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「望郷のスタインウェイ」〜横須賀鎮守府長官庁舎

2016-04-08 | 博物館・資料館・テーマパーク

桜の咲く旧横須賀鎮守府長官庁舎一般公開、
見に行った方はおられますか?
さて、今日は建物内の装飾や展示などについてです。



建設当時の家具配置図です。
この図に示されている通り、家具などはどこに何を置くか、
きっちりと決められており、変えることは許されなかったようです。

赤い部分は「敷物」で、食堂のテーブルの椅子は全部で22とか、
玄関に入ったところには両側に帽子掛けを置くとか、
サンルームとベイウィンドウの椅子の配置まで決まっています。
縦書き文字の図面のせいか、カーテンのことは「窓掛」と書かれています。 



上の家具配置図の一番下に示された場所には当時からあったと思われる
作り付けのようなサイズの家具が配されていました。
おそらくこのくぼみに合わせて特注されたものに違いありません。
時代を感じさせる歪みガラスには、この建物のそちこちに散りばめられた
小川三知の手によると思われるステンドグラス風の装飾があしらわれています。



東郷平八郎元帥の像だけが飾ってありました。



昔鹿の首が飾ってあったところには、その東郷元帥の書がありました。
「海気集」という耳慣れない言葉は「海の気を集める」という造語でしょうか。



昔よりかなり豪華なシャンデリアがあしらわれていました。
これは美しい・・。



この日は庭に面したサンルームが開け放され、皆ここから出入りしていましたが、
このサンルームのベイウィンド寄りに、南極の石が置かれていました。
寄贈した元統幕長の板谷隆一氏については、先日第二術科学校の展示で
海上自衛隊の歴史について触れた時に名前を挙げたと思いますが、
兵学校60期の恩賜組で、菊水一号作戦では軽巡「矢矧」の乗り組みでした。
板谷氏は海幕長になる前、横須賀地方総監司令を務めています。

時代が時代であれば、この官舎の主になっていたということなんですね。



石といえば、中庭にあったこの石。
なんか意味ありげな形をしているのですが、これは一体・・・?



正面玄関を入ってすぐ左の、昔は「応接室」とされていた部屋は
現在ガラスケースなどにちょっとした資料が収められています。
達筆すぎて名前以外はほとんど読めませんが、山本五十六元帥の自筆ハガキ。
右側はかろうじて「海軍航空本部」と読み取れます。

山本元帥が海軍航空本部の技術長に就任したのは46歳の時で、
は1930(昭和5)年から
3年間にわたって務めました。



福田三之助と云う人物に当てられた山本元帥の手紙。
海軍大将の名前であっても検閲されてしまうというのがご時世ですね。
「海軍大将 山本五十六」だけが印刷になっていますが、海軍製作の公用箋でしょうか。
何かのお知らせだと思うのですが、これも読めません(汗)



これは海軍少将時代の一筆箋による手紙。
「お礼」なのか何なのかわからない上、「勤勉」しか読めません。
達筆すぎて何が書いてあるかわからないぜ山本五十六。



当時からここに飾ってあったらしい東京湾の地図。
ただし表記は「相模国」「上総国」「安房国」ですから、装飾地図でしょう。



横須賀港の古地図。
「相模国横須賀之図」とタイトルがあります。

 

さて、先ほどコンソールのガラス装飾で少し触れましたが、
この長官舎の至るところに見られるステンドグラスは、当時日本で
ステンドグラス作家としては日本一と言われた小川三知の手によるものです。
応接室には現物が展示してありましたが、その精緻なこと!

小川三知は慶応3年(1867)静岡の藩医の息子として生まれました。
家業の医者を目指すも、芸術への思いは断ちがたく、東京美術学校に転校して
日本画を勉強し、アメリカに留学中にステンドグラスに興味を持ちます。

帰国してから慶応義塾大学の図書館のステンドグラスを依頼されたのをきっかけに
彼はステンドグラス作家としてあちこちの仕事に携わりました。

鳩山一郎邸、柊屋(京都)や氷川丸の一等船室など、多くを手がけていますが、
その多くは関東大震災で逸失してしまって残っていません。
そもそも当時はステンドグラスは「建築の一部」だったため、
芸術作品として作者が有名になるということもありませんでした。

小川三知が評価され始めたのは戦後、彼が死んでから30年後のことになります。



洋館部分上四面に貼られたステンドグラス。



これを裏から見たところ。
内部は梁がそのままで、物置として使用されていただけだったのがわかります。
ステンドグラスは内側から光を通して見てこそ価値があるので、
このあしらわれ方はもったいないといえば勿体無い気がしますね。



食堂部分からサンルーム方向に立って天井をみたところ。
ここに半円状のステンドグラスが二枚はめ込まれています。



葡萄の垂れ下がる模様があしらわれているのがアールデコ風ですが、
小川は日本画を基礎として学んでいるので、どの作品も
日本風のテイストが感じられるのが特徴となっています。



