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呉「歴史の見える丘」~噫戦艦大和之塔

2014-12-20 | 海軍

戦艦「大和」を建造したドックのある港湾を一望するとはいえ、
ただの碑をここに全部集めただけ、と思われた呉の
「歴史の見える丘」ですが、一つ一つの碑のいわれについて知ることで
すなわち呉の歴史がわかる「お好きな方にはたまらない」場所でした。

わたしとて、それを知ったのは写真をこうやってじっくりと眺め、

それらについて調べてから後のことです。

「観光ガイドに載っているから」という理由で訪れても、
で、それが何か?で終わるのが大半の反応で、
わざわざ後から碑の由来について調べるなどという人は
それこそ一部の「お好きな方」 に限られましょう。

しかし、何の関心も持たず通り過ぎて行くばかりの人生よりは、
自分の好きなことだけでも小さなことにまでこだわり続ける方が、
今まで知らなかったことを知る喜びがある分、少しお得な気がします。
 

さて、そんな「歴史の見える丘」、まず目に付いたのは
船渠の内側にある石段でした。 




横浜のみなとみらいには、「ドックヤードガーデン」といって、
元からあった横浜船渠のドライドックが、市民の憩いの場として、
また同時に国の重要文化財指定を受けるという形で残されています。

横浜は船渠として港が使われなくなったためですが、
この石段があった船渠は、海軍工廠創設の最初からこの目の前にあって、
1971年まで、ちょうど60年もの間休みなく使用されてきました。

71年に最新鋭のドックに作り変えられるまで、この船渠の石は
ここで造られた艦艇をその完成まで揺籃する守りの壁だったのです。



海軍工廠時代の呉。
この船渠の大きさは270×35×11mで、当時東洋一でした。
止水用の粘土や、底に敷き詰める砂利や砂などの船渠の材料も厳選され、
この石材は国会議事堂の壁にも使われている倉橋島産が選ばれました。



右から左に「造船船渠」と書いてあります。



その横には、いかにも幾つかの起工礎石を取ってつけたような、
というか本当に取ってつけたんですが、オブジェのような
記念碑があります。

呉市ではこれを「記念塔」と称している模様。
取ってつけただけではどうにも格好がつかないので?
上に生やしたポールに彫塑家に依頼した鳩を付けてみました。

一番下は読みにくいですが、「第九工場」とあります。

下部に見えている縁石は、境川にかかっていた二重橋のものを
利用しているそうです。



このレンガは、開庁当時の呉鎮守府(現在地方総監部)のものを
そのまま使いました。
初代呉鎮守府庁舎は芸予地震(1905年)に全壊してしまい、
そのあとに竣工したものです。



明治の「明」、まるで象形文字ですね。
デザインでこうなったのか、一文字だけ見せられても
「工」以外全く読めません。(わたしは)
上が「明治?五年起工」下が「明治?六年竣工」
なのですが、?の部分がわかりません。
一、二、三、四のどれかなのだから、三、かな?



この記念塔の残念なところは、こうした起工、竣工が
一体なんのものであったのか全く資料が残されていないことです。

一番上の「明治22年起工」は呉鎮守府庁舎かなと思うわけですが。



ここでちょっと異質の碑登場。

渡辺直己(なおき)という明治の歌人の句碑ですが、


ほそぼそと虧けたる月に対ひつつ戦は竟に寂しきものか

渡辺直己(1908~1939)という名前を検索すると
「反戦歌人」というタイトルが付けられていることがわかります。
ネットで集めてきた渡辺の支那戦線での句を列記してみました。
 

照準つけしままの姿勢に息絶えし少年もありき敵陣の中に

頑強なる抵抗をせし敵陣に泥にまみれしリーダーがありぬ

幾度か逆襲せる敵をしりぞけて夜が明け行けば涙流れぬ 


退きし敵は谷間に集りて死屍埋め居りと斥候の言ふ 

担架決死隊幾組か出しが尽く傷きて暗し屋根形山に 

血に染みて我を拝みし紅槍匪の生々しき記憶が四五日ありき 

我に逼りし紅槍匪を咄嗟に殪せしは歩兵一等兵伝法谷金策君なり 

剰すなき掠奪暴行の跡ならむ薬莢が落ち血に染みし上衣がなげすてられたり 

狙撃せし八百の直射弾が命中して屋上の敵がころがり落ちぬ 

巧みなる日本語の反戦ポスターが堆くありき阜寧の城に 

帝大出の補充兵が我に捧銃して歩哨に出て行きたり 

十二月十二日午前一時にこの陣を奪取せしは水戸工兵隊なありき 

妙齢の女が居り新しき自転車がありき匪賊のむらに 

射抜かれし運転手をのせて夜の道を帰りつつ思う共匪の強さを 

炕の中にひそみて最後まで抵抗せしは色白き青年とその親なりき 

壕の中に座らせしめて撃ちし朱占匪は哀願もせず眼をあきしまま 

涙拭いて逆襲し来る敵兵は髪長き広西学生軍なりき 

負傷せる匪賊の足が吾が入りし隣の部屋の入口に見えき 

吾が砲に尻打ち抜かれ魚の如倒れて居りし若き匪賊が 


うーん・・・・。

皆さん、これお読みになってどう思われます?
渡辺直己という歌人は「反戦歌人」なんでしょうか。
戦場のリアリズムをまるでスケッチのように五七五に閉じ込め、
ただその目は冷徹にそこにあったことを写しているだけで、
別に「反戦」でもなんでもないという気がするんですが。

