頭さんの曲」であるとは夢にも気づかずに。



そもそも3月13日の「ふゆづき」引渡式および自衛艦旗授与式への参加は、
わたしが三井造船に関連する企業のある経営者(複数)との付き合いがあったことで、
そのご好意から可能になったことでした。


その中でも「海軍が取り持った」とでも言うべきがH氏とのお付き合いです。
H氏が筋金入りの「海軍好き」であることをきっかけに知り合い、
そのご縁でH氏の会社の社歌を録音する仕事をさせていただいたのでした。

そもそもどうしてHさんが海軍好きであったかというと、
それが他でもないこの「番頭さん」の存在があったからです。



タートルネックの上にダックスのトレンチコートをさらりと羽織り、
日活の任侠スターのような粋さと、ある種の凄みを持つこの人物、
これがHさんのいう「番頭さん」であり、ほかでもない「海のさきもり」の作詞者、
江島鷹夫です。



「江島鷹夫」とは、わたしがこの重大な事実に気づかないまま
エントリで「海のさきもり」扱ったときに多分そうであろうと書いたように、
「江田島」と「古鷹山」から取ったペンネームです。


終戦後、海上自衛隊の前身である海上警備隊が昭和27年の4月26日に創設され、

その儀式歌と行進歌が同年11月13日付けの東京日日新聞紙上で募集されました。

応募総数8,500余編の中から選ばれたのは、「海のさきもり」。
江島鷹夫というペンネームの元海軍大尉の手による作品です。

「海のさきもり」は山田耕筰によって作曲され、警備隊一周年記念行事として
翌年の昭和28年4月28日、日比谷公会堂において盛大に発表されたのでした。




江島鷹夫は兵学校73期。


第42期飛行学生として昭和19年8月練習課程を終え、実用機教程に進みました。
冒頭写真は江島鷹夫が兵学校三年のときの飛行訓練の合間に撮られたもので、
確信は持てませんが、前列真ん中が江島であろうと思われます。

全員が子供子供した幼さを残していますが、彼らは卒業と同時に実戦に赴き、
特攻隊長として散華した者もたくさんいました。
昭和19年10月25日、組織された特攻の第一号として戦死した70期の関行男大尉は、
直前の夏頃まで彼らの教官をしていました。
関大尉が教え子に残した歌は次のようなものです。

教え子へ

教え子よ 散れ山桜 此の如くに




江島が教練を受け配置されたのは偵察でした。
乗っていたのは「彩雲」。
偵察任務でフィリピンに飛び、敵戦闘機に追われて九死に一生を得たこともあったそうです。



わたしがH社を最初に訪ねたときに、明るく近代的なH社のオフィスに
大きな彩雲の模型があるのに気づきました。

「これは?」

よく聴いてくれた、とばかりに二代目社長が話してくれたのが「番頭さん」の話。
昭和38年(1963年)、創立して一年目のH社に入社した江島は、 同社が開発し、
今や誰もが日常生活で使用する、ある「独自製品」を開発する中心を担い、
同社の取締役を務めました。

わたしも当初驚いたのですが、このH社の独自製品は、皆さんの生活に普通に登場するものです。
工事現場、災害現場、そして勿論自衛隊でも使われている「あれ」です。
あんなポピュラーなものが一社によって作られているということにわたしは驚きましたが、
その成功の陰には江島鷹夫なる(ペンネームですが)一人の元海軍軍人がいて、
二代目の社長であるH氏を導き鍛えて一人前にし、現在のH社の隆盛の基を作っていたのでした。


それにしても・・・・・。

わたしが今回自衛艦旗授与式で「海のさきもり」について書いたこと、
現役自衛官の某氏から楽譜を戴いていたこと、そして何よりこの儀礼歌を
「大切に歌い継いでいきたい」という自衛官氏の言葉を受けてYouTube投稿をしたこと、
そして何より江島鷹夫なる人物が後半生を賭けて大きくしたH会社の社歌を、
縁あってこのわたしが手がけたこと。


これらが一度に明らかになったことで、全てが糸で繋がっていたことがわかったのです。

まあ、H氏からCDを戴いていながらちゃんとそのときに聴いておらず、
従って自衛官幹部氏が楽譜を送って下さったときにすぐに気づかなかった、
というあたりがちょっと、というかかなりかっこわるい、というか
H氏のご好意に対しても失礼でいずれにしても恥ずかしい話でもありますが。


「海のさきもり」は警察予備隊の創設に際して作られましたが、
このとき東京日日新聞によって同時に募集され、行進曲として採用されたのが
この間もお話しした「海をゆく」です。

「海のさきもり」が山田耕筰によって作曲されたのに対し、「海をゆく」は
こちらも大家である古関裕而が曲をつけています。


つまり、江島鷹夫のように一般応募で選ばれた歌詞が採用されたのですが、
ご存知のようにこの歌は冒頭の「男と生まれ海をゆく」の一文が
その後「時代に合わない」とされ、ここだけではなく全編が、50年記念の際
まるまる変えられてしまった、という話もすでにしたかと思います。

そもそも最後の「ああ堂々の自衛隊」の部分ですが、このとき制定されたため
当初は「ああ堂々の警備隊」となっていたのを、自衛隊発足時に「自衛隊」に変えたようです。
(ここは状況推理ですのでどなたか真相をご存知の方は教えて下さい)


新しくなった「みんなのうた」的生ぬるい新しい歌詞について、散々クサしたわたしですが、
そのときにも書いたように、江島鷹夫作詞のこの歌詞は、変更はされていません。


これは、「海をゆく」のように歌われることがあまり無く、あくまでも儀礼歌として
式典のときに演奏が行われるだけなので、チェックに引っかからなかったとも言えますが、
この歌詞の見事なくらいの普遍性と極限まで修飾を省いた言葉選びの巧みさに、
たとえ戦後軍色パージのやり玉に挙げられるようなことになったとしても、
「なにも変える部分はない」
ということになったのではないかと想像されます。

まるで軍艦旗をそのまま何も変えずに自衛艦旗とするしかなかったように。



H氏から断片的に聴いただけなので、江島鷹夫がどんな海軍軍人であったかとか、
どのような状況で戦争を生き抜くことができたのかはわかりませんが、
この歌の歌詞には、元海軍に身を置いた人間だからこそわかる
「防人の心」が簡潔なしかも格調高い言葉で言い尽くされているように思えます。

戦後、海軍が「海上警備隊」として蘇るということを知ったとき、
元海軍大尉江島鷹夫は、次なる世代の護り手に対し、海軍軍人であった自らの気概と
同胞(とも)と国土を守る意気軒昂あれかしという激励の気持ちを、
一語一語に全霊で込めることによって国を護る人の心を伝えようとしたに違いありません。




「海のさきもり」 江島鷹夫作詞

1 あらたなる光ぞ
  雲朱き日本(ひのもと)の
  空を 富嶽(ふがく)を
  仰ぎて進む
  われらこそ海のさきもり

2 くろがねの力ぞ
  揺るぎなき心もて
  起(た)ちて 鍛えて
  たゆまず往かん
  われらこそ海のさきもり

3 とこしえの平和ぞ
  風清き旗のもと
  同胞(とも)を 国土を
  守らでやまじ
  われらこそ海のさきもり