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呉「歴史の見える丘」~呉かあらぬ

2014-12-19 | 海軍

呉の観光案内などで必ずと言っていいほど見るのが
「歴史の見える丘」という名前。

海軍の街呉に、海軍の縁(よすが)を求めて度々来ている
わたしとしては、一度くらいここを押さえておこう、と、
例によって来呉してすぐ、タクシーに乗りました。

歴史の見える丘公園は、戦艦大和を造ったドックと、
まさにこの丘から大和の艦尾を隠すために作られた大屋根のある
ジャパン・マリンユナイテッドを見下ろす小高い斜面にあります。

前もって地図で確認すると地名は「大和神社」となっていました。
そこで、呉駅前からタクシーに乗ったとき、行く先を告げるのに

「歴史の見える丘お願いします。大和神社というところ」

というと、運転手は不機嫌に

「神社なんてあらへん!」

地図でそれを確認したばかりのわたしが

「いや、あるんですよ」

というと何をムッとしたのか黙り込んでしまい、
料金を払うときも
ありがとうはもちろん一言も発しませんでした。
実際にも「神社」なんてないので、おっちゃんは

「ないものはないんじゃい!」

と機嫌を悪くしたんでしょうけど、そこは観光客に
あたったりせず、
文句があるなら呉観光協会に言ってくれ。

 



実際に行ってみると何が歴史の見える丘やねん、
と思わず大阪弁で毒づいてしまうくらい、そこは
とってつけたただの碑を並べただけの道路脇の一角で、
もし目の前に広がる港湾がなければ、とても観光客が
ここにわざわざ来るような場所ではありません。

真横は幹線道路で車がブンブン通るし、碑以外は
散策する道も休憩するベンチも、何にもなし。


この写真のような、おそらく空襲でも焼けなかった家などが
周りに立ち並ぶ、住宅街と幹線道路を離すためだけにある、
といった位置関係です。

しかし。

ここを一通り見終わった後もその感想に変わりはなかったのですが、

写真を撮って帰ってきて、このエントリをアップするために
各々の碑のいわれを調べ終わった時、それらが本当に呉の歴史にとって
重要であったことどもを記念するものであり、歴史の出来事を
端的に集めたものであったことがわかりました。
つまり、呉の歴史を知りたければ、この丘に来て碑を見れば
一目瞭然、というわけです。

あなどっていてすみませんでしたm(_ _)m


それにしてもこの写真のお宅はすごいですね。

これだけ古い家ですが、ちゃんと現役で住まわれているようです。
まさに歴史の見える丘に建つ、歴史を見てきた家? 




まずは海軍とは関係のないこちらから。

「宮原地区風水害犠牲者 慰霊碑」

これは、枕崎台風の被害者の鎮魂のために建造されたのですが、
枕崎台風というのは、1945(昭和20)年9月17日
つまり終戦から
わずか1ヶ月後にここを襲っていたことがわかりました。

ここ呉も1、156名と、多くの犠牲者が出ましたが、
終戦直後で、しかも原子爆弾の爪痕も生々しい頃、
なんの防災体制もなく、それまでなら出動していた軍も解体されていたため、
広島県全体で、死者行方不明者
合わせて2、000人が出るという、
稀に見る大惨事となったのでした。


この時に陸軍病院が全壊し、医療従事者、治療中の被爆者、
そして京都帝大から来ていた調査団の、合わせて100名が死亡。

京都帝国大学は、原爆が投下された直後から理系学部の教官が
現地に赴き、被爆状況の調査や被爆者の治療に当たっていました。

敗戦後の9月中旬になって京大はこの調査を全学的・組織的に進めるため
「原爆災害総合研究調査班」
を設置し、医学部から教授を派遣した直後でした。

京大関係者が現地に到着してすぐ、最大瞬間風速史上6番目という
強い台風が現地を襲い、調査団は教授をはじめ11名が殉難したのです。


しかし、この台風のさい、原爆の後現地にあった

放射性物質が暴風雨によって吹き飛ばされ、このおかげで
広島がすぐに住めるようになったという説もあるようです。



ここにもある正岡子規の句碑。
明治28年3月9日、子規は友人の古嶋一雄が、
軍艦「松島」で日清戦争の従軍記者に自分より一足早く
行くのを見送った際、呉に滞在してこの句を含む3句を読んでいます。