「戦争歌人」という括り方もあり、こちらの方が
公平で的を射ているとわたしなど思います。

戦争の悲惨を冷徹に描写すると戦後その手の人たちが喜んで
「反戦歌人だ」と持ち上げる(しかし実は違う)という構図は
与謝野晶子だけではなかったようで・・。

渡辺は歩兵少尉として中国戦線(天津)にあったとき、
わずか31歳で、

「洪水により戦死した」(wiki)

ということですが、洪水で・・・・戦死?
天変地異による災害死も、戦線にあったからってことでしょうか。

何しろ、本人は死んでしまったにもかかわらず、これらの句は
上官の手によって破棄されることもなく知人の手に渡り、
戦時中にもかかわらず彼らの手で出版もされているわけです。

「検閲の目をかいくぐり」

とそれらを記すある文章にこうありましたが、検閲によって
これらがアウトになるなら、そもそも彼の句集は
日本に帰ってくることすらなかったでしょう。

わたしが戦時中の軍製作による国威高揚映画などを見て
その感想で何度もいうように、我が国において当時「戦争の悲惨さ」を
そのまま述べることは、決して反戦的とは取られていなかったのです。

何と言っても当時から渡辺は反戦歌人とは言われていませんでしたし。



さて、というわけでいよいよこれが「大和神社」?
「噫戦艦大和之塔」です。

冒頭の写真は裏側で、こちらが表となります。
塔はそのまま「大和」の環境を象っており、基部は
これも大和の断面の形をしています。



塔の正面が「大和」の正面を模しているので、
もしやと思ったらやっぱり裏側にこれがあったのは
スクリューがあるべきところだからというわけです。

しかしペンキは剥げ、銅の部分は緑青が浮いて、
建立以来なんの手入れもされていないようです。



「戦艦大和主砲徹甲弾」


その反対側にまるで雪洞のように対で据えてあるのが・・、



「戦艦長門主砲徹甲弾」。



二つの徹甲弾を比較できる画像。
大和がご存知のように直径46センチ、長門のは41センチ。
長さは大和が1m98、長門が1m75。



仮称「第1号艦」として起工が始まる前、
艦型が決定される昭和11年7月20日から、
天一号作戦で鹿児島沖に戦没する昭和20年4月7日まで、
「大和」の短い歴史が刻まれています。

最後の欄には

「燃料片道決死隊矢矧以下駆逐艦8隻を率い」

とあります。
産経新聞に大和の測距義兵だった人物のインタビューがありましたが、
この人物の証言によると、夜間暗闇の中、甲板の両舷に駆逐艦が横付けされ、
乗員がホースで大和から燃料を抜いて給油していたのだそうです。

「何をしているんだ」


と驚いて聞くと、駆逐艦の乗員は

大和は片道燃料しか必要ないから、駆逐艦に補給していいと言われた」

と答えたそうで、つまりこれは沖縄特攻に向け、

艦長同士で燃料を分け与える同意を得ていたということのようです。

 

当時、海軍の駆逐艦など護衛艦には、燃料不足のため
粗悪な菜種の油などが代替燃料として積まれていたといいますが、
それではとても戦闘で能力を発揮することはできません。 

 

大和は自らが積んだ精製純度の高い燃料を護衛艦に分け与え、
最期の特攻に臨む準備をしていたのだということです。



「大和」新造当時の主要要目表。
いまなら諸元 、とかスペックというところです。



「併しながら、明治維新以来80年間、
日本海軍が研究を積み重ねてきた製鋼、機械、電気等の
重工業並びに各種産業ことに 造船技術は戦後いち早く
その実力を表し、いまや わが国は造船王国として
世界に雄飛するに至っている。
これまことに「大和は沈んでもその技術は沈まなかった」
といわれる所以である。

とあります。
昭和44年当時、日本の造船は「王国」の名をほしいままにし、
今では諸事情によりそもそも「造船王国」
という言葉が死語になっている感がありますが・・。

さてそこで発起人の名前を見ていただきたいのですが、
旧呉海軍工廠造船部長としてあの庭田尚三の名がありますね。

ここで読者の「お節介船屋さん」のコメントから、
庭田尚三造船部長の「スペック」をいただいてきました。


大正4年東京帝國大学造船学科卒海軍造船中技士、
昭和14年11月から17年9月まで呉海軍工廠造船部長、
11月に技術中将、
12月予備役、
18年1月三井造船常務取締役玉野造船所技術副長、
20年10月依願退職

されています。
戦後も岡山に在住され、息子さんが呉の千福に居られた関係から
時々呉に行かれ、海上自衛隊の技術幹部に
講習も実施されていたと思います。


という方ですね。
昭和44年当時、このようなことで呉と相変わらず関係が深く、
そのため発起人に名前を連ねることにもなったのでしょう。
っていうか、当時の造船部長で「大和」進水の時、
進水台まで設計しているのですから、当然ですね。



そこでふと気付いたのですが、昭和44年当時の記述にして、

呉商工会議所会頭 海軍少佐
呉桜星会 会長 海軍少佐
水交会 呉市部長 海軍少佐

と、旧軍の階級とともに氏名が記されているのです。
もちろん庭田尚三造船部長も

「海軍技術中将」

と最終位がタイトルにつけられています。 

面白いのはさりげなく?「海将」が旧軍階級に混じっていて、
しかも名前が「50音順」なので序列が無茶苦茶なことです。

ちなみにこの中で一番「上位」なのは海将の筈なんですけどね。
さらに旧軍の序列なら

少将→少佐→技術中将

となる(はず)です。

ただ、これらも昭和44年当時ならではのことで

もしこの碑の建立がもう少し後なら、
そういったことに五月蝿い集団に「配慮して」、
まず旧軍の階級など記されることはなかったに違いありません。