これなど、まるで「墨流し」(の色付き)をしたようです。
ぜひ中から光を透かして見てみたいですね。



羽を広げた孔雀というモチーフを小川は好んだようです。
「棚板ガラスモザイク」と説明がありましたが、現物には気づきませんでした。
どこにあったのでしょうか。



さて、庁舎のパンフレットで「リビングルーム」と呼ばれている部屋の
(上の家具配置図では『客室』)一隅には、グランドピアノがありました。



一目見てかなり古いものであることがわかるスタインウェイ&サンズ製のピアノ。

このピアノはフルコンサート(CF)ではなく、同じC型でもセミコンといわれる
上からに番目に大きなクラスのもので、鍵盤は今では製造・輸出入禁止されている象牙です。

この長官庁舎は、進駐軍撤退後、1964年からは使用されないままでした。
1994年に復元されて、各種行事に使われることになったのですが、
当時の防衛政務次官だった栗原裕康議員がこの横須賀地方総監視察を行い、
改装されたばかりの庁舎で会食を行ったときに、ピアノに目を止めました。
当時の讀賣新聞記事には

「(栗原次官が)塗装にヒビが入り、弦が錆びたピアノを発見した」

とあるのですが、こんな大きなものをしまっておくような場所はないし、
ただその場所に置かれていたのに目を留めて話題にしただけではなかったのか、
とわたしは思います。どうでもいいことかもしれませんが。

そのとき、栗原次官が「戦前は軍艦にピアノを持ち込んだこともあった」
などとうんちくを披露し(多分)たことから、総監部で来歴を調べたところ、
1920年代にバイエルンで製作されたものであることが製造番号から判明しました。

当初総監部ではこのスタンウェイを粗大ゴミとして処分することを考えていた、
というのですが、象牙の鍵盤のスタンウェイがどんな価値があるのかを
知るものにとっては、これはもうとんでもないことです。(ですよね?)

修復にはドイツから部分を取り寄せるなどして250万かかったそうですが、

そもそもこのクラス、スタインウェイはセミコンでも新品は1000万円が相場です。
フルコンは1500万、250万で買えるピアノなどヤマハの音楽室用がせいぜい。

新聞記事が「250万もかけて」という論調なのはモノの価値を知らないからで、
ここは「たった250万円でスタインウェイのセミコンが手に入った」
と安さに喜ぶべきだとわたしなど思うのですが。


おまけにこのピアノ、ただのピアノではなく歴史的価値のある骨董品でもあります。
廃棄処分にして世間に嗤われるようなことにならかったのは、なによりです。



ピアノの横に飾られていた横須賀音楽隊の女性隊員達の写真。

先日、横須賀音楽隊の定期演奏会を聴きに行き、当ブログでも雑感を述べたのですが、

横須賀音楽隊におかれましては、光栄なことに皆様にお目通しいただいたそうです。
励みになるという隊長のお言葉まである方を通じてお伝えいただき恐縮しております。

それはともかく、ここに写真があるということは、小規模な
横須賀音楽隊のメンバーによるコンサートがここで行われたんでしょうね。

中川麻梨子士長の日本の唱歌や歌曲など、ここで聴けたらさぞよろしいかと存じます。

それにしても、彼女らの写真、特に中川士長の写真がなんというか・・・、
もう少し歌手らしくというか、演出してもいいという気がするのですが。



さて、このスタインウェイ、むやみに廃棄されずに本当によかった、
と思われる後日譚があったのでした。
改装を施された時点では、ここにある由来まではわからず、

「旧海軍が戦前に持ち込んでずっとここにあったか、アメリカ海軍が
同庁舎を接収していた17年間の間に持ち込んだものと考えられている」

と当時の新聞にも書かれているのですが、正解は前者だったのです。

この記事が掲載されたとき、
昔ピアノを海軍に寄付した人物の娘が名乗り出たのです。
それがこの新聞記事写真でピアノを連弾しているご婦人二人でした。

森田郁子さんと島崎秀香さん(旧姓野坂)姉妹の一家は
大正9年にサハリン(樺太)の日本人居住区に住んでいたのですが、
帰国するときに現地のロシア人女性からこのピアノを譲り受けました。

彼女らの父親が海軍の従軍カメラマンだったこともあって、ピアノは
軍艦で持って帰ってきたのだそうです。
(わたしの知人の父親も軍艦でスタンウェイを持って帰ったという話が。
軍艦って結構現地裁量しだいというか、ゆるかったんだなあと思う)

帰国後一家は横須賀に住み、姉妹は娘のピアノで練習に励んだものだそうです。
しかし、昭和4年、父親が写真館を開業することになり、移転先の新居に
ピアノが入らなかったため、父親は海軍に寄付してしまった、とのことでした。

写真は、郁子さん、秀香さん姉妹が、総監部の計らいで70年ぶりにピアノと対面し、
「さくらさくら」「埴生の宿」「故郷を離れる歌」などを二人で
鍵盤の感触を確かめるように弾いているところです。


わたしも好奇心に負けて少し鍵盤を触らせていただきましたが、(触っただけね)
古いピアノ特有の、指を下ろすとさらに一段下に落ち込むような重いタッチでした。
弾きやすいかどうかといったら、決してそうではないと思いましたが、
音色はこれも古い建物の内部と反響して、深みのある美しい響きを創っていました。


この長官庁舎に昭和4年からあり、海軍士官たちの耳に届き、

ときには彼らによって奏でられてきた、歴史を知るピアノであると知っていれば
余計にそのように思われたかもしれません。




このピアノ、演奏会や発表会などの目的で借りることができるだけでなく、
個人の練習という目的でも使用することができるそうです。
ぜひこの音色を聴いてみたい、もちろん弾いてみたい、という方は
地方総監部にハガキで申し込まれるといいかと思います。


続く。