あと一つは兵学校同期会の帰りのバスが「アレイからすこじま」
を通った時に目撃したのでまたそのうち触れるとして、
これは
  呉港

呉かあらぬ 
    春の裾山
      灯を灯す
               子規

出征する友を見送りに広島市・宇品港から小舟で訪れた子規は、
沖合から見た裾山の灯を

「呉かあらぬ」

と詠みました。
「かあらぬ」は変わらぬではなく、「呉か あらぬ」でしょう。
これは呉だろうか、という驚きが表れています。

裾山の灯、すなわちそれは軍港の、海軍工廠の光です、
まだこのころは呉工廠はできておらず、鎮守府造船部と言いました。

当時、一般家庭にはまだ電気は普及しておらず、
夕暮れの裾山が灯した灯は、造船部のそれであったのです。



ところで、このことを調べていて例によってあの朝日新聞が、
突っ込まずにはいられない呉の歴史案内をしているのを見つけたので
ちょっとご紹介しましょう。 


のどかな商港だった呉浦は1889(明治22)年の呉鎮守府開庁で
軍港に様変わりした。(略)

呉海軍工廠が設立され、第2次大戦中の工員はピーク時で約10万人。
呉市の人口は40万人を超えた。
戦時中、軍港をのぞむ高台は立ち入りが規制された。
度重なる空襲警報や灯火管制で、市民は暗がりのなかで息をひそめた。

呉市は三方を山に囲まれている。
「九嶺(きゅう・れい)」から「くれ」に転じた、という説もある。
もっとも高い灰ケ峰は標高737メートル。
頂上からの夜景はいま中四国で屈指といわれる。

 
どうですか。
この記事、単なる呉の観光案内なんですよ?
観光案内における郷土史にすら、
軍批判の色合いを混ぜこまずにいられないのが朝日風?

「のどかな商港」が
「軍港になって様変わりした
おかげで市民がひどい目にあいました」?
皆何気なしに読み飛ばしつつ、ネガティブイメージを刷り込まれる、と。 


まあ確かに事実をそこだけ取り上げればその通りです。
これも朝日に言わせれば


「広義の軍による市民への暴挙」

ということになるのでしょう。
ただ、被害にあった人からだけの視点で記事を書くのは
全く公正中立であるはずの社会の木鐸としてどうよ、って話です。


世界でも二大兵器工場と言われた呉工廠は(もう一つはクルップ)

呉の住民のほとんどが従業員だった、というくらいの規模でしたし、
「立ち入りを禁止され」たり「空襲で息を潜め」たりするだけの
朝日の言うところの「一般市民」とやらより、下手すると海軍と工廠、
そして海軍出入りの関係者の方が多かったかも?って街ですから。


第一海軍の街であることを、呉の人々は代々誇りにしていましたし、
今は今で、最大の観光資源は「大和ミュージアム」。
海自基地も造船会社も相変わらず多いここは、今でも昔のまま
「海軍の街」。

街を行けばあちこちに見える看板には


「海軍さんの珈琲」「海軍さんのお好み焼き」(笑)「海軍さんのカレー」


朝日の記者ともなると、こういうのが習い性になっているのかもしれないけど
とりあえず沖縄みたいに「軍」vs,「市民」の構図を作り上げるような

書き方を、こんなところでわざわざせんでもいいのではない?

と、こんなことを書くと


「考えすぎですよ」

というご意見をいただきそうですが、朝日記者というのはもはや
「確信犯」(本当の意味での)なので、ことに「軍」とつく記事は
このようにまとめるという風にDNAレベルで洗脳されている、
ということなのだとわたしは思いますね。

しかもこの記事、「灰ケ峰からの夜景」 というタイトルで、
つまり灰ケ峰の「観光案内」なんですよ観光案内。 
こういう細かいところでさりげなく印象操作をせずにはいられない、
これこそが朝日の真骨頂であるとわたしはつくづく感心しました。(嫌味)



同行者と「誰これ?」「聞いたことないね」

「スポーツ協会ということはそういう功労者?」

などといいつつスルーして終わってしまったこの碑。

澤原為綱翁之像」

と書いてあったことも現地ではあまり気に留めませんでした。

つまり「像」なのにその像がない、単なる台座なのです。

どこやらの国では今後受賞する予定のノーベル賞受賞者の像を
設置するための空の台座だけがずらずらと校庭に並んでいる、
というホラーな光景もあるようですが、これは予定ではなく

「かつて像があった台座」

です。
まあ普通はそうですね。
台座の横には像の主である澤原為綱の功績が書いてありました。

明治~大正時代の公共事業家で、貴族議員になってからは
呉の上水道敷設、そして呉海軍工廠の建設に尽力した、という
まさに呉の歴史にとっては重要な人物です。

で、なぜ肝心の像がないのかという理由。

澤原翁が死去してから10年後、二河公園の一隅に
この人物の銅像が建てられていたのですが、その後
大東亜戦争中の金属供出によって像は撤去されて、
台座だけが残されていたものを保存したのだそうです。



もちろん澤原さんの功績は呉にとって重要なものですが、
それより何より、この空の台座は、郷土の偉人であった人物の
銅像すら溶かして使わなければならなかったという、
戦時下にあった呉の生々しい歴史の証拠そのものとしてここにあるのです。



この「歴史の見える丘」、あなどれん。



というわけで、後半の「海軍編」に続きます。